メールマガジンにて映画の紹介をさせていただきます。
2003年4月4日日記をお気に入りに登録してくださっていた皆さま、ありがとうございましたm(__)m
HPの映画鑑賞日記と内容がまったく同じになっているので、こちらで更新するのをストップし、
メールマガジンにて、その日にUPした映画のレビューの概要をお知らせすることにいたしました。
日刊<毎日レンタルビデオ!>
のサンプルはこちらです。
↓
http://plaza.rakuten.co.jp/mirai/024000
登録・解除は
私のHPの掲示板
http://mbspro8.uic.to/user/lulu.html
にフォームがありますので、そちらからお願い
いたします。
よろしかったら、是非登録してみてください。
長らくこちらでお世話になりました(*⌒ヮ⌒*)
HPの映画鑑賞日記と内容がまったく同じになっているので、こちらで更新するのをストップし、
メールマガジンにて、その日にUPした映画のレビューの概要をお知らせすることにいたしました。
日刊<毎日レンタルビデオ!>
のサンプルはこちらです。
↓
http://plaza.rakuten.co.jp/mirai/024000
登録・解除は
私のHPの掲示板
http://mbspro8.uic.to/user/lulu.html
にフォームがありますので、そちらからお願い
いたします。
よろしかったら、是非登録してみてください。
長らくこちらでお世話になりました(*⌒ヮ⌒*)
コメントをみる |

「カンダハール」
2003年2月18日カンダハール
2001年 イラン・フランス
★2001年カンヌ国際映画祭エキュメニック賞(国際キリスト教会審査員賞)
★2001年ユネスコ<フェデリコ・フェリーニ>メダル
監督・脚本・編集:モフセン・マフマルバフ
俳優:ニルファー・パズィラ
<ストーリー>
舞台は20世紀最後の皆既日食が訪れた1999年8月のアフガニスタン。
アフガニスタンからカナダに亡命した女性ジャーナリストのナファスは、ある日祖国に残した妹から絶望の手紙を受け取る。“間近に迫っている日食の前にその命を絶つ”と。
妹は地雷によって片足を失い、そのため亡命をあきらめ、アフガニスタンに残ったのだ。20年に及ぶ内戦が続く祖国を捨てたナファスだったが、最もタリバンの支配力の強いカンダハールの街に住む妹を救うことを決意し、イランからアフガニスタンの国境を越える。日食まであと3日、それまでにカンダハールへ、妹に再び生きる希望を与えるために旅を続けるナファスだが・・・。
<コメント>
マフマルバフ監督のこのスピーチは大々的に報道され、聞き覚えのある方も多いだろう。
「アフガニスタンの仏像は、(タリバンに)破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ。」
この映画が撮影されたのは、アメリカ同時多発テロよりも前。
テロがきっかけで、世に広まった作品である。
内容的には、ロード・ムービー的手法で、アフガニスタンの現在、を衝撃的に世界に訴えている。この国への世界の無関心さを告発した作品、といってよいだろう。
タリバン政府は女性の権利を一切認めない政策を行っていた。
それは、アフガン南部の保守的なパシュトゥン人社会しか知らない
タリバン中枢部には常識でも、都市部の教育をうけた女性たちには
牢獄でしかなかった。映画の中で「最後の授業」がある。タリバン支配化では、女性は修学禁止になったからだ。
そして、そこで行われる授業は、「地雷を踏まない歩き方」。
人形を拾うと爆発する“人形地雷”を決して拾わないこと。
背筋の凍る話である。
教師は最後に女性たちに言う。
「たとえ塀が高くても、空はもっと高い。もうあなたたちは家から1歩も出られないが、そんなときは、アリになったと想像してごらんなさい。家が広く感じられるでしょう。」
ナファスは、家に監禁され教育どころか外出もままならないカンダハールでの人生に終止符を打とうとする妹を救いに行くのだ。
イラン国境の難民キャンプから始まり、神学校を追放された少年、診療所につとめるブラック・ムスリムのアフリカ人、地雷で脚を失い、義足を奪い合う人々等、様々な人との交流を重ねながら
炎天下の砂漠を進むナファスの旅・・・ネタバレになるが、
映画中では何も解決しない。
脱出劇も救出劇も決定的な破滅もないまま、静かな日没で終わる。絶望を暗示するかのように・・・・。それはアフガニスタンの将来を象徴するかのような、夕暮れ。
神学校で少年たちが教わるのはお経の読み方と武器の扱い方。習得するとタリバンへ送られ、大出世。食うに困らないためにはそうするしかないという現実。タリバンを憎んでいても、神学校に息子を入れれば、食いブチも減り、将来も約束されるので母親は必死で入学させようとする。
赤十字から義足がもらえるまでに約1年待ちという現実。道で義足を売るヤミ商人。
唯一のフィクションだという、パラシュートで義足が降ってくるのを、松葉杖の片足の男たちが追いかけ奪い合うシーン。あまりにシュールで事実よりもより一層生々しく“アフガニスタンの現実”が響いてくる。
空から降ってくるのが爆弾でなく義足だったら・・・不思議と痛々しいというよりも、嬉々として突進する姿に、希望にすがる人々の
逞しさを見た。
我々には想像もつかない過酷な内戦を、銃撃戦や死体の山なしに、
淡々と、彼らの“日常”・・・死体から指輪を抜き取り売る子供、
ブルカに髪からつま先まで埋まりながら、化粧に余念のない女性たちの逞しさを絡めて描き出している。
ナファスを演じるのは、実際にアフガニスタンからカナダへ亡命したジャーナリスト、ニルファー・パズイラ。事実では、手紙の主は友人であって妹ではなかったそうだが、他の点は彼女の実体験に基づくものだそうだ。
アフニスタンの平均寿命は38歳。5歳未満の死亡率25%だ。
そんな国で医師として働くブラック・モスリムの男の言葉が
印象的だった。
「人には生きるための理由がいる。
きびしい状況下では“希望”がその理由だ。」
タリバンが崩壊した今、彼らの生活は、TVのニュースで報道されているほど、本当に改善されつつあるのだろうか・・・・・。
映画作品としてどうかと問われれば、安っぽいホラーの数倍、本物の恐怖とスリルを味わえる。その代償として、“知った”観客は何をしたらよいのだろう・・・・。アフガニスタンを取り巻く状況に
関心を持つ続けてほしいという監督のメッセージは受けとめた。
政府と政府の衝突で苦汁を飲むのはいつの時代も、最も力なき
最下層の者たちだ。イランとアメリカが開戦しても、アメリカに餓死者は出ないだろうが、中東の難民の死者数が増えることだけは間違いのないことだろう。
2001年 イラン・フランス
★2001年カンヌ国際映画祭エキュメニック賞(国際キリスト教会審査員賞)
★2001年ユネスコ<フェデリコ・フェリーニ>メダル
監督・脚本・編集:モフセン・マフマルバフ
俳優:ニルファー・パズィラ
<ストーリー>
舞台は20世紀最後の皆既日食が訪れた1999年8月のアフガニスタン。
アフガニスタンからカナダに亡命した女性ジャーナリストのナファスは、ある日祖国に残した妹から絶望の手紙を受け取る。“間近に迫っている日食の前にその命を絶つ”と。
妹は地雷によって片足を失い、そのため亡命をあきらめ、アフガニスタンに残ったのだ。20年に及ぶ内戦が続く祖国を捨てたナファスだったが、最もタリバンの支配力の強いカンダハールの街に住む妹を救うことを決意し、イランからアフガニスタンの国境を越える。日食まであと3日、それまでにカンダハールへ、妹に再び生きる希望を与えるために旅を続けるナファスだが・・・。
<コメント>
マフマルバフ監督のこのスピーチは大々的に報道され、聞き覚えのある方も多いだろう。
「アフガニスタンの仏像は、(タリバンに)破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ。」
この映画が撮影されたのは、アメリカ同時多発テロよりも前。
テロがきっかけで、世に広まった作品である。
内容的には、ロード・ムービー的手法で、アフガニスタンの現在、を衝撃的に世界に訴えている。この国への世界の無関心さを告発した作品、といってよいだろう。
タリバン政府は女性の権利を一切認めない政策を行っていた。
それは、アフガン南部の保守的なパシュトゥン人社会しか知らない
タリバン中枢部には常識でも、都市部の教育をうけた女性たちには
牢獄でしかなかった。映画の中で「最後の授業」がある。タリバン支配化では、女性は修学禁止になったからだ。
そして、そこで行われる授業は、「地雷を踏まない歩き方」。
人形を拾うと爆発する“人形地雷”を決して拾わないこと。
背筋の凍る話である。
教師は最後に女性たちに言う。
「たとえ塀が高くても、空はもっと高い。もうあなたたちは家から1歩も出られないが、そんなときは、アリになったと想像してごらんなさい。家が広く感じられるでしょう。」
ナファスは、家に監禁され教育どころか外出もままならないカンダハールでの人生に終止符を打とうとする妹を救いに行くのだ。
イラン国境の難民キャンプから始まり、神学校を追放された少年、診療所につとめるブラック・ムスリムのアフリカ人、地雷で脚を失い、義足を奪い合う人々等、様々な人との交流を重ねながら
炎天下の砂漠を進むナファスの旅・・・ネタバレになるが、
映画中では何も解決しない。
脱出劇も救出劇も決定的な破滅もないまま、静かな日没で終わる。絶望を暗示するかのように・・・・。それはアフガニスタンの将来を象徴するかのような、夕暮れ。
神学校で少年たちが教わるのはお経の読み方と武器の扱い方。習得するとタリバンへ送られ、大出世。食うに困らないためにはそうするしかないという現実。タリバンを憎んでいても、神学校に息子を入れれば、食いブチも減り、将来も約束されるので母親は必死で入学させようとする。
赤十字から義足がもらえるまでに約1年待ちという現実。道で義足を売るヤミ商人。
唯一のフィクションだという、パラシュートで義足が降ってくるのを、松葉杖の片足の男たちが追いかけ奪い合うシーン。あまりにシュールで事実よりもより一層生々しく“アフガニスタンの現実”が響いてくる。
空から降ってくるのが爆弾でなく義足だったら・・・不思議と痛々しいというよりも、嬉々として突進する姿に、希望にすがる人々の
逞しさを見た。
我々には想像もつかない過酷な内戦を、銃撃戦や死体の山なしに、
淡々と、彼らの“日常”・・・死体から指輪を抜き取り売る子供、
ブルカに髪からつま先まで埋まりながら、化粧に余念のない女性たちの逞しさを絡めて描き出している。
ナファスを演じるのは、実際にアフガニスタンからカナダへ亡命したジャーナリスト、ニルファー・パズイラ。事実では、手紙の主は友人であって妹ではなかったそうだが、他の点は彼女の実体験に基づくものだそうだ。
アフニスタンの平均寿命は38歳。5歳未満の死亡率25%だ。
そんな国で医師として働くブラック・モスリムの男の言葉が
印象的だった。
「人には生きるための理由がいる。
きびしい状況下では“希望”がその理由だ。」
タリバンが崩壊した今、彼らの生活は、TVのニュースで報道されているほど、本当に改善されつつあるのだろうか・・・・・。
映画作品としてどうかと問われれば、安っぽいホラーの数倍、本物の恐怖とスリルを味わえる。その代償として、“知った”観客は何をしたらよいのだろう・・・・。アフガニスタンを取り巻く状況に
関心を持つ続けてほしいという監督のメッセージは受けとめた。
政府と政府の衝突で苦汁を飲むのはいつの時代も、最も力なき
最下層の者たちだ。イランとアメリカが開戦しても、アメリカに餓死者は出ないだろうが、中東の難民の死者数が増えることだけは間違いのないことだろう。
コメントをみる |

「ランドリー」
2003年2月17日Laundry[ランドリー]
2000年・日
★2000年サンダンス・NHK国際映像作家賞
監督・脚本・原作:森 淳一
音楽:渡辺善太郎
主題歌:「Under The Sun」atami /vo. BONNIE PINK
俳優:窪塚洋介(テル)
小雪(水絵)
内藤剛志(サリー)
祖母の経営するコイン・ランドリーで働く青年テル。彼の仕事は、洗濯物を盗まれないよう見張ること。
両親もなく、やや知恵遅れ気味のテルにとっては、祖母とこのランドリーだけが世界のすべて。
ここには、いろいろな人々がやってくる。花の写真を撮るのが生き甲斐の中年主婦。息子の嫁に洗濯してもらえず自分の下着を毎日洗いにくる老人。連戦連敗のボクサー。誰もが日々の暮らしから出た汚れを洗いにきて、テルに話しかけ、洗濯物と一緒に心を真っ白にして帰っていくのだ。テルはそんな人々を毎日黙って見つめ続けている。
ある日、ランドリーに見慣れない女性、水絵がやってくる。テルは彼女の忘れた洗濯物を届け、それが縁で2人は知り合う。しかし、心に傷を持つ彼女は、自殺未遂を起こし突然帰郷してしまう。実家に戻ったものの、小さな田舎町では逮捕歴のある彼女は疎まれ、
逃げるように少し離れた町で再び1人暮らしを始めるのだった。
テルは水絵が残した血のついたワンピースを見つけ、彼女の深い悲しみを知る。祖母が詐欺にあい、ランドリーが人手にわたってしまったため自分の居場所を失ってしまったテルは、その忘れ物を持って水絵を訪ねるべくヒッチハイクの旅に出る。初めての“外の世界”。道中、強面だが心優しい男、サリーの助けにより、なんとか水絵と再会を果す。血を洗い流そうと洗い過ぎてボロボロにな
った服を受け取った水絵は、テルの優しさに笑顔を取り戻す。
祖母が亡くなり、帰る場所を失ったテルは、サリーの自宅を訪ねる。テルにアイ(愛)という言葉を教えてくれたその不思議な男は、白鳩を調教しセレモニーで飛ばす仕事をしており、テルを助手として住み込みで雇ってくれる。水絵は家事を引きうけ、3人の温かい時間が過ぎて行く。
だが、楽しい日々を打ち砕く事件が・・・・。
窪塚洋介の新しい魅力を堪能できる。記憶力に若干障害がある程度で、少しも呆けたところのないキリっと両端の上がった上品な口元、邪さのかけらもない澄んだクリっとした瞳。まさに、監督の望んだ「天使と、頭に傷のある青年のまんなかの存在」を演じきっている。
知恵遅れ=天使 という構図はやや古臭いし偽善的な印象は拭えないのだが、そんな設定がフっとぶほど、テルというキャラクターは
魅力的だ。お伽話でもいい。
恋でも友情もなくて、「アイ」。階段を飛ばして昇っているのではなくて、フワリと空をとんだような、そんな感情がいい。
人という字は支えあっているからこういう字なんだ、という有名な教えを地でいく物語。支えようと頑張らない。2人の人生の荷物が
同じくらいの重さだったら、きっとうまくいくのだろう。
人生はリセットはできない。過去をなかったことにはできない。
でも、繰り返し洗濯して、見えないほど悲しみや失敗というシミを薄くすることはきっとできる。テルの純粋さはそれを教えてくれる。人生はどこからでも、いつからでも、再出発できる。1つ居場所をなくしたら、次を探そう。うつむいて足元の水溜りばかり見ていないで、空を見上げてみよう。旅立ちを祝福する白いハトが飛んでいるのが見えるかもしれないから。
「こういうの地球では「アイ」っていうんだよ。宇宙では知らないけどね。」
タイトルロールで流れるBONNIE PINK歌う主題歌が実に美しい。
音楽が全般的にリリカルで好きだが、彼女の歌声の柔らかさは、
日に干した洗濯物のように心地よい。
2000年・日
★2000年サンダンス・NHK国際映像作家賞
監督・脚本・原作:森 淳一
音楽:渡辺善太郎
主題歌:「Under The Sun」atami /vo. BONNIE PINK
俳優:窪塚洋介(テル)
小雪(水絵)
内藤剛志(サリー)
祖母の経営するコイン・ランドリーで働く青年テル。彼の仕事は、洗濯物を盗まれないよう見張ること。
両親もなく、やや知恵遅れ気味のテルにとっては、祖母とこのランドリーだけが世界のすべて。
ここには、いろいろな人々がやってくる。花の写真を撮るのが生き甲斐の中年主婦。息子の嫁に洗濯してもらえず自分の下着を毎日洗いにくる老人。連戦連敗のボクサー。誰もが日々の暮らしから出た汚れを洗いにきて、テルに話しかけ、洗濯物と一緒に心を真っ白にして帰っていくのだ。テルはそんな人々を毎日黙って見つめ続けている。
ある日、ランドリーに見慣れない女性、水絵がやってくる。テルは彼女の忘れた洗濯物を届け、それが縁で2人は知り合う。しかし、心に傷を持つ彼女は、自殺未遂を起こし突然帰郷してしまう。実家に戻ったものの、小さな田舎町では逮捕歴のある彼女は疎まれ、
逃げるように少し離れた町で再び1人暮らしを始めるのだった。
テルは水絵が残した血のついたワンピースを見つけ、彼女の深い悲しみを知る。祖母が詐欺にあい、ランドリーが人手にわたってしまったため自分の居場所を失ってしまったテルは、その忘れ物を持って水絵を訪ねるべくヒッチハイクの旅に出る。初めての“外の世界”。道中、強面だが心優しい男、サリーの助けにより、なんとか水絵と再会を果す。血を洗い流そうと洗い過ぎてボロボロにな
った服を受け取った水絵は、テルの優しさに笑顔を取り戻す。
祖母が亡くなり、帰る場所を失ったテルは、サリーの自宅を訪ねる。テルにアイ(愛)という言葉を教えてくれたその不思議な男は、白鳩を調教しセレモニーで飛ばす仕事をしており、テルを助手として住み込みで雇ってくれる。水絵は家事を引きうけ、3人の温かい時間が過ぎて行く。
だが、楽しい日々を打ち砕く事件が・・・・。
窪塚洋介の新しい魅力を堪能できる。記憶力に若干障害がある程度で、少しも呆けたところのないキリっと両端の上がった上品な口元、邪さのかけらもない澄んだクリっとした瞳。まさに、監督の望んだ「天使と、頭に傷のある青年のまんなかの存在」を演じきっている。
知恵遅れ=天使 という構図はやや古臭いし偽善的な印象は拭えないのだが、そんな設定がフっとぶほど、テルというキャラクターは
魅力的だ。お伽話でもいい。
恋でも友情もなくて、「アイ」。階段を飛ばして昇っているのではなくて、フワリと空をとんだような、そんな感情がいい。
人という字は支えあっているからこういう字なんだ、という有名な教えを地でいく物語。支えようと頑張らない。2人の人生の荷物が
同じくらいの重さだったら、きっとうまくいくのだろう。
人生はリセットはできない。過去をなかったことにはできない。
でも、繰り返し洗濯して、見えないほど悲しみや失敗というシミを薄くすることはきっとできる。テルの純粋さはそれを教えてくれる。人生はどこからでも、いつからでも、再出発できる。1つ居場所をなくしたら、次を探そう。うつむいて足元の水溜りばかり見ていないで、空を見上げてみよう。旅立ちを祝福する白いハトが飛んでいるのが見えるかもしれないから。
「こういうの地球では「アイ」っていうんだよ。宇宙では知らないけどね。」
タイトルロールで流れるBONNIE PINK歌う主題歌が実に美しい。
音楽が全般的にリリカルで好きだが、彼女の歌声の柔らかさは、
日に干した洗濯物のように心地よい。
コメントをみる |

「ショーシャンクの空に」
2003年2月16日ショーシャンクの空に
【The Shawshank Redemption】1994年・米
監督:フランク・ダラボン
脚本:フランク・ダラボン
原作:スティーブン・キング 『刑務所のリタ・ヘイワース』
俳優:ティム・ロビンス (アンディ)
モーガン・フリーマン (レッド)
ウィリアム・サドラー
ボブ・ガントン
ジェームズ・ホイットモア
★95年アカデミー賞主要7部門(作品賞、主演男優賞、脚色賞、撮影賞、編集賞、楽曲賞、音響賞)ノミネート
★95年ゴールデン・グローブ賞主要2部門(男優賞、脚色賞)ノミネート
★95年度キネマ旬報外国映画作品賞、読者選出外国映画監督賞、読者選出外国映画ベスト・テン第1位
★95年度日本アカデミー賞外国語映画賞
★95年度毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞
★95年度報知映画賞外国作品賞
★95年度日本映画批評家賞外国映画部門作品賞、男優賞
★95年度スクリーン執筆者選出外国映画ベストテン第1位
若き銀行副頭取アンディは、妻とその愛人の殺害容疑で逮捕され、
無実の訴えも空しく終身刑となった。ショーシャンク刑務所に収監された彼ははじめ、絶望から他の受刑者を避けていたが、やがて年配の黒人、“調達屋”のレッドと友情を築いていく。時は流れ、アンディは前職の腕前を買われて刑務所長や看守たちの財産運用を手助けするようになり、図書館の整備にも携わり、刑務所内で一目置かれる存在となっていく。そんなある日、アンディの妻殺しの真相を知る男が入所してきた。20年目にして無罪証明のチャンスがやってきたが、所長の陰謀により彼の訴えは脆くも握りつぶされてしまう。復讐心と希望の火を心の奥底で静かに、赤々と燃やすアンディは・・・・・。
いまや、すでに“映画ファンの踏絵的存在”になっているこの作品だが、これだけ、何年経っても新しいファンを増やし続けている作品も稀有だろう。劇場公開時には、さして大ヒットしたわけではない。口コミで、人から人へ伝わり不朽の名作となった。
上のあげた数々の賞、よくご覧になると、日本での賞が多い。
アカデミー賞は、実は『フォレスト・ガンプ/一期一会』が
かっさらっており、本作はノミネート止まりとなった。
国民性の違いだと私は思っている。“偶然”(まさに一期一会)
が全篇を支配する『フォレスト・ガンプ』に比べて、本作は
「ド根性」「決して諦めないこと」「執念」「友との約束」
といった、日本的ガンバリズムが全篇を貫いており、共感を呼んだのではないだろうか。
だが、地べたを這うような「忍耐」の物語ではない。そこが、映画作品として愛され続ける所以なのだ。
実に巧みに張られた伏線に観客が気付くのは、最後の最後。なるべくならば、映画の後で原作を読まれたほうが、純粋に楽しめるはずだ。
私の稚拙な文章力では、この作品の魅力はとても語りきれない。
語れば語るほど、何かが逃げてしまうような気がして言葉少なになる作品なんて、今のところ、他にない。
レッドのセリフに、すべてを託そう。
“Get busy living or get busy dying.That’s goddamm right.”(必死に生きるか、必死に死ぬか、まったくもってそのどっちかだよ)
ティム・ロビンス、そしてモーガン・フリーマン。演技派二大俳優の声、表情。何年経っても鮮やかに記憶に蘇る。
刑務所の灰色の高い壁から見えていた澄んだ青空。でも、その青空の真の価値を知る者とは、理不尽に自由を奪われた者だけなのだろう。友レッドが待っている“海”。海の青さを夢見る『希望』。
人間は、希望を持つから苦しむ。諦めれば苦しくないかもしれない。だが、死んだ心を宿したもぬけの肉体に何の意味があろうか。
そう、希望がなければ、人の心は石でできたチェスの駒のように
自分では何もできず何も考えられない石ころになってしまう。
・・・生きてはいけない。
アンディは考えることも、想うことも、そう、苦しみも放棄しなかった。それがどれほど辛いことであっても。
暗く暗く果てしなく長い穴の先は見えない。見えないものを見ようとした者にだけ、慈雨が降り注ぐのだ・・・。
“Remember,REd. Hope is a good thing,maybe the best of things,and no good things ever dies.”
(アンディ:レッドへの手紙の締めくくり)
“I hope.”(映画のラストはレッドのこのセリフである)
【The Shawshank Redemption】1994年・米
監督:フランク・ダラボン
脚本:フランク・ダラボン
原作:スティーブン・キング 『刑務所のリタ・ヘイワース』
俳優:ティム・ロビンス (アンディ)
モーガン・フリーマン (レッド)
ウィリアム・サドラー
ボブ・ガントン
ジェームズ・ホイットモア
★95年アカデミー賞主要7部門(作品賞、主演男優賞、脚色賞、撮影賞、編集賞、楽曲賞、音響賞)ノミネート
★95年ゴールデン・グローブ賞主要2部門(男優賞、脚色賞)ノミネート
★95年度キネマ旬報外国映画作品賞、読者選出外国映画監督賞、読者選出外国映画ベスト・テン第1位
★95年度日本アカデミー賞外国語映画賞
★95年度毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞
★95年度報知映画賞外国作品賞
★95年度日本映画批評家賞外国映画部門作品賞、男優賞
★95年度スクリーン執筆者選出外国映画ベストテン第1位
若き銀行副頭取アンディは、妻とその愛人の殺害容疑で逮捕され、
無実の訴えも空しく終身刑となった。ショーシャンク刑務所に収監された彼ははじめ、絶望から他の受刑者を避けていたが、やがて年配の黒人、“調達屋”のレッドと友情を築いていく。時は流れ、アンディは前職の腕前を買われて刑務所長や看守たちの財産運用を手助けするようになり、図書館の整備にも携わり、刑務所内で一目置かれる存在となっていく。そんなある日、アンディの妻殺しの真相を知る男が入所してきた。20年目にして無罪証明のチャンスがやってきたが、所長の陰謀により彼の訴えは脆くも握りつぶされてしまう。復讐心と希望の火を心の奥底で静かに、赤々と燃やすアンディは・・・・・。
いまや、すでに“映画ファンの踏絵的存在”になっているこの作品だが、これだけ、何年経っても新しいファンを増やし続けている作品も稀有だろう。劇場公開時には、さして大ヒットしたわけではない。口コミで、人から人へ伝わり不朽の名作となった。
上のあげた数々の賞、よくご覧になると、日本での賞が多い。
アカデミー賞は、実は『フォレスト・ガンプ/一期一会』が
かっさらっており、本作はノミネート止まりとなった。
国民性の違いだと私は思っている。“偶然”(まさに一期一会)
が全篇を支配する『フォレスト・ガンプ』に比べて、本作は
「ド根性」「決して諦めないこと」「執念」「友との約束」
といった、日本的ガンバリズムが全篇を貫いており、共感を呼んだのではないだろうか。
だが、地べたを這うような「忍耐」の物語ではない。そこが、映画作品として愛され続ける所以なのだ。
実に巧みに張られた伏線に観客が気付くのは、最後の最後。なるべくならば、映画の後で原作を読まれたほうが、純粋に楽しめるはずだ。
私の稚拙な文章力では、この作品の魅力はとても語りきれない。
語れば語るほど、何かが逃げてしまうような気がして言葉少なになる作品なんて、今のところ、他にない。
レッドのセリフに、すべてを託そう。
“Get busy living or get busy dying.That’s goddamm right.”(必死に生きるか、必死に死ぬか、まったくもってそのどっちかだよ)
ティム・ロビンス、そしてモーガン・フリーマン。演技派二大俳優の声、表情。何年経っても鮮やかに記憶に蘇る。
刑務所の灰色の高い壁から見えていた澄んだ青空。でも、その青空の真の価値を知る者とは、理不尽に自由を奪われた者だけなのだろう。友レッドが待っている“海”。海の青さを夢見る『希望』。
人間は、希望を持つから苦しむ。諦めれば苦しくないかもしれない。だが、死んだ心を宿したもぬけの肉体に何の意味があろうか。
そう、希望がなければ、人の心は石でできたチェスの駒のように
自分では何もできず何も考えられない石ころになってしまう。
・・・生きてはいけない。
アンディは考えることも、想うことも、そう、苦しみも放棄しなかった。それがどれほど辛いことであっても。
暗く暗く果てしなく長い穴の先は見えない。見えないものを見ようとした者にだけ、慈雨が降り注ぐのだ・・・。
“Remember,REd. Hope is a good thing,maybe the best of things,and no good things ever dies.”
(アンディ:レッドへの手紙の締めくくり)
“I hope.”(映画のラストはレッドのこのセリフである)
コメントをみる |

「トンネル」
2003年2月15日トンネル
【DER TUNNEL】 2001年・独
監督 ローランド・ズーソ・リヒター
脚本 ヨハネス・W・ベッツ
撮影 マルティン・ランガー
俳優:ハイノ・フェルヒ (ハリー)
ニコレッテ・クレビッツ (フリッツィ)
ゼバスティアン・コッホ (マチス)
フェリックス・アイトナー (フレッド)
クラウディア・ミチェルゼン (マチスの妻、カロラ)
アレクサンドラ・マリア・ラーラ(ハリーの妹、ロッテ)
ウーベ・コキッシュ(クリューガー大佐)
マフメット・クルトゥルス(ヴィーク)
ハインリヒ・シュミーダー(テオ)
1961年から1989年まで、ベルリンの街を東西に分断していた壁。それに抗った人々がいた。
水泳選手としてのキャリアを捨て、アメリカ兵ヴィーク経由で手に入れた偽造パスポートで西ベルリンに逃亡したハリーは、壁の向こう側に残してきた妹を救出したかった。彼の友人でエンジニアのマチスは、下水道経由での逃亡の際に逃げ遅れ、一人捕らえられた身重の妻カロラを助けたかった。そして、フリッツィは東側の青年団に所属する恋人を脱出させたかった。彼らが企てたのは、壁の真下に地下トンネルを通し、東側のアパートの地下室に繋げるという計画。
秘密裏に、愛する者たちを救うための長い苦闘が始まった・・・。
[参考までに]
第二次大戦後、敗戦国ドイツは東西ふたつの国に分断された。
旧ドイツの首都ベルリンも東西ふたつの区域に分割されたが、
東ドイツの住民の多くは、共産主義者ではなかったし、食料も少なく、娯楽もなく住む場所も管理される東での生活に耐えかね、多くの人々が西ベルリンや西ドイツに流出した。国家の威信と、労働力の確保のため、東ドイツは、1961年8月13日、西ベルリンの周囲全域を有刺鉄線などの“壁”で封鎖。同15日、コンクリート・ブロックが積み上げられ、同23日、西側へのすべての輸送・交通網が遮断され、数十万人の家族が東と西で引き裂かれることになった。壁の建設が終わった時には、長さ約166キロ、高さ約2メートル、上には鉄条網が張り巡らされていた。壁が崩壊するまでの28年間、西ベルリンへの脱出を試みた人は5000人以上。200人以上が射殺され命を落している。
凄いとしかいいようがない。事実に基づく政治陰謀ものであり、脱出アクション劇であり、友情の物語であり、家族愛の物語であり、悲恋物語であり、ラブストーリーでもある。人々は、苦悩し、衝突し、疑心暗鬼になり、恋をし、情熱を燃やし、絶望し、激怒し、落胆し、歓喜する。
我々日本人は、できあがった壁しかまず知らないし、若い世代になると、崩壊後の統一ドイツしか知らないかもしれない。それだけに、1日、1日と、“壁”が積み上がり強固なものになっていく克明な描写、壁一枚超えようとすれば背中から銃殺されるという悲劇にショックをうける。
ブランデンブルク門が東側の兵士によって封鎖される。そして、小銃を手にした東側の兵士の人垣ができる、これが“壁”のはじまり。並行して有刺鉄線の柵が作られる。鉄線に傷ついても、身ひとつで数十センチ先の“自由”に飛びこむ者がいる。そして、レンガの壁が築かれ、日に日に高さを増していく。トラックごと、まだ1
m程度の出来立てのもろいレンガの壁に突っ込み、自由を手にする
者がいる。レンガは鉄筋コンクリートに変り、高さは2mになり、監視塔が建てられ、警察犬や戦車が動員され、壁に近づくと容赦なく射殺される・・・・・・・。もう、壁を直接体当たりで突破するのは不可能に。その経緯が背筋の凍るようなリアリティで描かれていく。
東側に残され、亡命者の家族として政府に四六時中監視され、脅迫を受け続ける者たちの苦悩と恐怖心。それを知りながら、どうしてやることもできず、救出の日に向けて、ひたすら汗と泥にまみれシャベルをふるう兄や夫や息子たち。
どこかでトンネルを掘っているらしいという情報が東側に洩れてから、事態はさらに緊迫する。情報が漏れた経緯があまりにも非人道的で驚愕であり、そこもこの映画の見所であろう。
そんな中、フリッツィは壁を超えようとした恋人が銃殺される音を聞く。ほとんど主人公たちの目線の高さで撮影してきたカメラが、
ここで初めて壁の真上から壁というモノと国に引き離された恋人たちの永遠の別れを映し出す。あまりにも衝撃的だ。壁一枚隔てて、血を流しもがき息絶えていく青年。彼に指1本触れることすらかなわなず、叫び続けるフリッツィ。そして、思わず発砲してしまったまだ若い東側の兵士が混乱して発砲し続ける狂気・・・・。
救う対象がいなくなった彼女がその後どうするのか、それはご覧になって確かめていただきたい。
この作品で特筆すべきは、登場人物が多いのに、1人1人に丁寧にスポットを当て、観客がそれぞれ複雑な立場、事情をもつ人物たちに、感情移入しやすいという点だろう。
最後の40分ほどは、固唾を飲み、手に汗握り、祈るような気持ちで観ていた。
北朝鮮の脱北者問題がクローズアップされている今、イデオロギーの前には個人の生命や自由など羽より軽く扱われてしまう恐ろしさを、我々はもっと知るべきだ。
映画中にも出て来るが、アメリカのTV局が、彼らに資金提出するひきかえに、このトンネル掘りをドキュメンタリー番組として
撮影しており、壁が崩壊した現在でも、繰り返し放送されているという。TVカメラを通したトンネル掘りの映像も多用されており、
リアリティを増している。
ハリー役のハイノ・フェルヒ、逞しく頑固な風貌が、若い頃のブルース・ウィリス似。信念を貫く屈強な男を好演している。
ヒロイン、フリッツィ役のニコレッテ・クレビッツは、『バンディッツ』 でエンジェルを演じていた美女だ。
闘う女の強さと、恋する女の弱さを持ち合わせた溌剌とした女性
フリッツィを圧倒的な存在感で演じている。
そして、ほぼたった1人で『東側政府=非人道的』のイメージを背負ってクリューガー大佐を演じているウーベ・コキッシュがいい。
信じたイデオロギーのためには何でもする男を鉄のように演じている。
現実には、東側とて、もっとさまざまな政府の役人や、兵士たちも
いたであろうが、「映画作品」として、「東」を1人の権力者に
しぼって語らせたのは、成功だったのではないだろうか。
イオデオロギーは様々でいい。世界中、同じであるほうが不自然だ。だが、個人のイデオロギーと住んでいる国のイデオロギーが違うと殺される・・・それは、許しがたい。神への冒涜だ。彼らが求めた“自由”は、フリーセックスに興じたり、酒を飲み、気侭に遊べる悦楽的な人生のことではない。信じたいものを信じ、住みたいところに住み、会いたい人と会える、それだけなのだ。そして、それが“自由”なのだ。
是非、多くの方にご覧になっていただきたい作品である。
【DER TUNNEL】 2001年・独
監督 ローランド・ズーソ・リヒター
脚本 ヨハネス・W・ベッツ
撮影 マルティン・ランガー
俳優:ハイノ・フェルヒ (ハリー)
ニコレッテ・クレビッツ (フリッツィ)
ゼバスティアン・コッホ (マチス)
フェリックス・アイトナー (フレッド)
クラウディア・ミチェルゼン (マチスの妻、カロラ)
アレクサンドラ・マリア・ラーラ(ハリーの妹、ロッテ)
ウーベ・コキッシュ(クリューガー大佐)
マフメット・クルトゥルス(ヴィーク)
ハインリヒ・シュミーダー(テオ)
1961年から1989年まで、ベルリンの街を東西に分断していた壁。それに抗った人々がいた。
水泳選手としてのキャリアを捨て、アメリカ兵ヴィーク経由で手に入れた偽造パスポートで西ベルリンに逃亡したハリーは、壁の向こう側に残してきた妹を救出したかった。彼の友人でエンジニアのマチスは、下水道経由での逃亡の際に逃げ遅れ、一人捕らえられた身重の妻カロラを助けたかった。そして、フリッツィは東側の青年団に所属する恋人を脱出させたかった。彼らが企てたのは、壁の真下に地下トンネルを通し、東側のアパートの地下室に繋げるという計画。
秘密裏に、愛する者たちを救うための長い苦闘が始まった・・・。
[参考までに]
第二次大戦後、敗戦国ドイツは東西ふたつの国に分断された。
旧ドイツの首都ベルリンも東西ふたつの区域に分割されたが、
東ドイツの住民の多くは、共産主義者ではなかったし、食料も少なく、娯楽もなく住む場所も管理される東での生活に耐えかね、多くの人々が西ベルリンや西ドイツに流出した。国家の威信と、労働力の確保のため、東ドイツは、1961年8月13日、西ベルリンの周囲全域を有刺鉄線などの“壁”で封鎖。同15日、コンクリート・ブロックが積み上げられ、同23日、西側へのすべての輸送・交通網が遮断され、数十万人の家族が東と西で引き裂かれることになった。壁の建設が終わった時には、長さ約166キロ、高さ約2メートル、上には鉄条網が張り巡らされていた。壁が崩壊するまでの28年間、西ベルリンへの脱出を試みた人は5000人以上。200人以上が射殺され命を落している。
凄いとしかいいようがない。事実に基づく政治陰謀ものであり、脱出アクション劇であり、友情の物語であり、家族愛の物語であり、悲恋物語であり、ラブストーリーでもある。人々は、苦悩し、衝突し、疑心暗鬼になり、恋をし、情熱を燃やし、絶望し、激怒し、落胆し、歓喜する。
我々日本人は、できあがった壁しかまず知らないし、若い世代になると、崩壊後の統一ドイツしか知らないかもしれない。それだけに、1日、1日と、“壁”が積み上がり強固なものになっていく克明な描写、壁一枚超えようとすれば背中から銃殺されるという悲劇にショックをうける。
ブランデンブルク門が東側の兵士によって封鎖される。そして、小銃を手にした東側の兵士の人垣ができる、これが“壁”のはじまり。並行して有刺鉄線の柵が作られる。鉄線に傷ついても、身ひとつで数十センチ先の“自由”に飛びこむ者がいる。そして、レンガの壁が築かれ、日に日に高さを増していく。トラックごと、まだ1
m程度の出来立てのもろいレンガの壁に突っ込み、自由を手にする
者がいる。レンガは鉄筋コンクリートに変り、高さは2mになり、監視塔が建てられ、警察犬や戦車が動員され、壁に近づくと容赦なく射殺される・・・・・・・。もう、壁を直接体当たりで突破するのは不可能に。その経緯が背筋の凍るようなリアリティで描かれていく。
東側に残され、亡命者の家族として政府に四六時中監視され、脅迫を受け続ける者たちの苦悩と恐怖心。それを知りながら、どうしてやることもできず、救出の日に向けて、ひたすら汗と泥にまみれシャベルをふるう兄や夫や息子たち。
どこかでトンネルを掘っているらしいという情報が東側に洩れてから、事態はさらに緊迫する。情報が漏れた経緯があまりにも非人道的で驚愕であり、そこもこの映画の見所であろう。
そんな中、フリッツィは壁を超えようとした恋人が銃殺される音を聞く。ほとんど主人公たちの目線の高さで撮影してきたカメラが、
ここで初めて壁の真上から壁というモノと国に引き離された恋人たちの永遠の別れを映し出す。あまりにも衝撃的だ。壁一枚隔てて、血を流しもがき息絶えていく青年。彼に指1本触れることすらかなわなず、叫び続けるフリッツィ。そして、思わず発砲してしまったまだ若い東側の兵士が混乱して発砲し続ける狂気・・・・。
救う対象がいなくなった彼女がその後どうするのか、それはご覧になって確かめていただきたい。
この作品で特筆すべきは、登場人物が多いのに、1人1人に丁寧にスポットを当て、観客がそれぞれ複雑な立場、事情をもつ人物たちに、感情移入しやすいという点だろう。
最後の40分ほどは、固唾を飲み、手に汗握り、祈るような気持ちで観ていた。
北朝鮮の脱北者問題がクローズアップされている今、イデオロギーの前には個人の生命や自由など羽より軽く扱われてしまう恐ろしさを、我々はもっと知るべきだ。
映画中にも出て来るが、アメリカのTV局が、彼らに資金提出するひきかえに、このトンネル掘りをドキュメンタリー番組として
撮影しており、壁が崩壊した現在でも、繰り返し放送されているという。TVカメラを通したトンネル掘りの映像も多用されており、
リアリティを増している。
ハリー役のハイノ・フェルヒ、逞しく頑固な風貌が、若い頃のブルース・ウィリス似。信念を貫く屈強な男を好演している。
ヒロイン、フリッツィ役のニコレッテ・クレビッツは、『バンディッツ』 でエンジェルを演じていた美女だ。
闘う女の強さと、恋する女の弱さを持ち合わせた溌剌とした女性
フリッツィを圧倒的な存在感で演じている。
そして、ほぼたった1人で『東側政府=非人道的』のイメージを背負ってクリューガー大佐を演じているウーベ・コキッシュがいい。
信じたイデオロギーのためには何でもする男を鉄のように演じている。
現実には、東側とて、もっとさまざまな政府の役人や、兵士たちも
いたであろうが、「映画作品」として、「東」を1人の権力者に
しぼって語らせたのは、成功だったのではないだろうか。
イオデオロギーは様々でいい。世界中、同じであるほうが不自然だ。だが、個人のイデオロギーと住んでいる国のイデオロギーが違うと殺される・・・それは、許しがたい。神への冒涜だ。彼らが求めた“自由”は、フリーセックスに興じたり、酒を飲み、気侭に遊べる悦楽的な人生のことではない。信じたいものを信じ、住みたいところに住み、会いたい人と会える、それだけなのだ。そして、それが“自由”なのだ。
是非、多くの方にご覧になっていただきたい作品である。
コメントをみる |

『ブラックホーク・ダウン』
2003年2月14日ブラックホークダウン
【BLACK HAWK DOWN】 2001年・米
★アカデミー賞最優秀編集賞・最優秀音響賞受賞
製作:ジェリー・ブラッカイマー、リドリー・スコット
監督:リドリー・スコット
脚本:ケン・ノーラン
原作:マーク・ボウデン 「ブラックホーク・ダウン
アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録」(上)(下) ハヤカワ文庫
編集:ピエトロ・スカリアA.C.E.
作曲:ハンス・ジマー
俳優: ジョシュ・ハートネット(エヴァーズマン)
ユアン・マクレガー(グライムズ)
トム・サイズモア(マクナイト)
エリック・バナ(フート)
ユエン・ブレンナー(ネルソン)
サム・シェパード(ガリソン)
ジェイソン・アイザックス(スティール)
オーランド・ブルーム(ブラックバーン)
<ストーリー>
1993年10月3日、独裁政権の蛮行がはびこるソマリア。米軍のガリソン少将は、独裁者の副官を捕らえる作戦を実行に移す。ソマリアの首都モガディシオ市内に乗り込むのは、レンジャー部隊とデルタ部隊で構成された123人の精鋭兵士。
そのひとり、エヴァーズマン軍曹は、今回の戦闘で初めて一個隊の指揮を執ることになった。特技下士官のグライムズらとともに戦闘用ヘリ、ブラックホークに乗りこんだ彼は“隊全員を生きて連れて帰る”という誓いをかみしめる。
午後3時22分、兵士たちは市内への降下を開始。順調に進めば、作戦は1時間以内で終了するはずだった。ところがその時、ソマリア民族兵が攻撃を開始。これは新兵の墜落事故を誘発。さらに一機のブラックホークが撃墜されてしまった。勢いづいたソマリア民族兵の攻撃は、ますます激しくなり、降下した兵士たちは廃墟と化し
たビル内に釘づけにされ、作戦を遂行するどころではなくなっていた。
エヴァーズマンの隊も司令本部と連絡をとりつつ、合流地点を目指して銃弾のなかを駆けまわるが、安全な場所はどこにもない。救出に向かった車両隊も猛攻のまえに迷走するばかり。さらに2機目のブラックホークが撃墜されるにいたり、市街戦は泥沼化の一途をたどる…。
BLACK HAWK DOWN=ブラックホーク、墜落
<感想>
鑑賞する前は、プロデューサーがあのジェリー・ブラッカイマーと聞いて少々躊躇した。ハリウッド・エンターテイメントの大御所の彼が制作すると、相当娯楽色、アメリカ万歳色が強い作品なのではないかと心配したのだが、それは杞憂だった。監督があのリドリー・スコットあのだから。
全体を占める空気は、S・スピルバーグの『バンド・オブ・ブラザーズ』に近い。そう、安っぽいセンチメンタリズムを排したリアリズムと、兵士たちの、戦闘に入る前の銃を取る目的と、突入してからの戦闘の目的の違いを観客につきつけるスタイルが、だ。
血と泥と砂塵でどの兵士が誰だが判別するのすら難しい状況、ヘリコプターが巻き上げる砂嵐、ミニガンの空薬莢が大雨の如く流れ落ち乾いた地面に無数に転がる様、銃弾で弾けとびカメラにかかる土砂・・・。カメラが俯瞰の位置をとるのは、上空のヘリからの映像だけで、ほとんどが兵氏の目線の高さのカメラだ。カメラに向かってRPGが飛んでくる。
恐ろしいという感覚すら、あっという間に感覚から消し飛ぶ。ストーリーらしいストーリーのほとんどないこの映画中、ひたすら続く銃撃戦に恐怖心もマヒするのだ。帰りたい---生きて--それしかなくなっていく兵士たちを、カメラは克明にとらえていく。
この映画は、監督自身、述べているように、観客が「考える材料」にすればよい。ただ、安直に、他国による軍事介入の必要性についての是非を問うている、とは私は考えていない。
映画の中でも冒頭に述べられているように、ソマリア内戦は相当に特殊なケースであり、他国への介入といっても、ベトナムや、中東のように“アメリカの利害”が絡んだ戦争とは違うのだ。そこを理解していないと、「またアメリカが利権争いに首つっこんで勝手に死傷者を多数出したと騒いでいるのか」という、それだけのものになってしまう。
これを、ベトナムと同じ「意味のない戦争」と切り捨てて苦笑できるのは、火の粉のふりかからない場所にいる連中だけだ。
アメリカが、“純粋に人道的目的で”よその国に軍事仲介した、
「最初で最後」のケースではないか?
国連とアメリカの介入によって、アイディード将軍派に妨害されていた食糧の配給状況が改善され、餓死者が減ったのは事実だ。
クリントン大統領の「尻切れトンボ的」撤退は褒められたものではないため、アメリカのソマリア介入は冷淡視されがちだが、
少なくとも、この作品で描かれたモガディシオでの幹部拉致作戦がもしも成功していれば、アメリカはソマリアの餓死者を救った国として英雄になったことだろう。だが現実は・・。
このアメリカの威信を傷つけた作戦の失敗は、アメリカの大きなトラウマとなってしまった。
1994年のルワンダの大虐殺のとき、アメリカは何もできなかった。自国の兵氏の死者を多数出してまで、ボランティアはしない、と外交を変えた。ソマリア撤退決定後1年未満の1994年に、“PKOはアメリカの国益にかなったものでなければならない”という大統領決定がクリントンによって下されたことは記憶に新しい。
だが、政治的な背景について考えるのはここまでにしよう。
言いたかったのは、アメリカという“国”にとって最初で最後の
“正しい目的の軍事介入”だったこの戦争は、地上で殺意に満ちたソマリア民兵に囲まれ、自分や友や部下の血にまみれ、来ない迎えを待って銃を乱射し続けた兵士たちにとって、何であったのか。
“男同士の絆”を執拗に描き続けてきたリドリー・スコット監督
はそこを凝視しているように感じた。
結果として英雄になるだけ。
その時の自分たちは、とりこのされた仲間を救出し、自分も生きて
家族の元へ戻ること、もうそれしかないのだ。
アメリカに与えられた平和ボケのぬるま湯の中に浸かっている我々に、「なら軍隊に入らなきゃいい。」「自分だけなら逃げられたのに」と言い放つ資格は、ない。
この映画は、反戦プロパガンダでもないし、人情ものでもヒーローものでもない。
「なんでよその国に行って戦うんだ?」と問われ、答が出せない
ままソマリアに来た主人公エヴ。基地に戻ってただ思う。「仲間のためだ」
ここに人間のリアルがある。
「ソマリアの飢えた人々を解放するためさ」と思って砲火の中を
駆け抜けちゃいない。
・・そして、死ぬ間際にだけ、「正義のために勇敢に戦った」と
自分に言い聞かせ、親にそう伝えてほしいと願う。
どうしても命をかけて戦わねばならない状況におかれた男たちの
姿を、目をそむけず正視することが、生きている、これから厳しい世界情勢の中で生きていく我々の使命なのだと、思った。
戦場でのもしもは無意味だ・・・。だが、戦争は、「目的」と「結果」と「副産物」と「成果」が同じではない。
兵士たちの苦悩がそこにある。
ジョシュ・ハートネットやユアン・マクレガー等、人気若手俳優を主役格にもってくることで、女性には敬遠されがちなリドリー・スコット節の本作でも、相当な数の女性客を集められたようだ。
美形俳優としての見せ場は皆無に等しいが、慣れない指揮に戸惑い、部下を死なせたことにショックをうける若き指揮官の苦悩を
抑揚の効いた演技でみせていたジョシュ君、珈琲係で、実戦に参加できないと不平をもらしていたら突然の実戦参加、口では喜びながら恐怖にひきつりつつ、ユーモアで恐怖心を克服しようと懸命なグライムズを演じるユアン、この2人が、ドキュメンタリーを「映画
作品」にしていたように思う。
ベテランのサム・シェパード、作戦失敗に苦悩するガリソンの
苦悶をさすがの演技力で表現していた。
ひとつ、苦言を呈するならば、ハンス・ジマーの音楽は好きだが、
使い方が悪すぎる。絶えず流れ続ける民族音楽“風”BGMには閉口した。戦闘シーンに音楽は不要だ。
【BLACK HAWK DOWN】 2001年・米
★アカデミー賞最優秀編集賞・最優秀音響賞受賞
製作:ジェリー・ブラッカイマー、リドリー・スコット
監督:リドリー・スコット
脚本:ケン・ノーラン
原作:マーク・ボウデン 「ブラックホーク・ダウン
アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録」(上)(下) ハヤカワ文庫
編集:ピエトロ・スカリアA.C.E.
作曲:ハンス・ジマー
俳優: ジョシュ・ハートネット(エヴァーズマン)
ユアン・マクレガー(グライムズ)
トム・サイズモア(マクナイト)
エリック・バナ(フート)
ユエン・ブレンナー(ネルソン)
サム・シェパード(ガリソン)
ジェイソン・アイザックス(スティール)
オーランド・ブルーム(ブラックバーン)
<ストーリー>
1993年10月3日、独裁政権の蛮行がはびこるソマリア。米軍のガリソン少将は、独裁者の副官を捕らえる作戦を実行に移す。ソマリアの首都モガディシオ市内に乗り込むのは、レンジャー部隊とデルタ部隊で構成された123人の精鋭兵士。
そのひとり、エヴァーズマン軍曹は、今回の戦闘で初めて一個隊の指揮を執ることになった。特技下士官のグライムズらとともに戦闘用ヘリ、ブラックホークに乗りこんだ彼は“隊全員を生きて連れて帰る”という誓いをかみしめる。
午後3時22分、兵士たちは市内への降下を開始。順調に進めば、作戦は1時間以内で終了するはずだった。ところがその時、ソマリア民族兵が攻撃を開始。これは新兵の墜落事故を誘発。さらに一機のブラックホークが撃墜されてしまった。勢いづいたソマリア民族兵の攻撃は、ますます激しくなり、降下した兵士たちは廃墟と化し
たビル内に釘づけにされ、作戦を遂行するどころではなくなっていた。
エヴァーズマンの隊も司令本部と連絡をとりつつ、合流地点を目指して銃弾のなかを駆けまわるが、安全な場所はどこにもない。救出に向かった車両隊も猛攻のまえに迷走するばかり。さらに2機目のブラックホークが撃墜されるにいたり、市街戦は泥沼化の一途をたどる…。
BLACK HAWK DOWN=ブラックホーク、墜落
<感想>
鑑賞する前は、プロデューサーがあのジェリー・ブラッカイマーと聞いて少々躊躇した。ハリウッド・エンターテイメントの大御所の彼が制作すると、相当娯楽色、アメリカ万歳色が強い作品なのではないかと心配したのだが、それは杞憂だった。監督があのリドリー・スコットあのだから。
全体を占める空気は、S・スピルバーグの『バンド・オブ・ブラザーズ』に近い。そう、安っぽいセンチメンタリズムを排したリアリズムと、兵士たちの、戦闘に入る前の銃を取る目的と、突入してからの戦闘の目的の違いを観客につきつけるスタイルが、だ。
血と泥と砂塵でどの兵士が誰だが判別するのすら難しい状況、ヘリコプターが巻き上げる砂嵐、ミニガンの空薬莢が大雨の如く流れ落ち乾いた地面に無数に転がる様、銃弾で弾けとびカメラにかかる土砂・・・。カメラが俯瞰の位置をとるのは、上空のヘリからの映像だけで、ほとんどが兵氏の目線の高さのカメラだ。カメラに向かってRPGが飛んでくる。
恐ろしいという感覚すら、あっという間に感覚から消し飛ぶ。ストーリーらしいストーリーのほとんどないこの映画中、ひたすら続く銃撃戦に恐怖心もマヒするのだ。帰りたい---生きて--それしかなくなっていく兵士たちを、カメラは克明にとらえていく。
この映画は、監督自身、述べているように、観客が「考える材料」にすればよい。ただ、安直に、他国による軍事介入の必要性についての是非を問うている、とは私は考えていない。
映画の中でも冒頭に述べられているように、ソマリア内戦は相当に特殊なケースであり、他国への介入といっても、ベトナムや、中東のように“アメリカの利害”が絡んだ戦争とは違うのだ。そこを理解していないと、「またアメリカが利権争いに首つっこんで勝手に死傷者を多数出したと騒いでいるのか」という、それだけのものになってしまう。
これを、ベトナムと同じ「意味のない戦争」と切り捨てて苦笑できるのは、火の粉のふりかからない場所にいる連中だけだ。
アメリカが、“純粋に人道的目的で”よその国に軍事仲介した、
「最初で最後」のケースではないか?
国連とアメリカの介入によって、アイディード将軍派に妨害されていた食糧の配給状況が改善され、餓死者が減ったのは事実だ。
クリントン大統領の「尻切れトンボ的」撤退は褒められたものではないため、アメリカのソマリア介入は冷淡視されがちだが、
少なくとも、この作品で描かれたモガディシオでの幹部拉致作戦がもしも成功していれば、アメリカはソマリアの餓死者を救った国として英雄になったことだろう。だが現実は・・。
このアメリカの威信を傷つけた作戦の失敗は、アメリカの大きなトラウマとなってしまった。
1994年のルワンダの大虐殺のとき、アメリカは何もできなかった。自国の兵氏の死者を多数出してまで、ボランティアはしない、と外交を変えた。ソマリア撤退決定後1年未満の1994年に、“PKOはアメリカの国益にかなったものでなければならない”という大統領決定がクリントンによって下されたことは記憶に新しい。
だが、政治的な背景について考えるのはここまでにしよう。
言いたかったのは、アメリカという“国”にとって最初で最後の
“正しい目的の軍事介入”だったこの戦争は、地上で殺意に満ちたソマリア民兵に囲まれ、自分や友や部下の血にまみれ、来ない迎えを待って銃を乱射し続けた兵士たちにとって、何であったのか。
“男同士の絆”を執拗に描き続けてきたリドリー・スコット監督
はそこを凝視しているように感じた。
結果として英雄になるだけ。
その時の自分たちは、とりこのされた仲間を救出し、自分も生きて
家族の元へ戻ること、もうそれしかないのだ。
アメリカに与えられた平和ボケのぬるま湯の中に浸かっている我々に、「なら軍隊に入らなきゃいい。」「自分だけなら逃げられたのに」と言い放つ資格は、ない。
この映画は、反戦プロパガンダでもないし、人情ものでもヒーローものでもない。
「なんでよその国に行って戦うんだ?」と問われ、答が出せない
ままソマリアに来た主人公エヴ。基地に戻ってただ思う。「仲間のためだ」
ここに人間のリアルがある。
「ソマリアの飢えた人々を解放するためさ」と思って砲火の中を
駆け抜けちゃいない。
・・そして、死ぬ間際にだけ、「正義のために勇敢に戦った」と
自分に言い聞かせ、親にそう伝えてほしいと願う。
どうしても命をかけて戦わねばならない状況におかれた男たちの
姿を、目をそむけず正視することが、生きている、これから厳しい世界情勢の中で生きていく我々の使命なのだと、思った。
戦場でのもしもは無意味だ・・・。だが、戦争は、「目的」と「結果」と「副産物」と「成果」が同じではない。
兵士たちの苦悩がそこにある。
ジョシュ・ハートネットやユアン・マクレガー等、人気若手俳優を主役格にもってくることで、女性には敬遠されがちなリドリー・スコット節の本作でも、相当な数の女性客を集められたようだ。
美形俳優としての見せ場は皆無に等しいが、慣れない指揮に戸惑い、部下を死なせたことにショックをうける若き指揮官の苦悩を
抑揚の効いた演技でみせていたジョシュ君、珈琲係で、実戦に参加できないと不平をもらしていたら突然の実戦参加、口では喜びながら恐怖にひきつりつつ、ユーモアで恐怖心を克服しようと懸命なグライムズを演じるユアン、この2人が、ドキュメンタリーを「映画
作品」にしていたように思う。
ベテランのサム・シェパード、作戦失敗に苦悩するガリソンの
苦悶をさすがの演技力で表現していた。
ひとつ、苦言を呈するならば、ハンス・ジマーの音楽は好きだが、
使い方が悪すぎる。絶えず流れ続ける民族音楽“風”BGMには閉口した。戦闘シーンに音楽は不要だ。
コメントをみる |

『父の祈りを』
2003年2月13日父の祈りを
【IN THE NAME OF THE FATHER】1993年アイルランド・英
監督:ジム・シェリダン
原作:ジェリー・コンロン
脚本:テリー・ジョージ・ジム・シェリダン
俳優:ダニエル・デイ・ルイス(ジェリー・コンロン)
ピート・ポスルスウェイト(ジュゼッペ)
エマ・トンプソン(弁護士)
ジョン・リンチ(ポール)
<ストーリー>
1974年、混乱の続く北アイルランドでコソ泥に明け暮れるジュリーはIRAに目をつけられ、ほとぼりがさめるまで英国に渡り、まともな仕事を探せと父親ジュゼッペに説得されロンドンへ渡る。
しかし、そこでもたまたま再会した悪友ポールと自堕落に暮らしていたが、彼らのいたロンドンから約50km離れたギルフォードのパブで爆破テロが発生。IRAテロリストの摘発に焦る警察に捕えられ,テロリスト防止法によって彼らは拘留された。
アリバイを証明することもできず、暴力と脅迫に屈したジェリーとポールは供述書に署名してしまう。そして,心配して駆けつけた父も理由なく共犯に。なんと、ジェリーの叔母一家まで、爆弾製造の罪で、確固とした証拠もなく14歳の子供まで揃って逮捕投獄されてしまうのだった。
そして父と子は同じ刑務所に投獄された。ジュゼッペは再審を訴え続けていたが、ジェリーはふてくされ無為な日々を送っていた。
ある日、一人のIRAの闘士が刑務所に送られ、例の爆破は自分の犯行で、当局は真相を知っていながら隠蔽していると告白する。しかしジュゼッペは次第に健康を害し、獄中で無念の死をとげた。
事件から15年以上が経過し、ジェリーは父の汚名を晴らすため再審請求運動に身を投じていた。女性弁護士ガレスは警察当局の不正の証拠を握り、遂に法廷で再審請求を勝ち取る。いよいよ再び法廷に立つ日が来た・・・・。
<感想>
『マイ・レフトフット』(1989年)の監督・主演コンビが、世界的な関心を集めた冤罪<ギルフォード四人組>事件の被害者の一人ジェリー・コンロンの手記をもとに練り上げた映画。U2のボノが主題歌など4曲でこの作品に参加している。
IRA、アイルランド、英国の問題はそう過去のことではなく、
この事件も、記憶しておられる方も少なくないかもしれない。
だが、映画では国家間の事情よりも、『冤罪との苦闘』『父と息子の絆』がテーマだ。
免罪で何十年も投獄・・・といえば、稀代の名作『ショーシャンクの空に』を連想する。『ショーシャンクの空に』でも、真犯人が
別の罪で同じ刑務所にいるが、事実を知った者は腐敗した刑務所長に殺害されてしまい、証拠も再審の希望も0になってしまう。
だから主人公は法に頼らず自力で人生を取り戻そうとする。
『父の祈りを』では、真犯人がコンロン親子は無関係だと証言しているにも関らず、いったん裁判で有罪としてしまった以上、司法の恥となるという理由で、真実は放置される。自らの保身と国家の威信のために、罪なき一家や将来ある若者、合計11名の未来と人生の時間を奪った英国警察。憤慨せずにおられようか。弁護士とて、もしもあの「弁護側には見せるな」の決定的なメモが見つからなかったら、立証できただろうか。日本の司法では、「疑わしきは罰せず」。決定的な証拠がないかぎり、限りなく黒に近くても、冤罪と避けるため有罪にはしない。だが、欧米諸国では「陪審員制度」。
この制度は恐ろしい。素人の集団が感情で他人の人生を永久に奪うこともできてしまうのだ。警察だけではなく、陪審員にも免罪の場合責任を問うべきだ。英国の法廷で北アイルランド人が裁かれる。
敵対関係にある国の人間を、一般国民が冷静に裁けるとはとうてい思えない。
本作は英国・アイルランドの共同制作。他の作品からも充分伺えるように、「粘り強い」国民性だ。
父ジュゼッペは、警察がルールを破ろうと、自分は決してルールを破らない。ひたすら、ルールにのっとって、愚痴もこぼさず静かに静かに地道に机に向かい、救済運動を求める活動を続ける。
息子ジェリーはヤケをおこしただ荒れているのみ。
だが、父の無念の死をいっかけに変る。自分の自由のためにだけではなくなった。父の雪辱を晴らさねばならない。人間の尊厳のために闘うと腹をくくってからのジェリーの変貌ぶりを、さすがの演技力でダニエルが演じきっている。
仲のよい親子ではなかった・・・・。父は息子に期待し、息子は期待に応えられない悔しさから反抗的になっていった。
逆境に追い込まれ、2人きりで狭い監房の中で過ごし、見えてくるのは壁と、それぞれの姿だけ。こんな状況にならなければ理解できなかった、父への深い愛、父への尊敬、父がどれほど自分を深く愛してくれていたか・・・・・。それがやるせない。
この素晴らしい寡黙な父を演じているピート・ポスルスウェイト
は、『ブラス!』のダニー役で、やはり頑固で家族を愛する父を演じており、その、威厳と優しさの同居した風貌に心惹かれた俳優だ。本作でも、見事としかいいようのない名演ぶりである。
罪が晴れても、失った15年間と土足で踏みにじられた人間の誇りは戻ってこない。ホっとしながらも、後の裁判で事実を隠蔽した警官たちが無罪となったことに英国法廷への怒りは収まらない。
原題のIN THE NAME OF THE FATHERは「父の名において」。
父の名にかけて、きっと雪辱を晴らす、という意味だろう。
邦題の「父の祈りを」も悪くない。父は汚名を晴らすこと
だけを望んでいたのではない。息子が人間的に立派に成長すえうことを、残された家族が無事に暮らせることを、ひたすらに祈り続けていた。敬虔なカトリックだった父が「聖母マリアの御名において」とひざまずき祈っていた姿が目に屋焼きついている・・・。
【IN THE NAME OF THE FATHER】1993年アイルランド・英
監督:ジム・シェリダン
原作:ジェリー・コンロン
脚本:テリー・ジョージ・ジム・シェリダン
俳優:ダニエル・デイ・ルイス(ジェリー・コンロン)
ピート・ポスルスウェイト(ジュゼッペ)
エマ・トンプソン(弁護士)
ジョン・リンチ(ポール)
<ストーリー>
1974年、混乱の続く北アイルランドでコソ泥に明け暮れるジュリーはIRAに目をつけられ、ほとぼりがさめるまで英国に渡り、まともな仕事を探せと父親ジュゼッペに説得されロンドンへ渡る。
しかし、そこでもたまたま再会した悪友ポールと自堕落に暮らしていたが、彼らのいたロンドンから約50km離れたギルフォードのパブで爆破テロが発生。IRAテロリストの摘発に焦る警察に捕えられ,テロリスト防止法によって彼らは拘留された。
アリバイを証明することもできず、暴力と脅迫に屈したジェリーとポールは供述書に署名してしまう。そして,心配して駆けつけた父も理由なく共犯に。なんと、ジェリーの叔母一家まで、爆弾製造の罪で、確固とした証拠もなく14歳の子供まで揃って逮捕投獄されてしまうのだった。
そして父と子は同じ刑務所に投獄された。ジュゼッペは再審を訴え続けていたが、ジェリーはふてくされ無為な日々を送っていた。
ある日、一人のIRAの闘士が刑務所に送られ、例の爆破は自分の犯行で、当局は真相を知っていながら隠蔽していると告白する。しかしジュゼッペは次第に健康を害し、獄中で無念の死をとげた。
事件から15年以上が経過し、ジェリーは父の汚名を晴らすため再審請求運動に身を投じていた。女性弁護士ガレスは警察当局の不正の証拠を握り、遂に法廷で再審請求を勝ち取る。いよいよ再び法廷に立つ日が来た・・・・。
<感想>
『マイ・レフトフット』(1989年)の監督・主演コンビが、世界的な関心を集めた冤罪<ギルフォード四人組>事件の被害者の一人ジェリー・コンロンの手記をもとに練り上げた映画。U2のボノが主題歌など4曲でこの作品に参加している。
IRA、アイルランド、英国の問題はそう過去のことではなく、
この事件も、記憶しておられる方も少なくないかもしれない。
だが、映画では国家間の事情よりも、『冤罪との苦闘』『父と息子の絆』がテーマだ。
免罪で何十年も投獄・・・といえば、稀代の名作『ショーシャンクの空に』を連想する。『ショーシャンクの空に』でも、真犯人が
別の罪で同じ刑務所にいるが、事実を知った者は腐敗した刑務所長に殺害されてしまい、証拠も再審の希望も0になってしまう。
だから主人公は法に頼らず自力で人生を取り戻そうとする。
『父の祈りを』では、真犯人がコンロン親子は無関係だと証言しているにも関らず、いったん裁判で有罪としてしまった以上、司法の恥となるという理由で、真実は放置される。自らの保身と国家の威信のために、罪なき一家や将来ある若者、合計11名の未来と人生の時間を奪った英国警察。憤慨せずにおられようか。弁護士とて、もしもあの「弁護側には見せるな」の決定的なメモが見つからなかったら、立証できただろうか。日本の司法では、「疑わしきは罰せず」。決定的な証拠がないかぎり、限りなく黒に近くても、冤罪と避けるため有罪にはしない。だが、欧米諸国では「陪審員制度」。
この制度は恐ろしい。素人の集団が感情で他人の人生を永久に奪うこともできてしまうのだ。警察だけではなく、陪審員にも免罪の場合責任を問うべきだ。英国の法廷で北アイルランド人が裁かれる。
敵対関係にある国の人間を、一般国民が冷静に裁けるとはとうてい思えない。
本作は英国・アイルランドの共同制作。他の作品からも充分伺えるように、「粘り強い」国民性だ。
父ジュゼッペは、警察がルールを破ろうと、自分は決してルールを破らない。ひたすら、ルールにのっとって、愚痴もこぼさず静かに静かに地道に机に向かい、救済運動を求める活動を続ける。
息子ジェリーはヤケをおこしただ荒れているのみ。
だが、父の無念の死をいっかけに変る。自分の自由のためにだけではなくなった。父の雪辱を晴らさねばならない。人間の尊厳のために闘うと腹をくくってからのジェリーの変貌ぶりを、さすがの演技力でダニエルが演じきっている。
仲のよい親子ではなかった・・・・。父は息子に期待し、息子は期待に応えられない悔しさから反抗的になっていった。
逆境に追い込まれ、2人きりで狭い監房の中で過ごし、見えてくるのは壁と、それぞれの姿だけ。こんな状況にならなければ理解できなかった、父への深い愛、父への尊敬、父がどれほど自分を深く愛してくれていたか・・・・・。それがやるせない。
この素晴らしい寡黙な父を演じているピート・ポスルスウェイト
は、『ブラス!』のダニー役で、やはり頑固で家族を愛する父を演じており、その、威厳と優しさの同居した風貌に心惹かれた俳優だ。本作でも、見事としかいいようのない名演ぶりである。
罪が晴れても、失った15年間と土足で踏みにじられた人間の誇りは戻ってこない。ホっとしながらも、後の裁判で事実を隠蔽した警官たちが無罪となったことに英国法廷への怒りは収まらない。
原題のIN THE NAME OF THE FATHERは「父の名において」。
父の名にかけて、きっと雪辱を晴らす、という意味だろう。
邦題の「父の祈りを」も悪くない。父は汚名を晴らすこと
だけを望んでいたのではない。息子が人間的に立派に成長すえうことを、残された家族が無事に暮らせることを、ひたすらに祈り続けていた。敬虔なカトリックだった父が「聖母マリアの御名において」とひざまずき祈っていた姿が目に屋焼きついている・・・。
コメントをみる |

『キルトに綴る愛』
2003年2月12日キルトに綴る愛
【How-to-Make-an-American-Quilt】 1995年・米
監督:ジョスリン・ムーアハウス
脚本:ジェイン・アンダーソン
原作:ウィットニー・オットー
撮影:ヤヌス・カミンスキー
俳優:ウィノナ・ライダー(フィン)
アン・バンクロフト(グラディ)
エレン・バースティン(ハイ)
ケイト・キャプショー(サリー)
クレア・デインズ
サマンサ・マシス
ジョアンナ・ゴーイング
ジーン・シモンズ
ケイト・ネリガン
サマンサ・マシス
ダーモット・マローニー(サム)
<ストーリー>
大学院生のフィンは26才、修士論文を仕上げるため、家を改造している婚約者のサムと一夏の間離れ、祖母ハイとその姉グラディが暮らす静かな田舎の家にやって来た。
やがてそこにはキルトを作るために7人の女たちが集まってくる。
結婚を間近に控えたフィンへ贈るベッド・カバーを作るためだ。やがて彼女たちはそれぞれの過去の恋愛や結婚の話をフィンに語り始める。フィンは、幼いときに両親が離婚しており、自分が“結婚”を控えた今、マリッジブルーに陥っていた。地元のハンサムな青年に心が揺れ、一生1人の男だけを愛する自信を失うフィン・・・。
人生の先輩たちの結婚にまつわる苦労話を聞くにつれ、一層混乱するフィンだった。
<感想>
キルトを丁寧に一針一針縫っていく老婆たちの手元に、人生を一歩一歩、歩んできた彼女たちの足跡を感じた。激動の人生、というわけではないところがいい。白人の雇い主に孕まされ苦労して娘マリアンヌを育てたアンナと、そのアンナの祖母の代の話が最も重みがあるが、あとは、夫の浮気や蒸発、自分の過ちなど、誰にでも起こり得る出来事である。だからこそ、フィンは自分の未来を投影して
考え込んでしまう。
結婚を目前に控えた女性が、「一生、この人だけ愛せるかしら、
一生、この人は私を愛し続けてくれるのかしら」という不安を
たったの一度も持たなかったことはきっとないだろう。女性なら誰でも、この物語に共感できるに違いない。
コンスタンスが、失敗した(と批判された)キルトのパーツを縫いなおす。人生はやりなおしはきかないが、夫婦仲、男女仲の“縫いなおし”はきっときく。チグハグになったら、原点に戻ってやりなおせるかもしれない・・・。コンスタンスの手元を見ていて、ふと
そんなことを感じた。
「恋を感じる相手と、心の友と、結婚するならどっち?」
恋愛遍歴は多いが独身の中年女性マリアンヌに尋ねるフィン。
「心の友(ソウルメイト)よ。」 即答するマリアンヌ。
そのマリアンヌが、初めて“心の友”と感じた名も知らぬ男性に
贈られた詩を見せてくれる。
若者は完全な愛を求め
年を経た者は 端切れを縫い合わせ
色の重なり合いの中に
美を見いだす
この詩こそが、この映画のすべてを語っているといえる。
カラスの伝説がロマンティックで素敵だった。
だが、フィンは、きっともう決めていたのだろう。愛しあう二人
を温かく包む大きなキルトが美しく感動的だ。人は1人では生きていけない。夫婦になっても、周りの人達に支えられて生きていく。
祖母とその仲間たちがそうであったように。大勢の手と心によってつむがれるキルトは、人生そのものの象徴なのかもしれない。
キルト=愛・絆、そしてマリッジブルーといえば、ニュージーランド映画の『ミルクのお値段』を思い出す。興味のある方は見比べてごらんあれ。
あの暴風のシーンはよかった。すべてを吹き飛ばし、心の中の淀みまで吹き飛ばすかのような・・・・。
夫がかつてつくってくれた小さな池に、そぉっと足を入れてフィンの原稿を拾うソフィアの胸の内を思い、目頭が熱くなった。
「やりなおすくらいなら新しいテーマに鞍替えするほうがラク?」
研究テーマをコロコロ変えるフィン。恋もそうだと、一生真実の愛は得られないよ、と人生の先輩たちが、次の世代のために、必死にバラバラになった紙とフィンの心と、それぞれの心をかき集めて、
アイロンを当てて、もう一回、キルトとはぎあわせるように繋いでくれる。実に深い温かさだ。
ヤヌス・カミンスキーのカメラワークが実にいい。空間移動の少ない作品だが、時間移動は激しい。カメラのフィルターによる色調の変化、アングルの巧みさに舌を巻く。
カミンスキーの撮影作品は
マイノリティ・リポート 2002年
プライベート・ライアン 1998年
アミスタッド 1997年
キルトに綴る愛 1995年
新作の「マイノリティ・リポート」以外は観ている。印象的な撮影者なので、今後も期待したい
【How-to-Make-an-American-Quilt】 1995年・米
監督:ジョスリン・ムーアハウス
脚本:ジェイン・アンダーソン
原作:ウィットニー・オットー
撮影:ヤヌス・カミンスキー
俳優:ウィノナ・ライダー(フィン)
アン・バンクロフト(グラディ)
エレン・バースティン(ハイ)
ケイト・キャプショー(サリー)
クレア・デインズ
サマンサ・マシス
ジョアンナ・ゴーイング
ジーン・シモンズ
ケイト・ネリガン
サマンサ・マシス
ダーモット・マローニー(サム)
<ストーリー>
大学院生のフィンは26才、修士論文を仕上げるため、家を改造している婚約者のサムと一夏の間離れ、祖母ハイとその姉グラディが暮らす静かな田舎の家にやって来た。
やがてそこにはキルトを作るために7人の女たちが集まってくる。
結婚を間近に控えたフィンへ贈るベッド・カバーを作るためだ。やがて彼女たちはそれぞれの過去の恋愛や結婚の話をフィンに語り始める。フィンは、幼いときに両親が離婚しており、自分が“結婚”を控えた今、マリッジブルーに陥っていた。地元のハンサムな青年に心が揺れ、一生1人の男だけを愛する自信を失うフィン・・・。
人生の先輩たちの結婚にまつわる苦労話を聞くにつれ、一層混乱するフィンだった。
<感想>
キルトを丁寧に一針一針縫っていく老婆たちの手元に、人生を一歩一歩、歩んできた彼女たちの足跡を感じた。激動の人生、というわけではないところがいい。白人の雇い主に孕まされ苦労して娘マリアンヌを育てたアンナと、そのアンナの祖母の代の話が最も重みがあるが、あとは、夫の浮気や蒸発、自分の過ちなど、誰にでも起こり得る出来事である。だからこそ、フィンは自分の未来を投影して
考え込んでしまう。
結婚を目前に控えた女性が、「一生、この人だけ愛せるかしら、
一生、この人は私を愛し続けてくれるのかしら」という不安を
たったの一度も持たなかったことはきっとないだろう。女性なら誰でも、この物語に共感できるに違いない。
コンスタンスが、失敗した(と批判された)キルトのパーツを縫いなおす。人生はやりなおしはきかないが、夫婦仲、男女仲の“縫いなおし”はきっときく。チグハグになったら、原点に戻ってやりなおせるかもしれない・・・。コンスタンスの手元を見ていて、ふと
そんなことを感じた。
「恋を感じる相手と、心の友と、結婚するならどっち?」
恋愛遍歴は多いが独身の中年女性マリアンヌに尋ねるフィン。
「心の友(ソウルメイト)よ。」 即答するマリアンヌ。
そのマリアンヌが、初めて“心の友”と感じた名も知らぬ男性に
贈られた詩を見せてくれる。
若者は完全な愛を求め
年を経た者は 端切れを縫い合わせ
色の重なり合いの中に
美を見いだす
この詩こそが、この映画のすべてを語っているといえる。
カラスの伝説がロマンティックで素敵だった。
だが、フィンは、きっともう決めていたのだろう。愛しあう二人
を温かく包む大きなキルトが美しく感動的だ。人は1人では生きていけない。夫婦になっても、周りの人達に支えられて生きていく。
祖母とその仲間たちがそうであったように。大勢の手と心によってつむがれるキルトは、人生そのものの象徴なのかもしれない。
キルト=愛・絆、そしてマリッジブルーといえば、ニュージーランド映画の『ミルクのお値段』を思い出す。興味のある方は見比べてごらんあれ。
あの暴風のシーンはよかった。すべてを吹き飛ばし、心の中の淀みまで吹き飛ばすかのような・・・・。
夫がかつてつくってくれた小さな池に、そぉっと足を入れてフィンの原稿を拾うソフィアの胸の内を思い、目頭が熱くなった。
「やりなおすくらいなら新しいテーマに鞍替えするほうがラク?」
研究テーマをコロコロ変えるフィン。恋もそうだと、一生真実の愛は得られないよ、と人生の先輩たちが、次の世代のために、必死にバラバラになった紙とフィンの心と、それぞれの心をかき集めて、
アイロンを当てて、もう一回、キルトとはぎあわせるように繋いでくれる。実に深い温かさだ。
ヤヌス・カミンスキーのカメラワークが実にいい。空間移動の少ない作品だが、時間移動は激しい。カメラのフィルターによる色調の変化、アングルの巧みさに舌を巻く。
カミンスキーの撮影作品は
マイノリティ・リポート 2002年
プライベート・ライアン 1998年
アミスタッド 1997年
キルトに綴る愛 1995年
新作の「マイノリティ・リポート」以外は観ている。印象的な撮影者なので、今後も期待したい
コメントをみる |

「あの頃ペニー・レインと」
2003年2月10日『あの頃ペニー・レインと』【ALMOST FAMOUS】2000年・米
★ロサンゼルス映画批評家協会賞 : 助演女優賞(フランシス・マクドーマンド)
★ボストン映画批評家協会賞: 作品賞・監督賞・脚本賞
★全米放送映画批評家協会賞: 助演女優賞(フランシス・マクドーマンド)
脚本賞
★ゴールデン・グローブ賞: ミュージカル/コメディ部門
作品賞・助演女優賞(ケイト・ハドソン)
監督・脚本・製作 : キャメロン・クロウ
スコア:ナンシー・ウィルソン
テクニカル・コンサルタント:ピーター・フランプトン
俳優:パトリック・フュジット(ウィリアム)
ケイト・ハドソン(ペニー・レイン)
フランシス・マクドーマンド(ママ)
フィリップ・シーモア・ホフマン(レスター・バンクス)
ズーイー・デシャネル(姉、アニタ)
ビリー・クラダップ(ラッセル)
テリー・チェン(ベン)
ジェイソン・リー(ジェフ)
アンナ・パキン(ポレクシア)
ノア・テイラー(ティック)
フェイルーザ・バーク(サファイア)
<ストーリー>
1973年、15歳のウィリアム・ミラーはサンディエゴで大学教授の母親と暮らしている。4年前、厳格な母親と衝突した姉アニタは、シスコでスチュワーデスになると言って家を出た。
弁護士を目指す学業優秀な少年だったウィリアムだが、姉が残していったロック・ミュージックのアルバムを聞くうちに、ロックの世界にのめり込んでいく。
ウィリアムは伝説的なロック・ライターでクリーム誌の編集長、レスター・バングスに自分が書いた学校新聞の記事を送る。レスターはそれを気に入り、会いに着たウィリアムに仕事をくれる。
「評論家で成功したけりゃ、正直に手厳しく書け」というアドバイスと共に。
取材で楽屋を訪ねるウィリアム。入口にたむろするグルーピーの中に、圧倒的な存在感でひときわ目立つ少女がいた。ペニー・レインと名乗る彼女は、自分たちはロックスターと寝るだけのグルーピーとは違って、音楽を愛してバンドを助けるバンドエイドだと主張する。
彼女の愛らしさとカッコよさにうっとりするウィリアム。しかし、インタビューしなくてはならないバンドが来ても、当然だが相手にしてもらえない。続いてウィリアムが愛するバンド、スティルウォーターが現れる。彼がバンドへの熱い思いを語ると、ギターのラッセルが楽屋に招き入れてくれる。その日から、ウィリアムはスティルウォーターの楽屋に出入り自由となる。
まもなくラッセルとペニー・レインは深い中になるが、ウィリアムのペニー・レインへの淡い恋心も、ラッセルとの友情も変らなかった。
ある日、ローリングストーン誌の編集者、ベンから電話がかかってくる。サンディエゴの新聞記事を読んだという彼は、ウィリアムに原稿を依頼、ウィリアムは大人のフリをして、ブレイク寸前(ALMOST FAMOUS)なスティルウォーターの全国ツアーに同行取材するという話をまとめる。そして、母親に「電話は1日2回、麻薬はダメ!」と念を押され、ウィリアムの取材ツアーが始まった!
ツアー初日から取材しようと張り切るウィリアムだが、仲間として接してくれるラッセルは一緒に楽しむことしか考えず、裏話も書くなと言われてしまう。一方、他のメンバーは、ジャーナリストは敵だという態度を崩さない。
ウィリアムは一人焦っていた。母親からは電話が少ないと厳しく叱られ、ベンからは取材はうまくいってるかとチェックを入れられる。しかし、ウィリアムは刺激的な毎日に驚きの連続で、まともな取材も記事の作成も何一つできないでいた。
様々な事件を経て、ツアーは最終目的地のNYへ。本命の恋人を前にラッセルはペニー・レインを金であっさり仲間に売り飛ばす。ショックから自殺未遂を計るペニーを助けたのはウィリアムだった・・・。
暴露話を書くべきなのか・・・あくまで好意的に褒め上げるに留めるべきなのか。ウィリアムは苦悩の末、“友情のために”、スティルウォーターを絶賛しただけの原稿をベンに渡す。呆れ顔のローリング・ストーン社のスタッフに、最後のチャンスをもらい、
一晩で"バンドの真実”を書き雑誌社は大喜び・・・もつかの間、取材内容をラッセルに電話で確認したスタッフに「でっちあげ記事」と言い捨てられ、ウィリアウムはお払い箱に。
ペニーとも別れ、友情も仕事も失い、絶望に肩を落とすウィリアムを、空港で姉が見つけ、4年ぶりの姉弟が再会した。「どこでもあんたが行きたいとこに連れていってあげるわ。」
落ちこむ弟に優しく声をかける姉アニタにウィリアムは・・・。
<感想>
明らかに偽名とわかるペニー・レインという名の少女。年齢も名前も偽って、ロック・バンドのミューズを気取る彼女の魅力がこの作品の柱になっている。“現実世界”では、居場所がわからない。生きる意味がわからない・・・。強気で「私はそのへんのグルーピーとは違うのよ。バンドメンバーとは寝ないわ。」と背筋を伸ばすペニー・レインだが、あっさりギターのラッセルの女になってしまう。いつも透ける素材の服を着ている彼女の内面も、ウスバカゲロウのように本当は儚いのだ。
そんなペニー・レインの、少女と女を行きつ戻りつする危うさ、
セクシーさ、可憐さを、ケイト・ハドソンが見事に表現している。
意志の強い瞳と、寂しげな口元のギャップが実にいい。
そして、母親役のフランシス・マクドーマンドに圧倒される。
この人は、風貌はこれといってインパクトのある女優さんではないと思うのだが、なにしろ存在感が凄い。『ファーゴ』 で彼女の演技力に惚れたので、この作品は実は彼女がお目当てだった。
エキセントリックなまでに過激に保守的(笑)な大学教授の母親。
父親を早くに亡くした子供たちを、女手一つで必死に育ててきたのだろう。母親の鉄のような信念、思春期の子供を抱える母親ならきっと抱えるであろう不安、子供を守るためなら本当に「何でも」してしまいそうな強さが、ユーモラスに描かれれば描かれるほど、痛々しいほどに伝わる。クロウ監督は、母への深い感謝と尊敬をこめてこの作品を練り上げたらしいが、それがとてもよく伝わってきて、温かい。
ロックにはあまり詳しくない私には、ストーリーよりも、個々の登場人物の描かれかたに好感を持てた作品であった。
主人公ウィリアム役は、映画初出演の初々しいパトリック・フュジット。彼の、生意気さのない、世間ずれしていないあどけなさ、だが甘ちゃんではない、ダイヤのように光る瞳。ショッキングな大人の世界に取り囲まれても、決して自分を見失わなず、冷静に自分を保てる彼はとても好感が持てる。父の記憶がほとんどない彼にとって父のような存在となる伝説のロック・ライター、レスター・バンクスが、ウィリアムを弟子として可愛がる気持ちがわかる。
いつの時代でも、大人でも少年少女でも、皆、“自分だけの何か”
を求めてやまない。その気持ちがわかる人になら、きっとこの映画は心の何処かに響くに違いない。
ロックスターを題材にした映画は、どうしてもドラッグ漬け→破滅
、の路線で描かれがちだが(『ドアーズ』をはじめ多くの作品が、ドラッグと切っても切れない孤独なロッカーを描いている)、
この作品ではあまり退廃的な姿は描かれない。ステレオタイプに描写されていないことで、「嘘っぽい」という指摘もあるようだが、
あくまでもこの作品はライター志望の少年が初めての恋をしたり、大人の世界の汚さにショックを受けるが、真の友情に触れて立ち直ったり、ほろ苦くてちょっと甘酸っぱい青春の入り口をテーマにしたものであり、終始、一定の清潔感を保った映像であったことを
評価したい。
惜しむらくは、肝心の「物を書く」作業、結果としてできてきた「文章」が登場しないので、ウィリアムの「ライターとしての」成長がほとんどわからない。そこにもう一工夫欲しかったように思う。
★ロサンゼルス映画批評家協会賞 : 助演女優賞(フランシス・マクドーマンド)
★ボストン映画批評家協会賞: 作品賞・監督賞・脚本賞
★全米放送映画批評家協会賞: 助演女優賞(フランシス・マクドーマンド)
脚本賞
★ゴールデン・グローブ賞: ミュージカル/コメディ部門
作品賞・助演女優賞(ケイト・ハドソン)
監督・脚本・製作 : キャメロン・クロウ
スコア:ナンシー・ウィルソン
テクニカル・コンサルタント:ピーター・フランプトン
俳優:パトリック・フュジット(ウィリアム)
ケイト・ハドソン(ペニー・レイン)
フランシス・マクドーマンド(ママ)
フィリップ・シーモア・ホフマン(レスター・バンクス)
ズーイー・デシャネル(姉、アニタ)
ビリー・クラダップ(ラッセル)
テリー・チェン(ベン)
ジェイソン・リー(ジェフ)
アンナ・パキン(ポレクシア)
ノア・テイラー(ティック)
フェイルーザ・バーク(サファイア)
<ストーリー>
1973年、15歳のウィリアム・ミラーはサンディエゴで大学教授の母親と暮らしている。4年前、厳格な母親と衝突した姉アニタは、シスコでスチュワーデスになると言って家を出た。
弁護士を目指す学業優秀な少年だったウィリアムだが、姉が残していったロック・ミュージックのアルバムを聞くうちに、ロックの世界にのめり込んでいく。
ウィリアムは伝説的なロック・ライターでクリーム誌の編集長、レスター・バングスに自分が書いた学校新聞の記事を送る。レスターはそれを気に入り、会いに着たウィリアムに仕事をくれる。
「評論家で成功したけりゃ、正直に手厳しく書け」というアドバイスと共に。
取材で楽屋を訪ねるウィリアム。入口にたむろするグルーピーの中に、圧倒的な存在感でひときわ目立つ少女がいた。ペニー・レインと名乗る彼女は、自分たちはロックスターと寝るだけのグルーピーとは違って、音楽を愛してバンドを助けるバンドエイドだと主張する。
彼女の愛らしさとカッコよさにうっとりするウィリアム。しかし、インタビューしなくてはならないバンドが来ても、当然だが相手にしてもらえない。続いてウィリアムが愛するバンド、スティルウォーターが現れる。彼がバンドへの熱い思いを語ると、ギターのラッセルが楽屋に招き入れてくれる。その日から、ウィリアムはスティルウォーターの楽屋に出入り自由となる。
まもなくラッセルとペニー・レインは深い中になるが、ウィリアムのペニー・レインへの淡い恋心も、ラッセルとの友情も変らなかった。
ある日、ローリングストーン誌の編集者、ベンから電話がかかってくる。サンディエゴの新聞記事を読んだという彼は、ウィリアムに原稿を依頼、ウィリアムは大人のフリをして、ブレイク寸前(ALMOST FAMOUS)なスティルウォーターの全国ツアーに同行取材するという話をまとめる。そして、母親に「電話は1日2回、麻薬はダメ!」と念を押され、ウィリアムの取材ツアーが始まった!
ツアー初日から取材しようと張り切るウィリアムだが、仲間として接してくれるラッセルは一緒に楽しむことしか考えず、裏話も書くなと言われてしまう。一方、他のメンバーは、ジャーナリストは敵だという態度を崩さない。
ウィリアムは一人焦っていた。母親からは電話が少ないと厳しく叱られ、ベンからは取材はうまくいってるかとチェックを入れられる。しかし、ウィリアムは刺激的な毎日に驚きの連続で、まともな取材も記事の作成も何一つできないでいた。
様々な事件を経て、ツアーは最終目的地のNYへ。本命の恋人を前にラッセルはペニー・レインを金であっさり仲間に売り飛ばす。ショックから自殺未遂を計るペニーを助けたのはウィリアムだった・・・。
暴露話を書くべきなのか・・・あくまで好意的に褒め上げるに留めるべきなのか。ウィリアムは苦悩の末、“友情のために”、スティルウォーターを絶賛しただけの原稿をベンに渡す。呆れ顔のローリング・ストーン社のスタッフに、最後のチャンスをもらい、
一晩で"バンドの真実”を書き雑誌社は大喜び・・・もつかの間、取材内容をラッセルに電話で確認したスタッフに「でっちあげ記事」と言い捨てられ、ウィリアウムはお払い箱に。
ペニーとも別れ、友情も仕事も失い、絶望に肩を落とすウィリアムを、空港で姉が見つけ、4年ぶりの姉弟が再会した。「どこでもあんたが行きたいとこに連れていってあげるわ。」
落ちこむ弟に優しく声をかける姉アニタにウィリアムは・・・。
<感想>
明らかに偽名とわかるペニー・レインという名の少女。年齢も名前も偽って、ロック・バンドのミューズを気取る彼女の魅力がこの作品の柱になっている。“現実世界”では、居場所がわからない。生きる意味がわからない・・・。強気で「私はそのへんのグルーピーとは違うのよ。バンドメンバーとは寝ないわ。」と背筋を伸ばすペニー・レインだが、あっさりギターのラッセルの女になってしまう。いつも透ける素材の服を着ている彼女の内面も、ウスバカゲロウのように本当は儚いのだ。
そんなペニー・レインの、少女と女を行きつ戻りつする危うさ、
セクシーさ、可憐さを、ケイト・ハドソンが見事に表現している。
意志の強い瞳と、寂しげな口元のギャップが実にいい。
そして、母親役のフランシス・マクドーマンドに圧倒される。
この人は、風貌はこれといってインパクトのある女優さんではないと思うのだが、なにしろ存在感が凄い。『ファーゴ』 で彼女の演技力に惚れたので、この作品は実は彼女がお目当てだった。
エキセントリックなまでに過激に保守的(笑)な大学教授の母親。
父親を早くに亡くした子供たちを、女手一つで必死に育ててきたのだろう。母親の鉄のような信念、思春期の子供を抱える母親ならきっと抱えるであろう不安、子供を守るためなら本当に「何でも」してしまいそうな強さが、ユーモラスに描かれれば描かれるほど、痛々しいほどに伝わる。クロウ監督は、母への深い感謝と尊敬をこめてこの作品を練り上げたらしいが、それがとてもよく伝わってきて、温かい。
ロックにはあまり詳しくない私には、ストーリーよりも、個々の登場人物の描かれかたに好感を持てた作品であった。
主人公ウィリアム役は、映画初出演の初々しいパトリック・フュジット。彼の、生意気さのない、世間ずれしていないあどけなさ、だが甘ちゃんではない、ダイヤのように光る瞳。ショッキングな大人の世界に取り囲まれても、決して自分を見失わなず、冷静に自分を保てる彼はとても好感が持てる。父の記憶がほとんどない彼にとって父のような存在となる伝説のロック・ライター、レスター・バンクスが、ウィリアムを弟子として可愛がる気持ちがわかる。
いつの時代でも、大人でも少年少女でも、皆、“自分だけの何か”
を求めてやまない。その気持ちがわかる人になら、きっとこの映画は心の何処かに響くに違いない。
ロックスターを題材にした映画は、どうしてもドラッグ漬け→破滅
、の路線で描かれがちだが(『ドアーズ』をはじめ多くの作品が、ドラッグと切っても切れない孤独なロッカーを描いている)、
この作品ではあまり退廃的な姿は描かれない。ステレオタイプに描写されていないことで、「嘘っぽい」という指摘もあるようだが、
あくまでもこの作品はライター志望の少年が初めての恋をしたり、大人の世界の汚さにショックを受けるが、真の友情に触れて立ち直ったり、ほろ苦くてちょっと甘酸っぱい青春の入り口をテーマにしたものであり、終始、一定の清潔感を保った映像であったことを
評価したい。
惜しむらくは、肝心の「物を書く」作業、結果としてできてきた「文章」が登場しないので、ウィリアムの「ライターとしての」成長がほとんどわからない。そこにもう一工夫欲しかったように思う。
コメントをみる |

「活きる」
2003年2月9日活きる
【Huozhe(活着)】 1994年香港=中国
★1994年第47回カンヌ映画祭審査委特別大賞
〃 最優秀男優賞受賞(グォ・ロウ)
★第48回英国アカデミ賞ベスト外国語作品賞
監督:チャン・イーモウ
脚本:ユイ・ホア/ルー・ウェイ
原作:ユイ・ホア(余華)「活きる」角川書店
俳優:グォ・ロウ(福貴 フークイ)
コン・リー(家珍 チアチェン)
ニウ・ベン(町長)
グオ・タオ(春生)
ジアン・ウー(ニ喜)
<ストーリー>
物語は1940年代の中国から始まる。福貴は町でも有数の資産家の若旦那だったが、バクチにのめり込むあまり、ついに家屋敷が人手に
渡ってしまった。妻の家珍は子どもたちを連れて実家に帰ってしまい、福貴は得意の影絵芝居で細々と生計を立て始める。やがて、逃げた妻子も戻り、老母と一家揃ってささやかだが幸せな日々を送っていた。
フークイは国民党軍の一員として無理矢理内戦に駆り出され、共産党軍の捕虜になってしまうが、その状況を救ったのは影絵芝居の能力だった。ようやく無事に故郷の町に戻った福貴は、家珍と2人の子ども、娘のフォンシア(鳳霞)・息子のヨウチン(有慶)と再会する。
再び生きて再会できた喜びを噛み締める一家だったが、時代は共産党が勝利し、毛沢東の時代は躍進政策に突入、眠る暇もなく国のために鉄を造り続ける日々がはじまり、子供たちも身を粉にして働かねばならなかった。そして最初の悲劇は起こる。
1950年代、1960年代、そして中国は激動の文化大革命時代へ・・・・・・・
時代に翻弄され、次々に家族を失いながらも、泣いて笑って逞しく日々を生き抜いていく夫婦の姿を描いた大作である。
<参考>
中国の近現代史の知識を多少なりとも持ってから鑑賞すると、この作品が中国では完成当時は公開を禁止された理由を理解する助けになるかもしれない。時代と、福貴、家珍夫婦に起こった事件との関りをまとめてみた。
中国当局は作品中の中国現代史の描かれ方に反発、さらにチャン・イーモウ監督が各国の映画祭に本作を売り込んでいたことにも怒りを顕わにし、監督に公式な謝罪文を提出させた上、2年間映画製作を禁止した。その後も、本作は中国本土では上映されていない。
日本でも、中国の顔色をうかがって、2002年まで公開を躊躇した。
_______________________________
●1945年、日本の敗戦後、共産党と国民党が雌雄を決する戦い
を繰り広げ、共産党が勝利。(福貴が巻き込まれた戦争はこれ)
国民党、共産党いずれも、伝統文化を重んじていた。
→福貴が影絵芝居で、共産党に気に入られ、「革命運動に協力した」とお墨付きの証書をもらえたのは、このため。
●1950年代前半
建国間もない混乱期を経て、政治的にも経済的にも徐々に安定期に入る。毛沢東全盛期。
→福貴が家族と、国に与えられたお湯配りの仕事でささやかに幸せに暮らしていた時期がここにあたる。
●1956年〜1966年頃
毛沢東は理想とする社会主義のために集団化を推進する人民公社の成立と大躍進政策をとるが失敗。実際は、鉄は実際に用いることが出来ない屑鉄を大量に生み出し、他方、食料については、鉄の生産にあけくれていたことと、自然災害なども加えて、なんと、2000万人の餓死者を出す悲惨な結果に終わった。
→この時期に、息子を無理な製鉄活動で亡くす
***********躍進政策********************
人海戦術で大量製鉄をし
、農村を人民公社に移行させ、食料の大増
産と工業化を一気に進めてしまおうという計画。
イギリスに5年で追いつき10年で追い越せ、
が合言葉だった。
***************************************
●1966年〜
毛沢東に代わって劉少奇が調整政策をとって回復を目指す。しかし、それを修正主義と受け止めた毛沢東は、夫人・江青ら「四人組」主導による階級闘争を奨励し、時代は文化大革命へと突入す
る。社会主義運動、文芸批判が始まる。
→福貴が町長に、影絵芝居の道具を焼き払って証拠を隠滅
するようにすすめられた。町長、春生は、走資派として投獄される。権威主義の撲滅のせいで病院から教授クラスの医者が
消え、娘が犠牲に・・・・。
******文化大革命****************************
スターリンの死後、ソ連のフルシチョフがアメリカ
と歩み寄りを始めたためそれを共産主義の背信行為
だと毛沢東が批判した、中ソ論争が背景にある。
劉少奇と?小平の二人は、共産党一党支配などの
現状では経済的に中国の未来はないと考え、資本主
義経済のとり入れをしようとした。
怒った毛沢東が彼らを走資派とよんで殺そうとし
た一連の内紛を、文革という。
*******************************************
______________________________________________________
歴史には詳しくないので、この程度の知識しかありませんが、鑑賞時の助けになればと思い、感想の前に付け加えました。
<感想>
人間すべて塞翁が馬を地でいく活力に満ちた物語だ。
涙が枯れるほど悲しいけど、不幸じゃない。
やり場のない怒りに震えるけれど、不幸じゃない。
言葉にならないほど辛いけど、不幸じゃない。
貧しいけど、不幸じゃない・・・・・。
明日は今日よりきっといい。
心臓を動かし続けるだけのために生き続けるのではなく、彼らは
次の世代へバトンを渡し続けるために、活き抜いていくのだ。
映像の魔術師といわれるイーモウ監督だが、本作では、とことん正攻法で、歴史という荒波に翻弄され木の葉のように揺さぶられる一家を描くが、そこに深刻さはなく、持ち味であるユーモアは決して忘れない。
あんな時代もあったね・・・と泣き笑いする夫婦が、幼い孫と、愛らしいヒヨコに希望と幸せを見出すラストシーンは、温かい涙を誘う。
中国は大戦後だけを取り上げても、数年ごとに激変を繰り返してきた国である。国民党と共産党との内戦、文化大革命など、国民はその時その時によって唐突に国にとっての功労者になって賞賛されたり、反逆罪で処刑されたりするのである。臨機応変でないと生き残れない。主人公の一家は、必死に社会情勢に敏感に追いつき、生き抜こうとする。運命に逆らわず、流れに身を任せ、いつか来る明るい未来のために、今日という日を精一杯に生きる。この姿が、胸を打たないはずがない。
共産党政府の過ちを明白に描きだして観客に衝撃を与えるが、主人公一家は、国が悪い、と荒れたりはしない。この国でこの時代に生きることは変えられないのだ。その強さに圧倒される。
生きていれば、きっといいことがあるよ・・・そう語りかける慈愛に満ちたメッセージをこの映画は私たちに与えてくれるのだ。
そして、生きることは、自分のためだけではないことも。
春生に「生きなさい!」と叫ぶ家珍に声は重く胸に響いた。
今、つらいことがあって何もかも嫌になってしまっている人にこそ、是非、おすすめしたい名作だ。
【Huozhe(活着)】 1994年香港=中国
★1994年第47回カンヌ映画祭審査委特別大賞
〃 最優秀男優賞受賞(グォ・ロウ)
★第48回英国アカデミ賞ベスト外国語作品賞
監督:チャン・イーモウ
脚本:ユイ・ホア/ルー・ウェイ
原作:ユイ・ホア(余華)「活きる」角川書店
俳優:グォ・ロウ(福貴 フークイ)
コン・リー(家珍 チアチェン)
ニウ・ベン(町長)
グオ・タオ(春生)
ジアン・ウー(ニ喜)
<ストーリー>
物語は1940年代の中国から始まる。福貴は町でも有数の資産家の若旦那だったが、バクチにのめり込むあまり、ついに家屋敷が人手に
渡ってしまった。妻の家珍は子どもたちを連れて実家に帰ってしまい、福貴は得意の影絵芝居で細々と生計を立て始める。やがて、逃げた妻子も戻り、老母と一家揃ってささやかだが幸せな日々を送っていた。
フークイは国民党軍の一員として無理矢理内戦に駆り出され、共産党軍の捕虜になってしまうが、その状況を救ったのは影絵芝居の能力だった。ようやく無事に故郷の町に戻った福貴は、家珍と2人の子ども、娘のフォンシア(鳳霞)・息子のヨウチン(有慶)と再会する。
再び生きて再会できた喜びを噛み締める一家だったが、時代は共産党が勝利し、毛沢東の時代は躍進政策に突入、眠る暇もなく国のために鉄を造り続ける日々がはじまり、子供たちも身を粉にして働かねばならなかった。そして最初の悲劇は起こる。
1950年代、1960年代、そして中国は激動の文化大革命時代へ・・・・・・・
時代に翻弄され、次々に家族を失いながらも、泣いて笑って逞しく日々を生き抜いていく夫婦の姿を描いた大作である。
<参考>
中国の近現代史の知識を多少なりとも持ってから鑑賞すると、この作品が中国では完成当時は公開を禁止された理由を理解する助けになるかもしれない。時代と、福貴、家珍夫婦に起こった事件との関りをまとめてみた。
中国当局は作品中の中国現代史の描かれ方に反発、さらにチャン・イーモウ監督が各国の映画祭に本作を売り込んでいたことにも怒りを顕わにし、監督に公式な謝罪文を提出させた上、2年間映画製作を禁止した。その後も、本作は中国本土では上映されていない。
日本でも、中国の顔色をうかがって、2002年まで公開を躊躇した。
_______________________________
●1945年、日本の敗戦後、共産党と国民党が雌雄を決する戦い
を繰り広げ、共産党が勝利。(福貴が巻き込まれた戦争はこれ)
国民党、共産党いずれも、伝統文化を重んじていた。
→福貴が影絵芝居で、共産党に気に入られ、「革命運動に協力した」とお墨付きの証書をもらえたのは、このため。
●1950年代前半
建国間もない混乱期を経て、政治的にも経済的にも徐々に安定期に入る。毛沢東全盛期。
→福貴が家族と、国に与えられたお湯配りの仕事でささやかに幸せに暮らしていた時期がここにあたる。
●1956年〜1966年頃
毛沢東は理想とする社会主義のために集団化を推進する人民公社の成立と大躍進政策をとるが失敗。実際は、鉄は実際に用いることが出来ない屑鉄を大量に生み出し、他方、食料については、鉄の生産にあけくれていたことと、自然災害なども加えて、なんと、2000万人の餓死者を出す悲惨な結果に終わった。
→この時期に、息子を無理な製鉄活動で亡くす
***********躍進政策********************
人海戦術で大量製鉄をし
、農村を人民公社に移行させ、食料の大増
産と工業化を一気に進めてしまおうという計画。
イギリスに5年で追いつき10年で追い越せ、
が合言葉だった。
***************************************
●1966年〜
毛沢東に代わって劉少奇が調整政策をとって回復を目指す。しかし、それを修正主義と受け止めた毛沢東は、夫人・江青ら「四人組」主導による階級闘争を奨励し、時代は文化大革命へと突入す
る。社会主義運動、文芸批判が始まる。
→福貴が町長に、影絵芝居の道具を焼き払って証拠を隠滅
するようにすすめられた。町長、春生は、走資派として投獄される。権威主義の撲滅のせいで病院から教授クラスの医者が
消え、娘が犠牲に・・・・。
******文化大革命****************************
スターリンの死後、ソ連のフルシチョフがアメリカ
と歩み寄りを始めたためそれを共産主義の背信行為
だと毛沢東が批判した、中ソ論争が背景にある。
劉少奇と?小平の二人は、共産党一党支配などの
現状では経済的に中国の未来はないと考え、資本主
義経済のとり入れをしようとした。
怒った毛沢東が彼らを走資派とよんで殺そうとし
た一連の内紛を、文革という。
*******************************************
______________________________________________________
歴史には詳しくないので、この程度の知識しかありませんが、鑑賞時の助けになればと思い、感想の前に付け加えました。
<感想>
人間すべて塞翁が馬を地でいく活力に満ちた物語だ。
涙が枯れるほど悲しいけど、不幸じゃない。
やり場のない怒りに震えるけれど、不幸じゃない。
言葉にならないほど辛いけど、不幸じゃない。
貧しいけど、不幸じゃない・・・・・。
明日は今日よりきっといい。
心臓を動かし続けるだけのために生き続けるのではなく、彼らは
次の世代へバトンを渡し続けるために、活き抜いていくのだ。
映像の魔術師といわれるイーモウ監督だが、本作では、とことん正攻法で、歴史という荒波に翻弄され木の葉のように揺さぶられる一家を描くが、そこに深刻さはなく、持ち味であるユーモアは決して忘れない。
あんな時代もあったね・・・と泣き笑いする夫婦が、幼い孫と、愛らしいヒヨコに希望と幸せを見出すラストシーンは、温かい涙を誘う。
中国は大戦後だけを取り上げても、数年ごとに激変を繰り返してきた国である。国民党と共産党との内戦、文化大革命など、国民はその時その時によって唐突に国にとっての功労者になって賞賛されたり、反逆罪で処刑されたりするのである。臨機応変でないと生き残れない。主人公の一家は、必死に社会情勢に敏感に追いつき、生き抜こうとする。運命に逆らわず、流れに身を任せ、いつか来る明るい未来のために、今日という日を精一杯に生きる。この姿が、胸を打たないはずがない。
共産党政府の過ちを明白に描きだして観客に衝撃を与えるが、主人公一家は、国が悪い、と荒れたりはしない。この国でこの時代に生きることは変えられないのだ。その強さに圧倒される。
生きていれば、きっといいことがあるよ・・・そう語りかける慈愛に満ちたメッセージをこの映画は私たちに与えてくれるのだ。
そして、生きることは、自分のためだけではないことも。
春生に「生きなさい!」と叫ぶ家珍に声は重く胸に響いた。
今、つらいことがあって何もかも嫌になってしまっている人にこそ、是非、おすすめしたい名作だ。
コメントをみる |

「すべての美しい馬」
2003年2月8日すべての美しい馬
【All the Pretty Horses】2000年・米
監督:ビリー・ボブ・ソーントン
脚本:テッド・タリー
音楽:マーティ・スチュアート
俳優:マット・デイモン(ジョン)
ヘンリー・トマス(レイシー)
ペネロペ・クルス(アレハンドラ)
ルーカス・ブラック(ジミー・ブレヴィンズ)
サム・シェパード(弁護士フランクリン)
ブルース・ダーン(判事)
ルーベン・ブラデス(ロチャ氏)
ミリアム・コロン(大伯母アルフォンサ)
<ストーリー>
大戦直後の1949年、テキサスのサンアンジェロ。
生まれ育った牧場を、祖父の死により失った生粋のカウボーイ、
ジョン・グレイディ・コールは、親友レイシーとともに国境を超てメキシコに夢を求めて旅だった。
旅の途中、2人はジミー・ブレヴィンズと名乗る少年に出会う。
名馬に乗り、銃の名手の彼に、不吉な予感を感じる2人だったが、
ジミーはつきまといメキシコに連れて行ってくれという。
突然、暗雲が垂れこめ、雷雨となった。極度の雷恐怖症のジミーは、下着姿で一晩うずくまっていた。朝になると、ジミーの馬は逃げ、銃もなくなっていた。途方に暮れる少年を放っておくわけにもゆかず、連れていくことになるのだが、近くの村で、村人がジミーの銃と馬を持っているのを目にし、キレたジミーは馬を取り戻そうとして、結果的に三人とも馬泥棒で追われる身に・・・・・。
そのままジミーとははぐれてしまったジョンとレイシーは、
河畔で牛を追うカウボーイたちに出会い、雇ってもらうことに。
連れて行かれたのは、ヘクター・ロチャが経営するメキシコ最大の大牧場だった。400頭もの美しい馬たちに目を輝かせるジョン。
そして、雇い主の令嬢、美しいアレハンドラとジョンは恋におちるが、それは許されない恋であった・・・・。ロチャは娘を町に連れ戻してしまう。
その上、突然、ジョンとレイシーは警察官に逮捕されてしまう。留置場に放り込まれた二人は、そこでブレヴィンズに再会した。彼は銃を取り戻しに行って人を殺したらしい。
死刑制度のないメキシコ。命乞いの金を払わなかったブレヴィンズは警官に殺害されてしまう。
憤るジョンだが、どうすることもできず馬泥棒扱いされ投獄される。荒廃した刑務所での暗黒の日々に苦悩する2人だったが、ある日、突然保釈された。アレハンドラの大伯母が、保釈金を払ったのだった。
レイシーは故郷テキサスに帰った。
ジョンは、ロチャの屋敷に戻り、大伯母アルフォンサと話しをする。ジョンのことは忘れるという約束とひきかえに、ジョンたちを出獄させたのだという・・・。
自由と夢を求めて旅に出たジョンは、厳しい現実にぶつかったが、自分を見失うことなく、「名誉」「誇り」のために生きることを学びとった。
でも、まだ、故郷には帰れない。やるべきことがあった。男として、どうしても。
<感想>
少年から青年の入り口に立ったばかりの、大人と子供の領域で将来に夢を抱きつつ、大海の大渦にたじろぐ青年が、故郷というゆりかごを捨てて新世界に旅だってゆく・・・。
そして、荒波に揉まれ、恐怖を知り、だがそれよりも大きな愛と夢を知り、神の存在を知り、守るべきものは何かを知って“男”となって、再び故郷の土を踏む。ジョンは新世界に負けて逃げて帰郷したのではない。冒険で手に入れたもので、故郷を守るために。
「あなたはこれからどこを故郷にするの?」 そうアレハンドラは
問うた。彼女は、自分の幸せよりも守らねばならない“誇り”と“家”があった。
地にしっかりと根を張った、強く逞しく、野生馬のように美しい女、まさにペネロペ・クルスは適役だった。
精悍さと幼さを併せ持つ風貌のマット・デイモンも、ジョン役にまさにピッタリといえる。
この映画には、「父性」のシンボルが三人登場する。
ジョンの実の父親は、娘婿であり、祖父と母親のいいなりだった
と思われる描写が、冒頭のセリフのいくつかでうかがい知れる。
ジョンは父性が欠如したまま青年になったと考えられる。
旅で、彼は欠けた父性を補ってくれる人物に出遭う。
1人はメキシコの牧場主、ロチャ氏。彼は、ジョンから何も聞き出さない。多くを語らず、ジョンをじっと見つめる。目と目で、信頼関係を築いていく。
もう1人は、メキシコの留置所で不当な扱いを受けていた、名もない長髪の老人。ジョンに助けられ、恩を返しに来るのだが、
“神”を常に口にするこの老人に、神の存在よりも自分の力と今だけを刹那的に信じていた生意気な自分に気付くジョン。
そして、最も影響力を与えたと思われるテキサス州の判事の老人だ。ジョンの話しをじっくりと聞き、嘘か否かを見極める。老判事は、人生の大先輩として、ジョンの話を静かに巧みに引き出し、温かい言葉をかけ、ジョンに自信を回復させる。ブルース・ダーンの圧倒的な存在感に感服だ。
そして、親友レイシー。ヘンリー・トマスは10歳のときに『E.T.』で主人公エリオットを演じている。いい俳優になったものだ。レイシーは、この作品の中で、ジョンよりも既に大人であり、「情」で常に動こうとするジョンに、「理性」の声を聞かせ、冷静に親友を見守る。
原作はコーマック・マッカーシー、“国境三部作”の第一作目の
「すべての美しい馬」。これを、アカデミー脚色賞に輝いた『スリング・ブレイド』の脚本家・監督として知られる、自らも名優であるビリー・ボブ・ソーントンが監督し、彼のよき相棒であるテッド・タリーが脚本を担当している。
「神は人を見ている」
ビリーの監督代表作、
「スリング・ブレイド」 でも、「神」と「人」との繋がりについて深く考えさせてくれたが、本作でも、このテーマは引き継がれている。
カメラワークのリリカルさも絶品だ。不安定な成熟期の青年の心を映すような繊細な映像美。かけぬける馬の群れは自由のメタファー。タップを踊る男の幻影は、愛する人との再会に弾む心を象徴し、灰色の囚人たちの幻影は、この世の不条理さの象徴だろうか・・・他にもいくつもの、リリカルな映像を通してジョンの心が表現されている。
そして、人物を映すときのカメラワーク。圧迫感を感じるまでに、
アップが多い。相手が“小者”の場合は適用されていなかった。
「目と目を見て語り合う必要性のある」重要な人物だけが、画面いっぱいに顔、ときには両眼でスクリーンがいっぱい、という緊迫感のある映像を作り出しているのだ。
ミリアム・コロン演じるアルフォンサのドアップ・・・「千と千尋の神かくし」の婆さんにソックリだと思ったのは私だけだろうか。怖かった。ジョンが初めて逢ったときのアルフォンサのUPは、ジョンの恐怖心を表しているようにも思えた。二度目にジョンが会い、彼女と対等に渡り合うシーンでは、アルフォンサは上半身までのUPにとどまり、圧迫感は色あせている。彼女は悪役ではない・・・。この時代と国で、姪が幸せに生き、代々続く家を守るために真剣なだけなのだ。電話番号を渡すアルフォンサに、かつては
自分も娘だった、そんな哀愁すらわずかだが、感じた。
自信を持って、老若男女に関らず、すべての方にオススメしたい作品である。
【All the Pretty Horses】2000年・米
監督:ビリー・ボブ・ソーントン
脚本:テッド・タリー
音楽:マーティ・スチュアート
俳優:マット・デイモン(ジョン)
ヘンリー・トマス(レイシー)
ペネロペ・クルス(アレハンドラ)
ルーカス・ブラック(ジミー・ブレヴィンズ)
サム・シェパード(弁護士フランクリン)
ブルース・ダーン(判事)
ルーベン・ブラデス(ロチャ氏)
ミリアム・コロン(大伯母アルフォンサ)
<ストーリー>
大戦直後の1949年、テキサスのサンアンジェロ。
生まれ育った牧場を、祖父の死により失った生粋のカウボーイ、
ジョン・グレイディ・コールは、親友レイシーとともに国境を超てメキシコに夢を求めて旅だった。
旅の途中、2人はジミー・ブレヴィンズと名乗る少年に出会う。
名馬に乗り、銃の名手の彼に、不吉な予感を感じる2人だったが、
ジミーはつきまといメキシコに連れて行ってくれという。
突然、暗雲が垂れこめ、雷雨となった。極度の雷恐怖症のジミーは、下着姿で一晩うずくまっていた。朝になると、ジミーの馬は逃げ、銃もなくなっていた。途方に暮れる少年を放っておくわけにもゆかず、連れていくことになるのだが、近くの村で、村人がジミーの銃と馬を持っているのを目にし、キレたジミーは馬を取り戻そうとして、結果的に三人とも馬泥棒で追われる身に・・・・・。
そのままジミーとははぐれてしまったジョンとレイシーは、
河畔で牛を追うカウボーイたちに出会い、雇ってもらうことに。
連れて行かれたのは、ヘクター・ロチャが経営するメキシコ最大の大牧場だった。400頭もの美しい馬たちに目を輝かせるジョン。
そして、雇い主の令嬢、美しいアレハンドラとジョンは恋におちるが、それは許されない恋であった・・・・。ロチャは娘を町に連れ戻してしまう。
その上、突然、ジョンとレイシーは警察官に逮捕されてしまう。留置場に放り込まれた二人は、そこでブレヴィンズに再会した。彼は銃を取り戻しに行って人を殺したらしい。
死刑制度のないメキシコ。命乞いの金を払わなかったブレヴィンズは警官に殺害されてしまう。
憤るジョンだが、どうすることもできず馬泥棒扱いされ投獄される。荒廃した刑務所での暗黒の日々に苦悩する2人だったが、ある日、突然保釈された。アレハンドラの大伯母が、保釈金を払ったのだった。
レイシーは故郷テキサスに帰った。
ジョンは、ロチャの屋敷に戻り、大伯母アルフォンサと話しをする。ジョンのことは忘れるという約束とひきかえに、ジョンたちを出獄させたのだという・・・。
自由と夢を求めて旅に出たジョンは、厳しい現実にぶつかったが、自分を見失うことなく、「名誉」「誇り」のために生きることを学びとった。
でも、まだ、故郷には帰れない。やるべきことがあった。男として、どうしても。
<感想>
少年から青年の入り口に立ったばかりの、大人と子供の領域で将来に夢を抱きつつ、大海の大渦にたじろぐ青年が、故郷というゆりかごを捨てて新世界に旅だってゆく・・・。
そして、荒波に揉まれ、恐怖を知り、だがそれよりも大きな愛と夢を知り、神の存在を知り、守るべきものは何かを知って“男”となって、再び故郷の土を踏む。ジョンは新世界に負けて逃げて帰郷したのではない。冒険で手に入れたもので、故郷を守るために。
「あなたはこれからどこを故郷にするの?」 そうアレハンドラは
問うた。彼女は、自分の幸せよりも守らねばならない“誇り”と“家”があった。
地にしっかりと根を張った、強く逞しく、野生馬のように美しい女、まさにペネロペ・クルスは適役だった。
精悍さと幼さを併せ持つ風貌のマット・デイモンも、ジョン役にまさにピッタリといえる。
この映画には、「父性」のシンボルが三人登場する。
ジョンの実の父親は、娘婿であり、祖父と母親のいいなりだった
と思われる描写が、冒頭のセリフのいくつかでうかがい知れる。
ジョンは父性が欠如したまま青年になったと考えられる。
旅で、彼は欠けた父性を補ってくれる人物に出遭う。
1人はメキシコの牧場主、ロチャ氏。彼は、ジョンから何も聞き出さない。多くを語らず、ジョンをじっと見つめる。目と目で、信頼関係を築いていく。
もう1人は、メキシコの留置所で不当な扱いを受けていた、名もない長髪の老人。ジョンに助けられ、恩を返しに来るのだが、
“神”を常に口にするこの老人に、神の存在よりも自分の力と今だけを刹那的に信じていた生意気な自分に気付くジョン。
そして、最も影響力を与えたと思われるテキサス州の判事の老人だ。ジョンの話しをじっくりと聞き、嘘か否かを見極める。老判事は、人生の大先輩として、ジョンの話を静かに巧みに引き出し、温かい言葉をかけ、ジョンに自信を回復させる。ブルース・ダーンの圧倒的な存在感に感服だ。
そして、親友レイシー。ヘンリー・トマスは10歳のときに『E.T.』で主人公エリオットを演じている。いい俳優になったものだ。レイシーは、この作品の中で、ジョンよりも既に大人であり、「情」で常に動こうとするジョンに、「理性」の声を聞かせ、冷静に親友を見守る。
原作はコーマック・マッカーシー、“国境三部作”の第一作目の
「すべての美しい馬」。これを、アカデミー脚色賞に輝いた『スリング・ブレイド』の脚本家・監督として知られる、自らも名優であるビリー・ボブ・ソーントンが監督し、彼のよき相棒であるテッド・タリーが脚本を担当している。
「神は人を見ている」
ビリーの監督代表作、
「スリング・ブレイド」 でも、「神」と「人」との繋がりについて深く考えさせてくれたが、本作でも、このテーマは引き継がれている。
カメラワークのリリカルさも絶品だ。不安定な成熟期の青年の心を映すような繊細な映像美。かけぬける馬の群れは自由のメタファー。タップを踊る男の幻影は、愛する人との再会に弾む心を象徴し、灰色の囚人たちの幻影は、この世の不条理さの象徴だろうか・・・他にもいくつもの、リリカルな映像を通してジョンの心が表現されている。
そして、人物を映すときのカメラワーク。圧迫感を感じるまでに、
アップが多い。相手が“小者”の場合は適用されていなかった。
「目と目を見て語り合う必要性のある」重要な人物だけが、画面いっぱいに顔、ときには両眼でスクリーンがいっぱい、という緊迫感のある映像を作り出しているのだ。
ミリアム・コロン演じるアルフォンサのドアップ・・・「千と千尋の神かくし」の婆さんにソックリだと思ったのは私だけだろうか。怖かった。ジョンが初めて逢ったときのアルフォンサのUPは、ジョンの恐怖心を表しているようにも思えた。二度目にジョンが会い、彼女と対等に渡り合うシーンでは、アルフォンサは上半身までのUPにとどまり、圧迫感は色あせている。彼女は悪役ではない・・・。この時代と国で、姪が幸せに生き、代々続く家を守るために真剣なだけなのだ。電話番号を渡すアルフォンサに、かつては
自分も娘だった、そんな哀愁すらわずかだが、感じた。
自信を持って、老若男女に関らず、すべての方にオススメしたい作品である。
コメントをみる |

「ワイルド・アット・ハート」
2003年2月7日ワイルド・アット・ハート
【Wild at Heart】1990年・米
★1990年カンヌ映画祭パルムドール受賞
監督 デビッド・リンチ
脚本 デビッド・リンチ
原作 バリー・ギフォード“Wild at Heart”
撮影 フレデリック・エルムズ
音楽 アンジェロ・バダラメンティ
出演 ニコラス・ケイジ (セイラー)
ローラ・ダーン (ルーラ)
ウィレム・デフォー (ペルー)
シェリル・リー(善い魔女)
ダイアン・ラッド(マリエッタ)
イザベラ・ロッセリーニ
クリスピン・グローバー
<ストーリー>
セイラーの恋人ルーラの母親マリエッタは娘に偏執的な愛情を注いでいる。セイラーを殺そうとチンピラを向かわせるが、ルーラと、そしてマリエッタの前でセイラーはその男を惨殺してしまう。22ヶ月と18日後、矯正施設を出たセイラーはルーラを連れて、カリフォルニアへの逃避行を試みる。
激怒したマリエッタは私立探偵で恋人のジョニーに二人を見つけるように頼み、さらに昔の男、殺し屋サントスにも相談を。サントスの出した条件は、セイラーを殺したら、ジョニーも殺害し、元のサヤに戻ろう、というものだった。拒否するマリエッタだが、サントスは聞いちゃいない。裏世界を牛耳る“ミスターとなかい”にこの二件の殺人を依頼するのだった・・・。
その頃セイラーはテキサスの田舎町、ビッグ・ツナにいた。そこのモーテルでボビー・ペルーという、怪しげな元海兵隊員に出会う。
愛し合うセイラーとルーラは追ってから逃れられられるのだろうか。それとも、破滅の一路を辿るのだろうか・・・・!?
<感想>
リンチ監督特有の゛謎かけ”はあまりなく、リンチに馴染みがない方でも、すんなり入りこめる作品かもしれない。
『マルホランド・ドライブ』 の映像の妖しさ、狂気はそのままに、ストーリー進行は、『ストレイト・ストーリー』的にいたってシンプル、アタマの中がアメーバ状になる心配はない。
リンチ作品のシンボルである、暴力・セックス・狂気はこの作品でも過激度120%で展開されているが、この作品において、主人公であるセイラーとルーラは、いたってマトモであり、望んでいるのは破滅や堕落した将来ではない。愛する人と引き離されたくない、
その想いだけが彼らを走らせている。
そのあたりが、犯罪に手を染めながら走ることで生き甲斐を見出す
『ナチュラル・ボーン・キラーズ』の2人とは根本的に違う。
だが、陳腐なロード・ムービーに終始しないのは、彼らの呪われた過去と、それを象徴する゛炎”の映像の妖しげな美しさのおかげだ。火をつけると、悦楽をもたらしながら短くなって消えて行く煙草。人間に死をもたらす炎、2人の決して消えない愛の炎。
炎は、媒体となるものを消滅させながら燃え盛るのだ・・・・。
ニコラス・ケイジと、ローラ・ダーンの気持ちのいいキレっぷりが
いい。明らかにヘンだが、人間としてドロップアウトしない。
゛黄色いレンガの道をどこまでも辿ろうと”(オズの魔法使いをイメージしている)しているのだ・・・。誰にも邪魔されない2人の生活を目指して・・・。
オズの魔法使いがやたらと出てくるが、特にストーリー的になぞっているわけではない。ルーラがオズの魔法使いの物語に執りつかれている。何かが起こるたび、西の悪い魔女が追ってくると怯える。
まさに母親が、その悪い魔女の象徴であり、彼女が死なないかぎり、ルーラを縛る呪縛は解けないだろうことを観客に暗示している。
ラストで白い魔女がポワ〜ンと空に浮かんだときには、あまりのギャップ(コメディタッチだったので)に目が点になったが、こういうミスマッチを恐れないところが鬼才リンチなのか。
「魂の自由を信じる俺って人間のシンボルだぜ」(セイラー、ヘビ皮のジャケットを誇示して)
「この世って、ハートはワイルドで、外側は、謎ばかり。」(ルーラ)
「俺のハートはワイルド(wild at heart)だからダメなんだ」
(セイラー)
「本当にハートがワイルドなら、夢を目指して闘うのよ!
愛の背を向けないで・・・」(善い魔女)
ところで、誰が怖いってペルーを演じるウィレム・デフォー。
あまりに強烈な死にっぷりに思わず笑ってしまった。
ラストシーンの甘い甘い“ラブ・ミー・テンダー”(しかもBGMではなくニコラス・ケイジが歌っている)に、思わずウットリしてしまった私は素直なのかおバカなのか。
ともかく、血まみれと吐瀉物が生理的にダメでなければ、楽しめる作品だ。
【Wild at Heart】1990年・米
★1990年カンヌ映画祭パルムドール受賞
監督 デビッド・リンチ
脚本 デビッド・リンチ
原作 バリー・ギフォード“Wild at Heart”
撮影 フレデリック・エルムズ
音楽 アンジェロ・バダラメンティ
出演 ニコラス・ケイジ (セイラー)
ローラ・ダーン (ルーラ)
ウィレム・デフォー (ペルー)
シェリル・リー(善い魔女)
ダイアン・ラッド(マリエッタ)
イザベラ・ロッセリーニ
クリスピン・グローバー
<ストーリー>
セイラーの恋人ルーラの母親マリエッタは娘に偏執的な愛情を注いでいる。セイラーを殺そうとチンピラを向かわせるが、ルーラと、そしてマリエッタの前でセイラーはその男を惨殺してしまう。22ヶ月と18日後、矯正施設を出たセイラーはルーラを連れて、カリフォルニアへの逃避行を試みる。
激怒したマリエッタは私立探偵で恋人のジョニーに二人を見つけるように頼み、さらに昔の男、殺し屋サントスにも相談を。サントスの出した条件は、セイラーを殺したら、ジョニーも殺害し、元のサヤに戻ろう、というものだった。拒否するマリエッタだが、サントスは聞いちゃいない。裏世界を牛耳る“ミスターとなかい”にこの二件の殺人を依頼するのだった・・・。
その頃セイラーはテキサスの田舎町、ビッグ・ツナにいた。そこのモーテルでボビー・ペルーという、怪しげな元海兵隊員に出会う。
愛し合うセイラーとルーラは追ってから逃れられられるのだろうか。それとも、破滅の一路を辿るのだろうか・・・・!?
<感想>
リンチ監督特有の゛謎かけ”はあまりなく、リンチに馴染みがない方でも、すんなり入りこめる作品かもしれない。
『マルホランド・ドライブ』 の映像の妖しさ、狂気はそのままに、ストーリー進行は、『ストレイト・ストーリー』的にいたってシンプル、アタマの中がアメーバ状になる心配はない。
リンチ作品のシンボルである、暴力・セックス・狂気はこの作品でも過激度120%で展開されているが、この作品において、主人公であるセイラーとルーラは、いたってマトモであり、望んでいるのは破滅や堕落した将来ではない。愛する人と引き離されたくない、
その想いだけが彼らを走らせている。
そのあたりが、犯罪に手を染めながら走ることで生き甲斐を見出す
『ナチュラル・ボーン・キラーズ』の2人とは根本的に違う。
だが、陳腐なロード・ムービーに終始しないのは、彼らの呪われた過去と、それを象徴する゛炎”の映像の妖しげな美しさのおかげだ。火をつけると、悦楽をもたらしながら短くなって消えて行く煙草。人間に死をもたらす炎、2人の決して消えない愛の炎。
炎は、媒体となるものを消滅させながら燃え盛るのだ・・・・。
ニコラス・ケイジと、ローラ・ダーンの気持ちのいいキレっぷりが
いい。明らかにヘンだが、人間としてドロップアウトしない。
゛黄色いレンガの道をどこまでも辿ろうと”(オズの魔法使いをイメージしている)しているのだ・・・。誰にも邪魔されない2人の生活を目指して・・・。
オズの魔法使いがやたらと出てくるが、特にストーリー的になぞっているわけではない。ルーラがオズの魔法使いの物語に執りつかれている。何かが起こるたび、西の悪い魔女が追ってくると怯える。
まさに母親が、その悪い魔女の象徴であり、彼女が死なないかぎり、ルーラを縛る呪縛は解けないだろうことを観客に暗示している。
ラストで白い魔女がポワ〜ンと空に浮かんだときには、あまりのギャップ(コメディタッチだったので)に目が点になったが、こういうミスマッチを恐れないところが鬼才リンチなのか。
「魂の自由を信じる俺って人間のシンボルだぜ」(セイラー、ヘビ皮のジャケットを誇示して)
「この世って、ハートはワイルドで、外側は、謎ばかり。」(ルーラ)
「俺のハートはワイルド(wild at heart)だからダメなんだ」
(セイラー)
「本当にハートがワイルドなら、夢を目指して闘うのよ!
愛の背を向けないで・・・」(善い魔女)
ところで、誰が怖いってペルーを演じるウィレム・デフォー。
あまりに強烈な死にっぷりに思わず笑ってしまった。
ラストシーンの甘い甘い“ラブ・ミー・テンダー”(しかもBGMではなくニコラス・ケイジが歌っている)に、思わずウットリしてしまった私は素直なのかおバカなのか。
ともかく、血まみれと吐瀉物が生理的にダメでなければ、楽しめる作品だ。
コメントをみる |

「エンド・オブ・オール・ウォーズ」
2003年2月6日エンド・オブ・オール・ウォーズ
【TO END ALL WARS】 2002年・米・英・タイ
監督:デビッド・L.カニンガム
脚本:ブライアン・ゴダワ
原作:アーネスト・ゴードン「クワイ河収容所」」("Miracle on the River Kwai")
俳優:ロバート・カーライル(キャンベル少佐)
キーファー・サザーランド(ヤンカー)
シアラン・マクメナミン(アーネスト・ゴードン大尉)
マーク・ストロング(ダスティー)
木村栄 サカエ・キムラ(イトウ軍曹)
マサユキ・ユイ(ノグチ軍曹)
ジェームズ・コスモ(マクリーン中佐)
佐生有語 ユウゴ・サソウ(通訳、ナガセ)
<ストーリー>
1941年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入。開戦直後、日本軍はマレー半島に上陸し、次々にアジアを占拠していった。熱帯の地シンガポールもそのうちのひとつ。そんな中、マクリーン中佐率いる帰還中の小さなスコットランド部隊が日本軍に捕らえられ、ビルマ(現ミャンマー)の密林地帯の奥地にある捕虜収容所に強制収容されてしまう。
そこでは、ジャングル地帯を走る悪名高い“死の鉄道”(参考:「泰緬鉄道」のこと。第二次世界大戦中、アジア侵略を進める日本軍が物資輸送ルートのために敷設した軍事鉄道。タイ(泰)とビルマ(緬)をクワイ河に沿って結び420kmにも及ぶ)の敷設工事のために、何百人という連合軍の戦争捕虜たちが強制労働させられていたのだ。
日本軍の非人間的な虐待行為が日常的に繰り広げられる中、劣悪な生活環境や飢えから、捕虜たちは精神的にも肉体的にも蝕まれ始めていく・・・。
ある日、日本軍とのちょっとした口論からスコットランド軍のボスであるマクリーン中佐が虐殺されてしまう。この事件をきっかけに捕虜たちの緊張状態が途切れ、内部に蓄積されていた感情が一気に噴き出した。キャンベル少佐は復讐の思いを秘めながら、危険な脱出計画を企てはじめる。
一方で、敬虔なクリスチャンのイギリス人捕虜ダスティに触発されたアーネストは文学、哲学、芸術、そして「生きる」ということについて考える秘密の大学を死体置き場で開く。捕虜たちは徐々に自らの尊厳と希望を取り戻し、さらには、自己犠牲、彼らの敵に対する赦しの気持ちを育んでいく――しかしこの二つの対極の価値観は捕虜どうしの確執を増徴させ、次第に内部闘争へと発展していってしまう。
そんなとき、連合軍の爆撃機が収容所上空に姿を見せた。助かったと思う間もなく、連合軍の捕虜がいるのに気付かないのか、収容所ごと空爆され、日本兵も連合軍捕虜たちも大勢が死傷してしまう。
だが、戦局は明らかに変化を見せはじめていた・・・・。
<感想>
日本で公開しても集客できないと踏んでいるのか、いまだに未公開である。二名の当時の生存者もおり、「パール・ハーバー」のような娯楽大作色は一切ない。ドキュメンタリータッチの作品である。
日本軍の、国際条約を無視した捕虜の不当な扱いは悪名高く、
「戦場のメリー・クリスマス」 もジャワの収容所が舞台だったが、この作品は、戦メリで語られたような数名の中心人物たちの人間的内面の物語ではなく、キリスト教圏の欧米人には理解しにくい「武士道:ブシドー」「恥」「礼」「天皇のために個人の命は喜んで投げ出す」に戸惑う捕虜たちが、キリスト教的な隣人愛や、赦し、生きる意味、を模索しつつ、生きぬくために“希望”を
模索するヒューマンドラマである。
「人は希望を持つと苦しむが、希望を失えば死ぬ」
「憎しみの終着駅はどこだ。敵の目には自分が見える。」
彼らは、憎しみについて、考える。憎悪をたぎらせた敵の瞳に映るのは、同じく憎しみに淀んだ自分の姿。鏡が鏡を映すように無限に続くメビウスの輪をどこで絶ち切ればいい・・・
その答を、彼らは見出してゆく。生きるために。
これは、国家間の戦争がどうだったとか、他の国に比べて日本軍の捕虜の扱いは酷かったとか、そういう表面的なことを訴える作品ではない。
人間が極限状態のなかで、動物のようにではなく、どうしたら人間らのままでいられるか、自己の尊厳をどう保つか、それをテーマとした作品なのだと思う。だから、この映画にはハリウッド的なヒロイズム臭もお説教臭さもない。低予算で、よくここまで堅実な作品を作れたものだと感心する。
日本軍人の描かれ方に注目したい。
敵の日本軍曹たちにも、個性を与え、同じ人間なのだ、という視点を感じる。酒好き女好きでだらしがなく、いざとなると自分1人だけ金目のものを持って逃げてしまう器の小さな高官。捕虜にも部下にも鬼のごとく厳しいが、自分にも厳しく、ひたすら滅私奉公に全身全霊を捧げる、骨の髄まで「ブシドー」に染まった軍曹。でも、このイトウ軍曹もロボットのようには描かれていない。ダスティーを自ら磔にし、涙を流すイトウ軍曹を描いたことには意味がある。
そして、通訳のナガセ。虚弱体質で、戦闘経験はない、学者肌の
ナガセは、目の前で繰り広げられる惨劇に、ただ青ざめうろたえる・・・。地獄を目の当たりにして心を痛めてもどうすることもかなわない下士官の辛さ。アーネストとナガセは、学問を愛する者同士、静かに心を通わせていく・・・。
映画のモデルとなった2人の人物がDVDの特典で紹介されている。
原作者のアーネスト・ゴードン氏。1942年、捕虜となりクワイ河流域の捕虜収容所で泰緬鉄道敷設のための強制労働を強いられた。
終戦後は、大学教会の牧師に。2002年1月に亡くなった。
通訳のナガセのモデル、永瀬 隆氏。
青山学院大学で英語を学んだ彼は通訳を希望して入隊。1943年、タイに駐屯、カンチャナプリ憲兵分隊で捕虜の思想動向のチェックを任務とする。戦後は進駐英印軍で通訳をし、後に教師に。1986年、カンチャナプリにクワイ河平和寺院を建立(タイで僧の資格を取得)、現在もタイ国財団法人「クワイ河平和基金」を主宰・運営しておられる。
ところで、邦題(ビデオ・DVDの)と原題、かなりニュアンスが違う。「エンド・オブ・オール・ウォーズ」は、すべての戦争の終焉、であり、終わってしまっているのだ。
でも、この物語の原題とテーマは、「TO END ALL WARS」、すべての戦争を終わらせるために、だ。
考え続けなければいけない。異文化の国同士が、異なる価値観を持って戦うことの恐ろしさを。
今、アメリカはまったく異文化圏であるイラクとの戦闘準備に入っている。同じ惨劇を繰り返すことになるのではないのか・・・。
当時の日本人が天皇の名のもとに何でもしたように、イスラム教圏の彼らは、アラーの名のもとになら、何でもするだろう。その過激さは計り知れない・・・・。
今だからこそ、この映画の日本での公開が必要だと強く思う。
「反日映画」ではない。「反戦映画」だ。
ナチスの蛮行を描いたホロコーストをテーマにした作品が、「反ドイツ」目的ではないのと同じだと考えてみてほしい。
【TO END ALL WARS】 2002年・米・英・タイ
監督:デビッド・L.カニンガム
脚本:ブライアン・ゴダワ
原作:アーネスト・ゴードン「クワイ河収容所」」("Miracle on the River Kwai")
俳優:ロバート・カーライル(キャンベル少佐)
キーファー・サザーランド(ヤンカー)
シアラン・マクメナミン(アーネスト・ゴードン大尉)
マーク・ストロング(ダスティー)
木村栄 サカエ・キムラ(イトウ軍曹)
マサユキ・ユイ(ノグチ軍曹)
ジェームズ・コスモ(マクリーン中佐)
佐生有語 ユウゴ・サソウ(通訳、ナガセ)
<ストーリー>
1941年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入。開戦直後、日本軍はマレー半島に上陸し、次々にアジアを占拠していった。熱帯の地シンガポールもそのうちのひとつ。そんな中、マクリーン中佐率いる帰還中の小さなスコットランド部隊が日本軍に捕らえられ、ビルマ(現ミャンマー)の密林地帯の奥地にある捕虜収容所に強制収容されてしまう。
そこでは、ジャングル地帯を走る悪名高い“死の鉄道”(参考:「泰緬鉄道」のこと。第二次世界大戦中、アジア侵略を進める日本軍が物資輸送ルートのために敷設した軍事鉄道。タイ(泰)とビルマ(緬)をクワイ河に沿って結び420kmにも及ぶ)の敷設工事のために、何百人という連合軍の戦争捕虜たちが強制労働させられていたのだ。
日本軍の非人間的な虐待行為が日常的に繰り広げられる中、劣悪な生活環境や飢えから、捕虜たちは精神的にも肉体的にも蝕まれ始めていく・・・。
ある日、日本軍とのちょっとした口論からスコットランド軍のボスであるマクリーン中佐が虐殺されてしまう。この事件をきっかけに捕虜たちの緊張状態が途切れ、内部に蓄積されていた感情が一気に噴き出した。キャンベル少佐は復讐の思いを秘めながら、危険な脱出計画を企てはじめる。
一方で、敬虔なクリスチャンのイギリス人捕虜ダスティに触発されたアーネストは文学、哲学、芸術、そして「生きる」ということについて考える秘密の大学を死体置き場で開く。捕虜たちは徐々に自らの尊厳と希望を取り戻し、さらには、自己犠牲、彼らの敵に対する赦しの気持ちを育んでいく――しかしこの二つの対極の価値観は捕虜どうしの確執を増徴させ、次第に内部闘争へと発展していってしまう。
そんなとき、連合軍の爆撃機が収容所上空に姿を見せた。助かったと思う間もなく、連合軍の捕虜がいるのに気付かないのか、収容所ごと空爆され、日本兵も連合軍捕虜たちも大勢が死傷してしまう。
だが、戦局は明らかに変化を見せはじめていた・・・・。
<感想>
日本で公開しても集客できないと踏んでいるのか、いまだに未公開である。二名の当時の生存者もおり、「パール・ハーバー」のような娯楽大作色は一切ない。ドキュメンタリータッチの作品である。
日本軍の、国際条約を無視した捕虜の不当な扱いは悪名高く、
「戦場のメリー・クリスマス」 もジャワの収容所が舞台だったが、この作品は、戦メリで語られたような数名の中心人物たちの人間的内面の物語ではなく、キリスト教圏の欧米人には理解しにくい「武士道:ブシドー」「恥」「礼」「天皇のために個人の命は喜んで投げ出す」に戸惑う捕虜たちが、キリスト教的な隣人愛や、赦し、生きる意味、を模索しつつ、生きぬくために“希望”を
模索するヒューマンドラマである。
「人は希望を持つと苦しむが、希望を失えば死ぬ」
「憎しみの終着駅はどこだ。敵の目には自分が見える。」
彼らは、憎しみについて、考える。憎悪をたぎらせた敵の瞳に映るのは、同じく憎しみに淀んだ自分の姿。鏡が鏡を映すように無限に続くメビウスの輪をどこで絶ち切ればいい・・・
その答を、彼らは見出してゆく。生きるために。
これは、国家間の戦争がどうだったとか、他の国に比べて日本軍の捕虜の扱いは酷かったとか、そういう表面的なことを訴える作品ではない。
人間が極限状態のなかで、動物のようにではなく、どうしたら人間らのままでいられるか、自己の尊厳をどう保つか、それをテーマとした作品なのだと思う。だから、この映画にはハリウッド的なヒロイズム臭もお説教臭さもない。低予算で、よくここまで堅実な作品を作れたものだと感心する。
日本軍人の描かれ方に注目したい。
敵の日本軍曹たちにも、個性を与え、同じ人間なのだ、という視点を感じる。酒好き女好きでだらしがなく、いざとなると自分1人だけ金目のものを持って逃げてしまう器の小さな高官。捕虜にも部下にも鬼のごとく厳しいが、自分にも厳しく、ひたすら滅私奉公に全身全霊を捧げる、骨の髄まで「ブシドー」に染まった軍曹。でも、このイトウ軍曹もロボットのようには描かれていない。ダスティーを自ら磔にし、涙を流すイトウ軍曹を描いたことには意味がある。
そして、通訳のナガセ。虚弱体質で、戦闘経験はない、学者肌の
ナガセは、目の前で繰り広げられる惨劇に、ただ青ざめうろたえる・・・。地獄を目の当たりにして心を痛めてもどうすることもかなわない下士官の辛さ。アーネストとナガセは、学問を愛する者同士、静かに心を通わせていく・・・。
映画のモデルとなった2人の人物がDVDの特典で紹介されている。
原作者のアーネスト・ゴードン氏。1942年、捕虜となりクワイ河流域の捕虜収容所で泰緬鉄道敷設のための強制労働を強いられた。
終戦後は、大学教会の牧師に。2002年1月に亡くなった。
通訳のナガセのモデル、永瀬 隆氏。
青山学院大学で英語を学んだ彼は通訳を希望して入隊。1943年、タイに駐屯、カンチャナプリ憲兵分隊で捕虜の思想動向のチェックを任務とする。戦後は進駐英印軍で通訳をし、後に教師に。1986年、カンチャナプリにクワイ河平和寺院を建立(タイで僧の資格を取得)、現在もタイ国財団法人「クワイ河平和基金」を主宰・運営しておられる。
ところで、邦題(ビデオ・DVDの)と原題、かなりニュアンスが違う。「エンド・オブ・オール・ウォーズ」は、すべての戦争の終焉、であり、終わってしまっているのだ。
でも、この物語の原題とテーマは、「TO END ALL WARS」、すべての戦争を終わらせるために、だ。
考え続けなければいけない。異文化の国同士が、異なる価値観を持って戦うことの恐ろしさを。
今、アメリカはまったく異文化圏であるイラクとの戦闘準備に入っている。同じ惨劇を繰り返すことになるのではないのか・・・。
当時の日本人が天皇の名のもとに何でもしたように、イスラム教圏の彼らは、アラーの名のもとになら、何でもするだろう。その過激さは計り知れない・・・・。
今だからこそ、この映画の日本での公開が必要だと強く思う。
「反日映画」ではない。「反戦映画」だ。
ナチスの蛮行を描いたホロコーストをテーマにした作品が、「反ドイツ」目的ではないのと同じだと考えてみてほしい。
コメントをみる |

「アリ」
2003年2月5日『アリ』 【Ali】2001年・米
監督 マイケル・マン
脚本 マイケル・マン / エリック・ロス / クリストファー・ウィルキンソン / スティーブン・J・リベル
原作 グレゴリー・アレン・ハワード
音楽 ピーター・バーク / リサ・ジェラード
俳優:ウィル・スミス(モハメド・アリ)
マリオ・ヴァン・ピーブルズ(マルコムX)
ジョン・ヴォイト(人気キャスター、コーセル)
ジェイミー・フォックス(マネージャー)
ジャンカルロ・エスポジート(アリの父)
ジェイダ・ピンケット・スミス(最初の妻)
ノーナ・ゲイ(2番目の妻)
<ストーリー>
今なおカリスマ的存在のボクサー、モハメド・アリの1964年から1974年(チャンピオンになってから、徴兵拒否騒動を経て、ザイールのキンシャサでの復活試合)までの物語。監督は、実話社会派映画の大御所、マイケル・マン。
22歳でボクシングヘビー級チャンピオンになった黒人青年カシアス・クレイは、マルコムXとの友情を通じてブラックモスリムに
改宗、イライジャ師から「モハメド・アリ」(賞賛されるべき人、の意)の名を授かる。(参考:アメリカのアフロアメリカンの名前は、奴隷制度時代に主人である白人に押しつけられた名前であり、400年の黒人奴隷制度の象徴だとして、ブラックモスリム、黒人のみで構成されるイスラム教寺院のこと)
黄金時代が訪れたと思う間もなく、アメリカはベトナム戦争時代に突入、アリも徴兵されるが、拒否。これによって、旅券とプロボクサー資格を剥奪され、国内でも国外でもボクシングの試合ができなくなってしまう。
長い長い裁判と貧窮の日々の果て、最高裁で勝利、不当に剥奪されたプロ資格を取り戻す。そして、伝説となった、アフリカのザイール、キンシャサでの復活試合の日が訪れる・・・・。
<感想>
ドキュメンタリータッチで、彼の人生で最も大きな出来事に入るであろうトピックスを、かなり冷静なカメラワークで描写しているため、観客はややつきはなされたような印象をうけるかもしれない。
あいかわらず長い(2時間37分)が、マイケル・マン監督らしい重厚な出来に満足だ。
日本人が鑑賞する場合、ある程度、この時期のアメリカ情勢の基礎知識がないと、アリの内面の葛藤が見えてこない。手っ取り早い方法としては、デンゼル・ワシントン主演、スパイク・リー監督の
「マルコムX」、そしてエドワード・ノートン主演、トニー・ケイ監督の「アメリカン・ヒストリーX」 をご覧になると、相当クリアに、当時のアメリカの抱えていた現実を知ることができるだろう。
マルコムXは、この映画ではマリオ・ヴァン・ピーブルズが演じて、登場時間は短いがウィル・スミスを食うほどの存在感を示している。
アリは、破産したとたんにイライジャ師から信仰を禁じられたが、
ブラックモスリムとイライジャ師のきな臭さにはあまり関心がなかったようだ・・・マルコムXが誰の命令で何故暗殺されたのかも、おおよその想像はついていたのだろうが、信念が友と離れてしまっていたのだろう。1人、車の中で涙するシーンに心が沈んだ。
だが、アリはイライジャ師や、ブラックモスリムのためには生きていない。とことん、自らの信念のために突っ走っていく。
アリの人生と平行して描かれる社会情勢は、マルコムXやキング牧師の暗殺、公民権運動、人種差別問題、ベトナム戦争、そして、アフリカの黒人問題にまで及ぶが、アリがコメントを述べるのは徴兵拒否に関してだけであり、あとはアリの姿から観客がそれぞれ読み取り想像するという演出手段。
その徴兵拒否も、理由が実にハッキリしており、アンチ・アメリカの“アメリカン・ヒーロー”らしい。罪のないよその国の貧乏な人たちを殺す理由がない。俺は自由に生きたい。それだけ。
徴兵を形だけ受諾すれば、3週間の訓練のみで退役になり、ボクサー生活に戻れることになっていたのだから、生きる証であったボクシングを捨ててまで、もっと強く憎い敵=アメリカ政府 と闘う覚悟を決めたアリの熱い血には驚愕するばかりだ。
だが、アリとて聖人でもバケモノでもない。弱い人間だ。お金もすることもなくなってしまったアリの虚ろな目、子供がいても次から次へ女に目移りする無責任さも何の解説もつけずに静かに描いている。それでも、酒やヤクに溺れることなく体を鍛え続けた彼に、不屈の克己の精神を見る。
アフリカでの「アリ、ボンバイエ!」(アリ、あいつをやっつけて)の大合唱、壁に描かれた、戦車をブッとばしているアリの拳の絵。アリは一言も発さない。ただ、絵を見つめ、声援を聞きながら黙々とランニングする姿が心に残る・・・。
「自分を粗末にするな!」
ヤク中のマネージャーに浴びせた言葉は、響いた。
このマネージャーを演じたジェイミー・フォックスがいい。不思議な逆モヒカンタイプの禿げが印象的だが、ブラック・ユダヤ教徒で
「俺は黒人の白人さ」と世渡り上手でコミカルなキャラクターが、
沈みがちなスクリーンに弾みをつけている。
アリといえば、通算61戦56勝37KO5敗という驚異的な数字と、過激過ぎるリップサービスで伝説のボクサー。リングの中でも外でも
孤独なアリを、ウィル・スミスが、メークと驚くほどの肉体改造の果てにタフに演じきっている。華奢で可愛らしい印象の彼とは思えない。可愛いのはベッドの上で女に見せる表情だけ。
ボクシングシーンのカメラの視点がアリの視点で動いており、緊迫感が高まる。
“アリ・ダンス”と言われる、まるで踊るようなの羽のような軽いステップ、足の小さめなウィル・スミスが華麗に巧みに表現していて、白い蝶が舞っているようだ・・・と感じた。さすがというべきであろう。
監督は似せること、事実に近づけることにこだわっており、当時の人気スポーツキャスター、コーセル氏を演じたジョン・ヴォイトの
つけ鼻も苦笑できる。
アリは不思議な男だ。あれだけ過激なリップサービスをして、対戦相手やカツラを馬鹿にしたキャスターとも、深い友情を築いている。過激だが、裏表のない骨太な男、アリの魅力を感じさせてくれる作品だった。
ボクサーの伝記的映画は、ロバート・デ・ニーロがジェイク・ラモッタを演じた『レイジング・ブル』しか知らないのだが、人間的には対照的なこの2人、見比べてみるのも面白いだろう(ラモッタは50年代に活躍したボクサー)。
蛇足だが、残念ながら、日本での対猪木異種格闘技戦は出てこない。時期が違うこともあるが、猪木にそっくりの俳優を用意できないのではないかという気もする・・・。
アリのファンの人にとっては、“その後のアリ”の激しい生き方こそ紹介してほしかったという希望もあるかもしれない・・・
オリンピック金メダルを捨てた逸話や、初老になって聖火ランナーを務めたことは、ボクシングに興味のない方でも記憶にあるかもしれない。そして、現在病魔と闘っている彼も。
だが、アメリカの情勢がいちばん激しく動いたこの時期に焦点を絞り、老いた彼は描かないこの演出でよかったようにも思う。
彼は、永遠に燃え盛るアンチ・アメリカン・ヒーロー。その火は人々の胸から消え去ることはないのだから・・・。
少々気になったのは、10年間という時間の流れが、ウィル・スミスの演技から感じ取りにくかったことか。記者から「10年前のようにあなたは速いのか」と質問されて、初めて観客はハっと時の流れを実感する。腹が出るわけでも白髪が増えるわけでもない20代〜30代の10年間、難しいとは思うのだが、苦節の10年間、もう少し顔つきに変化、深みが欲しかったように思う。
少ないセリフ、低音の効いた音楽、ストイックなマイケル・マン監督の美学が味わえる1本だ。
監督 マイケル・マン
脚本 マイケル・マン / エリック・ロス / クリストファー・ウィルキンソン / スティーブン・J・リベル
原作 グレゴリー・アレン・ハワード
音楽 ピーター・バーク / リサ・ジェラード
俳優:ウィル・スミス(モハメド・アリ)
マリオ・ヴァン・ピーブルズ(マルコムX)
ジョン・ヴォイト(人気キャスター、コーセル)
ジェイミー・フォックス(マネージャー)
ジャンカルロ・エスポジート(アリの父)
ジェイダ・ピンケット・スミス(最初の妻)
ノーナ・ゲイ(2番目の妻)
<ストーリー>
今なおカリスマ的存在のボクサー、モハメド・アリの1964年から1974年(チャンピオンになってから、徴兵拒否騒動を経て、ザイールのキンシャサでの復活試合)までの物語。監督は、実話社会派映画の大御所、マイケル・マン。
22歳でボクシングヘビー級チャンピオンになった黒人青年カシアス・クレイは、マルコムXとの友情を通じてブラックモスリムに
改宗、イライジャ師から「モハメド・アリ」(賞賛されるべき人、の意)の名を授かる。(参考:アメリカのアフロアメリカンの名前は、奴隷制度時代に主人である白人に押しつけられた名前であり、400年の黒人奴隷制度の象徴だとして、ブラックモスリム、黒人のみで構成されるイスラム教寺院のこと)
黄金時代が訪れたと思う間もなく、アメリカはベトナム戦争時代に突入、アリも徴兵されるが、拒否。これによって、旅券とプロボクサー資格を剥奪され、国内でも国外でもボクシングの試合ができなくなってしまう。
長い長い裁判と貧窮の日々の果て、最高裁で勝利、不当に剥奪されたプロ資格を取り戻す。そして、伝説となった、アフリカのザイール、キンシャサでの復活試合の日が訪れる・・・・。
<感想>
ドキュメンタリータッチで、彼の人生で最も大きな出来事に入るであろうトピックスを、かなり冷静なカメラワークで描写しているため、観客はややつきはなされたような印象をうけるかもしれない。
あいかわらず長い(2時間37分)が、マイケル・マン監督らしい重厚な出来に満足だ。
日本人が鑑賞する場合、ある程度、この時期のアメリカ情勢の基礎知識がないと、アリの内面の葛藤が見えてこない。手っ取り早い方法としては、デンゼル・ワシントン主演、スパイク・リー監督の
「マルコムX」、そしてエドワード・ノートン主演、トニー・ケイ監督の「アメリカン・ヒストリーX」 をご覧になると、相当クリアに、当時のアメリカの抱えていた現実を知ることができるだろう。
マルコムXは、この映画ではマリオ・ヴァン・ピーブルズが演じて、登場時間は短いがウィル・スミスを食うほどの存在感を示している。
アリは、破産したとたんにイライジャ師から信仰を禁じられたが、
ブラックモスリムとイライジャ師のきな臭さにはあまり関心がなかったようだ・・・マルコムXが誰の命令で何故暗殺されたのかも、おおよその想像はついていたのだろうが、信念が友と離れてしまっていたのだろう。1人、車の中で涙するシーンに心が沈んだ。
だが、アリはイライジャ師や、ブラックモスリムのためには生きていない。とことん、自らの信念のために突っ走っていく。
アリの人生と平行して描かれる社会情勢は、マルコムXやキング牧師の暗殺、公民権運動、人種差別問題、ベトナム戦争、そして、アフリカの黒人問題にまで及ぶが、アリがコメントを述べるのは徴兵拒否に関してだけであり、あとはアリの姿から観客がそれぞれ読み取り想像するという演出手段。
その徴兵拒否も、理由が実にハッキリしており、アンチ・アメリカの“アメリカン・ヒーロー”らしい。罪のないよその国の貧乏な人たちを殺す理由がない。俺は自由に生きたい。それだけ。
徴兵を形だけ受諾すれば、3週間の訓練のみで退役になり、ボクサー生活に戻れることになっていたのだから、生きる証であったボクシングを捨ててまで、もっと強く憎い敵=アメリカ政府 と闘う覚悟を決めたアリの熱い血には驚愕するばかりだ。
だが、アリとて聖人でもバケモノでもない。弱い人間だ。お金もすることもなくなってしまったアリの虚ろな目、子供がいても次から次へ女に目移りする無責任さも何の解説もつけずに静かに描いている。それでも、酒やヤクに溺れることなく体を鍛え続けた彼に、不屈の克己の精神を見る。
アフリカでの「アリ、ボンバイエ!」(アリ、あいつをやっつけて)の大合唱、壁に描かれた、戦車をブッとばしているアリの拳の絵。アリは一言も発さない。ただ、絵を見つめ、声援を聞きながら黙々とランニングする姿が心に残る・・・。
「自分を粗末にするな!」
ヤク中のマネージャーに浴びせた言葉は、響いた。
このマネージャーを演じたジェイミー・フォックスがいい。不思議な逆モヒカンタイプの禿げが印象的だが、ブラック・ユダヤ教徒で
「俺は黒人の白人さ」と世渡り上手でコミカルなキャラクターが、
沈みがちなスクリーンに弾みをつけている。
アリといえば、通算61戦56勝37KO5敗という驚異的な数字と、過激過ぎるリップサービスで伝説のボクサー。リングの中でも外でも
孤独なアリを、ウィル・スミスが、メークと驚くほどの肉体改造の果てにタフに演じきっている。華奢で可愛らしい印象の彼とは思えない。可愛いのはベッドの上で女に見せる表情だけ。
ボクシングシーンのカメラの視点がアリの視点で動いており、緊迫感が高まる。
“アリ・ダンス”と言われる、まるで踊るようなの羽のような軽いステップ、足の小さめなウィル・スミスが華麗に巧みに表現していて、白い蝶が舞っているようだ・・・と感じた。さすがというべきであろう。
監督は似せること、事実に近づけることにこだわっており、当時の人気スポーツキャスター、コーセル氏を演じたジョン・ヴォイトの
つけ鼻も苦笑できる。
アリは不思議な男だ。あれだけ過激なリップサービスをして、対戦相手やカツラを馬鹿にしたキャスターとも、深い友情を築いている。過激だが、裏表のない骨太な男、アリの魅力を感じさせてくれる作品だった。
ボクサーの伝記的映画は、ロバート・デ・ニーロがジェイク・ラモッタを演じた『レイジング・ブル』しか知らないのだが、人間的には対照的なこの2人、見比べてみるのも面白いだろう(ラモッタは50年代に活躍したボクサー)。
蛇足だが、残念ながら、日本での対猪木異種格闘技戦は出てこない。時期が違うこともあるが、猪木にそっくりの俳優を用意できないのではないかという気もする・・・。
アリのファンの人にとっては、“その後のアリ”の激しい生き方こそ紹介してほしかったという希望もあるかもしれない・・・
オリンピック金メダルを捨てた逸話や、初老になって聖火ランナーを務めたことは、ボクシングに興味のない方でも記憶にあるかもしれない。そして、現在病魔と闘っている彼も。
だが、アメリカの情勢がいちばん激しく動いたこの時期に焦点を絞り、老いた彼は描かないこの演出でよかったようにも思う。
彼は、永遠に燃え盛るアンチ・アメリカン・ヒーロー。その火は人々の胸から消え去ることはないのだから・・・。
少々気になったのは、10年間という時間の流れが、ウィル・スミスの演技から感じ取りにくかったことか。記者から「10年前のようにあなたは速いのか」と質問されて、初めて観客はハっと時の流れを実感する。腹が出るわけでも白髪が増えるわけでもない20代〜30代の10年間、難しいとは思うのだが、苦節の10年間、もう少し顔つきに変化、深みが欲しかったように思う。
少ないセリフ、低音の効いた音楽、ストイックなマイケル・マン監督の美学が味わえる1本だ。
コメントをみる |

「顔のない天使」
2003年2月4日『顔のない天使 』【The Man Without a Face】 1993年・米
監督 メル・ギブソン
脚本 マルコム・マクラーリー
原作 イザベル・ホランド
出演 メル・ギブソン (マクラウド)
ニック・スタール (チャック)
マーガレット・ウィットン (ママ)
<ストーリー>
1960年代の夏、メイン州の保養地。元教師のマクラウドはかつて教え子に不慮の交通事故を負わせ、自らも大火傷を負い、この地でひたすら顔を隠し続けて、俗世間から離れてひっそりと生活している。そこへ少年チャックが現れる。彼は裕福だが姉も妹も父親がそれぞれ違うという、複雑な家庭で育ち、奔放な母、生意気な妹、意地悪な姉の支配の元、孤立しており、空軍にいて朝鮮戦争で死んだと聞かされている父親への憧れを心の拠り所にしている。彼はマクラウドが元教師だと知ると、個人教師になって欲しいと申し出る。父のように空軍に入るのが夢で、士官学校に入りたいのだが成績が芳しくなく、一度入試に失敗していたのだった。
最初はぎこちなく衝突を繰り返すマクラウドと少年チャックだったが、チャックは学ぶことも楽しさを知り、マクラウドは教える喜びを思い出し、二人は互いに生きる喜びに満ちた日々を取り戻していく。
だが、世捨て人のマクラウドが“怪人”と地元で忌み嫌われているため、チャックは母には毎日どこへ出かけているのか言えずじまいだった・・・
ある日、喧嘩の勢いで、姉はチャックの父の本当の死因を弟に告げてしまう。ショックのあまり自暴自棄になったチャックは家出し、マクラウドの家に駆けこみ泊めてもらうが、なぜか翌朝、地元の保安官がやってくる。血相をかえ、何かされなかったかとヒステリックに訊く母・・・。マクラウドの“過去の過ち”を許さない村の人々は、マクラウドとチャックを法的に引き離してしまう。
図書館で、マクラウドの事故についての過去の新聞記事を探すチャック。そこで見つけた記事はあまりにも衝撃的な内容だった。
とても信じられない。マクラウドに直接訊きにいったチャックは・・・・。
<感想>
噂に惑わされず真実を見抜く力と問題を真正面から受け止める力。これは、学校の“試験”に受かるよりも難しい、人生を負けずに生き抜くための“試練”に必要不可欠な力だ。
マクラウドは、これらをチャックに培わせながら、自分も勇気を出して過去に立ち向かっていこうとする。
人という人が目を背ける火傷の傷を治さず、鏡に映る自分を見て苦しむことで、力不足から教え子を助けられなかった自分に罰を与えてきたマクラウドは、チャックと向き合ううちに、それが“自己満足”であることに気付いていく・・・・。
人と人とが学び合うということは、なんと素晴らしいことだろう。
そして、周囲の雑音に負けない信頼関係を築ける友人を、人生で
何人持てるだろう。
メイン州の美しい夏の海岸、夕日、壮大な景色とともに心に残る名作である。マクラウドが最後にあの屋敷で描いた大きな絵がとても印象的だった。きっとチャックが訪ねてくると信じて残した手紙も。
風変わりな大人と少年の心の交流、そして周囲の誤解や偏見から引き裂かれる、といえば、「アトランティスのこころ」 が記憶に新しい。母親というものは、子供を心配するものだ。子供を育てていると、“差別なく人と接すること”“人を信頼する気持ち”を育んでやりたいという信念と、僅かでも不安材料があるなら、その人から子供を遠ざけたいという母性本能との闘いの日々だ。理想だけでない、厳しい現実もこの作品では描いており、作品が薄っぺらになっていない。
「あなたがたはこの“顔”しか見ていない。それでは、私という人間は見えない。」
マクラウドの周囲の無理解への怒りと、その“顔”を隠してきた自分への怒り、やりきれない気持ちが伝わってくるシーンだ。
「顔のない天使」という邦題は愚の骨頂だろう。原題のThe Man Without a Face:顔を持たない男 の持つ意味が失われる。
障害者を天使扱いしたがる日本マスメディアの悪い癖だ。
顔=人生である。その人がその人である証明書のようなものだ。
マクラウドは世を捨て、その「顔」と「生きる目的」を失っていた。そして、この題名は、別の意味もある。チャックにとっての
「顔のない男」=「顔も人柄も思い浮かばない父親」でもある。
そのチャックの欠けた心を補ってくれたのは、皮肉なことに世間に見せる顔を持たない男だった・・・・。
そして、ラストシーンで、チャックもマクラウドも、それぞれの
必要としていた「顔」を得るのだ。感動せずにはいられない。
チャックは学校と、喪失感を卒業した。マクラウドも、日陰の生活を卒業したのだろう。言葉も抱擁も要らない、男の友情がそこにあった。
監督 メル・ギブソン
脚本 マルコム・マクラーリー
原作 イザベル・ホランド
出演 メル・ギブソン (マクラウド)
ニック・スタール (チャック)
マーガレット・ウィットン (ママ)
<ストーリー>
1960年代の夏、メイン州の保養地。元教師のマクラウドはかつて教え子に不慮の交通事故を負わせ、自らも大火傷を負い、この地でひたすら顔を隠し続けて、俗世間から離れてひっそりと生活している。そこへ少年チャックが現れる。彼は裕福だが姉も妹も父親がそれぞれ違うという、複雑な家庭で育ち、奔放な母、生意気な妹、意地悪な姉の支配の元、孤立しており、空軍にいて朝鮮戦争で死んだと聞かされている父親への憧れを心の拠り所にしている。彼はマクラウドが元教師だと知ると、個人教師になって欲しいと申し出る。父のように空軍に入るのが夢で、士官学校に入りたいのだが成績が芳しくなく、一度入試に失敗していたのだった。
最初はぎこちなく衝突を繰り返すマクラウドと少年チャックだったが、チャックは学ぶことも楽しさを知り、マクラウドは教える喜びを思い出し、二人は互いに生きる喜びに満ちた日々を取り戻していく。
だが、世捨て人のマクラウドが“怪人”と地元で忌み嫌われているため、チャックは母には毎日どこへ出かけているのか言えずじまいだった・・・
ある日、喧嘩の勢いで、姉はチャックの父の本当の死因を弟に告げてしまう。ショックのあまり自暴自棄になったチャックは家出し、マクラウドの家に駆けこみ泊めてもらうが、なぜか翌朝、地元の保安官がやってくる。血相をかえ、何かされなかったかとヒステリックに訊く母・・・。マクラウドの“過去の過ち”を許さない村の人々は、マクラウドとチャックを法的に引き離してしまう。
図書館で、マクラウドの事故についての過去の新聞記事を探すチャック。そこで見つけた記事はあまりにも衝撃的な内容だった。
とても信じられない。マクラウドに直接訊きにいったチャックは・・・・。
<感想>
噂に惑わされず真実を見抜く力と問題を真正面から受け止める力。これは、学校の“試験”に受かるよりも難しい、人生を負けずに生き抜くための“試練”に必要不可欠な力だ。
マクラウドは、これらをチャックに培わせながら、自分も勇気を出して過去に立ち向かっていこうとする。
人という人が目を背ける火傷の傷を治さず、鏡に映る自分を見て苦しむことで、力不足から教え子を助けられなかった自分に罰を与えてきたマクラウドは、チャックと向き合ううちに、それが“自己満足”であることに気付いていく・・・・。
人と人とが学び合うということは、なんと素晴らしいことだろう。
そして、周囲の雑音に負けない信頼関係を築ける友人を、人生で
何人持てるだろう。
メイン州の美しい夏の海岸、夕日、壮大な景色とともに心に残る名作である。マクラウドが最後にあの屋敷で描いた大きな絵がとても印象的だった。きっとチャックが訪ねてくると信じて残した手紙も。
風変わりな大人と少年の心の交流、そして周囲の誤解や偏見から引き裂かれる、といえば、「アトランティスのこころ」 が記憶に新しい。母親というものは、子供を心配するものだ。子供を育てていると、“差別なく人と接すること”“人を信頼する気持ち”を育んでやりたいという信念と、僅かでも不安材料があるなら、その人から子供を遠ざけたいという母性本能との闘いの日々だ。理想だけでない、厳しい現実もこの作品では描いており、作品が薄っぺらになっていない。
「あなたがたはこの“顔”しか見ていない。それでは、私という人間は見えない。」
マクラウドの周囲の無理解への怒りと、その“顔”を隠してきた自分への怒り、やりきれない気持ちが伝わってくるシーンだ。
「顔のない天使」という邦題は愚の骨頂だろう。原題のThe Man Without a Face:顔を持たない男 の持つ意味が失われる。
障害者を天使扱いしたがる日本マスメディアの悪い癖だ。
顔=人生である。その人がその人である証明書のようなものだ。
マクラウドは世を捨て、その「顔」と「生きる目的」を失っていた。そして、この題名は、別の意味もある。チャックにとっての
「顔のない男」=「顔も人柄も思い浮かばない父親」でもある。
そのチャックの欠けた心を補ってくれたのは、皮肉なことに世間に見せる顔を持たない男だった・・・・。
そして、ラストシーンで、チャックもマクラウドも、それぞれの
必要としていた「顔」を得るのだ。感動せずにはいられない。
チャックは学校と、喪失感を卒業した。マクラウドも、日陰の生活を卒業したのだろう。言葉も抱擁も要らない、男の友情がそこにあった。
コメントをみる |

「いとこのビニー」
2003年2月3日いとこのビニー
【My Cousin Vinny】 1992年・米
★1992年アカデミー助演女優賞:マリサ・トメイ
★1993年MTVムービー・アワード ブレイクスルー演技賞:ジョー・ペシ
コメデイ演技賞:マリサ・トメイ
監督 ジョナサン・リン
脚本 デイル・ローナー
俳優:ジョー・ペシ (ビニー)
ラルフ・マッチオ (ビル)
マリサ・トメイ(リサ)
フレッド・グウィン (判事)
<ストーリー>
大学生のビルは友達のスタンと二人で、ニューヨークから大学の有るロスまで長距離ドライブの途中、アラバマ州の田舎町の食料品店で買い物をし、ツナ缶を故意にではないにしろ、万引きしてしまったまま車を走らせていた。すると、パトカーが追っかけてくる。
万引きがバレたか、と素直に「できごころでやりました」と自白してしまうが、警察が追っていた理由は、なんと、店員の殺害罪だった! 晴天の霹靂に青ざめたビルは、母親に電話で弁護士をよこしてくれ〜と哀願する。すると、ビルの従兄のビニーがたしか弁護士だという。NYから婚約者とやってきたビニーは、6年がかりでやっと司法試験を通って、6週間前に弁護士資格を取ったばかりのほやほやの新米弁護士で、法廷経験はもちろん、ナシ。しかも常識にも欠けるビニーは、ハデハデな革のスーツにノーネクタイという服装で法廷に登場、のっけから法廷侮辱罪で投獄されてしまう。リサに保釈金を払ってもらい、出所するが、初めての裁判で、右も左もわからないビニーに陪審員も呆れ顔・・・・。しかも、ビルたちは相当不利だった。彼らと同じくらいの背格好の2人組の男が、彼らと同じ色の車に乗って、発砲後に店から猛スピードで逃走するのを、複数の地元の人間が目撃していたのだ。さぁ、このままでは、無罪の罪で電気椅子行きだ・・・・!
<感想>
しまねこさんのオススメ作品♪『レイジング・ブル』でのジョー・ペシがいい味を出していたので、彼が主演のこの作品を楽しみにしていた。
おもしろい!
わざとらしいジョークなしで、登場人物は皆、いたって大真面目、必死になればなるほどドツボにハマっていくあたり、抜群のコメディーセンスだ。
マリサ・トメイがアカデミー助演女優賞を獲得したのも、頷ける。
頑張ってるんだけど情けない婚約者をドッシリと尻にひきながらも、的確なアドバイスと、車オタクの知識で、愛する彼の窮地を
救い、弁護士としての自覚を育てていくという役どころを、その美貌でスクリーンを華やかに彩りながら名演している。
どこに泊まっても早朝に起こされてしまうしつこさも冴えている。
よそ者はとりあえず悪者扱い、という南部の田舎町の気質もうまく
伏線になっており、ニヤリとさせられる。
後味も爽快、是非、オススメしたい。
【My Cousin Vinny】 1992年・米
★1992年アカデミー助演女優賞:マリサ・トメイ
★1993年MTVムービー・アワード ブレイクスルー演技賞:ジョー・ペシ
コメデイ演技賞:マリサ・トメイ
監督 ジョナサン・リン
脚本 デイル・ローナー
俳優:ジョー・ペシ (ビニー)
ラルフ・マッチオ (ビル)
マリサ・トメイ(リサ)
フレッド・グウィン (判事)
<ストーリー>
大学生のビルは友達のスタンと二人で、ニューヨークから大学の有るロスまで長距離ドライブの途中、アラバマ州の田舎町の食料品店で買い物をし、ツナ缶を故意にではないにしろ、万引きしてしまったまま車を走らせていた。すると、パトカーが追っかけてくる。
万引きがバレたか、と素直に「できごころでやりました」と自白してしまうが、警察が追っていた理由は、なんと、店員の殺害罪だった! 晴天の霹靂に青ざめたビルは、母親に電話で弁護士をよこしてくれ〜と哀願する。すると、ビルの従兄のビニーがたしか弁護士だという。NYから婚約者とやってきたビニーは、6年がかりでやっと司法試験を通って、6週間前に弁護士資格を取ったばかりのほやほやの新米弁護士で、法廷経験はもちろん、ナシ。しかも常識にも欠けるビニーは、ハデハデな革のスーツにノーネクタイという服装で法廷に登場、のっけから法廷侮辱罪で投獄されてしまう。リサに保釈金を払ってもらい、出所するが、初めての裁判で、右も左もわからないビニーに陪審員も呆れ顔・・・・。しかも、ビルたちは相当不利だった。彼らと同じくらいの背格好の2人組の男が、彼らと同じ色の車に乗って、発砲後に店から猛スピードで逃走するのを、複数の地元の人間が目撃していたのだ。さぁ、このままでは、無罪の罪で電気椅子行きだ・・・・!
<感想>
しまねこさんのオススメ作品♪『レイジング・ブル』でのジョー・ペシがいい味を出していたので、彼が主演のこの作品を楽しみにしていた。
おもしろい!
わざとらしいジョークなしで、登場人物は皆、いたって大真面目、必死になればなるほどドツボにハマっていくあたり、抜群のコメディーセンスだ。
マリサ・トメイがアカデミー助演女優賞を獲得したのも、頷ける。
頑張ってるんだけど情けない婚約者をドッシリと尻にひきながらも、的確なアドバイスと、車オタクの知識で、愛する彼の窮地を
救い、弁護士としての自覚を育てていくという役どころを、その美貌でスクリーンを華やかに彩りながら名演している。
どこに泊まっても早朝に起こされてしまうしつこさも冴えている。
よそ者はとりあえず悪者扱い、という南部の田舎町の気質もうまく
伏線になっており、ニヤリとさせられる。
後味も爽快、是非、オススメしたい。
「暗い日曜日」
2003年2月2日『暗い日曜日』【Ein Lied von Liebe und Tod/Gloomy Sunday】 1999年・ドイツ
★ババリアン映画賞最優秀監督賞・最優秀撮影賞受賞
★ドイツ映画賞金賞ノミネート
監督・脚本:ロルフ・シューベル
撮影:エドヴァルド・クオシンスキ
原作:ニック・バルコウ
俳優:エリカ・マロジャーン(イロナ)
ステファノ・ディオニジ(アンドラーシュ・アラディ)
ヨアヒム・クロール(ラズロ・サボー)
ベン・ベッカー(ハンス・ヴィーク)
<ストーリー>
数々の伝説に彩られ、今もなお多くの謎を残す名曲「暗い日曜日」。その曲の誕生に隠された、激しくも切ない愛の物語。
実際にあった出来事に基づいて描かれている・・・・・・・。
時は現代、舞台はブダペスト。町の小さなレストラン、サボーはドイツ大使の80才の誕生祝パーティの予約を受け、準備に大忙しだ。オーナーは落ちつかない様子で大切なお客を待っていた。
やがて中睦まじい、ドイツ大使夫妻が家族と共にレストランに到着した。和やかに会食は進み、メインディッシュが出たところで大使がヴァイオリニストに「あの有名な曲を頼むよ」と。店内に流れ出す、美しい音色・・・・うっとりと聞惚れ、ふとピアノの上の美しい女性の写真に目をやった大使は、心臓発作で急死してしまう。
「やっぱり、あの曲は呪われているんだ」
「愛のために創られた曲なのに死に導くとはなんと皮肉な・・・・・」
店内のざわめきは遠ざかり、場面は遠い過去へさかのぼる。
1930年代末、ブダペストに一軒のレストランがオープンした。レストランを支えるのは、商売上手なオーナー、ラズロと彼の若く麗しい恋人であるウェイトレスのイロナ。
オープンに伴い、二人は若きピアノ弾きアラディ・アンドラーシュを雇った。料理は絶品、彼のピアノは店の常連客にも大評判、美しいイロナ目当ての客も多く、店は大繁盛、バラ色の日々だった。
イロナの誕生日、アラディはプレゼントの代わりに自作の曲“暗い日曜日”を捧げる。聴いた者を虜にする妖しいまでの魅力を放つ美しい旋律のその曲は、イロナの心を魅了するだけには留まらなかった・・・・。
ラズロの力添えでレコード化され世界中で大ヒットを遂げ、曲がうまれたこの店も有名になり大繁盛、だが、レコードを聴きながら自殺するものが百数十人にものぼり、“自殺の聖歌”となっていったのだった・・・・。
苦悩するアラディを支えるのは、別離も三角関係も拒絶し“愛の共有”という不思議な関係で強く結ばれたイロナとラズロだった。イロナは心も体も、二人の愛する男たちのものだった。
だがブダペストも戦争の影が日増しに忍び寄っていた。ユダヤ狩りが始まったのだ。かつて、旅行中にイロナ目当てにレストランを毎晩訪れ、なりゆきからラズロに命を救われ友となった、若きドイツ人青年ハンスが、ナチス将校となって再び彼らの前に現れた。
ラズロは、ユダヤ人だったのだ。
ラズロ、イロナ、アラディ、3人の運命の歯車は時代に翻弄され狂い始める・・・・!
<感想>
私がこの曲を初めて知ったのは、『耳に残るは君の歌声』の中でユダヤ人の主人公が歌った
のを聞いたときだ。なんという美しく哀切な音色なのかと、ハっとした記憶がある。
時代的にも実は正しい。この曲には初めは歌詞はなかった。
映画の中で、アラディが考えた歌詞にイロナが歌詞を足して歌っているが、実際にこの曲に公式に歌詞がつけられて発売されたのは、1936年。ラースロー・ヤーヴォルがフランス語の詞を付け
シャンソン歌手のダミアが歌い、大流行した。その後、世界中の言葉で歌詞がつけられ、現在でも名のある歌手たちによって歌い継がれている。(『耳に残るは君の歌声』も時代がちょうど同じ、しかも、彼女がこの曲を歌った直後、大惨事が起こる・・・。やはり“魔の歌”という通念があるのだ)
余談だが、日本では、淡谷のり子、美輪明宏などシャンソン系の歌手たちの持ち歌である。
イギリスではBCC放送がこの曲を流した後、ブダペストと同様に自殺者が相次ぎ、一時期発禁になったのだが、その後、歌詞なしのオーケストラバージョンのみが許可された。だが、レコードをオートリピートにしたまま亡くなった(自殺ではなかったが)女性がロンドンで発見され、またしてもラジオ放送自粛に。この女性をモデルにしたと思われるシーンが映画にも出てくる。そして、エンド・クレジットの“Gloomy Sunday”が流れ終わった後のレコード針の音がいつまでも印象に残る・・・。
ラストの衝撃は、是非、観て味わっていただきたいので、ネタバレとなる部分の感想については、DVDパッケージの下に。
ドイツ語の原題は【Ein Lied von Liebe und Tod】 英語の題名は【Gloomy Sunday】で、
「暗い日曜日」そのままだが、ドイツ語をそのまま英語に置き換えると、“a song of love and death”つまり、“愛と死の歌”だ。
この曲にはなぜそんな魔力があるのか、ラズロたち3人も頭を抱えるが、ラズロが出した1つの答が
「人間は何故生きるか。尊厳を守るためだ。汚物をかけられ汚されるくらいなら、自ら死を選択したい。そういうメッセージなのかもしれない・・・。」
アラディの複雑な情念が生んだ“愛の歌” その狂おし過ぎた愛の炎が、聴いたものの心までも燃やし尽くして灰にしてしまうのだろうか・・・・。
ユダヤ人は歴史の犠牲者だ。ドイツが戦後、あれほど急激に工業の国として復興をとげたのは、勤勉で質実剛健なドイツ人気質のおかげだけではないのは、もう周知の事実であろう。商売上手で堅実に貯めていたユダヤ人から剥ぎ取った金品や資産があったからこそだ。 ハンスがユダヤ人を逃がすかわりに大金をせしめていたのも、「戦後のため」。 シンドラー氏のようなことを金儲け目的でやっていたハンスのようなナチス将校はけっこういたのではないか?
ハンスという男は、不思議な男だ。明らかに憎らしい悪役でありながら、“悪人”とは言いきれない小市民的な弱さを見出し、
なぜか怒りよりも悲しくなった。もともとユダヤ人に偏見などない、機械いじりと商売で成功する夢に目を輝かせていたハンスも、時代に翻弄された哀れな1人の男だからなのだろう・・・・。
そして、時代が、ハンスの真実を埋もれさせたまま過ぎ去ったことも・・・・・・。
私たちが知っている“事実”“真実”とは何だろう。
紙に書かれた資料? 合成がいくらでもきく写真? 長い時間の後で美化された記憶が語る“証言”?
真実は「実際に起こったこと」のみであり、それがどんな目的だったか、なぜそうなったのかは、永久に謎のまま・・・・・・。
そう、この呪われた愛の曲の謎のように。
それにしても、エリカ・マロジャーンはなんと美しいのだろう。
妖艶にして清楚。なんとも不思議な魅力の持ち主だ。
(HPではここにDVDパッケージの画像)
イロナのお腹の子が誰の子なのか、公式HPのBBSではハンスという声が圧倒的なようだが、監督自身は、考えて(設定して)いないようだ。それでいいだろう。「私たちの子」とアンドラージュの墓の前で話していたのは、ラズロ、イロナ、アンドラージュは3人で1つの運命共同体だから、私たち、なのだと思った。
「洪水のあとに残った」"彼らの命を受け継ぐ者”=息子と、厳しい戦後を生きぬいてきた、老いたイロナの皺だらけの手と白い髪に
深い感動を覚えた・・・。
ハンスが妻の首飾りを掴んで倒れたとき、妻がしていた真珠のネックレス、あれは、ユダヤ人の女性から命の代償として受け取った、あの首飾りのような気がしてならない。そして、倒れる夫よりも、
床に散らばった真珠を慌ててかき集めるハンスの妻の姿が皮肉だ。
★ババリアン映画賞最優秀監督賞・最優秀撮影賞受賞
★ドイツ映画賞金賞ノミネート
監督・脚本:ロルフ・シューベル
撮影:エドヴァルド・クオシンスキ
原作:ニック・バルコウ
俳優:エリカ・マロジャーン(イロナ)
ステファノ・ディオニジ(アンドラーシュ・アラディ)
ヨアヒム・クロール(ラズロ・サボー)
ベン・ベッカー(ハンス・ヴィーク)
<ストーリー>
数々の伝説に彩られ、今もなお多くの謎を残す名曲「暗い日曜日」。その曲の誕生に隠された、激しくも切ない愛の物語。
実際にあった出来事に基づいて描かれている・・・・・・・。
時は現代、舞台はブダペスト。町の小さなレストラン、サボーはドイツ大使の80才の誕生祝パーティの予約を受け、準備に大忙しだ。オーナーは落ちつかない様子で大切なお客を待っていた。
やがて中睦まじい、ドイツ大使夫妻が家族と共にレストランに到着した。和やかに会食は進み、メインディッシュが出たところで大使がヴァイオリニストに「あの有名な曲を頼むよ」と。店内に流れ出す、美しい音色・・・・うっとりと聞惚れ、ふとピアノの上の美しい女性の写真に目をやった大使は、心臓発作で急死してしまう。
「やっぱり、あの曲は呪われているんだ」
「愛のために創られた曲なのに死に導くとはなんと皮肉な・・・・・」
店内のざわめきは遠ざかり、場面は遠い過去へさかのぼる。
1930年代末、ブダペストに一軒のレストランがオープンした。レストランを支えるのは、商売上手なオーナー、ラズロと彼の若く麗しい恋人であるウェイトレスのイロナ。
オープンに伴い、二人は若きピアノ弾きアラディ・アンドラーシュを雇った。料理は絶品、彼のピアノは店の常連客にも大評判、美しいイロナ目当ての客も多く、店は大繁盛、バラ色の日々だった。
イロナの誕生日、アラディはプレゼントの代わりに自作の曲“暗い日曜日”を捧げる。聴いた者を虜にする妖しいまでの魅力を放つ美しい旋律のその曲は、イロナの心を魅了するだけには留まらなかった・・・・。
ラズロの力添えでレコード化され世界中で大ヒットを遂げ、曲がうまれたこの店も有名になり大繁盛、だが、レコードを聴きながら自殺するものが百数十人にものぼり、“自殺の聖歌”となっていったのだった・・・・。
苦悩するアラディを支えるのは、別離も三角関係も拒絶し“愛の共有”という不思議な関係で強く結ばれたイロナとラズロだった。イロナは心も体も、二人の愛する男たちのものだった。
だがブダペストも戦争の影が日増しに忍び寄っていた。ユダヤ狩りが始まったのだ。かつて、旅行中にイロナ目当てにレストランを毎晩訪れ、なりゆきからラズロに命を救われ友となった、若きドイツ人青年ハンスが、ナチス将校となって再び彼らの前に現れた。
ラズロは、ユダヤ人だったのだ。
ラズロ、イロナ、アラディ、3人の運命の歯車は時代に翻弄され狂い始める・・・・!
<感想>
私がこの曲を初めて知ったのは、『耳に残るは君の歌声』の中でユダヤ人の主人公が歌った
のを聞いたときだ。なんという美しく哀切な音色なのかと、ハっとした記憶がある。
時代的にも実は正しい。この曲には初めは歌詞はなかった。
映画の中で、アラディが考えた歌詞にイロナが歌詞を足して歌っているが、実際にこの曲に公式に歌詞がつけられて発売されたのは、1936年。ラースロー・ヤーヴォルがフランス語の詞を付け
シャンソン歌手のダミアが歌い、大流行した。その後、世界中の言葉で歌詞がつけられ、現在でも名のある歌手たちによって歌い継がれている。(『耳に残るは君の歌声』も時代がちょうど同じ、しかも、彼女がこの曲を歌った直後、大惨事が起こる・・・。やはり“魔の歌”という通念があるのだ)
余談だが、日本では、淡谷のり子、美輪明宏などシャンソン系の歌手たちの持ち歌である。
イギリスではBCC放送がこの曲を流した後、ブダペストと同様に自殺者が相次ぎ、一時期発禁になったのだが、その後、歌詞なしのオーケストラバージョンのみが許可された。だが、レコードをオートリピートにしたまま亡くなった(自殺ではなかったが)女性がロンドンで発見され、またしてもラジオ放送自粛に。この女性をモデルにしたと思われるシーンが映画にも出てくる。そして、エンド・クレジットの“Gloomy Sunday”が流れ終わった後のレコード針の音がいつまでも印象に残る・・・。
ラストの衝撃は、是非、観て味わっていただきたいので、ネタバレとなる部分の感想については、DVDパッケージの下に。
ドイツ語の原題は【Ein Lied von Liebe und Tod】 英語の題名は【Gloomy Sunday】で、
「暗い日曜日」そのままだが、ドイツ語をそのまま英語に置き換えると、“a song of love and death”つまり、“愛と死の歌”だ。
この曲にはなぜそんな魔力があるのか、ラズロたち3人も頭を抱えるが、ラズロが出した1つの答が
「人間は何故生きるか。尊厳を守るためだ。汚物をかけられ汚されるくらいなら、自ら死を選択したい。そういうメッセージなのかもしれない・・・。」
アラディの複雑な情念が生んだ“愛の歌” その狂おし過ぎた愛の炎が、聴いたものの心までも燃やし尽くして灰にしてしまうのだろうか・・・・。
ユダヤ人は歴史の犠牲者だ。ドイツが戦後、あれほど急激に工業の国として復興をとげたのは、勤勉で質実剛健なドイツ人気質のおかげだけではないのは、もう周知の事実であろう。商売上手で堅実に貯めていたユダヤ人から剥ぎ取った金品や資産があったからこそだ。 ハンスがユダヤ人を逃がすかわりに大金をせしめていたのも、「戦後のため」。 シンドラー氏のようなことを金儲け目的でやっていたハンスのようなナチス将校はけっこういたのではないか?
ハンスという男は、不思議な男だ。明らかに憎らしい悪役でありながら、“悪人”とは言いきれない小市民的な弱さを見出し、
なぜか怒りよりも悲しくなった。もともとユダヤ人に偏見などない、機械いじりと商売で成功する夢に目を輝かせていたハンスも、時代に翻弄された哀れな1人の男だからなのだろう・・・・。
そして、時代が、ハンスの真実を埋もれさせたまま過ぎ去ったことも・・・・・・。
私たちが知っている“事実”“真実”とは何だろう。
紙に書かれた資料? 合成がいくらでもきく写真? 長い時間の後で美化された記憶が語る“証言”?
真実は「実際に起こったこと」のみであり、それがどんな目的だったか、なぜそうなったのかは、永久に謎のまま・・・・・・。
そう、この呪われた愛の曲の謎のように。
それにしても、エリカ・マロジャーンはなんと美しいのだろう。
妖艶にして清楚。なんとも不思議な魅力の持ち主だ。
(HPではここにDVDパッケージの画像)
イロナのお腹の子が誰の子なのか、公式HPのBBSではハンスという声が圧倒的なようだが、監督自身は、考えて(設定して)いないようだ。それでいいだろう。「私たちの子」とアンドラージュの墓の前で話していたのは、ラズロ、イロナ、アンドラージュは3人で1つの運命共同体だから、私たち、なのだと思った。
「洪水のあとに残った」"彼らの命を受け継ぐ者”=息子と、厳しい戦後を生きぬいてきた、老いたイロナの皺だらけの手と白い髪に
深い感動を覚えた・・・。
ハンスが妻の首飾りを掴んで倒れたとき、妻がしていた真珠のネックレス、あれは、ユダヤ人の女性から命の代償として受け取った、あの首飾りのような気がしてならない。そして、倒れる夫よりも、
床に散らばった真珠を慌ててかき集めるハンスの妻の姿が皮肉だ。
コメントをみる |

「マジェスティック」
2003年2月1日マジェスティック
【THE MAJESTIC】2001年・米
監督・製作:フランク・ダラボン
脚本:マイケル・スローン
音楽:マーク・アイシャム
俳優:ジム・キャリー(ピーター/ルーク)
マーティン・ランドー(ハリー)
ローリー・ホールデン(アデル)
ゲリー・ブラック(エメット)
スーザン・ウィリス(アイリーン)
デイビッド・オグデン・スティアーズ(スタントン医師)
キャサリーン・デント(メイベル)
ブライアン・ホウ(カール)
カール・ベリー(ボブ)
ジェイムズ・ホイットモア(スタン)
ロン・リフキン(ケビン)
ジェフリー・デマン(市長)
ブレント・ブリスコー(保安官)
<ストーリー>
物語の舞台は、赤狩りの嵐吹き荒れるハリウッド、1951年。
新進脚本家ピーターは、次ぎの映画に意欲を燃やしていた。そんなとき、ノンポリの彼にはまったく身に覚えのない「アカ」のレッテルを貼られ、聴聞会で懺悔し、仲間を密告しないと仕事も人生も奪われるという事態に陥ってしまう。
確かに、戦後、復員して入った大学で、お目当ての女の子のお尻を追いかけて、マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)の精神に沿ったサークルの集会に参加したことはあったが、サークルの名簿が原因で赤狩りのターゲットとなってしまったらしい。恋人にはフラれる、バーテンと弁護士以外、誰も口をきいてくれない・・・。
ヤケ酒をあおったピーターは、泥酔状態でドライブの末、大事故を起こしてしまい、頭を強打したせいで記憶を失って、見知らぬ海岸に流れ着いたのだった。
散歩中の老人に助けられ、“ローソン”という小さな寂しげな町の
診療所へ。すると、誰もかれもが「何処かで見た顔だ」と不思議がる。そこへ、ハリーという老人が駆け付け、「戦争中に行方不明になった息子、ルークが9年ぶりに帰ってきた!」と・・・。
第二次大戦で、街の青年の大半を失ったこの町は、癒えない悲しみに閉ざされていた。そこへこの朗報。町は“ルーク”を大歓迎し、
町は活気を取りもどした。ピーター本人も、自分にソックリな写真、息子と呼ぶ優しい老人、婚約していたという美しい恋人、幼馴染だという青年たちに囲まれ、この町でルークとして生きていこう、と決意を固めるのだった。そして、“父”ハリーと共に、戦前に経営していた映画館“THE MAJESTIC”(威風堂々の意)を町ぐるみで修理し、再開にこぎつけたのだった。
だが・・・・そんなとき、ピーターが打ち上げられた浜辺に、彼の大破した車と所持品が流れ着いた・・・・・・。
それと時をほぼ同じくして、マジェスティックで上映した、自作の映画作品によって彼は記憶を取り戻してしまうのであった。
ただでさえ混乱を極める彼の前に、FBIが立ちはだかる・・!
<感想>
戦後の米ソ冷戦を背景とした赤狩りの時代の物語である。赤狩りに関しては、後で若干説明を加えるが、この映画のテーマは、「赤狩りというアメリカの歴史の汚点」ではないし、共産主義の糾弾でもないのは、ご覧になった方ならおわかりだろう。
『ショーシャンクの空に』では“諦めなければ希望は消えない”ことを、『クリーンマイル』では、“希望が呼び寄せた奇跡”を描いたフランク・ダラボン監督。『マジェスティック』は、まさに3つ目の「希望」を描いたといえるだろう。この映画にはど根性も特別な能力も出てこない。あるのは野心だけ、信念も特にない、やや弱気な普通の青年が、生きる希望をなくし、空っぽになってしまうが、喪失感から同じく空っぽになっていた町の人々の“希望”のシンボル的存在になり、町と、彼が互いに“希望”によって“生きる意味、明日を見つめる瞳”を取り戻していく物語だ。
だが、“真実に拠らないすがるような希望”は、危うげに積み上げた積み木の城がわずかな振動で崩れ落ちるように、砕け散った。
なんとも胸が痛む。
そこからが、この物語が本当に描きたかった“自力で掴み取る希望”のスタートだ。棚ボタ式に与えられた宝くじのような希望ではなく、一度自ら捨ててしまった希望を、もう一度、“勇気”を糧に取り戻すのだ。
希望は、1人で持てるものだろうか?否、誰かがいてこその希望、
希望は、与えるものであり、与えられるものだ。
ピーターは、町の人の希望を、まるで台風が稲をなぎ倒してしまうように枯れさせたかのように思えたが、すでに、ピーターは、マジェスティックを再開させることでこの町に“希望の種”をまいていたのだろう。タネだからすぐには見えない。だが、確かにあったから、人々は、聴聞会をTVで、ラジオでハラハラしながら聞き入ったのではないか。
この時点では、すでに町の人々の希望は“ルークが帰ってきたこと”ではなくなっている。1人の青年がもたらしてくれた光、活気は、彼が「ルークだったかどうか」には無関係だということに、皆が気付きはじめていたからだろう。ピーターが『嘘』をついて保身しても、町は絶望のどん底。真実を話せば、侮辱罪で投獄・・・。
一緒に笑って過ごした青年が・・・。どちらに転んでも、ローソンの町人たちに残されるのは、“絶望”だけだ。この展開のスリリングさに、手に汗握り、喉がカラカラになったのは私だけではないだろう。
第二次大戦で、アメリカはイタリア・日本・ドイツの全体主義(ファシズム)から“アメリカの誇りである、自由と民主主義”を守り抜いたはずだ。その大儀の為に、ルークを始め、無数の若い命が散った。ナチスが勝っていたら・・・・想像するのも恐ろしかろう。
なのに、米・ソが戦後対立し、“次なるターゲット=敵”が共産主義になると、国内の共産主義者はまるでナチスに迫害されるユダヤ人と同じ状態に。1つの民族の存在が禁じられたのと同じように、
1つの思想を持つ人間は存在を禁じられ投獄されたのだ。
常に“敵”を必要とするアメリカという国の暗部がここにある。
「戦後、そんな国にするために若い兵達が死んだんじゃない!!」
魂を揺さぶられた。ピーターは死者から、町から、愛する女性から学んで成長を遂げたのである。ここで、初めてピーターは、名前と記憶を取り戻しただけではなく、信念を持った人物になり得たのだ。信条を持たずに生きるなら、名前と家と仕事があって頭はいっぱいでも、心は空虚なままだ。
言い尽くして、言葉が出なくなったピーターが唇を噛み締めてかざしたルークの“勲章”に涙がこぼれた。
聴聞会の結果がどうなったかは、是非、ご覧になって確かめていただきたい。
フランク・ダラボン監督はフランク・キャプラ監督を敬愛していることは知られているが、やはり、この作品には『素晴らしき哉、人生!』 を包むムードと同じ温かな匂いがたちこめている。小さな町の庶民に生きる喜びを与えた男の物語。未見の方には、是非とも、おすすめしたい作品だ。一生涯、忘れ得ない名作といえるだろう。
第二次大戦の“Dデー”“ノルマンディー上陸”のくだりがわからなかった方には、S・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』や同監督の『バンド・オブ・ブラザーズ』をおすすめする。
赤狩りが暗示されている作品としては、『アトランティスの心』 が記憶に新しい。FBIは、あの老人を赤狩りのための思想チェッカーとして探していたわけだ。
【THE MAJESTIC】2001年・米
監督・製作:フランク・ダラボン
脚本:マイケル・スローン
音楽:マーク・アイシャム
俳優:ジム・キャリー(ピーター/ルーク)
マーティン・ランドー(ハリー)
ローリー・ホールデン(アデル)
ゲリー・ブラック(エメット)
スーザン・ウィリス(アイリーン)
デイビッド・オグデン・スティアーズ(スタントン医師)
キャサリーン・デント(メイベル)
ブライアン・ホウ(カール)
カール・ベリー(ボブ)
ジェイムズ・ホイットモア(スタン)
ロン・リフキン(ケビン)
ジェフリー・デマン(市長)
ブレント・ブリスコー(保安官)
<ストーリー>
物語の舞台は、赤狩りの嵐吹き荒れるハリウッド、1951年。
新進脚本家ピーターは、次ぎの映画に意欲を燃やしていた。そんなとき、ノンポリの彼にはまったく身に覚えのない「アカ」のレッテルを貼られ、聴聞会で懺悔し、仲間を密告しないと仕事も人生も奪われるという事態に陥ってしまう。
確かに、戦後、復員して入った大学で、お目当ての女の子のお尻を追いかけて、マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)の精神に沿ったサークルの集会に参加したことはあったが、サークルの名簿が原因で赤狩りのターゲットとなってしまったらしい。恋人にはフラれる、バーテンと弁護士以外、誰も口をきいてくれない・・・。
ヤケ酒をあおったピーターは、泥酔状態でドライブの末、大事故を起こしてしまい、頭を強打したせいで記憶を失って、見知らぬ海岸に流れ着いたのだった。
散歩中の老人に助けられ、“ローソン”という小さな寂しげな町の
診療所へ。すると、誰もかれもが「何処かで見た顔だ」と不思議がる。そこへ、ハリーという老人が駆け付け、「戦争中に行方不明になった息子、ルークが9年ぶりに帰ってきた!」と・・・。
第二次大戦で、街の青年の大半を失ったこの町は、癒えない悲しみに閉ざされていた。そこへこの朗報。町は“ルーク”を大歓迎し、
町は活気を取りもどした。ピーター本人も、自分にソックリな写真、息子と呼ぶ優しい老人、婚約していたという美しい恋人、幼馴染だという青年たちに囲まれ、この町でルークとして生きていこう、と決意を固めるのだった。そして、“父”ハリーと共に、戦前に経営していた映画館“THE MAJESTIC”(威風堂々の意)を町ぐるみで修理し、再開にこぎつけたのだった。
だが・・・・そんなとき、ピーターが打ち上げられた浜辺に、彼の大破した車と所持品が流れ着いた・・・・・・。
それと時をほぼ同じくして、マジェスティックで上映した、自作の映画作品によって彼は記憶を取り戻してしまうのであった。
ただでさえ混乱を極める彼の前に、FBIが立ちはだかる・・!
<感想>
戦後の米ソ冷戦を背景とした赤狩りの時代の物語である。赤狩りに関しては、後で若干説明を加えるが、この映画のテーマは、「赤狩りというアメリカの歴史の汚点」ではないし、共産主義の糾弾でもないのは、ご覧になった方ならおわかりだろう。
『ショーシャンクの空に』では“諦めなければ希望は消えない”ことを、『クリーンマイル』では、“希望が呼び寄せた奇跡”を描いたフランク・ダラボン監督。『マジェスティック』は、まさに3つ目の「希望」を描いたといえるだろう。この映画にはど根性も特別な能力も出てこない。あるのは野心だけ、信念も特にない、やや弱気な普通の青年が、生きる希望をなくし、空っぽになってしまうが、喪失感から同じく空っぽになっていた町の人々の“希望”のシンボル的存在になり、町と、彼が互いに“希望”によって“生きる意味、明日を見つめる瞳”を取り戻していく物語だ。
だが、“真実に拠らないすがるような希望”は、危うげに積み上げた積み木の城がわずかな振動で崩れ落ちるように、砕け散った。
なんとも胸が痛む。
そこからが、この物語が本当に描きたかった“自力で掴み取る希望”のスタートだ。棚ボタ式に与えられた宝くじのような希望ではなく、一度自ら捨ててしまった希望を、もう一度、“勇気”を糧に取り戻すのだ。
希望は、1人で持てるものだろうか?否、誰かがいてこその希望、
希望は、与えるものであり、与えられるものだ。
ピーターは、町の人の希望を、まるで台風が稲をなぎ倒してしまうように枯れさせたかのように思えたが、すでに、ピーターは、マジェスティックを再開させることでこの町に“希望の種”をまいていたのだろう。タネだからすぐには見えない。だが、確かにあったから、人々は、聴聞会をTVで、ラジオでハラハラしながら聞き入ったのではないか。
この時点では、すでに町の人々の希望は“ルークが帰ってきたこと”ではなくなっている。1人の青年がもたらしてくれた光、活気は、彼が「ルークだったかどうか」には無関係だということに、皆が気付きはじめていたからだろう。ピーターが『嘘』をついて保身しても、町は絶望のどん底。真実を話せば、侮辱罪で投獄・・・。
一緒に笑って過ごした青年が・・・。どちらに転んでも、ローソンの町人たちに残されるのは、“絶望”だけだ。この展開のスリリングさに、手に汗握り、喉がカラカラになったのは私だけではないだろう。
第二次大戦で、アメリカはイタリア・日本・ドイツの全体主義(ファシズム)から“アメリカの誇りである、自由と民主主義”を守り抜いたはずだ。その大儀の為に、ルークを始め、無数の若い命が散った。ナチスが勝っていたら・・・・想像するのも恐ろしかろう。
なのに、米・ソが戦後対立し、“次なるターゲット=敵”が共産主義になると、国内の共産主義者はまるでナチスに迫害されるユダヤ人と同じ状態に。1つの民族の存在が禁じられたのと同じように、
1つの思想を持つ人間は存在を禁じられ投獄されたのだ。
常に“敵”を必要とするアメリカという国の暗部がここにある。
「戦後、そんな国にするために若い兵達が死んだんじゃない!!」
魂を揺さぶられた。ピーターは死者から、町から、愛する女性から学んで成長を遂げたのである。ここで、初めてピーターは、名前と記憶を取り戻しただけではなく、信念を持った人物になり得たのだ。信条を持たずに生きるなら、名前と家と仕事があって頭はいっぱいでも、心は空虚なままだ。
言い尽くして、言葉が出なくなったピーターが唇を噛み締めてかざしたルークの“勲章”に涙がこぼれた。
聴聞会の結果がどうなったかは、是非、ご覧になって確かめていただきたい。
フランク・ダラボン監督はフランク・キャプラ監督を敬愛していることは知られているが、やはり、この作品には『素晴らしき哉、人生!』 を包むムードと同じ温かな匂いがたちこめている。小さな町の庶民に生きる喜びを与えた男の物語。未見の方には、是非とも、おすすめしたい作品だ。一生涯、忘れ得ない名作といえるだろう。
第二次大戦の“Dデー”“ノルマンディー上陸”のくだりがわからなかった方には、S・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』や同監督の『バンド・オブ・ブラザーズ』をおすすめする。
赤狩りが暗示されている作品としては、『アトランティスの心』 が記憶に新しい。FBIは、あの老人を赤狩りのための思想チェッカーとして探していたわけだ。
コメントをみる |

「パリ、デキサス」
2003年1月31日パリ、テキサス
【Paris, Texas】1984年・独=仏
★1984年、カンヌ映画祭グランプリ受賞
監督 ヴィム・ヴェンダース
脚本 サム・シェパード
音楽 ライ・クーダー
出演 ハリー・ディーン・スタントン (トラヴィス)
ディーン・ストックウェル(弟、ウォルト)
ナスターシャ・キンスキー(ジェーン)
ハンター・カースン (息子、ハンター)
オーロール・クレマン(アン)
トム・ファレル(橋の上で叫ぶ男)
<ストーリー>
4年間行方不明だった中年男、トラヴィスがテキサスの砂漠で発見される。彼を迎えにきた弟ウォルトは、廃人の様に口も利かず食事もせず眠りもしない兄をロサンゼルスの自宅にどうにかこうにか連れて帰った。
トラヴィスは8才になっていた息子ハンターと再会したことで、記憶を次第に取り戻し、息子との心の距離を埋めようと努力し始める。トラヴィスは、ハンターの育ての親である弟の妻アンから、妻ジェーンが毎月、特定の銀行からハンターの口座に送金している
ことを聞き、消息を絶っていた彼女の行方を探す旅に出る。ハンターもまた、ホームビデオでしか見たことのない実の母に逢うため、父と共に旅に出るのだった・・・・。
<感想>
敬愛するヴィム・ヴェンダース監督と、サム・シェパードによる脚本。これで名作にならないはずがない。何度となく観たが、観るたびに深く味わえる作品である。
風景と音楽(ライ・クーダ、スライド・ギターの哀感のある響)
で物語を描いた、これぞ映画の中の映画といえよう。
長い作品だが、テキサスからロスへ、ロスから再びテキサスへ、
この“物理的な距離と移動時間”が、どうしても物語に必要なのだ。飛行機で飛ばないのにはそこに理由がある。
トラヴィスは、何かを探して一直線に歩く男だ。点在する記憶を辿って、一直線に繋げて完成させたいのだ。
それを象徴するシーンがある。
弟の家で、朝、トラヴィスはウォルトとアンとハンターの靴を
磨いて干し、一直線にピッタリとくっつけて並べる。
一足、家族が靴を取って行くと、隙間をすぐに詰めて、また綺麗に
並べなおす・・・・。自分の途切れた心をつなげようとするかのように。青い空の下に並んだ靴のこのシーン、忘れられない場面だ。
息子と道を挟んで歩くシーンも、この映画のファンなら目に焼き付いていることだろう。心の距離を道に託して描くセンスに脱帽だ。
ジェーンとトラヴィスの愛は、愛し合っているのに、一方通行。
なんと不思議なことか。
二人はお互いを求めてやまないのに、二人の「欲しい愛の形」が
違ったのだ・・・。そして互いを失う。
二人は、鏡やフィルムを通じてしかコミュニケーションできない。
監督がさせない。
最初はあのホームビデオの8mm。ジェーンは嬉しそうに笑ってこっちを見ている。過去のビデオの中で微笑む彼女を、トラヴィスは
スクリーンで見る。
そして、ラストの「覗き部屋」。
あの部屋の構造そのものが、二人の「エゴ」そのものなのだ・・。
マジックミラーで隔てられた二人。
暗い方から明るい方を見ることはできても、逆から見るとガラスは鏡になっていて暗い方を見ることはできない。そこに映るのは自分の姿だけ。
男と女の間には砂漠が広がっているのだろう。わかったような気がしても、それは蜃気楼なのかもしれない。
これは、“言葉”について語った作品でもあると、思っている。
言わなくてもわかるのが真実の愛だろうか?
話さなければ伝わらないことだってある。伝えようとしなければ、
言葉は自分の中で淀んで形を失い、相手に伝わらないまま消滅する。
トラヴィスが、「言葉」を取り戻す旅だったともいえるだろう・・・
映画の中で、「大切な言葉」は肉声で相手に伝えられることはない。電話。トランシーバー。テープレコーダー。
何かを媒体としなければ魂をさらけ出せない、弱さが哀しい・・・。
タイトルのParis, Texas は、もちろん、ストーリーに出てくる
トラヴィスの土地、テキサス州のパリのことだが、家族揃って住めたらいいのに・・・という叶わない憧れの象徴であり、そして、
トラヴィスの父親が妻をパリ(フランスの)の女だと妄想していた
(現実から目を背け)ことも暗示している。
蜃気楼、妄想・・・それらを暗示するタイトルだ。
ナスターシャ・キンスキーの美しさとともに、永遠に心に残る作品である。
☆印象的なセリフ
ハンター「死んだって感じる?」
トラヴィス「どういうことだ?」
ハンター「その人が話したり歩いたりしてたのを覚えてる?
それでも、その人が死んだって感じる?」
トラヴィス「ああ・・・時々はな。死んだことがわかって
いるから。」
ハンター「ぼくは、一度も感じなかった。パパはどこかで話したり、歩いたりしてると感じてた。
・・・・ママのことも、そう感じてる。」
【Paris, Texas】1984年・独=仏
★1984年、カンヌ映画祭グランプリ受賞
監督 ヴィム・ヴェンダース
脚本 サム・シェパード
音楽 ライ・クーダー
出演 ハリー・ディーン・スタントン (トラヴィス)
ディーン・ストックウェル(弟、ウォルト)
ナスターシャ・キンスキー(ジェーン)
ハンター・カースン (息子、ハンター)
オーロール・クレマン(アン)
トム・ファレル(橋の上で叫ぶ男)
<ストーリー>
4年間行方不明だった中年男、トラヴィスがテキサスの砂漠で発見される。彼を迎えにきた弟ウォルトは、廃人の様に口も利かず食事もせず眠りもしない兄をロサンゼルスの自宅にどうにかこうにか連れて帰った。
トラヴィスは8才になっていた息子ハンターと再会したことで、記憶を次第に取り戻し、息子との心の距離を埋めようと努力し始める。トラヴィスは、ハンターの育ての親である弟の妻アンから、妻ジェーンが毎月、特定の銀行からハンターの口座に送金している
ことを聞き、消息を絶っていた彼女の行方を探す旅に出る。ハンターもまた、ホームビデオでしか見たことのない実の母に逢うため、父と共に旅に出るのだった・・・・。
<感想>
敬愛するヴィム・ヴェンダース監督と、サム・シェパードによる脚本。これで名作にならないはずがない。何度となく観たが、観るたびに深く味わえる作品である。
風景と音楽(ライ・クーダ、スライド・ギターの哀感のある響)
で物語を描いた、これぞ映画の中の映画といえよう。
長い作品だが、テキサスからロスへ、ロスから再びテキサスへ、
この“物理的な距離と移動時間”が、どうしても物語に必要なのだ。飛行機で飛ばないのにはそこに理由がある。
トラヴィスは、何かを探して一直線に歩く男だ。点在する記憶を辿って、一直線に繋げて完成させたいのだ。
それを象徴するシーンがある。
弟の家で、朝、トラヴィスはウォルトとアンとハンターの靴を
磨いて干し、一直線にピッタリとくっつけて並べる。
一足、家族が靴を取って行くと、隙間をすぐに詰めて、また綺麗に
並べなおす・・・・。自分の途切れた心をつなげようとするかのように。青い空の下に並んだ靴のこのシーン、忘れられない場面だ。
息子と道を挟んで歩くシーンも、この映画のファンなら目に焼き付いていることだろう。心の距離を道に託して描くセンスに脱帽だ。
ジェーンとトラヴィスの愛は、愛し合っているのに、一方通行。
なんと不思議なことか。
二人はお互いを求めてやまないのに、二人の「欲しい愛の形」が
違ったのだ・・・。そして互いを失う。
二人は、鏡やフィルムを通じてしかコミュニケーションできない。
監督がさせない。
最初はあのホームビデオの8mm。ジェーンは嬉しそうに笑ってこっちを見ている。過去のビデオの中で微笑む彼女を、トラヴィスは
スクリーンで見る。
そして、ラストの「覗き部屋」。
あの部屋の構造そのものが、二人の「エゴ」そのものなのだ・・。
マジックミラーで隔てられた二人。
暗い方から明るい方を見ることはできても、逆から見るとガラスは鏡になっていて暗い方を見ることはできない。そこに映るのは自分の姿だけ。
男と女の間には砂漠が広がっているのだろう。わかったような気がしても、それは蜃気楼なのかもしれない。
これは、“言葉”について語った作品でもあると、思っている。
言わなくてもわかるのが真実の愛だろうか?
話さなければ伝わらないことだってある。伝えようとしなければ、
言葉は自分の中で淀んで形を失い、相手に伝わらないまま消滅する。
トラヴィスが、「言葉」を取り戻す旅だったともいえるだろう・・・
映画の中で、「大切な言葉」は肉声で相手に伝えられることはない。電話。トランシーバー。テープレコーダー。
何かを媒体としなければ魂をさらけ出せない、弱さが哀しい・・・。
タイトルのParis, Texas は、もちろん、ストーリーに出てくる
トラヴィスの土地、テキサス州のパリのことだが、家族揃って住めたらいいのに・・・という叶わない憧れの象徴であり、そして、
トラヴィスの父親が妻をパリ(フランスの)の女だと妄想していた
(現実から目を背け)ことも暗示している。
蜃気楼、妄想・・・それらを暗示するタイトルだ。
ナスターシャ・キンスキーの美しさとともに、永遠に心に残る作品である。
☆印象的なセリフ
ハンター「死んだって感じる?」
トラヴィス「どういうことだ?」
ハンター「その人が話したり歩いたりしてたのを覚えてる?
それでも、その人が死んだって感じる?」
トラヴィス「ああ・・・時々はな。死んだことがわかって
いるから。」
ハンター「ぼくは、一度も感じなかった。パパはどこかで話したり、歩いたりしてると感じてた。
・・・・ママのことも、そう感じてる。」
コメントをみる |

「陽だまりのグラウンド」
2003年1月30日『陽だまりのグラウンド』【HARD BALL】 2001年・米
監督:ブライアン・ロビンズ
脚本:ジョン・ゲイティンス
原作:ダニエル・コイル 「Hardball:A Season in the Projects」
音楽:マーク・アイシャム
出演:キアヌ・リーヴス(コナー)
ダイアン・レイン(エリザベス)
ジョン・ホークス(ティッキー)
サミー・ソーサ(本人)
<ストーリー>
コナー・オニールは、ギャンブルにのめりこんで人生を踏みあやまった青年。定職にもつかず、ダフ屋でその日暮らし。
今日、地元シカゴ・ブルズとミルウォーキーのバスケ試合に賭けてボロ負けした彼は、総額12000ドルの借金を作ったうえ、バーで大暴れして留置所にぶちこまれてしまう。親友ティッキーに保釈金を払ってもらい、留置所から出たコナーを待ちうけていたのは、悪夢のようなな借金の取り立てだった。借りを週毎の分割払いにすることで話をつけた彼は、保険会社でエリートの道を歩む幼なじみのジミーを訪ね、恥を忍んで借金を申し込む。そこでジミーが持ち出したのは、週500ドルで少年野球チーム“キカンバス”のコーチをする話。ガキ相手なんて冗談じゃないとクサるコナーだったが、切羽詰った彼には他に選択の余地がなかった。
コナーがコーチをつとめることになったのは、シカゴで一番物騒な区域にあるグラウンドで練習する、低所得者住宅地区の少年たちで結成されたキカンバスというチーム。
ユニフォームはないし道具もボロボロだが、少年たちの瞳は野球への情熱で輝いている。そんな彼らを指導する立場に立ったコナーは、野球以外でも、子供たちの生活と深く関わることに。
2人の少年の、野球に参加する許可を得るために小学校の教師、エリザベスに会ったコナーは宿題をさせることを条件にOKをもらう。どうも胡散臭いコナーを始めは好かないエリザベスだが、子供たちの心をガッチリ掴む彼に、次第に惹かれてゆくのだった。
日々深まっていくコナーと少年たちの絆。自分を信頼し、ケンカをしながらもひとつのチームにまとまっていく子供たちの姿から、コナーは学んでいった。どんな時も全力を尽くすこと、そして、誇れる自分になることを。
そんなとき、あまりにもやりきれない悲しい事件が-----。
<感想>
作家ダニエル・コイルの実体験を綴った原作を、ジョン・ゲイティンスが情感溢れる脚本に仕上げている。
ショッキングなのは、シカゴのスラム地域の想像を越えた治安の悪さ。団地内での銃撃戦は日常茶飯事で、窓より低い位置に座っていないと流れ弾に当たってしまうという恐怖の毎日を、チームの子供たちが送っているということ。そこで生活する子供たちにとって、
悲惨な生活から数時間でも脱け出せ、頼れるコーチのもとで安心して笑顔で駆けまわれるこのグランドでの野球が、どれほどかけがえのない楽しみであるかを知るのだ。
ストーリーの展開そのものは、安易といえば安易だし、例の大金を、またしてもギャンブルによって稼いで返済して命拾いしてしまうのも、少々お粗末には感じたのだが、いわば、あの最後のギャンブルは、彼の命と、この街での、子供たちとの暮らしを継続できるかどうかを賭けたいちかばちかのものだったのであり、結果的に
彼を真人間へと導くきっかけだったわけだ。
勝利に導くのが弔い合戦になってしまうのは、ハリウッドの典型的な手法なようで、内心、またか、という気がして惜しい。
100分という時間が短すぎるのだろうか、あまりにも、コナーと
子供たちの距離が縮まる過程が省略されすぎだったが、子供たちに
夢中で楽しめる時間が必要だと理解しているから、いわゆるスポ根もののような訓練のシーンはほぼ皆無なのだろう。
ストーリーのそういう問題点を吹き飛ばすほど、子供たちの表情がいい。プロの子役は1人もおらず、皆、映画は初めての子ばかり。
一心不乱に白いHARD BALLを追いかける瞳は、どの子もキラキラ輝いていた。
(少年たちが)自分を価値のある人間にしてくれた、というコナーの言葉は、まさに本音であり、人は、誰かに必要とされ、求められて初めて価値を(もともと持っているにせよ)“実感”できるのだということを、しみじみと感じさせてくれた。
ビルの谷間にぽっかりとあるグラウンドは、そこだけ明るく陽が当たり、“希望”の象徴のようだった。
監督:ブライアン・ロビンズ
脚本:ジョン・ゲイティンス
原作:ダニエル・コイル 「Hardball:A Season in the Projects」
音楽:マーク・アイシャム
出演:キアヌ・リーヴス(コナー)
ダイアン・レイン(エリザベス)
ジョン・ホークス(ティッキー)
サミー・ソーサ(本人)
<ストーリー>
コナー・オニールは、ギャンブルにのめりこんで人生を踏みあやまった青年。定職にもつかず、ダフ屋でその日暮らし。
今日、地元シカゴ・ブルズとミルウォーキーのバスケ試合に賭けてボロ負けした彼は、総額12000ドルの借金を作ったうえ、バーで大暴れして留置所にぶちこまれてしまう。親友ティッキーに保釈金を払ってもらい、留置所から出たコナーを待ちうけていたのは、悪夢のようなな借金の取り立てだった。借りを週毎の分割払いにすることで話をつけた彼は、保険会社でエリートの道を歩む幼なじみのジミーを訪ね、恥を忍んで借金を申し込む。そこでジミーが持ち出したのは、週500ドルで少年野球チーム“キカンバス”のコーチをする話。ガキ相手なんて冗談じゃないとクサるコナーだったが、切羽詰った彼には他に選択の余地がなかった。
コナーがコーチをつとめることになったのは、シカゴで一番物騒な区域にあるグラウンドで練習する、低所得者住宅地区の少年たちで結成されたキカンバスというチーム。
ユニフォームはないし道具もボロボロだが、少年たちの瞳は野球への情熱で輝いている。そんな彼らを指導する立場に立ったコナーは、野球以外でも、子供たちの生活と深く関わることに。
2人の少年の、野球に参加する許可を得るために小学校の教師、エリザベスに会ったコナーは宿題をさせることを条件にOKをもらう。どうも胡散臭いコナーを始めは好かないエリザベスだが、子供たちの心をガッチリ掴む彼に、次第に惹かれてゆくのだった。
日々深まっていくコナーと少年たちの絆。自分を信頼し、ケンカをしながらもひとつのチームにまとまっていく子供たちの姿から、コナーは学んでいった。どんな時も全力を尽くすこと、そして、誇れる自分になることを。
そんなとき、あまりにもやりきれない悲しい事件が-----。
<感想>
作家ダニエル・コイルの実体験を綴った原作を、ジョン・ゲイティンスが情感溢れる脚本に仕上げている。
ショッキングなのは、シカゴのスラム地域の想像を越えた治安の悪さ。団地内での銃撃戦は日常茶飯事で、窓より低い位置に座っていないと流れ弾に当たってしまうという恐怖の毎日を、チームの子供たちが送っているということ。そこで生活する子供たちにとって、
悲惨な生活から数時間でも脱け出せ、頼れるコーチのもとで安心して笑顔で駆けまわれるこのグランドでの野球が、どれほどかけがえのない楽しみであるかを知るのだ。
ストーリーの展開そのものは、安易といえば安易だし、例の大金を、またしてもギャンブルによって稼いで返済して命拾いしてしまうのも、少々お粗末には感じたのだが、いわば、あの最後のギャンブルは、彼の命と、この街での、子供たちとの暮らしを継続できるかどうかを賭けたいちかばちかのものだったのであり、結果的に
彼を真人間へと導くきっかけだったわけだ。
勝利に導くのが弔い合戦になってしまうのは、ハリウッドの典型的な手法なようで、内心、またか、という気がして惜しい。
100分という時間が短すぎるのだろうか、あまりにも、コナーと
子供たちの距離が縮まる過程が省略されすぎだったが、子供たちに
夢中で楽しめる時間が必要だと理解しているから、いわゆるスポ根もののような訓練のシーンはほぼ皆無なのだろう。
ストーリーのそういう問題点を吹き飛ばすほど、子供たちの表情がいい。プロの子役は1人もおらず、皆、映画は初めての子ばかり。
一心不乱に白いHARD BALLを追いかける瞳は、どの子もキラキラ輝いていた。
(少年たちが)自分を価値のある人間にしてくれた、というコナーの言葉は、まさに本音であり、人は、誰かに必要とされ、求められて初めて価値を(もともと持っているにせよ)“実感”できるのだということを、しみじみと感じさせてくれた。
ビルの谷間にぽっかりとあるグラウンドは、そこだけ明るく陽が当たり、“希望”の象徴のようだった。
コメントをみる |
