『プライベート・ライアン』
【Saving Private Ryan】  1998年米

監督:スティーブン・スピルバーグ
俳優: トム・ハンクス
    マット・デイモン
    エドワード・バーンズ
    トム・サイズモア
    バリー・ペッパー
    ジェレミー・デイビス
    ジョバンニ・リビージ

アカデミー賞:監督賞・撮影賞(ヤヌス・カミンスキー)・音響賞・音響効果賞

<ストーリー>
1944年6月6日、輸送船艇約4000隻・兵員約8万によって仏ノルマンディー半島に上陸作戦が開始された。
血の海と化したオマハビーチを辛うじて渡りきり上陸に成功したジョン・ミラー大尉(トム・ハンクス)にワシントンからある特命が下った。
それは「3人の兄を戦争で失ったジェームズ・ライアン二等兵(マット・デイモン)を、母親のために
戦場から生還させ、帰国させろ」というアメリカの威信をかけた命令だった・・。
ミラーは精鋭7人を引き連れ最前線に乗り込んでいくが・・・はたして、生死も居所も不明のライアン二等兵を探しだし、無事に連れ戻すことができるのだろうか・・・。

<感想>
この作品といえば、まずは冒頭約30分に及ぶノルマンディー上陸の凄まじさであろう。人間の尊厳のかけらも存在しない地獄絵図・・・。その残虐さと恐ろしさは、言葉では表現できない。
あくまでもヒロイズムを排した監督の意図が痛いほど伝わる。

だが、これはただ単に、「戦争はむごい」という反戦メッセージだけの作品ではない。

生死も居所も不明なたった1人の兵(Private)を、8人の精鋭兵を犠牲にしてでも、彼の母親のために帰国させろという、耳を疑うような命令。これは、先の戦争で五人兄弟をすべて戦死させ、アメリカの威信が揺らいだ過去をふまえ、今回はせめて1人は母親のもとに戻し、国家の威信にこれ以上、傷をつけまい、とするワシントンの「作戦」だった。

これこそが、あれこれ理由をつけて戦争をビジネスにするアメリカ国家に対するアイロニーに満ちた告発なのだ!

アメリカという国は、ほぼ唯一、戦争をふっかけておきながら、「自国が戦場になったことのない」国なのだ。ミサイルはワシントンに飛んで来ず、マシンガンの響きも、飛び散る内臓も血しぶきも、戦地にいる兵隊以外の国民は聞いたことも見たこともない。
この命令が出されたのは、穏やかに晴れて静かで安全なワシントン。訃報を知らせる文書を打つタイプライターの音だけが無機質に鳴り響いている。

この対比だ。

この理不尽な命令に、この世の地獄を見尽くしてきたミラー大尉は、黙々と従う。その理由は、彼の口からラスト近くになって語られることになる。
この任務を達成したら、堂々と故郷に戻れるような気がする-----なんという苦悶だろう。
洗っても決して清まることのない、兵の血と部下の血で染まった我が手を見つめるミラー大尉の姿に、やりきれない悲しみを感じずにはいられない。

さて、問題はラストシーンだ。
この、アーリントン墓地での「敬礼」と翻る星条 旗・・・。これを許せない、とする観客も多いのも、事実。
だが-----
年老いたライアンが、ミラーの遺言とミラー配下の兵達の犠牲という重すぎる十字架を背負って、どんな思いで長い人生を生きてきたか。
「有意義な人生」とは何だろう。ノーベル賞をとって世界の人々の役にたつ人間になること?
いや・・・「虫ケラのように殺されないこと」ではないだろうか。
墓前に手をついて泣かれて、ミラーの魂は救われるか?違うだろう。
万感の思いのこもったあの敬礼に、解説など、要らない。
もちろん、画面いっぱいの星条旗は監督の強烈な皮肉ととってよいだろう。そこには、アメリカ礼賛の意図など、微塵もない。

ユダヤ人であるスピルバーグ監督が、ドイツ・ナチス兵をとことん敵視して描くのは当然だ。
そもそも、戦争に「正義」など、ありえないのだから。








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