「ナチュラル・ボーン・キラーズ」
2002年11月19日『ナチュラル・ボーン・キラーズ』
【Natural Born Killers】1994年【米】
監督 :オリバー・ストーン
男優 :ウディ・ハレルソン
:ロバート・ダウニーJr
:トミー・リー・ジョーンズ
:トム・サイズモア
女優 :ジュリエット・ルイス
原案: クエンティン・タランティーノ
ベネチア映画祭審査員特別大賞
<ストーリー>
偶然出会って燃えるような恋に落ちたミッキーとマロリー。家庭での虐待の復讐から殺人行脚はスタートする。行く先々で出会う人を虐殺しまくるが、あまりに過激な殺しっぷりに、いつの間にか犯罪報道メディアのカリスマ的存在として、二人は若者たちのヒーローに・・・。キレちゃってるがキレ者の警部が執念で彼らを逮捕するが・・・?
<感想>
「マスコミは毒の雨を降らせる
殺人は純粋だよ
君らが不純にした
暴力や恐怖を売ってる」
オリバー・ストーン監督が、血の滴りそうなタランティーノの原作生肉を、やや料理しすぎて
焦げ気味で固くなってるのは否めないのだが、あくまでも個人的にストーン監督のこってりと
濃すぎる演出は好きだ。
映画の中に頻繁に見られるモノクロや特殊効果、CG、アニメの瞬間的な挿入、そして劇中劇は、
観客の集中力をあえてそぎ、透明な瓶の中に入ったストーリーを、見えても「触れられない」
ように巧妙にしたてている。
手法としては新しくはないが、監督の意図がそこだとすれば、成功している。
描きたいのは、主人公の2人の人生ではなく、共感してもらう必要がないからだ。
(共感しちゃうようなお馬鹿さんを皮肉っている部分も多分にあり)
このへんが、原作者のタランティーノが、「改悪されたから俺の名前を出してくれるな」と
いうはめになったところだろう。
オリバー・ストーン監督といったら「ストレートで強烈なメッセージ性」が売りだ。
これが嫌いな人には、おすすめできない。
リアルと仮想現実スレスレのセンを狙って、ブラックに犯罪報道メディアを
笑い飛ばしていると考えてもいいだろう。
2人の名前は?「ミッキー」と「マロリー(愛称マル、マリー)」
太郎さん&花子さんみたいだとは思いませんか(笑)
二人を追跡している警部スカルネティは、少年の頃に母親を目の前で射殺されて以来、
無差別犯罪者に対して憎しみを感じると同時に自らも異常性愛者に育ってしまう。
マスコミに旨い汁を吸わせてもらっている<アメリカ警察>も、スカルネティという
キャラを介して、皮肉タップリに監督におちょくられている。
なんとスカルネティ自身も充分、後天的ではあるが快楽のために殺す天然殺人鬼という、
相当にブラックな人物なのが、苦笑いしてしまう。
映像的にはかなり面白い。ナチュラル・ボーン・キラーズな毒ヘビや蠍、SFの怪獣、
フランケンシュタイン、彼らは食うためだけに殺すわけじゃない。
怪獣やオバケにいたっては、破壊行為に陶酔するし、破壊、殺戮そのものが
彼らの存在価値そのものだ。
ナチュラル・ボーン・キラーなミッキーくんに、マスコミが倫理を問うあたりが痛烈に可笑しい。
90年代のボニーとクライドは死んだりしないのだ。彼らはリアルに欲望だらけの人間
だったから死んだ。.
そう、アメリカ社会は、くるところまでキている。不条理な暴力も、愛に昇華して
しまえばOKなのだ。法律が許さなくても、現実が許してしまうこのエンディング、
なかなかパンチが効いているではないか。
「誰でも心に悪魔を持つ
だから生き残るのは悪党だ
悪魔を殺せるのは愛だけさ」
そう、皮肉られているのはメディアだけではもちろん、ない。
メディアに洗脳され、自分の心で感じた物を信じず、自分の頭で考えることを
放棄した視聴者も、この映画で相当なアッパーカットを食らうだろう。
【Natural Born Killers】1994年【米】
監督 :オリバー・ストーン
男優 :ウディ・ハレルソン
:ロバート・ダウニーJr
:トミー・リー・ジョーンズ
:トム・サイズモア
女優 :ジュリエット・ルイス
原案: クエンティン・タランティーノ
ベネチア映画祭審査員特別大賞
<ストーリー>
偶然出会って燃えるような恋に落ちたミッキーとマロリー。家庭での虐待の復讐から殺人行脚はスタートする。行く先々で出会う人を虐殺しまくるが、あまりに過激な殺しっぷりに、いつの間にか犯罪報道メディアのカリスマ的存在として、二人は若者たちのヒーローに・・・。キレちゃってるがキレ者の警部が執念で彼らを逮捕するが・・・?
<感想>
「マスコミは毒の雨を降らせる
殺人は純粋だよ
君らが不純にした
暴力や恐怖を売ってる」
オリバー・ストーン監督が、血の滴りそうなタランティーノの原作生肉を、やや料理しすぎて
焦げ気味で固くなってるのは否めないのだが、あくまでも個人的にストーン監督のこってりと
濃すぎる演出は好きだ。
映画の中に頻繁に見られるモノクロや特殊効果、CG、アニメの瞬間的な挿入、そして劇中劇は、
観客の集中力をあえてそぎ、透明な瓶の中に入ったストーリーを、見えても「触れられない」
ように巧妙にしたてている。
手法としては新しくはないが、監督の意図がそこだとすれば、成功している。
描きたいのは、主人公の2人の人生ではなく、共感してもらう必要がないからだ。
(共感しちゃうようなお馬鹿さんを皮肉っている部分も多分にあり)
このへんが、原作者のタランティーノが、「改悪されたから俺の名前を出してくれるな」と
いうはめになったところだろう。
オリバー・ストーン監督といったら「ストレートで強烈なメッセージ性」が売りだ。
これが嫌いな人には、おすすめできない。
リアルと仮想現実スレスレのセンを狙って、ブラックに犯罪報道メディアを
笑い飛ばしていると考えてもいいだろう。
2人の名前は?「ミッキー」と「マロリー(愛称マル、マリー)」
太郎さん&花子さんみたいだとは思いませんか(笑)
二人を追跡している警部スカルネティは、少年の頃に母親を目の前で射殺されて以来、
無差別犯罪者に対して憎しみを感じると同時に自らも異常性愛者に育ってしまう。
マスコミに旨い汁を吸わせてもらっている<アメリカ警察>も、スカルネティという
キャラを介して、皮肉タップリに監督におちょくられている。
なんとスカルネティ自身も充分、後天的ではあるが快楽のために殺す天然殺人鬼という、
相当にブラックな人物なのが、苦笑いしてしまう。
映像的にはかなり面白い。ナチュラル・ボーン・キラーズな毒ヘビや蠍、SFの怪獣、
フランケンシュタイン、彼らは食うためだけに殺すわけじゃない。
怪獣やオバケにいたっては、破壊行為に陶酔するし、破壊、殺戮そのものが
彼らの存在価値そのものだ。
ナチュラル・ボーン・キラーなミッキーくんに、マスコミが倫理を問うあたりが痛烈に可笑しい。
90年代のボニーとクライドは死んだりしないのだ。彼らはリアルに欲望だらけの人間
だったから死んだ。.
そう、アメリカ社会は、くるところまでキている。不条理な暴力も、愛に昇華して
しまえばOKなのだ。法律が許さなくても、現実が許してしまうこのエンディング、
なかなかパンチが効いているではないか。
「誰でも心に悪魔を持つ
だから生き残るのは悪党だ
悪魔を殺せるのは愛だけさ」
そう、皮肉られているのはメディアだけではもちろん、ない。
メディアに洗脳され、自分の心で感じた物を信じず、自分の頭で考えることを
放棄した視聴者も、この映画で相当なアッパーカットを食らうだろう。
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