「ぼくのバラ色の人生」
2002年11月28日『ぼくのバラ色の人生』 【Ma vie en rose】1997年ベルギー・フランス・イギリス合作
★1998年ゴールデングローブ賞 最優秀外国語映画賞受賞
★1997年カンヌ国際映画賞正式出品作品 太陽賞受賞
★1997年モロディスト国際映画祭 最優秀作品賞グランプリ受賞
★1997年サラエボ国際映画祭 批評家賞/オーディエンス賞受賞
★1997年FT.ローダーデイル国際映画祭 最優秀作品賞/最優秀女優賞
★1997年シアトル・ゲイ&レズビアン映画祭 最優秀作品賞受賞
監督:アラン・ベルリネール
脚本:クリス・ヴァンデル・スタッペン
アラン・ベルリネール
製作:キャロル・スコッタ
音楽:ドミニク・ダルカン
主題歌:「Rose」 ザジ
俳優:ジョルジュ・デュ・フレネ
ジャン=フィリップ・エコフェ
ミシェール・ラロック
エレーヌ・ヴァンサン
<ストーリー>
7歳の少年リュドヴィックの夢は「女の子になること」。ドレスを着て、お化粧をして、着せ替え人形と遊んで、いつか好きな男の子と結婚したいと切に願う日々。心は少女であるリュドヴィク。なぜ友達や大人たちが笑ったり叱ったりするのかわからない。
そんな彼の無邪気でひたむきな生き方に周囲は気味悪さすら感じ、
とまどい、ついには彼1人のみならず家族ごと激しく拒絶する。パパとママと兄姉たち、そして人生の大先輩であるおばあちゃんだけはリュドを守り、理解しようと必死に頑張るのだが・・・・・。
ついに、リュド本人も、理由はわからないけれど、自分が家族を苦しめているのは確かなのだと自責するにいたってしまう・・・・・。
<感想>
少年の無知で無邪気な憧れが、周囲の子供たちよりも、むしろ「常識」を崇める大人たちによって、傷つけられ、心を縮めていく哀しい現実に胸が痛む。
理解できないものへの人々の恐れ、生理的嫌悪、拒絶。
それがこの映画のテーマである。キリスト教圏では、ソドムの教えが根強いため(しかも舞台は現代といえども、アメリカではなくヨーロッパ圏だ)、この作品がどれほどショッキングであったか、容易に想像がつく。
問題は、そこではなく、「異物」を排除することで結束を固める
人間の本能の恐ろしさである。
この映画の見事なのは、決して綺麗ごとを描かないところだ。
親の苦しみを壮絶にえぐりだしている。 惜しいのは、おばあちゃんにもっと「頑張って」ほしかった。親とは立場が違うぶん、もっとうまく関われたはずだ。映画では、おばあちゃんは「そのうちなんとかなる」と言葉で言うだけで、あれでは、部外者がそういうのは簡単だと思われてもしかたない。
母親と父親で、苦しみ方が時間とともに変化していくのは、とても興味深かった。父は最初は単なる生理的嫌悪から怒るし心配するだけで、現実的に家族の危機にぶつかると、強くなり、息子を守ろうとする。 母は、最初は異常なまでに楽観的だが、自分が恥をかいたり家族の危機に直面すると、今までどう育ててきたか、自らを省みることなく、リュドを責めたて八つあたりし、家に置くことすら拒否してしまう。
このあたり、やはり、一日の大半を地域社会から離れた会社で過ごす夫と(序盤、地域にいたときは母と視点が同じだったのを思い出してほしい)、一日じゅう、子供4人を地域社会で育て近所の目の中で過ごさなくてはならない主婦との違いだと思うのだ。
そういう意味で、ファンタジックな映像処理を多用して「現代の大人向け残酷童話」の要素を残しながら、とてもこの映画にはリアリティがある。
題材がよいだけに、もったいないと思われたところは、4人きょうだいなのだから、他の三人の兄弟との交流、特に兄たちとの交流のシーンが欲しかった。
そして、ラストで、母親がいちばん大切なことに気がつくきっかけになる「遠くへいくよ。家族を苦しめなくてすむように」
このセリフ、映画の中で「セリフ」として出してしまうのならば、
母親の見た幻覚の中で、ではなく、リュド当人に現実世界で言わせるべきだろう。
あのシーンは、もしかしたら永遠に愛息子を失うかもしれないという悪夢であって、失いそうにならなければ価値に気付かないような
のは、男女間には充分あり得ても、親子間ではあまりに情けない。
それだけ母親の苦悩が深かったということを強調したかったのだろうが、悲しそうにパム(着せ替え人形)にリュドがついて行ってしまう幻覚シーンだけで、ショックは充分であり、セリフは余計だったように思えてならない。
だが、大事なのは、物語が、決してハッピーエンドでも、悲劇でも終わらないこと、だ。
「好きなかっこうをしていいのよ」 それは、行方不明になった息子と再会できた感激から出た一時的な感情と判断するのが普通だろう。これからあの家族がどうなるのか、監督は答を観客にふっているのだ。
ここから先はやや余談だが・・・
女は、リュドの姉がそうであったように、初潮を迎えることによって、クリスのようにどんなに外見を男に似せても、ホルモン的に女性にならざるを得ないため、男装趣味は人生のさまたげになりにくい。その点で、男は、自分の性を確信する確率が、女と違って100%ではない。
キリスト教も儒教もないヒンズー教圏では、女装した男性がごく普通に、水商売ではなく、働いているのはめずらしくないという。
子孫を絶やさぬためにソドムの教えがあるわけだが、「隣人を愛せよ」と教えるキリスト教への強い信仰が、隣人を社会的な死にまで追いやる現実は、永遠に解かれない矛盾であろう。
★1998年ゴールデングローブ賞 最優秀外国語映画賞受賞
★1997年カンヌ国際映画賞正式出品作品 太陽賞受賞
★1997年モロディスト国際映画祭 最優秀作品賞グランプリ受賞
★1997年サラエボ国際映画祭 批評家賞/オーディエンス賞受賞
★1997年FT.ローダーデイル国際映画祭 最優秀作品賞/最優秀女優賞
★1997年シアトル・ゲイ&レズビアン映画祭 最優秀作品賞受賞
監督:アラン・ベルリネール
脚本:クリス・ヴァンデル・スタッペン
アラン・ベルリネール
製作:キャロル・スコッタ
音楽:ドミニク・ダルカン
主題歌:「Rose」 ザジ
俳優:ジョルジュ・デュ・フレネ
ジャン=フィリップ・エコフェ
ミシェール・ラロック
エレーヌ・ヴァンサン
<ストーリー>
7歳の少年リュドヴィックの夢は「女の子になること」。ドレスを着て、お化粧をして、着せ替え人形と遊んで、いつか好きな男の子と結婚したいと切に願う日々。心は少女であるリュドヴィク。なぜ友達や大人たちが笑ったり叱ったりするのかわからない。
そんな彼の無邪気でひたむきな生き方に周囲は気味悪さすら感じ、
とまどい、ついには彼1人のみならず家族ごと激しく拒絶する。パパとママと兄姉たち、そして人生の大先輩であるおばあちゃんだけはリュドを守り、理解しようと必死に頑張るのだが・・・・・。
ついに、リュド本人も、理由はわからないけれど、自分が家族を苦しめているのは確かなのだと自責するにいたってしまう・・・・・。
<感想>
少年の無知で無邪気な憧れが、周囲の子供たちよりも、むしろ「常識」を崇める大人たちによって、傷つけられ、心を縮めていく哀しい現実に胸が痛む。
理解できないものへの人々の恐れ、生理的嫌悪、拒絶。
それがこの映画のテーマである。キリスト教圏では、ソドムの教えが根強いため(しかも舞台は現代といえども、アメリカではなくヨーロッパ圏だ)、この作品がどれほどショッキングであったか、容易に想像がつく。
問題は、そこではなく、「異物」を排除することで結束を固める
人間の本能の恐ろしさである。
この映画の見事なのは、決して綺麗ごとを描かないところだ。
親の苦しみを壮絶にえぐりだしている。 惜しいのは、おばあちゃんにもっと「頑張って」ほしかった。親とは立場が違うぶん、もっとうまく関われたはずだ。映画では、おばあちゃんは「そのうちなんとかなる」と言葉で言うだけで、あれでは、部外者がそういうのは簡単だと思われてもしかたない。
母親と父親で、苦しみ方が時間とともに変化していくのは、とても興味深かった。父は最初は単なる生理的嫌悪から怒るし心配するだけで、現実的に家族の危機にぶつかると、強くなり、息子を守ろうとする。 母は、最初は異常なまでに楽観的だが、自分が恥をかいたり家族の危機に直面すると、今までどう育ててきたか、自らを省みることなく、リュドを責めたて八つあたりし、家に置くことすら拒否してしまう。
このあたり、やはり、一日の大半を地域社会から離れた会社で過ごす夫と(序盤、地域にいたときは母と視点が同じだったのを思い出してほしい)、一日じゅう、子供4人を地域社会で育て近所の目の中で過ごさなくてはならない主婦との違いだと思うのだ。
そういう意味で、ファンタジックな映像処理を多用して「現代の大人向け残酷童話」の要素を残しながら、とてもこの映画にはリアリティがある。
題材がよいだけに、もったいないと思われたところは、4人きょうだいなのだから、他の三人の兄弟との交流、特に兄たちとの交流のシーンが欲しかった。
そして、ラストで、母親がいちばん大切なことに気がつくきっかけになる「遠くへいくよ。家族を苦しめなくてすむように」
このセリフ、映画の中で「セリフ」として出してしまうのならば、
母親の見た幻覚の中で、ではなく、リュド当人に現実世界で言わせるべきだろう。
あのシーンは、もしかしたら永遠に愛息子を失うかもしれないという悪夢であって、失いそうにならなければ価値に気付かないような
のは、男女間には充分あり得ても、親子間ではあまりに情けない。
それだけ母親の苦悩が深かったということを強調したかったのだろうが、悲しそうにパム(着せ替え人形)にリュドがついて行ってしまう幻覚シーンだけで、ショックは充分であり、セリフは余計だったように思えてならない。
だが、大事なのは、物語が、決してハッピーエンドでも、悲劇でも終わらないこと、だ。
「好きなかっこうをしていいのよ」 それは、行方不明になった息子と再会できた感激から出た一時的な感情と判断するのが普通だろう。これからあの家族がどうなるのか、監督は答を観客にふっているのだ。
ここから先はやや余談だが・・・
女は、リュドの姉がそうであったように、初潮を迎えることによって、クリスのようにどんなに外見を男に似せても、ホルモン的に女性にならざるを得ないため、男装趣味は人生のさまたげになりにくい。その点で、男は、自分の性を確信する確率が、女と違って100%ではない。
キリスト教も儒教もないヒンズー教圏では、女装した男性がごく普通に、水商売ではなく、働いているのはめずらしくないという。
子孫を絶やさぬためにソドムの教えがあるわけだが、「隣人を愛せよ」と教えるキリスト教への強い信仰が、隣人を社会的な死にまで追いやる現実は、永遠に解かれない矛盾であろう。
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