『鉄道員(ぽっぽや)』
2002年12月9日『鉄道員(ぽっぽや)』 1999年・日
製作:「鉄道員(ぽっぽや)」製作委員会
原作 :浅田次郎 ★第117回直木賞受賞作品の同名小説
脚本 :岩間芳樹
:降旗康男
監督 :降旗康男
撮影 :木村大作
主題歌:「鉄道員」作詞:奥田民生 作曲:坂本龍一 歌:坂本美雨
俳優:高倉健(佐藤乙松)
大竹しのぶ(妻・静江)
広末涼子
山田さくや (3人の少女)
谷口紗耶香
小林稔侍(同僚・仙次)
田中好子 (仙次の妻)
吉岡秀隆(仙次の息子・秀男)
奈良岡朋子(食堂のおばちゃん・ムネ)
安藤政信 (敏行)
志村けん (敏行の父親)
<ストーリー>
北海道の廃鉱の終着駅、幌舞駅。この駅の老駅長、佐藤乙松は、一人娘を亡くした日も、愛する妻を亡くした日も、病院で寄りそうことなく駅に立ち続けた。これまで長い年月を筋金入りの鉄道員(ぽっぽや)として生きてきた乙松も、近く廃線になる幌舞線と運命を共にするかのように定年を目前にしていた。
その年の正月。古い友人、仙次が訪ねてくる。仙次は機関士見習い時代からの古い同僚で、今は美寄駅の駅長。じき乙松と同じく定年だが、トマムのリゾート会社重役に転身することになっていた。それだけに身寄りのない乙松の定年後が心配で堪らず、仙次は老後
も一緒に仕事をとしきりに勧めるが、乙松は頷かない。ぽっぽや以外の人生の日々など、乙松には考えも及ばなかったのである。家族の墓に、すでに己の名を刻んである乙松の決意の固さ。
残り少ない廃線の日まで1人黙々と勤務に励む乙松を、どこか見覚えのある古びた人形を抱えた少女が訪れた・・・。
<感想>
この誇り高き職人魂に胸打たれない人はいないだろう。
今は老人しかいないこの町も、昔は炭鉱の町として栄え、D51の機関士として石炭を運び、商人を運び、集団就職する中学生たちを運んだ。日本の高度成長を支えているという自負があった。若い頃は、蒸気機関車の排煙で何度もトンネルの中では命がけ。年老いて駅長になってからは、三六五日、ホームで列車の到着を直立不動で待った。零下十度の冬の夜も。子供の死も、妻の死も、駅で仕事をしていて看取れなかった。そういう自分が定年を目前に控え、再就職なぞ考えられない。自分は「ぽっぽや」で、それ以上にも、それ以下にもなれないのだと。
この仕事に己のすべてを賭けてきたせいで家族を寂しく死なせたと己を責め続ける乙松が哀しい。
そして、「ぽっぽやしかできないあんたを支えようとしたのに、
逆になっちゃったね。そればっか気が咎めて。」という妻。
後継ぎの男児も産めず、病弱で通入院のため家を空けがちな自分を
責める妻の言葉だ。なんとも痛々しい深い愛。それに対し、ポツリと「なーんも」とだけしか愛する妻に言葉をかけてやれない不器用さが泣かせる。
生まれてきて幸せだったと告げる雪子の霊は、誰が許してくれても
自分で自分が赦せない乙松の魂を17年の時を経て雪の空に解き放った。
乙松は家族を粗末にしたわけでも顧みなかったわけでもない。
ただ、職務の使命感をまっとうしただけなのだ。雪子の「だって
お父さんはぽっぽやだもの。」と決して“諦念”ではなく、誇らしげに笑顔で語るこのシーンは胸を打つ。
広末涼子の、俗世間離れした可憐さこそがこの作品を映画化するにあたってのキーであり、キャスティングは成功したといえるだろう。
過去のエピゾードの挿入の技術も、カメラワークが大変優れている。セピアから次第にカラーへ。乙松の頭の中で思い出が蘇る感じがとても自然でいい。
死者からのメッセージで残された者が心癒される、というのは、
フランス映画の「ポネット」に近い。あの作品でも、現世に残してきた家族のあまりに深い心の傷が心配で現れる死者の霊魂が描かれる。そして、どちらも、確かにここにいた証拠(ポネットなら母のセーター、鉄道員では、鍋料理)が残されて、夢だったのだと
再び頭を垂れることのないように死者が配慮をしているのだ。
悲しいけれど、むしろ安堵の涙が流れるラストシーンであった。
製作:「鉄道員(ぽっぽや)」製作委員会
原作 :浅田次郎 ★第117回直木賞受賞作品の同名小説
脚本 :岩間芳樹
:降旗康男
監督 :降旗康男
撮影 :木村大作
主題歌:「鉄道員」作詞:奥田民生 作曲:坂本龍一 歌:坂本美雨
俳優:高倉健(佐藤乙松)
大竹しのぶ(妻・静江)
広末涼子
山田さくや (3人の少女)
谷口紗耶香
小林稔侍(同僚・仙次)
田中好子 (仙次の妻)
吉岡秀隆(仙次の息子・秀男)
奈良岡朋子(食堂のおばちゃん・ムネ)
安藤政信 (敏行)
志村けん (敏行の父親)
<ストーリー>
北海道の廃鉱の終着駅、幌舞駅。この駅の老駅長、佐藤乙松は、一人娘を亡くした日も、愛する妻を亡くした日も、病院で寄りそうことなく駅に立ち続けた。これまで長い年月を筋金入りの鉄道員(ぽっぽや)として生きてきた乙松も、近く廃線になる幌舞線と運命を共にするかのように定年を目前にしていた。
その年の正月。古い友人、仙次が訪ねてくる。仙次は機関士見習い時代からの古い同僚で、今は美寄駅の駅長。じき乙松と同じく定年だが、トマムのリゾート会社重役に転身することになっていた。それだけに身寄りのない乙松の定年後が心配で堪らず、仙次は老後
も一緒に仕事をとしきりに勧めるが、乙松は頷かない。ぽっぽや以外の人生の日々など、乙松には考えも及ばなかったのである。家族の墓に、すでに己の名を刻んである乙松の決意の固さ。
残り少ない廃線の日まで1人黙々と勤務に励む乙松を、どこか見覚えのある古びた人形を抱えた少女が訪れた・・・。
<感想>
この誇り高き職人魂に胸打たれない人はいないだろう。
今は老人しかいないこの町も、昔は炭鉱の町として栄え、D51の機関士として石炭を運び、商人を運び、集団就職する中学生たちを運んだ。日本の高度成長を支えているという自負があった。若い頃は、蒸気機関車の排煙で何度もトンネルの中では命がけ。年老いて駅長になってからは、三六五日、ホームで列車の到着を直立不動で待った。零下十度の冬の夜も。子供の死も、妻の死も、駅で仕事をしていて看取れなかった。そういう自分が定年を目前に控え、再就職なぞ考えられない。自分は「ぽっぽや」で、それ以上にも、それ以下にもなれないのだと。
この仕事に己のすべてを賭けてきたせいで家族を寂しく死なせたと己を責め続ける乙松が哀しい。
そして、「ぽっぽやしかできないあんたを支えようとしたのに、
逆になっちゃったね。そればっか気が咎めて。」という妻。
後継ぎの男児も産めず、病弱で通入院のため家を空けがちな自分を
責める妻の言葉だ。なんとも痛々しい深い愛。それに対し、ポツリと「なーんも」とだけしか愛する妻に言葉をかけてやれない不器用さが泣かせる。
生まれてきて幸せだったと告げる雪子の霊は、誰が許してくれても
自分で自分が赦せない乙松の魂を17年の時を経て雪の空に解き放った。
乙松は家族を粗末にしたわけでも顧みなかったわけでもない。
ただ、職務の使命感をまっとうしただけなのだ。雪子の「だって
お父さんはぽっぽやだもの。」と決して“諦念”ではなく、誇らしげに笑顔で語るこのシーンは胸を打つ。
広末涼子の、俗世間離れした可憐さこそがこの作品を映画化するにあたってのキーであり、キャスティングは成功したといえるだろう。
過去のエピゾードの挿入の技術も、カメラワークが大変優れている。セピアから次第にカラーへ。乙松の頭の中で思い出が蘇る感じがとても自然でいい。
死者からのメッセージで残された者が心癒される、というのは、
フランス映画の「ポネット」に近い。あの作品でも、現世に残してきた家族のあまりに深い心の傷が心配で現れる死者の霊魂が描かれる。そして、どちらも、確かにここにいた証拠(ポネットなら母のセーター、鉄道員では、鍋料理)が残されて、夢だったのだと
再び頭を垂れることのないように死者が配慮をしているのだ。
悲しいけれど、むしろ安堵の涙が流れるラストシーンであった。
コメント