「生きたい」
2002年12月13日『生きたい』1999年・日
監督、脚本、原作:新藤兼人
俳優:三國連太郎(父、安吉)
大竹しのぶ(娘、徳子)
大谷直子 (バーのママ)
柄本明 (医師)
宮崎淑子 (娘の友人)
----民話キャスト------
吉田日出子 (老婆おコマ)
塩野谷正幸 (長男クマ)
中里博美 (嫁おキチ)
津川雅彦 (長老)
★モスクワ国際映画祭グランプリ
★国際批評家連盟賞
★毎日映画コンクール主演女優賞
<ストーリー>
頭は耄碌していないが、シモの始末が悪くなっている老人、安吉と、今年で40才の行かず後家で躁鬱病の娘、徳子。娘は、父に「糞オヤジ」だの「結婚できないのはお前のせいだ」などと正直すぎる言葉を人目をはばからず連発する。
安吉の妻は自分から老人ホームへ入ったが、妻を姥捨て山に捨てたと自責しては娘に鬱陶しがられている。安吉はバーのママと懇ろになっていたが、ボケてきた安吉は見限られ、粗相をした安吉は人
間あつかいされない。それでもスケベで酒好きな安吉はバーに通
いつめては倒れて救急車騒動。おかげで躁鬱の徳子はキレ気味。
徳子はこの厄介なオヤジを病院に引き取ってほしいのだが医者には相手にしてもらえない。重病でない老人は病院の経営を圧迫するのだ。妹は早々に家から逃げ出し、同じく家を出てしまった弟は父に婚約者を紹介するが、粗相するようなオヤジは結婚式に出るなと言い捨てて去る。八方塞がりで苛立つ徳子に、医師が老人ホームを紹介してくれるという。だが、老人ホームは姥捨て山だ、と父は嫌がるのだが、結局、本で読んだ「姥捨山」に何かを感じ、自ら入所を決意する。
物語は、父親が病院の待合室から勝手に拝借してきた「姥捨て」の昔話と現実の世界を対比しながら進んでいく。モノクロでスクリーンに映される昔話では、70才を迎えた老母おコマが長男クマに嫁をもらい、心残りなく先祖の魂の眠る谷に捨てられる。母を死なせる悲しみに耐えられず戻ってきた息子を追い返し、死を待つカラスの群れの中、静かに合掌し雪に埋もれる母を映しだしている。
世話のやける父から解放され、友人と祝杯をあげる徳子だったが・・・。
<感想>
86才の新藤兼人監督が、名作『午後の遺言状』とは180度異なる視点で「老い」を描き出している。大女優だった亡き妻、乙羽信子さんに捧げられた作品。監督本人が80代半ばにして、ようやく
世間一般のイメージとは違う《リアルな老人の姿》が見えるようになり、メガホンをとったという。
つまり、世間(あるいは物語で描かれる老人)のイメージは、枯れて盆栽のように静かに死を待つ存在で、達観して悟っており、迷える若者に人生のアドバイスをする、そんなイメージだ。
だが、新藤監督の描いた老人、安吉は違う。生々しく人間で、オトコだ。戦争で命がけで日本を守り、戦後も、焼け野原から日本をここまでにしたのは自分たちの世代なのに、大事にされず「戦争なんかにいった愚か者、殺人者」などと若者に侮辱される悔しさ、怒り。思い通りにいかなかった子育てへの後悔。他人への恨み。何かしなくてはいけないように感じる焦り。死への恐怖---。これらが渦巻く心を抱えて震えて残りの日々を生きている、「もっと生きたい」存在として描いているのだ。
口では老人を大切に、といいながら、誰しも心の中では、何も生産できない老人を疎ましく思い、増え続ける老人たちの年金のために今馬車馬のように働くことへの疑問が怒りにすら変っている。それが現実だが、聞こえよがしに口に出す者はいない。
だがこの映画では、娘も、世間知らずな大学生も偉そうに安吉に上記のことを言ってのけ、悔しさのあまり失禁してはまた嫌われてしまう安吉・・・。
だが、この作品が興味深いのは、そういった議論をする映画ではなく、あくまでも「ファンタジー」である点だ。
カラーで映される安吉&徳子親子の世界のほうが、まるで舞台の上の見世物のよう。わざと大袈裟なセルフまわしと身振りを役者たちはし、カメラワークもえらく二次元タッチ。紙芝居のようだ。
そして、フィクションであるはずの民話「姥捨て山」は、モノクロで映されるが、背筋が凍るようなリアリティをもって観客に迫ってくる。役者たちの自然な演技、人間を飲みこむような深い山に谷。
オオカミの唸り声。「死」を待ちかねるカラスの禍禍しい群れ。嫁のオキチと長男クマの生々しく゛生”に満ちたSEXシーン。なまめかしい裸体。臨月のオキチの膨らんだ腹と乳を着物をはだけて見せるシーン・・・。彼らは確かにそこで生きている。
この不思議な逆転した世界が、衝撃のラストシーンで一瞬交錯する! なんと幻想的でかつ生臭いラストよ。
監督、脚本、原作:新藤兼人
俳優:三國連太郎(父、安吉)
大竹しのぶ(娘、徳子)
大谷直子 (バーのママ)
柄本明 (医師)
宮崎淑子 (娘の友人)
----民話キャスト------
吉田日出子 (老婆おコマ)
塩野谷正幸 (長男クマ)
中里博美 (嫁おキチ)
津川雅彦 (長老)
★モスクワ国際映画祭グランプリ
★国際批評家連盟賞
★毎日映画コンクール主演女優賞
<ストーリー>
頭は耄碌していないが、シモの始末が悪くなっている老人、安吉と、今年で40才の行かず後家で躁鬱病の娘、徳子。娘は、父に「糞オヤジ」だの「結婚できないのはお前のせいだ」などと正直すぎる言葉を人目をはばからず連発する。
安吉の妻は自分から老人ホームへ入ったが、妻を姥捨て山に捨てたと自責しては娘に鬱陶しがられている。安吉はバーのママと懇ろになっていたが、ボケてきた安吉は見限られ、粗相をした安吉は人
間あつかいされない。それでもスケベで酒好きな安吉はバーに通
いつめては倒れて救急車騒動。おかげで躁鬱の徳子はキレ気味。
徳子はこの厄介なオヤジを病院に引き取ってほしいのだが医者には相手にしてもらえない。重病でない老人は病院の経営を圧迫するのだ。妹は早々に家から逃げ出し、同じく家を出てしまった弟は父に婚約者を紹介するが、粗相するようなオヤジは結婚式に出るなと言い捨てて去る。八方塞がりで苛立つ徳子に、医師が老人ホームを紹介してくれるという。だが、老人ホームは姥捨て山だ、と父は嫌がるのだが、結局、本で読んだ「姥捨山」に何かを感じ、自ら入所を決意する。
物語は、父親が病院の待合室から勝手に拝借してきた「姥捨て」の昔話と現実の世界を対比しながら進んでいく。モノクロでスクリーンに映される昔話では、70才を迎えた老母おコマが長男クマに嫁をもらい、心残りなく先祖の魂の眠る谷に捨てられる。母を死なせる悲しみに耐えられず戻ってきた息子を追い返し、死を待つカラスの群れの中、静かに合掌し雪に埋もれる母を映しだしている。
世話のやける父から解放され、友人と祝杯をあげる徳子だったが・・・。
<感想>
86才の新藤兼人監督が、名作『午後の遺言状』とは180度異なる視点で「老い」を描き出している。大女優だった亡き妻、乙羽信子さんに捧げられた作品。監督本人が80代半ばにして、ようやく
世間一般のイメージとは違う《リアルな老人の姿》が見えるようになり、メガホンをとったという。
つまり、世間(あるいは物語で描かれる老人)のイメージは、枯れて盆栽のように静かに死を待つ存在で、達観して悟っており、迷える若者に人生のアドバイスをする、そんなイメージだ。
だが、新藤監督の描いた老人、安吉は違う。生々しく人間で、オトコだ。戦争で命がけで日本を守り、戦後も、焼け野原から日本をここまでにしたのは自分たちの世代なのに、大事にされず「戦争なんかにいった愚か者、殺人者」などと若者に侮辱される悔しさ、怒り。思い通りにいかなかった子育てへの後悔。他人への恨み。何かしなくてはいけないように感じる焦り。死への恐怖---。これらが渦巻く心を抱えて震えて残りの日々を生きている、「もっと生きたい」存在として描いているのだ。
口では老人を大切に、といいながら、誰しも心の中では、何も生産できない老人を疎ましく思い、増え続ける老人たちの年金のために今馬車馬のように働くことへの疑問が怒りにすら変っている。それが現実だが、聞こえよがしに口に出す者はいない。
だがこの映画では、娘も、世間知らずな大学生も偉そうに安吉に上記のことを言ってのけ、悔しさのあまり失禁してはまた嫌われてしまう安吉・・・。
だが、この作品が興味深いのは、そういった議論をする映画ではなく、あくまでも「ファンタジー」である点だ。
カラーで映される安吉&徳子親子の世界のほうが、まるで舞台の上の見世物のよう。わざと大袈裟なセルフまわしと身振りを役者たちはし、カメラワークもえらく二次元タッチ。紙芝居のようだ。
そして、フィクションであるはずの民話「姥捨て山」は、モノクロで映されるが、背筋が凍るようなリアリティをもって観客に迫ってくる。役者たちの自然な演技、人間を飲みこむような深い山に谷。
オオカミの唸り声。「死」を待ちかねるカラスの禍禍しい群れ。嫁のオキチと長男クマの生々しく゛生”に満ちたSEXシーン。なまめかしい裸体。臨月のオキチの膨らんだ腹と乳を着物をはだけて見せるシーン・・・。彼らは確かにそこで生きている。
この不思議な逆転した世界が、衝撃のラストシーンで一瞬交錯する! なんと幻想的でかつ生臭いラストよ。
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