「聖なる嘘つき その名はジェイコブ」
2003年1月2日『聖なる嘘つき その名はジェイコブ』【Jakob The Liar】
1999年・仏
監督 :ピーター・カソビッツ
男優 :ロビン・ウィリアムス (ジェイコブ)
アラン・アーキン (フランクフルター)
リーブ・シュライバー(ミーシャ)
ニーナ・シーマスコ(ローザ)
マチュー・カソヴィッツ(ハーシェル)
アーミン・ミューラー・スタール (キルシュバウム医師)
ハンナ・テイラー・ゴードン(リーナ)
ボブ・バラバン(コワルスキー)
マイケル・ジェター(アヴァロン)
<ストーリー>
1944年、ナチス占領下にあるポーランドのとある町。
ユダヤ人居住区ゲットーに住む元パン屋のジェイコブは、ある夜、出頭したドイツ軍司令部でラジオのニュースを偶然耳にする。それは、ソ連軍がポーランドまで進攻してドイツ軍と戦っているという、ユダヤ人にとって朗報となる可能性のあるものだった。
司令部からの帰宅途中、収容所に送られる列車から逃げ出してきたリーナという少女に出遭い、彼女を屋根裏にかくまうことにするジェイコブ。
翌日、ジェイコブはこの朗報を二人の友人にこっそり耳打ちした。ニュースはまたたく間にゲットーに流れ出し、ジェイコブがラジオを持っているという噂までも広まっていく。ここでは外部との接触自体が死に値する罪。しかし、ジェイコブは身の危険も顧みず、自殺の絶えないゲットーで、自分の嘘はきっと人々の生きる糧になると信じ、解放近しというニュースをでっちあげて伝え続ける。そして、絶望に支配されていた町に生きる希望が芽生え始め・・・・
<感想>
原作はユーレク・ベッカー(本人もゲットーの生き残り)の【Jurek Becker】「ほらふきヤーコプ」。同学社から出ている、日本でもお馴染みの本だ。正直、この原作の「ほらふき」こそが相応しく、「聖なる嘘つき」は、典型的な“集客のための邦題”だという気がしてならない。
ジェイコブは聖人などではない。自慢といえばジャムパンの発明者
だと思いこんでることくらいのかわいい庶民であり、性格もとりたてて勇敢でもなく、怯えるし愚痴もこぼすし腹も減るし迷いもする、哀愁漂う普通の中年のおやじだ。その彼が、なりゆき上、嘘の上塗りをしていかざるを得なくなっていく状況から、自分のデマかもしれない《ニュース》によって仲間が1人殺され、そのことにとことん苦しみ悩みつつも、自殺者が激減したことを聞き、それからは仲間に希望を与えるため、自分の意志で積極的に嘘を考え出し、小さな抵抗組織に力を与えていく、その過程が、観る者の魂を揺さぶるのだ。
聖人のようには悟りきれないジェイコブに、観客は深く共感できる。ロビン・ウィリアムスが脚本に惚れこんで、どうしても主演すると言った作品ならでは(制作総指揮にもかんでいる)の熱のこもった演技だ。ロビンらしい、「必死に頑張るけど困ってしまって笑うしかない哀感のこもった笑顔」が切ない・・・。
天涯孤独の儚げな幼女リーナを命がけでかくまうジェイコブ。
この2人の触れ合いが、荒みきった寒々しいスクリーンに唯一小さな灯火を添えている。この灯りが消えないで、とだれもが願わずにはいられなくなるだろう。
ラジオ放送の声真似を夢中でリーナのために演じ、地下室で踊るシーンが目に焼き付いている。
子供をかくまい、暗い現実を隠し嘘をつき続ける、という部分は、かの名作「ライフ・イズ・ビューティフル」に近い(1997年・イタリア)のだが、こちらは最初から最後までゲットー内のみが舞台。“美しいと思えるライフ=人生”はこの映画の登場人物たちには、ない。そして、ライフ・イズ〜ではあくまで自分の愛息子と愛妻のみが救いたい対象だが、(勿論、作品の趣旨が異なるため)ジェイコブは、仲間全員を1人で支えようとした。極限状態では真面目に頑張れば頑張るほど、コミカルに見えてしまうあたり、監督自身がホロコーストの生き残りである(ハンガリーのブタペスト出身、映画『ぼくの神さま』の主人公のように、カトリックの家庭にかくまわれてどうにか生き延びた経験の持ち主)、ナチスの恐ろしさを身をもって知るものだけが描けるリアリティなのだろう。 人生は残酷だ。「残酷」のもつ「可笑しみ」
を感じ取れるかどうかで、この作品への感想は違ってくるはずだ。
監督に一言モノ申すとすれば、英語なら英語で無理せず普通に喋らせてほしかった。ポーリッシュ訛りの英語、ドイツ語風英語、は
必要“以上”の可笑しさをかもし出してしまっている・・・。
(その点で、「ライフ・イズ・ビューティフル」は英語・イタリア語、ドイツ語をストーリー展開上正確に使い分け、『嘘』を効果的にしていたといえよう)
虐げられ飢え怯えた人間の最後の糧、そしてどんな凶悪な敵にも奪えない“力”は「希望」だということ。その希望が実現可能かどうかよりも、「信じようとする力」が地獄から天へ伸びる1本の、けれどすべての者が掴める金色の糸なのだということ----。
それを痛切に感じた。
ジェイコブはそれを痛いほど知っていたから、自分が蒔いた種を刈り取らず、大地に広げたまま去ったのだ・・・。
ラストシーンのリーナの見開かれた瞳に映ったものこそ真実。
耳に聞こえたものこそ真実。
★印象に残ったセリフ
Until the last line has been spoken, the curtain cannot come down.(芝居は最後のセリフまで幕は降りない。 ジェイコブがフランクフルターの声真似をして言ったセリフ)
ジェイコブの最後のセリフはない。なぜなら、幕を降ろさなかったから。
1999年・仏
監督 :ピーター・カソビッツ
男優 :ロビン・ウィリアムス (ジェイコブ)
アラン・アーキン (フランクフルター)
リーブ・シュライバー(ミーシャ)
ニーナ・シーマスコ(ローザ)
マチュー・カソヴィッツ(ハーシェル)
アーミン・ミューラー・スタール (キルシュバウム医師)
ハンナ・テイラー・ゴードン(リーナ)
ボブ・バラバン(コワルスキー)
マイケル・ジェター(アヴァロン)
<ストーリー>
1944年、ナチス占領下にあるポーランドのとある町。
ユダヤ人居住区ゲットーに住む元パン屋のジェイコブは、ある夜、出頭したドイツ軍司令部でラジオのニュースを偶然耳にする。それは、ソ連軍がポーランドまで進攻してドイツ軍と戦っているという、ユダヤ人にとって朗報となる可能性のあるものだった。
司令部からの帰宅途中、収容所に送られる列車から逃げ出してきたリーナという少女に出遭い、彼女を屋根裏にかくまうことにするジェイコブ。
翌日、ジェイコブはこの朗報を二人の友人にこっそり耳打ちした。ニュースはまたたく間にゲットーに流れ出し、ジェイコブがラジオを持っているという噂までも広まっていく。ここでは外部との接触自体が死に値する罪。しかし、ジェイコブは身の危険も顧みず、自殺の絶えないゲットーで、自分の嘘はきっと人々の生きる糧になると信じ、解放近しというニュースをでっちあげて伝え続ける。そして、絶望に支配されていた町に生きる希望が芽生え始め・・・・
<感想>
原作はユーレク・ベッカー(本人もゲットーの生き残り)の【Jurek Becker】「ほらふきヤーコプ」。同学社から出ている、日本でもお馴染みの本だ。正直、この原作の「ほらふき」こそが相応しく、「聖なる嘘つき」は、典型的な“集客のための邦題”だという気がしてならない。
ジェイコブは聖人などではない。自慢といえばジャムパンの発明者
だと思いこんでることくらいのかわいい庶民であり、性格もとりたてて勇敢でもなく、怯えるし愚痴もこぼすし腹も減るし迷いもする、哀愁漂う普通の中年のおやじだ。その彼が、なりゆき上、嘘の上塗りをしていかざるを得なくなっていく状況から、自分のデマかもしれない《ニュース》によって仲間が1人殺され、そのことにとことん苦しみ悩みつつも、自殺者が激減したことを聞き、それからは仲間に希望を与えるため、自分の意志で積極的に嘘を考え出し、小さな抵抗組織に力を与えていく、その過程が、観る者の魂を揺さぶるのだ。
聖人のようには悟りきれないジェイコブに、観客は深く共感できる。ロビン・ウィリアムスが脚本に惚れこんで、どうしても主演すると言った作品ならでは(制作総指揮にもかんでいる)の熱のこもった演技だ。ロビンらしい、「必死に頑張るけど困ってしまって笑うしかない哀感のこもった笑顔」が切ない・・・。
天涯孤独の儚げな幼女リーナを命がけでかくまうジェイコブ。
この2人の触れ合いが、荒みきった寒々しいスクリーンに唯一小さな灯火を添えている。この灯りが消えないで、とだれもが願わずにはいられなくなるだろう。
ラジオ放送の声真似を夢中でリーナのために演じ、地下室で踊るシーンが目に焼き付いている。
子供をかくまい、暗い現実を隠し嘘をつき続ける、という部分は、かの名作「ライフ・イズ・ビューティフル」に近い(1997年・イタリア)のだが、こちらは最初から最後までゲットー内のみが舞台。“美しいと思えるライフ=人生”はこの映画の登場人物たちには、ない。そして、ライフ・イズ〜ではあくまで自分の愛息子と愛妻のみが救いたい対象だが、(勿論、作品の趣旨が異なるため)ジェイコブは、仲間全員を1人で支えようとした。極限状態では真面目に頑張れば頑張るほど、コミカルに見えてしまうあたり、監督自身がホロコーストの生き残りである(ハンガリーのブタペスト出身、映画『ぼくの神さま』の主人公のように、カトリックの家庭にかくまわれてどうにか生き延びた経験の持ち主)、ナチスの恐ろしさを身をもって知るものだけが描けるリアリティなのだろう。 人生は残酷だ。「残酷」のもつ「可笑しみ」
を感じ取れるかどうかで、この作品への感想は違ってくるはずだ。
監督に一言モノ申すとすれば、英語なら英語で無理せず普通に喋らせてほしかった。ポーリッシュ訛りの英語、ドイツ語風英語、は
必要“以上”の可笑しさをかもし出してしまっている・・・。
(その点で、「ライフ・イズ・ビューティフル」は英語・イタリア語、ドイツ語をストーリー展開上正確に使い分け、『嘘』を効果的にしていたといえよう)
虐げられ飢え怯えた人間の最後の糧、そしてどんな凶悪な敵にも奪えない“力”は「希望」だということ。その希望が実現可能かどうかよりも、「信じようとする力」が地獄から天へ伸びる1本の、けれどすべての者が掴める金色の糸なのだということ----。
それを痛切に感じた。
ジェイコブはそれを痛いほど知っていたから、自分が蒔いた種を刈り取らず、大地に広げたまま去ったのだ・・・。
ラストシーンのリーナの見開かれた瞳に映ったものこそ真実。
耳に聞こえたものこそ真実。
★印象に残ったセリフ
Until the last line has been spoken, the curtain cannot come down.(芝居は最後のセリフまで幕は降りない。 ジェイコブがフランクフルターの声真似をして言ったセリフ)
ジェイコブの最後のセリフはない。なぜなら、幕を降ろさなかったから。
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