「グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版」
2003年1月5日グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版
【LE GRAND BLEU: VERSION LONGUE】1988年・仏・伊
監督: リュック・ベッソン
脚本: リュック・ベッソン
ロバート・ガーラント
音楽: エリック・セラ
出演: ジャン=マルク・バール( ジャック・マイヨール )
ジャン・レノ ( エンゾ・モリナーリ )
ロザンナ・アークエット(ジョアンナ・ベイカー )
<ストーリー>
1965年ギリシャ。アメリカ人の母に捨てられ、潜水漁をする父と叔父と暮らすフランス人少年ジャックは海と魚たちをこよなく愛して育った。村一番の潜水の名人を気取る2歳年上のイタリア少年エンゾにライバル視されてはいたが、争うことはなく2人は親友だったが、ある朝、漁に出た父が溺死しジャックは叔父と村を去った。
1988年のシシリー島。溺れたダイバーを救って荒稼ぎしたエンゾはジャックの消息を探し始める。その頃、南米ペルー、アンデス山脈。ジャックは天才的な潜水能力を世に知らしめることなく、こんな山奥で凍った湖に落ちたトラックの引上げ作業に従事していた。ニューヨークの保険会社のキャリアウーマン、ジョアンナは、保険金の調査に訪れ、ジャックに一目で惹かれてしまう。ジャックも、ジョアンナを見て、「イルカに似ている」と心ときめかせるのだった。そして、ペルーでの仕事を終え、南仏の自宅でイルカと楽しそうに語らうジャックの元にエンゾが現れる。シシリーで開催される世界潜水選手権大会に出場して、俺を負かしてみろ、と飛行機のチケットを渡して去った。この二人が再び海で再開するとき、己の生きる道をついに発見したジャックの才能は鮮やかに開花した!
すべてを捨ててジャックを追ってきたジョアンナに、初めて「人間の女の愛」を教えられるジャック。試合の記録は絶好調、愛と悦楽の日々を過ごすジャック。エンゾも負けじと記録を伸ばしてくる。競い合って伸び続けた2人の潜水深度は、もう医学的に見た人間の限界に達していた・・・・。
<感想>
現実に背を向け、至福の時を海の中に求めた2人の男。エンゾはステレオタイプのイタリア人で、家族を大切にし、一見何の不満もないように見えるが、かなりのマザコンであり、束縛を窮屈に思っているし、そのせいで女とも長続きしない。
ジャックは子供の頃に母に捨てられており、母親不在のまま成長して、人間の女性とどう関ったらよいかわからない。「母」になってしまった恋人の「求められる愛」から逃げるジャックも、押し潰されそうなほどの「与えられる母の愛」から内心は逃げたいエンゾも、陸にいる“母”から逃れ、ヒトではないすべての生き物の母の胎内=海の底へと導かれてしまう・・・・。
エンゾが還ったのは皮肉にもギリシャの海。イカロスが堕ちた海である。明らかにベッソン監督の意図であろう、舞台をギリシアとしたのは。海底に近づきたかった、自分に不可能はないと勇んで挑んだエンゾと、天に近づきたかった、もっともっと高く飛べる、と
神に挑んだイカロスは悲しいほど似ている。海を愛するだけならば、20年も前の幼馴染みを世界中から探し出す必要はなかったはずだ。自分のアイデンティティーを確認するためには、海に愛されている(とエンゾが確信しているに違いない)好敵手がどうしても必要だったのだ。そして、奢ったエンゾは海に嫌われた-----。
水底でも死なせてくれず、深さを征服することも許してくれなかった、海。だが、陸で人間としての現実と向き合っては生きられない
エンゾの肉体を、せめて土の中でなく海に抱かれて永眠させるジャックの友愛は深い。おそらくはたった1人、真を分かち合えた人間だったのだろう。
ではジャックは。
ジョアンナのラストの名ゼリフ、“Go and see, my love."
DVDの日本語訳は、誤訳かもしれない。
“Go and see my love."ならば字幕のとおり「私の愛を見てきなさい。」でよいのだが、なんとか解釈は可能なものの(=海に貴方を解放してあげるという、私の貴方への愛を見て)、どうも釈然としないので(彼との別れを覚悟した演技であるし言い方も「気がすむようにしなさい」というニュアンスだということと、何をとは限定せず「見たいんだ」という彼への返事なのだから)、英語字幕を念のため確認すると、やっぱり“Go and see, my love." とカンマが入っている。つまり、「行って見てきなさい、愛しいひとよ。」
でも、これは字幕か脚本をチェックしないかぎり、耳で聞いただけではゴーアンドスィーマイラブと早口に語られるので、どっちの解釈も可能なはずだ。監督はそこまで計算して、わざとこういうセリフにしたのだろうか・・・・・・。
いずれにせよ、ジョアンナも、イルカの心臓と血管を持つジャックにとって、陸の女は一時の慰みであり、ジャックの恐れる「現実社会」を押しつける存在であり、彼の心は海底にいると彼が語る“人魚”のものなのだと、文字通り《手綱》を放す・・・・・。その切なさが胸に迫る。
この作品は、ベッソン監督の愛娘ジョアンナに捧げられた物語。
撮影中に何度も心臓手術を繰り返したと伝えられている。
物語のモデルになったジャック・マイヨール氏は、2001年冬、
自宅にて自殺、74歳で亡くなっている。
エリック・セラの音楽が素晴らしいのは言うまでもない。この音楽あってこその作品だといえる。
ジャン・レノの怪演に圧倒されて、主役のジャン=マルク・バールが押されすぎなのは惜しかった。役所が「陽と陰」なので明るいほうが目をひくのは無理もないのだが、脚本がそもそも、エンゾに比べて、ジャックの人間的裏付けをほとんどしておらず、最初から最期まで「謎めいていてイルカとしか通じ合えない男」という人間味の薄い設定。これをもっとうまく活かせれば、人間臭いエンゾと
浮き世離れしたジャックとの対比(正反対なのに根が同じというあたり、まるでコインの裏表のよう)を印象的に描き出せたかもしれない。
【LE GRAND BLEU: VERSION LONGUE】1988年・仏・伊
監督: リュック・ベッソン
脚本: リュック・ベッソン
ロバート・ガーラント
音楽: エリック・セラ
出演: ジャン=マルク・バール( ジャック・マイヨール )
ジャン・レノ ( エンゾ・モリナーリ )
ロザンナ・アークエット(ジョアンナ・ベイカー )
<ストーリー>
1965年ギリシャ。アメリカ人の母に捨てられ、潜水漁をする父と叔父と暮らすフランス人少年ジャックは海と魚たちをこよなく愛して育った。村一番の潜水の名人を気取る2歳年上のイタリア少年エンゾにライバル視されてはいたが、争うことはなく2人は親友だったが、ある朝、漁に出た父が溺死しジャックは叔父と村を去った。
1988年のシシリー島。溺れたダイバーを救って荒稼ぎしたエンゾはジャックの消息を探し始める。その頃、南米ペルー、アンデス山脈。ジャックは天才的な潜水能力を世に知らしめることなく、こんな山奥で凍った湖に落ちたトラックの引上げ作業に従事していた。ニューヨークの保険会社のキャリアウーマン、ジョアンナは、保険金の調査に訪れ、ジャックに一目で惹かれてしまう。ジャックも、ジョアンナを見て、「イルカに似ている」と心ときめかせるのだった。そして、ペルーでの仕事を終え、南仏の自宅でイルカと楽しそうに語らうジャックの元にエンゾが現れる。シシリーで開催される世界潜水選手権大会に出場して、俺を負かしてみろ、と飛行機のチケットを渡して去った。この二人が再び海で再開するとき、己の生きる道をついに発見したジャックの才能は鮮やかに開花した!
すべてを捨ててジャックを追ってきたジョアンナに、初めて「人間の女の愛」を教えられるジャック。試合の記録は絶好調、愛と悦楽の日々を過ごすジャック。エンゾも負けじと記録を伸ばしてくる。競い合って伸び続けた2人の潜水深度は、もう医学的に見た人間の限界に達していた・・・・。
<感想>
現実に背を向け、至福の時を海の中に求めた2人の男。エンゾはステレオタイプのイタリア人で、家族を大切にし、一見何の不満もないように見えるが、かなりのマザコンであり、束縛を窮屈に思っているし、そのせいで女とも長続きしない。
ジャックは子供の頃に母に捨てられており、母親不在のまま成長して、人間の女性とどう関ったらよいかわからない。「母」になってしまった恋人の「求められる愛」から逃げるジャックも、押し潰されそうなほどの「与えられる母の愛」から内心は逃げたいエンゾも、陸にいる“母”から逃れ、ヒトではないすべての生き物の母の胎内=海の底へと導かれてしまう・・・・。
エンゾが還ったのは皮肉にもギリシャの海。イカロスが堕ちた海である。明らかにベッソン監督の意図であろう、舞台をギリシアとしたのは。海底に近づきたかった、自分に不可能はないと勇んで挑んだエンゾと、天に近づきたかった、もっともっと高く飛べる、と
神に挑んだイカロスは悲しいほど似ている。海を愛するだけならば、20年も前の幼馴染みを世界中から探し出す必要はなかったはずだ。自分のアイデンティティーを確認するためには、海に愛されている(とエンゾが確信しているに違いない)好敵手がどうしても必要だったのだ。そして、奢ったエンゾは海に嫌われた-----。
水底でも死なせてくれず、深さを征服することも許してくれなかった、海。だが、陸で人間としての現実と向き合っては生きられない
エンゾの肉体を、せめて土の中でなく海に抱かれて永眠させるジャックの友愛は深い。おそらくはたった1人、真を分かち合えた人間だったのだろう。
ではジャックは。
ジョアンナのラストの名ゼリフ、“Go and see, my love."
DVDの日本語訳は、誤訳かもしれない。
“Go and see my love."ならば字幕のとおり「私の愛を見てきなさい。」でよいのだが、なんとか解釈は可能なものの(=海に貴方を解放してあげるという、私の貴方への愛を見て)、どうも釈然としないので(彼との別れを覚悟した演技であるし言い方も「気がすむようにしなさい」というニュアンスだということと、何をとは限定せず「見たいんだ」という彼への返事なのだから)、英語字幕を念のため確認すると、やっぱり“Go and see, my love." とカンマが入っている。つまり、「行って見てきなさい、愛しいひとよ。」
でも、これは字幕か脚本をチェックしないかぎり、耳で聞いただけではゴーアンドスィーマイラブと早口に語られるので、どっちの解釈も可能なはずだ。監督はそこまで計算して、わざとこういうセリフにしたのだろうか・・・・・・。
いずれにせよ、ジョアンナも、イルカの心臓と血管を持つジャックにとって、陸の女は一時の慰みであり、ジャックの恐れる「現実社会」を押しつける存在であり、彼の心は海底にいると彼が語る“人魚”のものなのだと、文字通り《手綱》を放す・・・・・。その切なさが胸に迫る。
この作品は、ベッソン監督の愛娘ジョアンナに捧げられた物語。
撮影中に何度も心臓手術を繰り返したと伝えられている。
物語のモデルになったジャック・マイヨール氏は、2001年冬、
自宅にて自殺、74歳で亡くなっている。
エリック・セラの音楽が素晴らしいのは言うまでもない。この音楽あってこその作品だといえる。
ジャン・レノの怪演に圧倒されて、主役のジャン=マルク・バールが押されすぎなのは惜しかった。役所が「陽と陰」なので明るいほうが目をひくのは無理もないのだが、脚本がそもそも、エンゾに比べて、ジャックの人間的裏付けをほとんどしておらず、最初から最期まで「謎めいていてイルカとしか通じ合えない男」という人間味の薄い設定。これをもっとうまく活かせれば、人間臭いエンゾと
浮き世離れしたジャックとの対比(正反対なのに根が同じというあたり、まるでコインの裏表のよう)を印象的に描き出せたかもしれない。
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