「白い風船」

2003年1月6日
『白い風船』
【The White Balloon】1995年・イラン
★1996年ニューヨーク批評家協会賞 外国語映画賞受賞
★1995年カンヌ国際映画祭[カメラドール(新人監督賞)・CICAE芸術貢献賞・国際批評家連盟賞]受賞
★1995年東京国際映画祭[ヤングシネマ東京ゴールド賞]受賞
★1995年サンパウロ国際映画祭[最優秀作品賞、審査員特別賞]受賞

監督・編集・美術 :ジャファール・パナヒ
脚本 :アッバス・キアロスタミ
俳優:アイーダ・モハマッドカーニ (ラジエー)
  モーセン・カリフィ (アリお兄ちゃん)
   フェレシュテー・サドル・オーファニ(お母さん)
   アフガン難民の少年 (風船売り)

<ストーリー>
テヘランのイスラム歴3月21日、あと数時間で新年を迎える日の昼間の出来事。
7歳の少女ラジエーは、母親と年越しのための買い物から戻って新年の準備をしている。イランでは庭の池に金魚を飼う家が多く、正月には金魚鉢に入れて飾る習慣があるのだが、ラジエーは家にいる小さくて赤い金魚ではなくて、さっきお店で見た、白くて太ってて
ヒレがたくさんついてて花嫁さんみたいに綺麗な金魚が欲しくてどうにもたまらない。お母さんにおねだりして、やっとのことでお金をもらい、金魚鉢を抱えて家を飛び出した。1人で歩く街はわくわくする。道草しぃしぃお店に辿りついたら、お金がない!
細かいお金がなかったので預かってきたお金は大金。めそめそ泣くラジエーに同情した親切なおばさんと探しまわって、道に落ちているお札を発見・・・と思ったら、排水溝にスルリと落ちてしまった。鉄格子がはまっていてどう見ても取るのは無理そうだ。
大人たちは誰も手助けしてくれない。 日は暮れてゆく。金魚も買えないし、だいいち、あんな大金をなくしたなんてお母さんに言えない・・・。困り果てるラジエー。そこへ兄が帰りの遅い妹を心配して探しにくるが、兄とてどうにもならない。長い棒があればもしかして・・・。ふと見ると、風船売りの少年の持っている棒が目についた。

<感想>
そういえば、この映画の二年後に公開されたイランの『運動靴と赤い金魚』(マジッド ・マジディ監督)の主人公の兄妹の家にも、中庭のような場所に大きな水盤(人工池のようなもの)があって、赤い金魚が小道具として描かれていた。そんなイメージでこの作品を観たが、ジャファール・パナヒ監督の撮る「子供」は違った。
観客を、「子供の目線」にあっというまに引き込んでしまうのだ。
大人から見たコドモではないから、“純真無垢で健気で愛くるしい”い面より、大人の言うことなんて聞いちゃいないし、ワガママで欲しいと思ったらとことん欲しいとダダをこねるし、ダメって言われるほど、してみたくなるのだ。観客は、「あ〜困ったおチビちゃんだねぇ」という視線ではなく、ラジエーと一緒に困ってしまうのだ。これこそが、この映画のもっとも素晴らしいところである。

84分の上映時間のうち、75分は確実に、ラジエーの目線でこの“事件”を体験し、ラストの1分で、世界がひっくり返る。
ハッと夢から覚めたような混乱にクラっとしながら、スクリーンに
1人残された風船売りの名もなき少年の姿に“何か”を感じる。
タイトルがこの少年の持つ、1つ売れ残った「白い風船」なのは
やはり監督が何かを伝えたがっている所以だろう。

主人公の兄妹がイランの中流階級であることは、他のイラン映画を数作観ている人にはわかると思う(2人が学校に通っていること、身なりが、新年用の服ではあるがボロボロではないこと、金魚に“映画2回分”の代金が払えること、スラムに近寄らないよう教育されていること等から。『運動靴と赤い金魚』の兄妹の家庭はもっと貧しい)。2人は、ガム代を自分の稼ぎから出してくれた恐らくは親のないみすぼらしいなりの少年に、一言の礼も言わず、嬉々として立ち去ってしまうのだ。彼らは、これから母親がきれいに整えた自宅で、白い綺麗な金魚を眺めながら新年のご馳走を親戚一同と食べてお年玉をもらう。
風船売りの少年は、帰るあてもなく、売れ残った白い風船と共に
暮れなずむ街の片隅で立ちすくんで正月を迎えるのだ。
イラン映画は、予算の都合その他で、素人の子供を使うのが普通なようだ。『太陽はぼくの瞳』でも盲学校で主人公をスカウトしている。この作品でも同じで、風船売りの少年は、実際のアフガン難民であるという。

これが、ただの「はじめてのおつかい」物語だったらこれほどまでに評価されただろうか。一見、素朴な子供たちの日常をほのぼのと描いているようで(しかもその点だけでも素晴らしい)、世界に向けて“イランの現実”を言葉を用いず表現している、そこが凄い。

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