『レイジング・ブル』
【Raging Bull】 1980年・米

監督: マーティン・スコセッシ
脚本: ポール・シュレイダー / マーディク・マーチン
原作: ジェイク・ラモッタ 「怒れる雄牛(レイジング・ブル)」
俳優:ロバート・デ・ニーロ(ジェイク・ラモッタ)
   キャシー・モリアーティ (ビッキー)
    ジョー・ペシ(ジョーイ)
    フランク・ビンセント
    ニコラス・コラサント
    テレサ・サルダナ
1980年
★アカデミー主演男優賞 ・編集賞
★ゴールデン・グローブ賞 主演男優賞受賞
★ロサンゼルス批評家協会 主演男優賞受賞
★ニューヨーク批評家協会 主演男優賞受賞
★ナショナル・ボード・オブ・レビュー 主演男優賞受賞

<ストーリー>
1950年代に活躍したミドル級ボクサー、ジェイク・ラモッタの
半生記である。
イタリア移民のジェイクは不良からプロボクサーになり、そこそこの白星をあげるが、裏社会との取引きを嫌ったためタイトル挑戦の機会には恵まれなかった。だが、いくら強くてもいつまでもチャンピオンへに挑戦するチャンスが与えられず、賭けで儲ける裏社会と一回だけ手を結び、涙を飲んで八百長ボクシングに応じて負ける。当然大問題となり、しばらくの出場停止と、深い心の傷が残った。
それでも、約束が守られたとみえ、二年後の1949年、ようやくフランスのマルセル・セルダンとタイトルマッチを戦い、10ラウンドテクニカルノックアウトでタイトルを奪取する。こうしてやっとチャンピオンに輝いたジェイクだったが、年の離れた若く美しい妻への猜疑心とすべての知人の男たちへの嫉妬心ばかりがジェイクの心を占め、ついにはずっと自分を公私ともに支え続けてきた実の弟ジョーイにまで、妻を寝取ったのではないかと詰め寄り荒れ狂い、周囲の信頼を失ってゆく・・・。結局、二度防衛はしたが、宿敵ロビンソンにメッタ打ちにされタイトルを失う。血まみれになっても決してダウンしなかったのが彼の唯一の底意地であった。何もかも嫌になったジェイクは引退してパブのオーナーになり、三流芸人の真似事をして悦にいっていたが、妻子には逃げられ、家も財産ももっていかれ、未成年者に飲酒を許可した疑いで逮捕、保釈金が用意できず投獄される。
年月が経った。40代になっていたジェイクはすっかり腹も出て「元ボクサー」の肩書きだけの冴えない芸人になり、ワンマンショーを演じていた・・・。どうせ舞台に上がるなら、ボクシングじゃなくてお笑い芸人がいい、と語るジェイク。鏡に向かってシャドウボクシングをする彼を映し、物語は終わる。

<感想>
新約聖書ヨハネによる福音書第9章24-26
そこでパリサイ人たちは盲人であった人を もう一度呼んで言った。
「神に栄光を帰するがよい あの人が罪人であることは私たちには分かっている」
すると彼は言った。
「あの方が罪人であるかどうか私は知りません 
ただひとつの事だけ知っています 
私は盲であったが今は見えるということです」

ジェイクが20年余をかけ、見出したのはこの言葉。
すべてを失ってはじめて得た心の安息だとすれば、あまりに哀しい。
自分だけを愛し、自分だけが舞台でスポットライトをあびることだけを望んだ男ジェイクは、自分のためだけに半生を生きた。
ブロンクスの怒れる雄牛が、初めて自分の愚かさに怒るのが刑務所の懲罰牢だというのが悲しい。壁を叩いて真暗闇の中、“Why? Why?Why?”と悶絶するシーンは救い様のない哀れさで胸が詰まった。

彼が言うように、リングも、ショーパブも舞台だ。
けれど、彼は、「人生そのものが最大にして再演はない舞台だ」
ということに気がつかない。リングでも、ショーパブでもそれなりに観客がいたジェイクだが、人生という舞台の共演者はすべて失った・・・・。
全篇を通じて彼のテーマとして流れる「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲が、長く静かな嘆息のように感じられた。


作品の技法と俳優について。
マーティン・スコセッシ監督が、この作品をほとんどモノクロで撮影したのは、カラーフィルムの退色を恐れてのことらしいが、観客の目から見た効果として、ボクシングの血しぶきや汗を生々しく感じさせず、美しくすら感じさせる効果があったといえよう。そして、「虚無感」を表現しているのだ。ボクシング嫌いで有名なスコセッシ監督らしいテクニックだ。彼が幸せいっぱいだったほんの数年間(幼な妻ビッキーと結婚、弟も結婚してそれぞれ子供を授かって幸せな新婚時代)だけを、ホームビデオのような粗いカラーフィルムで「紹介」しているので、まさに「人生の明暗」をフィルムカラーで比喩したといえるだろう。

数々の主演男優賞を獲得したロバート・デ・ニーロは、特殊メークに頼らず、壮絶な減量や増量や脱毛などの末に外見をまるで別人のように変容させてしまう“デ・ニーロ・アプローチ”と呼ばれる役作りをこの作品で披露している。筋骨隆々のボクサーの体型を作り、次に引退後の役作りのために30kg太り髪を抜いている。
これがデ・ニーロ?と目を疑う変貌ぶりだ。凄い、の一言につきる。思いこみの激しい役が多いデ・ニーロ、本作でも、まさに
メラメラを瞳に炎を燃やした闘牛そのものの男を圧倒的迫力で演じきった。
特筆すべきは、弟役のジョー・ペシ。この作品に抜擢された時点では無名に近かったが、その後、スコセッシ監督と何度か組んでいる。弟はどこまでも常識人で小市民的であるぶん、兄の常軌を逸した言動が際立つのだ。それでいて、キレたら手におえないあたり、兄弟揃ってイタリア人らしさを見事にかもし出している(実際に監督も含めこの3人はイタリア移民)。

スコセッシ監督はメタファーを活かしたカメラワークが得意なようだが、この作品で最も印象的なのは、チャンピオンになった直後に映し出される自宅の“映らないTV”だ。弟とああだこうだ苛々と
アンテナをいじったり叩いてみたいしても、壊れたTVは砂嵐しか映さない・・・・。ビジョンを映さないテレビジョン。あっても価値のないもの。八百長で手にした挑戦権で手にしたチャンピオンベルト。怒りの砂嵐にまみれて見えない妻の心。聞こえない弟の忠告
。それらを実に的確に壊れたTVに象徴させているのだ。観客は、チャンピオンの栄光を映したであろう、このTVの末路を見て、ジェイクの末路も予想するのだ。
監督のセンスに感心してしまう。

ジェイクは理解されなかった。理解しようとしなかった。理解されようと努力もしなかった。そして、ついに“見えた”のだ。パッチリと目をあけて。
鏡に向かうラストシーンは静かな感動に包まれていた。


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