『ゴーストワールド』【GHOST WORLD】2001年・米
監督:テリー・ツワイゴフ
原作:ダニエル・クロウズ
脚色:ダニエル・クロウズ
  テリー・ツワイゴフ
制作:ジョン・マルコビッチ

出演:ソーラ・バーチ(イーニド)
スカーレット・ヨハンスン(レベッカ)
スティーヴ・ブシェミ(シーモア)
ブラッド・レンフロ(ジョシュ)
  イリーナ・ダグラス(美術のセンセー)

<ストーリー>
アメリカのティーンに大人気のオルタナティブコミックの映画化。原作者が深く映画化に関わって、原作にはいないキャラクター(シーモア)を登場させ、物語を補完している。

とことん口が悪く、容姿もパっとしないけどオシャレとお絵描きが趣味(?)のユダヤ人少女、イーニド。辛辣な言葉で世間を鼻で笑っていても、根はそこそこコンサバ、眩いブロンドの白人美少女の
レベッカ。幼なじみの二人は、高校を卒業し、ウサい家族から離れ、二人で面白おかしく暮らそう、と約束していた。

レベッカは、卒業後、しばらくイーニドとぷらぷら遊んでいたものの、アパート探しと、お金を得るための仕事探しをはじめ、やがてコーヒーショップの店員になり、大人の世界へ・・・。

イーニドは、世の中なんて、大人の世界なんてダサいと斜に構えていて、職も探さず、大学へも進まない。出逢い系の新聞広告にイタズラ電話をし、呼び出した男がさびしげにダイナーでミルクシェーキを飲む姿を見て、大爆笑。彼をストーキングし、出逢いの真実を
隠したまま、レコード名盤オタクの中年男、シーモアと仲良くなるイーニドだった。

イーニドは、仕事中心の毎日になり遊んでくれないレベッカに苛立ち、レベッカは、お金も稼がず親のすねをかじったままイケてない中年男を追いまわすイーニドに、お互いに距離感を感じ始める。

場当たり的に生きてきたイーニド、さまざまな出来事の成り行きから、精神的に八方塞りの状況に追いこまれていく・・・。

<感想>
人生を“留年”した女のコの物語。美術の補習を受けても、大人になるための補習授業なんて、ない。

彼女は、「したくないこと」「好きじゃないもの」はハッキリしすぎていても、「したいこと」「好きなもの」があやふや。否定するのは簡単だ。そして、10代のコが否定するのがcoolでイケてると
思っている場合が多い。

この映画は、観た人が、「どっち側の人間か」で評価が180℃
違ってくるだろう。映画の公平な評価は後ほどするとして、正直にいって、不愉快になった。映画に、ではない。イーニドに、だ。
ここまでイヤでお馬鹿で生意気で、可哀想で気の毒な“見た目も性格もブス”な少女を演じられるソーラ・バーチは凄い。だらしない歩き方、ガニ股、太い足、たるんだ二の腕と垂れた乳、への字口。
役作りは完璧だ。

イーニドの眼鏡。物を“見る”ためにかける眼鏡。だて眼鏡ではないが、外したときだけ、「寂しそうな弱々しい壊れそうなガラス細工のような少女」を面を見せる。化粧台の前で髪を染めているとき。ベッドで男に背をむけて寝ているとき・・・・・。
あの眼鏡は、むしろ「現実世界からプライドを守るためのバリア」としての役割があるのだろう。
吠える犬ほど何もできない。イーニドも、そう。

イーニドの「心の葛藤」はとてもよく描けている。
自分がバカにしている”世の中”、そこに入っていかなければ生きていけない悔しさ、不快感、不安、苛立ち。
世間を見下そうとすればするほど、居場所が無くなり、世の中を見放していたつもりが、世の中に自分が見放されて行き場がなくなっていくことに気付きはじめたイーニドの絶望。

私だけはあなたのよさをわかってあげるわ。そう思い、言ってあげた相手、シーモアと、まるでゴドーでも待っているかのようなベンチの老人にも去られる。

好みのテーマではない青春映画にも関らず、観たのは愛すべき名優、スティーヴ・ブシェミが出演しているからだ。相変わらずの、
「やばそうな、イカれてそうな」くたびれた男を演じているが、
「ファーゴ」のような「完全にキレちゃってる危険人物」ではなく、「普通の社会人だけど、レコードしか愛せない寂しい中年オタク」を絶妙のバランスで演じている。さすがだ。変わり者を演じて、関るとマズい人物、には決してならないというのは相当難しいと思う。


さて、皆さん、“ゴーストワールド”は、イーニドの住む街?それとも、彼女の行き先?
これをどう解釈するかによって、1人1人の心の中で、この映画の価値は違ってくる。

3つの考え方。
(1)ゴーストワールド=この街、この世界。幽霊のように地の足のついていないフワフワとした、生きている輝きの見出せない街。皆が幽霊に執りつかれていて、マトモなのは自分だけ(あくまでもイーニドにとって)
注:ゴーストタウンという言いまわしがある。誰も住んでいない
荒れた街のことを指す。

(2)ゴーストワールド:幽霊の世界→ 死後の世界

(3)ゴーストワールド:世界中、どこでも。※2と3については、ネタバレ部分を参照

________ネタバレ________



さて、物議をかもしたラストシーン。私は、老人が廃線バスに乗ってしまった時点で、ラストの展開は読めた。そして、“老人”であることからも、≪銀河鉄道の夜≫ のような、そして≪チューブテイルズ≫の第九話 のように(あれも廃線)「死後の世界へ運ぶ物」としてのメタファー、としか考えられなかったのだが、「希望のバス」だと評価した観客も決して少なくはないようで、これを判断するのは、観客1人1人の自由なのだろう。
でも、どこの街にいっても、“世の中”は同じ。「チョーイケてる」ことだけの“ワールド”が存在するか?いや、しない。
もしかして、だから”ゴーストワールド”なのか?? 「あり得ない世界」。
彼女は、世界中を旅しても、世界中が、「彼女にとってはゴーストワールド」なはずだ。
監督は、それを言いたかったのかも、しれない。それに気がちた彼女がどうするか興味のあるところだが、なにしろ、映画というのは、額縁で切り取った世界だ。「その前」も「その後」も(実話以外は)時の概念を持たない。・・・想像する自由だけは、ある。


では、「自殺」ととる場合。
やりたい放題、他人の人生をかきまわした主人公、大人になれない
主人公を、切り捨てるのか?
責任はとらせないのか?
この、やりっぱなし、放任主義こそが、アメリカの「大人」にではなく、ティーンネイジャーに、バカウケした理由なのではないだろうか。そこがクールだという感想も当然あっていい。
こういう発想は日本人的なのだろうか。それとも、大人の目線になってしまったからだろうか。彼女が、何かをきっかけとしておずおずとでもいいから、「世の中」も悪くないじゃん、と思ってほしかった・・・・。

井戸の中の蛙のイーニドちゃん。井戸の外には、何があったの?
何もなかった?それとも、井戸の外では生きられなかった?



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