『ブラックホーク・ダウン』
2003年2月14日ブラックホークダウン
【BLACK HAWK DOWN】 2001年・米
★アカデミー賞最優秀編集賞・最優秀音響賞受賞
製作:ジェリー・ブラッカイマー、リドリー・スコット
監督:リドリー・スコット
脚本:ケン・ノーラン
原作:マーク・ボウデン 「ブラックホーク・ダウン
アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録」(上)(下) ハヤカワ文庫
編集:ピエトロ・スカリアA.C.E.
作曲:ハンス・ジマー
俳優: ジョシュ・ハートネット(エヴァーズマン)
ユアン・マクレガー(グライムズ)
トム・サイズモア(マクナイト)
エリック・バナ(フート)
ユエン・ブレンナー(ネルソン)
サム・シェパード(ガリソン)
ジェイソン・アイザックス(スティール)
オーランド・ブルーム(ブラックバーン)
<ストーリー>
1993年10月3日、独裁政権の蛮行がはびこるソマリア。米軍のガリソン少将は、独裁者の副官を捕らえる作戦を実行に移す。ソマリアの首都モガディシオ市内に乗り込むのは、レンジャー部隊とデルタ部隊で構成された123人の精鋭兵士。
そのひとり、エヴァーズマン軍曹は、今回の戦闘で初めて一個隊の指揮を執ることになった。特技下士官のグライムズらとともに戦闘用ヘリ、ブラックホークに乗りこんだ彼は“隊全員を生きて連れて帰る”という誓いをかみしめる。
午後3時22分、兵士たちは市内への降下を開始。順調に進めば、作戦は1時間以内で終了するはずだった。ところがその時、ソマリア民族兵が攻撃を開始。これは新兵の墜落事故を誘発。さらに一機のブラックホークが撃墜されてしまった。勢いづいたソマリア民族兵の攻撃は、ますます激しくなり、降下した兵士たちは廃墟と化し
たビル内に釘づけにされ、作戦を遂行するどころではなくなっていた。
エヴァーズマンの隊も司令本部と連絡をとりつつ、合流地点を目指して銃弾のなかを駆けまわるが、安全な場所はどこにもない。救出に向かった車両隊も猛攻のまえに迷走するばかり。さらに2機目のブラックホークが撃墜されるにいたり、市街戦は泥沼化の一途をたどる…。
BLACK HAWK DOWN=ブラックホーク、墜落
<感想>
鑑賞する前は、プロデューサーがあのジェリー・ブラッカイマーと聞いて少々躊躇した。ハリウッド・エンターテイメントの大御所の彼が制作すると、相当娯楽色、アメリカ万歳色が強い作品なのではないかと心配したのだが、それは杞憂だった。監督があのリドリー・スコットあのだから。
全体を占める空気は、S・スピルバーグの『バンド・オブ・ブラザーズ』に近い。そう、安っぽいセンチメンタリズムを排したリアリズムと、兵士たちの、戦闘に入る前の銃を取る目的と、突入してからの戦闘の目的の違いを観客につきつけるスタイルが、だ。
血と泥と砂塵でどの兵士が誰だが判別するのすら難しい状況、ヘリコプターが巻き上げる砂嵐、ミニガンの空薬莢が大雨の如く流れ落ち乾いた地面に無数に転がる様、銃弾で弾けとびカメラにかかる土砂・・・。カメラが俯瞰の位置をとるのは、上空のヘリからの映像だけで、ほとんどが兵氏の目線の高さのカメラだ。カメラに向かってRPGが飛んでくる。
恐ろしいという感覚すら、あっという間に感覚から消し飛ぶ。ストーリーらしいストーリーのほとんどないこの映画中、ひたすら続く銃撃戦に恐怖心もマヒするのだ。帰りたい---生きて--それしかなくなっていく兵士たちを、カメラは克明にとらえていく。
この映画は、監督自身、述べているように、観客が「考える材料」にすればよい。ただ、安直に、他国による軍事介入の必要性についての是非を問うている、とは私は考えていない。
映画の中でも冒頭に述べられているように、ソマリア内戦は相当に特殊なケースであり、他国への介入といっても、ベトナムや、中東のように“アメリカの利害”が絡んだ戦争とは違うのだ。そこを理解していないと、「またアメリカが利権争いに首つっこんで勝手に死傷者を多数出したと騒いでいるのか」という、それだけのものになってしまう。
これを、ベトナムと同じ「意味のない戦争」と切り捨てて苦笑できるのは、火の粉のふりかからない場所にいる連中だけだ。
アメリカが、“純粋に人道的目的で”よその国に軍事仲介した、
「最初で最後」のケースではないか?
国連とアメリカの介入によって、アイディード将軍派に妨害されていた食糧の配給状況が改善され、餓死者が減ったのは事実だ。
クリントン大統領の「尻切れトンボ的」撤退は褒められたものではないため、アメリカのソマリア介入は冷淡視されがちだが、
少なくとも、この作品で描かれたモガディシオでの幹部拉致作戦がもしも成功していれば、アメリカはソマリアの餓死者を救った国として英雄になったことだろう。だが現実は・・。
このアメリカの威信を傷つけた作戦の失敗は、アメリカの大きなトラウマとなってしまった。
1994年のルワンダの大虐殺のとき、アメリカは何もできなかった。自国の兵氏の死者を多数出してまで、ボランティアはしない、と外交を変えた。ソマリア撤退決定後1年未満の1994年に、“PKOはアメリカの国益にかなったものでなければならない”という大統領決定がクリントンによって下されたことは記憶に新しい。
だが、政治的な背景について考えるのはここまでにしよう。
言いたかったのは、アメリカという“国”にとって最初で最後の
“正しい目的の軍事介入”だったこの戦争は、地上で殺意に満ちたソマリア民兵に囲まれ、自分や友や部下の血にまみれ、来ない迎えを待って銃を乱射し続けた兵士たちにとって、何であったのか。
“男同士の絆”を執拗に描き続けてきたリドリー・スコット監督
はそこを凝視しているように感じた。
結果として英雄になるだけ。
その時の自分たちは、とりこのされた仲間を救出し、自分も生きて
家族の元へ戻ること、もうそれしかないのだ。
アメリカに与えられた平和ボケのぬるま湯の中に浸かっている我々に、「なら軍隊に入らなきゃいい。」「自分だけなら逃げられたのに」と言い放つ資格は、ない。
この映画は、反戦プロパガンダでもないし、人情ものでもヒーローものでもない。
「なんでよその国に行って戦うんだ?」と問われ、答が出せない
ままソマリアに来た主人公エヴ。基地に戻ってただ思う。「仲間のためだ」
ここに人間のリアルがある。
「ソマリアの飢えた人々を解放するためさ」と思って砲火の中を
駆け抜けちゃいない。
・・そして、死ぬ間際にだけ、「正義のために勇敢に戦った」と
自分に言い聞かせ、親にそう伝えてほしいと願う。
どうしても命をかけて戦わねばならない状況におかれた男たちの
姿を、目をそむけず正視することが、生きている、これから厳しい世界情勢の中で生きていく我々の使命なのだと、思った。
戦場でのもしもは無意味だ・・・。だが、戦争は、「目的」と「結果」と「副産物」と「成果」が同じではない。
兵士たちの苦悩がそこにある。
ジョシュ・ハートネットやユアン・マクレガー等、人気若手俳優を主役格にもってくることで、女性には敬遠されがちなリドリー・スコット節の本作でも、相当な数の女性客を集められたようだ。
美形俳優としての見せ場は皆無に等しいが、慣れない指揮に戸惑い、部下を死なせたことにショックをうける若き指揮官の苦悩を
抑揚の効いた演技でみせていたジョシュ君、珈琲係で、実戦に参加できないと不平をもらしていたら突然の実戦参加、口では喜びながら恐怖にひきつりつつ、ユーモアで恐怖心を克服しようと懸命なグライムズを演じるユアン、この2人が、ドキュメンタリーを「映画
作品」にしていたように思う。
ベテランのサム・シェパード、作戦失敗に苦悩するガリソンの
苦悶をさすがの演技力で表現していた。
ひとつ、苦言を呈するならば、ハンス・ジマーの音楽は好きだが、
使い方が悪すぎる。絶えず流れ続ける民族音楽“風”BGMには閉口した。戦闘シーンに音楽は不要だ。
【BLACK HAWK DOWN】 2001年・米
★アカデミー賞最優秀編集賞・最優秀音響賞受賞
製作:ジェリー・ブラッカイマー、リドリー・スコット
監督:リドリー・スコット
脚本:ケン・ノーラン
原作:マーク・ボウデン 「ブラックホーク・ダウン
アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録」(上)(下) ハヤカワ文庫
編集:ピエトロ・スカリアA.C.E.
作曲:ハンス・ジマー
俳優: ジョシュ・ハートネット(エヴァーズマン)
ユアン・マクレガー(グライムズ)
トム・サイズモア(マクナイト)
エリック・バナ(フート)
ユエン・ブレンナー(ネルソン)
サム・シェパード(ガリソン)
ジェイソン・アイザックス(スティール)
オーランド・ブルーム(ブラックバーン)
<ストーリー>
1993年10月3日、独裁政権の蛮行がはびこるソマリア。米軍のガリソン少将は、独裁者の副官を捕らえる作戦を実行に移す。ソマリアの首都モガディシオ市内に乗り込むのは、レンジャー部隊とデルタ部隊で構成された123人の精鋭兵士。
そのひとり、エヴァーズマン軍曹は、今回の戦闘で初めて一個隊の指揮を執ることになった。特技下士官のグライムズらとともに戦闘用ヘリ、ブラックホークに乗りこんだ彼は“隊全員を生きて連れて帰る”という誓いをかみしめる。
午後3時22分、兵士たちは市内への降下を開始。順調に進めば、作戦は1時間以内で終了するはずだった。ところがその時、ソマリア民族兵が攻撃を開始。これは新兵の墜落事故を誘発。さらに一機のブラックホークが撃墜されてしまった。勢いづいたソマリア民族兵の攻撃は、ますます激しくなり、降下した兵士たちは廃墟と化し
たビル内に釘づけにされ、作戦を遂行するどころではなくなっていた。
エヴァーズマンの隊も司令本部と連絡をとりつつ、合流地点を目指して銃弾のなかを駆けまわるが、安全な場所はどこにもない。救出に向かった車両隊も猛攻のまえに迷走するばかり。さらに2機目のブラックホークが撃墜されるにいたり、市街戦は泥沼化の一途をたどる…。
BLACK HAWK DOWN=ブラックホーク、墜落
<感想>
鑑賞する前は、プロデューサーがあのジェリー・ブラッカイマーと聞いて少々躊躇した。ハリウッド・エンターテイメントの大御所の彼が制作すると、相当娯楽色、アメリカ万歳色が強い作品なのではないかと心配したのだが、それは杞憂だった。監督があのリドリー・スコットあのだから。
全体を占める空気は、S・スピルバーグの『バンド・オブ・ブラザーズ』に近い。そう、安っぽいセンチメンタリズムを排したリアリズムと、兵士たちの、戦闘に入る前の銃を取る目的と、突入してからの戦闘の目的の違いを観客につきつけるスタイルが、だ。
血と泥と砂塵でどの兵士が誰だが判別するのすら難しい状況、ヘリコプターが巻き上げる砂嵐、ミニガンの空薬莢が大雨の如く流れ落ち乾いた地面に無数に転がる様、銃弾で弾けとびカメラにかかる土砂・・・。カメラが俯瞰の位置をとるのは、上空のヘリからの映像だけで、ほとんどが兵氏の目線の高さのカメラだ。カメラに向かってRPGが飛んでくる。
恐ろしいという感覚すら、あっという間に感覚から消し飛ぶ。ストーリーらしいストーリーのほとんどないこの映画中、ひたすら続く銃撃戦に恐怖心もマヒするのだ。帰りたい---生きて--それしかなくなっていく兵士たちを、カメラは克明にとらえていく。
この映画は、監督自身、述べているように、観客が「考える材料」にすればよい。ただ、安直に、他国による軍事介入の必要性についての是非を問うている、とは私は考えていない。
映画の中でも冒頭に述べられているように、ソマリア内戦は相当に特殊なケースであり、他国への介入といっても、ベトナムや、中東のように“アメリカの利害”が絡んだ戦争とは違うのだ。そこを理解していないと、「またアメリカが利権争いに首つっこんで勝手に死傷者を多数出したと騒いでいるのか」という、それだけのものになってしまう。
これを、ベトナムと同じ「意味のない戦争」と切り捨てて苦笑できるのは、火の粉のふりかからない場所にいる連中だけだ。
アメリカが、“純粋に人道的目的で”よその国に軍事仲介した、
「最初で最後」のケースではないか?
国連とアメリカの介入によって、アイディード将軍派に妨害されていた食糧の配給状況が改善され、餓死者が減ったのは事実だ。
クリントン大統領の「尻切れトンボ的」撤退は褒められたものではないため、アメリカのソマリア介入は冷淡視されがちだが、
少なくとも、この作品で描かれたモガディシオでの幹部拉致作戦がもしも成功していれば、アメリカはソマリアの餓死者を救った国として英雄になったことだろう。だが現実は・・。
このアメリカの威信を傷つけた作戦の失敗は、アメリカの大きなトラウマとなってしまった。
1994年のルワンダの大虐殺のとき、アメリカは何もできなかった。自国の兵氏の死者を多数出してまで、ボランティアはしない、と外交を変えた。ソマリア撤退決定後1年未満の1994年に、“PKOはアメリカの国益にかなったものでなければならない”という大統領決定がクリントンによって下されたことは記憶に新しい。
だが、政治的な背景について考えるのはここまでにしよう。
言いたかったのは、アメリカという“国”にとって最初で最後の
“正しい目的の軍事介入”だったこの戦争は、地上で殺意に満ちたソマリア民兵に囲まれ、自分や友や部下の血にまみれ、来ない迎えを待って銃を乱射し続けた兵士たちにとって、何であったのか。
“男同士の絆”を執拗に描き続けてきたリドリー・スコット監督
はそこを凝視しているように感じた。
結果として英雄になるだけ。
その時の自分たちは、とりこのされた仲間を救出し、自分も生きて
家族の元へ戻ること、もうそれしかないのだ。
アメリカに与えられた平和ボケのぬるま湯の中に浸かっている我々に、「なら軍隊に入らなきゃいい。」「自分だけなら逃げられたのに」と言い放つ資格は、ない。
この映画は、反戦プロパガンダでもないし、人情ものでもヒーローものでもない。
「なんでよその国に行って戦うんだ?」と問われ、答が出せない
ままソマリアに来た主人公エヴ。基地に戻ってただ思う。「仲間のためだ」
ここに人間のリアルがある。
「ソマリアの飢えた人々を解放するためさ」と思って砲火の中を
駆け抜けちゃいない。
・・そして、死ぬ間際にだけ、「正義のために勇敢に戦った」と
自分に言い聞かせ、親にそう伝えてほしいと願う。
どうしても命をかけて戦わねばならない状況におかれた男たちの
姿を、目をそむけず正視することが、生きている、これから厳しい世界情勢の中で生きていく我々の使命なのだと、思った。
戦場でのもしもは無意味だ・・・。だが、戦争は、「目的」と「結果」と「副産物」と「成果」が同じではない。
兵士たちの苦悩がそこにある。
ジョシュ・ハートネットやユアン・マクレガー等、人気若手俳優を主役格にもってくることで、女性には敬遠されがちなリドリー・スコット節の本作でも、相当な数の女性客を集められたようだ。
美形俳優としての見せ場は皆無に等しいが、慣れない指揮に戸惑い、部下を死なせたことにショックをうける若き指揮官の苦悩を
抑揚の効いた演技でみせていたジョシュ君、珈琲係で、実戦に参加できないと不平をもらしていたら突然の実戦参加、口では喜びながら恐怖にひきつりつつ、ユーモアで恐怖心を克服しようと懸命なグライムズを演じるユアン、この2人が、ドキュメンタリーを「映画
作品」にしていたように思う。
ベテランのサム・シェパード、作戦失敗に苦悩するガリソンの
苦悶をさすがの演技力で表現していた。
ひとつ、苦言を呈するならば、ハンス・ジマーの音楽は好きだが、
使い方が悪すぎる。絶えず流れ続ける民族音楽“風”BGMには閉口した。戦闘シーンに音楽は不要だ。
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