「バンディッツ」(ドイツ映画)
2003年1月29日バンディッツ【bandits】 1997年・独
★第10回ゆうばり国際 冒険・ファンタスティック映画祭グランプリ受賞
監督 カティア・フォン・ガルニエ
脚本 カティア・フォン・ガルニエ / ウーベ・ヴィルヘルム
出演 カーチャ・リーマン (エマ)
ヤスミン・タバタバイ (ルナ)
ニコレッテ・クレビッツ (エンジェル)
ユッタ・ホフマン(マリー)
ハンネス・イェニケ(シュヴァルツ警部)
ヴェルナー・シュライヤー (人質くん、ウェスト)
アンドレア・サバスキ (ルートヴィッヒ)
<ストーリー>
監獄で、性格も年齢もバラバラの4人の女たちがロックバンドを結成。ちなみに理解あるシスターが顧問、その名もバンディッツ(悪党)。大手レコード会社にデモテープを送っても“論外”と切り捨てられクサっていた。
ボーカル&ギターのルナは凶暴な強盗犯。性格も粗野でキレると手がつけられない。ベースのエンジェルは、最年少にしてヤリ手の結婚詐欺師。オシャレと男が大好きなセクシーガール。
キーボードのマリーは、中年で分裂症気味、自殺癖がある。夫殺しで服役中。そして、つい最近殺人で入所したばかりの、ドラム担当、エマ。プロのミュージシャンだった彼女には悲惨な過去があったが、誰にも語ろうとしない。
そんなとき、新しい囚人更正システムとして、警察のパーティーへの生出演が決まり大喜びの4人。いよいよライブ当日。会場へ向かう護送車の中でスケベ看守にキレたルナが大暴れ。チャンスとばかりにエマが護送車を強奪して脱獄に成功する。
脱獄女囚のロックバンドという話題性に目をつけたレコード会社は、以前送られてきたデモテープをラジオで流してみたら大ブームに。逃走資金を得るために、彼女たちはなんとレコード会社に乗りこみ、5万マルクをゲット。船で南米に渡る夢を実現させるため、
3週間後の出航まで、逃げてはライブ、通報されてはまた逃げ切って、とライブと逃走を繰り返すうち、CDも売れに売れ、ドイツ中にポスターが貼られ、押しも押されぬ人気絶頂バンドになっていくが・・・・。
<コメント>
ハリウッドでのリメイクが決まっているが、ブルース・ウィリス、
ビリー・ボブ・ソーントン主演の『バンディッツ』とはまったく無関係である。
全国的な人気者になってしまった脱獄犯の逃走ロードムービー、という点では同じだが。
音楽映画の要素の強い本作品、彼女たちのイカす演奏をたっぷり楽しめる。ボーカルのルナ役のヤスミン・タバタバイは、イラン出身の歌手。オリエンタルな魅力に溢れ、雌豹のように挑戦的で鋭い瞳が印象的だ。
荒唐無稽で破天荒、無茶なわりに不思議なリアリティを感じさせ、ハラハラさせられっぱなし。人質の青年とエンジェル、ルナそれぞれとのSEXシーンは二人の官能的な個性が全開、作品を盛り上げる。
1人、年をとっているマリーと、深い悲しみを秘めたエマの存在が、この作品を軽すぎる青春音楽映画に留めない。
「死がはじめるとき、死は終わるの」
マリーの言葉を噛み締めるメンバーたちの行く末は・・・・・。
ラストシーンは人によって解釈の分かれるところだろう。状況から連想される事態は1つだと思うのだが、あえて決定的に描かない監督のセンスに拍手。
生きる意味と証を音楽によって得た彼女たちは、輝いていた。
まだ30才の若きカティア・フォン・ガルニエ監督、一時期ブラピとの恋の噂が流れたので、ご存知の方も多いかもしれない。
最大の名場面は、ビートルズの『レット・イット・ビー』へのオマージュと考えられる、ハンブルグ港での屋上ライヴだろう。
繰り返される“Catch me”のサビ。観衆への願い。警察への挑戦、両方をかけたナイスな歌詞だ。檻から飛び立つ野生の鳥のように美しかった。
アメリカ映画のように“友情”をセリフで語らず、行動で示すところがたまらなくイイ。ギクシャクしつつも、音楽を通して4人の結束がしだいに縄をなうように固いものになっていく脚本が素晴らしい。
友達の証って何だろう。彼女たちの答は、“約束を守ること”。
黙って赦しあうことだった・・・。
殺人犯も2人いるのだが、マリーが夫を毒殺した理由が精神分裂によるものなのか、説明不足だったが、エマに関しては、『この森で天使はバスを降りた』 のパーシーに似て、
あまりにも気の毒なもの。
私利私欲のために殺人を犯した強欲な人間は、彼女たちの中にはいない。そうでないと、脱獄犯に“がんばれ、逃げ切って!”という応援の気持ちを観客に持たせるのはムリというものだ。
しかしまぁ、映画に描かれる警察の間抜けさと人間臭さは、2年後に公開されたニュー・ジャーマン・シネマの金字塔的存在の『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』でも継承されていて苦笑してしまった。
音楽と映像のカッコよさを楽しむだけでも、一見の価値はある。
とても好きなドイツ映画がまた増えた。
★第10回ゆうばり国際 冒険・ファンタスティック映画祭グランプリ受賞
監督 カティア・フォン・ガルニエ
脚本 カティア・フォン・ガルニエ / ウーベ・ヴィルヘルム
出演 カーチャ・リーマン (エマ)
ヤスミン・タバタバイ (ルナ)
ニコレッテ・クレビッツ (エンジェル)
ユッタ・ホフマン(マリー)
ハンネス・イェニケ(シュヴァルツ警部)
ヴェルナー・シュライヤー (人質くん、ウェスト)
アンドレア・サバスキ (ルートヴィッヒ)
<ストーリー>
監獄で、性格も年齢もバラバラの4人の女たちがロックバンドを結成。ちなみに理解あるシスターが顧問、その名もバンディッツ(悪党)。大手レコード会社にデモテープを送っても“論外”と切り捨てられクサっていた。
ボーカル&ギターのルナは凶暴な強盗犯。性格も粗野でキレると手がつけられない。ベースのエンジェルは、最年少にしてヤリ手の結婚詐欺師。オシャレと男が大好きなセクシーガール。
キーボードのマリーは、中年で分裂症気味、自殺癖がある。夫殺しで服役中。そして、つい最近殺人で入所したばかりの、ドラム担当、エマ。プロのミュージシャンだった彼女には悲惨な過去があったが、誰にも語ろうとしない。
そんなとき、新しい囚人更正システムとして、警察のパーティーへの生出演が決まり大喜びの4人。いよいよライブ当日。会場へ向かう護送車の中でスケベ看守にキレたルナが大暴れ。チャンスとばかりにエマが護送車を強奪して脱獄に成功する。
脱獄女囚のロックバンドという話題性に目をつけたレコード会社は、以前送られてきたデモテープをラジオで流してみたら大ブームに。逃走資金を得るために、彼女たちはなんとレコード会社に乗りこみ、5万マルクをゲット。船で南米に渡る夢を実現させるため、
3週間後の出航まで、逃げてはライブ、通報されてはまた逃げ切って、とライブと逃走を繰り返すうち、CDも売れに売れ、ドイツ中にポスターが貼られ、押しも押されぬ人気絶頂バンドになっていくが・・・・。
<コメント>
ハリウッドでのリメイクが決まっているが、ブルース・ウィリス、
ビリー・ボブ・ソーントン主演の『バンディッツ』とはまったく無関係である。
全国的な人気者になってしまった脱獄犯の逃走ロードムービー、という点では同じだが。
音楽映画の要素の強い本作品、彼女たちのイカす演奏をたっぷり楽しめる。ボーカルのルナ役のヤスミン・タバタバイは、イラン出身の歌手。オリエンタルな魅力に溢れ、雌豹のように挑戦的で鋭い瞳が印象的だ。
荒唐無稽で破天荒、無茶なわりに不思議なリアリティを感じさせ、ハラハラさせられっぱなし。人質の青年とエンジェル、ルナそれぞれとのSEXシーンは二人の官能的な個性が全開、作品を盛り上げる。
1人、年をとっているマリーと、深い悲しみを秘めたエマの存在が、この作品を軽すぎる青春音楽映画に留めない。
「死がはじめるとき、死は終わるの」
マリーの言葉を噛み締めるメンバーたちの行く末は・・・・・。
ラストシーンは人によって解釈の分かれるところだろう。状況から連想される事態は1つだと思うのだが、あえて決定的に描かない監督のセンスに拍手。
生きる意味と証を音楽によって得た彼女たちは、輝いていた。
まだ30才の若きカティア・フォン・ガルニエ監督、一時期ブラピとの恋の噂が流れたので、ご存知の方も多いかもしれない。
最大の名場面は、ビートルズの『レット・イット・ビー』へのオマージュと考えられる、ハンブルグ港での屋上ライヴだろう。
繰り返される“Catch me”のサビ。観衆への願い。警察への挑戦、両方をかけたナイスな歌詞だ。檻から飛び立つ野生の鳥のように美しかった。
アメリカ映画のように“友情”をセリフで語らず、行動で示すところがたまらなくイイ。ギクシャクしつつも、音楽を通して4人の結束がしだいに縄をなうように固いものになっていく脚本が素晴らしい。
友達の証って何だろう。彼女たちの答は、“約束を守ること”。
黙って赦しあうことだった・・・。
殺人犯も2人いるのだが、マリーが夫を毒殺した理由が精神分裂によるものなのか、説明不足だったが、エマに関しては、『この森で天使はバスを降りた』 のパーシーに似て、
あまりにも気の毒なもの。
私利私欲のために殺人を犯した強欲な人間は、彼女たちの中にはいない。そうでないと、脱獄犯に“がんばれ、逃げ切って!”という応援の気持ちを観客に持たせるのはムリというものだ。
しかしまぁ、映画に描かれる警察の間抜けさと人間臭さは、2年後に公開されたニュー・ジャーマン・シネマの金字塔的存在の『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』でも継承されていて苦笑してしまった。
音楽と映像のカッコよさを楽しむだけでも、一見の価値はある。
とても好きなドイツ映画がまた増えた。
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「バンディッツ」(アメリカ映画)
2003年1月28日バンディッツ
【BANDITS】2001年・米
監督:バリー・レビンソン
脚本・製作総指揮:ハーレイ・ベイトン
俳優:ブルース・ウィリス(ジョー)
ビリー・ボブ・ソーントン(テリー)
ケイト・ブランシェット(ケイト)
トロイ・ガリティ(ハーヴィー)
ボビー・ストーレン(人気キャスター)
<ストーリー>
オレゴン州立刑務所。キレやすい行動派のタフガイ、ジョーは、作業中のミキサー車を見て咄嗟に思いつき、不意打ち奪取。ものの勢いで助手席に乗り込んでしまった、気弱だけど頭はキレる親友テリーと共に鉄柵を蹴散らし、まんまと脱獄に成功する。
メキシコでのホテル経営を実現させる資金づくりのため、ジョーとテリーは銀行強盗を決意するが、リスクが高すぎる。そこでテリーが、最も静かで安全な、ある方法を考え出した。計画はこうだ。強盗決行前夜に支店長の家にお邪魔して一家を脅し、仲良く夕食を食べ、その家に泊まる。翌朝、行員が出社する前に支店長を連れて銀行へ。大金を引き出してもらう、というわけ。
最初の犯行はコレで成功するが、全米のメディアに取り上げられ、“お泊まり強盗”として注目の的になり、犯罪ドキュメンタリーでは毎週大特集。
そんな二人の前に、夫との家庭生活に失望した主婦ケイトが現れる。つきまとうなと拳銃を突きつけられても恐がるどころか、「自殺したいとこだったの!」と迫るケイトに呆れるテリー。惚れてしまうジョー。この事件がきっかけで、タイクツな日常からの脱出を夢見るケイトがジョーとテリーの仲間に加わった。表向きには「人質」ということで。
ジョーの従兄弟でスタントマン志望のハーヴィーを“運び屋”として加えた彼ら4人の犯罪ツアーは次々に成功、ジョー&テリー、ケイトは、クールでイカしたバンディッツ(悪党)&悲劇のヒロインとしてマスコミや世間の人気者に。
しかし、ケイトがジョーとテリー、二人の男を同時に愛し、愛されてしまったことから、歯車が狂っていくのだった・・・・。
カリフォルニア。最後の大計画、小細工なしの“真正面から銀行強盗”に挑んだ彼らの運命や、如何に!?
<感想>
これは面白い!痛快でロマンティック、衝撃で笑撃のラスト。
はりつめた緊張感と、ツっこみたくなる間抜けさの絶妙なバランスが心憎い。
登場人物のキャラクター設定がステレオタイプではあるが、はっきりしているのが成功の理由だろう。ワルは複雑な人間じゃつまらない。
ブルース・ウィリス演じるジョーは、短気で怒ると手がつけられない、筋肉ムキムキ男。でも、愛読書は孫子や老子。
ビリー・ボブ・ソーントン(ブルース・ウィリスのたっての希望で、『アルマゲドン』のコンビが再び組めたという)演じるテリーは、自分を重病人だと思いこんでる神経症の気弱な男。でも、知識と頭脳はズバ抜けてるし心優しき紳士。
ケイト・ブランシェット演じるケイトは、リッチな家庭の主婦だが、夫は仕事中毒、ちっともかまってくれなくて欲求不満、スリルを求めて家出しちゃう美人妻。歌がダイスキだが、強烈音痴。
陰が薄そうな“運び屋”ハーヴィーも、夢と惚れた女のコを追いかける執念で笑いをとっているし、彼の活躍なしにはこの計画はあり得ない。トロイ・ガリティがすっとぼけたハンサム君をお茶目に演じている。
犯罪者コンビがメディアの人気になってしまうのは洋画にはよくある展開だが、こやつらはそのメディアを逆手にとってしまうところがナイス。
人質にされる皆さんの個性も豊かで楽しめること間違いなし。
【BANDITS】2001年・米
監督:バリー・レビンソン
脚本・製作総指揮:ハーレイ・ベイトン
俳優:ブルース・ウィリス(ジョー)
ビリー・ボブ・ソーントン(テリー)
ケイト・ブランシェット(ケイト)
トロイ・ガリティ(ハーヴィー)
ボビー・ストーレン(人気キャスター)
<ストーリー>
オレゴン州立刑務所。キレやすい行動派のタフガイ、ジョーは、作業中のミキサー車を見て咄嗟に思いつき、不意打ち奪取。ものの勢いで助手席に乗り込んでしまった、気弱だけど頭はキレる親友テリーと共に鉄柵を蹴散らし、まんまと脱獄に成功する。
メキシコでのホテル経営を実現させる資金づくりのため、ジョーとテリーは銀行強盗を決意するが、リスクが高すぎる。そこでテリーが、最も静かで安全な、ある方法を考え出した。計画はこうだ。強盗決行前夜に支店長の家にお邪魔して一家を脅し、仲良く夕食を食べ、その家に泊まる。翌朝、行員が出社する前に支店長を連れて銀行へ。大金を引き出してもらう、というわけ。
最初の犯行はコレで成功するが、全米のメディアに取り上げられ、“お泊まり強盗”として注目の的になり、犯罪ドキュメンタリーでは毎週大特集。
そんな二人の前に、夫との家庭生活に失望した主婦ケイトが現れる。つきまとうなと拳銃を突きつけられても恐がるどころか、「自殺したいとこだったの!」と迫るケイトに呆れるテリー。惚れてしまうジョー。この事件がきっかけで、タイクツな日常からの脱出を夢見るケイトがジョーとテリーの仲間に加わった。表向きには「人質」ということで。
ジョーの従兄弟でスタントマン志望のハーヴィーを“運び屋”として加えた彼ら4人の犯罪ツアーは次々に成功、ジョー&テリー、ケイトは、クールでイカしたバンディッツ(悪党)&悲劇のヒロインとしてマスコミや世間の人気者に。
しかし、ケイトがジョーとテリー、二人の男を同時に愛し、愛されてしまったことから、歯車が狂っていくのだった・・・・。
カリフォルニア。最後の大計画、小細工なしの“真正面から銀行強盗”に挑んだ彼らの運命や、如何に!?
<感想>
これは面白い!痛快でロマンティック、衝撃で笑撃のラスト。
はりつめた緊張感と、ツっこみたくなる間抜けさの絶妙なバランスが心憎い。
登場人物のキャラクター設定がステレオタイプではあるが、はっきりしているのが成功の理由だろう。ワルは複雑な人間じゃつまらない。
ブルース・ウィリス演じるジョーは、短気で怒ると手がつけられない、筋肉ムキムキ男。でも、愛読書は孫子や老子。
ビリー・ボブ・ソーントン(ブルース・ウィリスのたっての希望で、『アルマゲドン』のコンビが再び組めたという)演じるテリーは、自分を重病人だと思いこんでる神経症の気弱な男。でも、知識と頭脳はズバ抜けてるし心優しき紳士。
ケイト・ブランシェット演じるケイトは、リッチな家庭の主婦だが、夫は仕事中毒、ちっともかまってくれなくて欲求不満、スリルを求めて家出しちゃう美人妻。歌がダイスキだが、強烈音痴。
陰が薄そうな“運び屋”ハーヴィーも、夢と惚れた女のコを追いかける執念で笑いをとっているし、彼の活躍なしにはこの計画はあり得ない。トロイ・ガリティがすっとぼけたハンサム君をお茶目に演じている。
犯罪者コンビがメディアの人気になってしまうのは洋画にはよくある展開だが、こやつらはそのメディアを逆手にとってしまうところがナイス。
人質にされる皆さんの個性も豊かで楽しめること間違いなし。
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「グッドモーニング・ベトナム」
2003年1月27日『グッドモーニング・ベトナム』
【GOOD MORNING VIETNAM】
1988年・米
監督: バリー・レビンソン
脚本: ミッチ・マーコウィッツ
俳優:ロビン・ウィリアムス (エイドリアン・クロンナウア)
フォレスト・ウィテカー(ガーリック)
ドゥング・タン・トラン (ツァン)
チンタラ・スカバタナ (トリン)
<ストーリー>
1965年、サイゴンに米軍放送のDJ、エイドリアン・クロンナウアが赴任してきた。彼が流すギンギンのロックンロールと、大統領までジョークのネタにしてしまうブラック・ユーモアたっぷりのマシンガン・トークは、たちまち戦場の兵士たちの心をつかむ。動転したのは軍の上層部だが、あまりの人気ぶりに、なかなか降板させられない。脳天気なクロンナウアは、街で出会った慎ましやかな美少女トリンを追いかけ、彼女の通う英語学校の教師を志願して生徒たちと猥談まじりの型破りな英会話授業を始めて、そこでも人気者に。妹トリンに近づく米兵を警戒していた、青年ツァンと友達になったクロンナウアだったが、しだいにサイゴンの町にも不穏な空気が漂いはじめる-----。
<感想>
予備知識として、物語の舞台である1965年というのは、ベトナム戦争のスタート地点である、ということを押さえておきたい。
セリフにもあるように、サイゴンはあの時点では戦場ではない。
アメリカがお節介にも「侵攻」してきた頃であり、いわゆるポリスアクション=軍事活動をしている状態だ。
もちろん、最前線では、他のベトナム戦争映画で描かれているような白兵戦になっているのだが、戦争が泥沼化していくのは、この映画のラストからであり、この時点では、まだ、サイゴンあたりでは「アメリカは正義だ、ベトナムの民間人を助けにきてやった」という胸を張っていたアメリカ兵が普通であった。この感覚が壊れていくのは、66年〜終戦、戦後である。
その時期のサイゴンだ、ということを踏まえて観ないと、理解しにくい。
クロンナウアは、銃撃戦の経験もなく、仲間が死ぬのを見たのは、
GIバーの爆破事故が恐らく初めて。そんなだから、ベトナム人が死ぬところも見たことはないだろうし、操作された情報しかDJ室には入ってこないから、民間人が村ごと焼き払われていることも、知らない。
そこからくる、この脳天気さなのである。
だから、トリンにも「あなた、わかってない」と呆れられる。
ラストでツァンに、裏切り者、と<友情を失った怒り>をぶつけ、逆に、米兵によって<罪なき自分の身内の命や足を失った怒り>
をツァンに泣きながら叫ばれて、初めて「この戦争の正体」を知る・・・このシーンで悶絶し嗚咽し地団太をふむクロンナウアが
哀しい。
だが、この気持ちを、ラジオで前線でベトコンと戦う兵たちには伝えられるはずもない。自分が今まで励まして勇気づけてきた兵たちが、ベトナム人の殺戮を・・・自分が親しくなったサイゴンの人々ももしかしたら、彼らの銃に倒れるかもしれないのだ・・。
だから、彼がガーリックに託したテープには、万感の思いがありながらも、早口にひとこと、「戦争ダイスキな国防総省」としか。
いよいよ本格的な「戦争」に投入されてゆく若い新兵が飛行機から降りてくる姿を見つめるクロンナウアの胸中はいかばかりであったろう。
ところで、この作品につきものの論争。
サッチモ(アームストロングの愛称)の『この素晴らしき世界』。
他の曲と明らかに扱いが違うことにお気づきだろうか。
この曲の間にだけ、爆撃シーン、銃殺シーンが入る。音はない。
愛聴版のサッチモのCDを確認したが、やはり、1965年には存在していない曲だ。1967年に世に出ている、つまり、この曲だけ、監督が意図的に観客に「歌詞を聴かせたかった」と考えていいだろう。
意訳になってしまうが、
緑の木々、赤いバラ 君と僕のために美しく輝いている
僕はただひとり想う 何と素晴らしい世界なのだろう
空の青さ、雲の白さ 明るく幸せな日々、 神聖な夜
僕はただひとり想う 何と素晴らしい世界なのだろう
七色の虹が大空に 行きかう人々もにこやか
「コンニチワ」友だちが手を握り 挨拶を交わす
心の底から「愛しているよ」と囁くんだ
赤んぼうが泣いている あの子らは大きくなって
僕が知らないことを沢山学ぶだろう
僕はただひとり想う 何と素晴らしい世界なのだろう
揶揄か、皮肉か。いろいろ考えられる。だが、私個人としては、
これはきっと監督の祈りなのではないだろうか・・・・と思う。
反戦を謳った曲ではない。「愛すべき日常への賛歌」だ。
皮肉に聞こえたら、これほど泣けない。絶望的な人間の蛮行を、
ベトナムの青い空と緑濃い木々は黙して見つめているのだ。
ちょっと気になったのは、やはりとってつけたような「英語学校」。トリンだけは、話す英語が、たどたどしいが、クロンナウアの早口英語は理解できて応対しているのも妙だし、老人まで英語ペラペラな生徒ばかりだったが?「バターを渡してください」という初級英語のクラスであの流暢な会話はどう考えても妙だ。
すべて英語で通して字幕を使わないのがハリウッド式だが、ときたま通訳つきで現地語が出てくるので、やはりおかしい。
ところで、アメリカ人から見たベトナム戦争ではない、ツァンのような一般農民だった人物の目を通して描いた゛ベトナム”なら、
オリバー・ストーン監督のベトナム三部作の最後、「天と地」をおすすめしたい。
【GOOD MORNING VIETNAM】
1988年・米
監督: バリー・レビンソン
脚本: ミッチ・マーコウィッツ
俳優:ロビン・ウィリアムス (エイドリアン・クロンナウア)
フォレスト・ウィテカー(ガーリック)
ドゥング・タン・トラン (ツァン)
チンタラ・スカバタナ (トリン)
<ストーリー>
1965年、サイゴンに米軍放送のDJ、エイドリアン・クロンナウアが赴任してきた。彼が流すギンギンのロックンロールと、大統領までジョークのネタにしてしまうブラック・ユーモアたっぷりのマシンガン・トークは、たちまち戦場の兵士たちの心をつかむ。動転したのは軍の上層部だが、あまりの人気ぶりに、なかなか降板させられない。脳天気なクロンナウアは、街で出会った慎ましやかな美少女トリンを追いかけ、彼女の通う英語学校の教師を志願して生徒たちと猥談まじりの型破りな英会話授業を始めて、そこでも人気者に。妹トリンに近づく米兵を警戒していた、青年ツァンと友達になったクロンナウアだったが、しだいにサイゴンの町にも不穏な空気が漂いはじめる-----。
<感想>
予備知識として、物語の舞台である1965年というのは、ベトナム戦争のスタート地点である、ということを押さえておきたい。
セリフにもあるように、サイゴンはあの時点では戦場ではない。
アメリカがお節介にも「侵攻」してきた頃であり、いわゆるポリスアクション=軍事活動をしている状態だ。
もちろん、最前線では、他のベトナム戦争映画で描かれているような白兵戦になっているのだが、戦争が泥沼化していくのは、この映画のラストからであり、この時点では、まだ、サイゴンあたりでは「アメリカは正義だ、ベトナムの民間人を助けにきてやった」という胸を張っていたアメリカ兵が普通であった。この感覚が壊れていくのは、66年〜終戦、戦後である。
その時期のサイゴンだ、ということを踏まえて観ないと、理解しにくい。
クロンナウアは、銃撃戦の経験もなく、仲間が死ぬのを見たのは、
GIバーの爆破事故が恐らく初めて。そんなだから、ベトナム人が死ぬところも見たことはないだろうし、操作された情報しかDJ室には入ってこないから、民間人が村ごと焼き払われていることも、知らない。
そこからくる、この脳天気さなのである。
だから、トリンにも「あなた、わかってない」と呆れられる。
ラストでツァンに、裏切り者、と<友情を失った怒り>をぶつけ、逆に、米兵によって<罪なき自分の身内の命や足を失った怒り>
をツァンに泣きながら叫ばれて、初めて「この戦争の正体」を知る・・・このシーンで悶絶し嗚咽し地団太をふむクロンナウアが
哀しい。
だが、この気持ちを、ラジオで前線でベトコンと戦う兵たちには伝えられるはずもない。自分が今まで励まして勇気づけてきた兵たちが、ベトナム人の殺戮を・・・自分が親しくなったサイゴンの人々ももしかしたら、彼らの銃に倒れるかもしれないのだ・・。
だから、彼がガーリックに託したテープには、万感の思いがありながらも、早口にひとこと、「戦争ダイスキな国防総省」としか。
いよいよ本格的な「戦争」に投入されてゆく若い新兵が飛行機から降りてくる姿を見つめるクロンナウアの胸中はいかばかりであったろう。
ところで、この作品につきものの論争。
サッチモ(アームストロングの愛称)の『この素晴らしき世界』。
他の曲と明らかに扱いが違うことにお気づきだろうか。
この曲の間にだけ、爆撃シーン、銃殺シーンが入る。音はない。
愛聴版のサッチモのCDを確認したが、やはり、1965年には存在していない曲だ。1967年に世に出ている、つまり、この曲だけ、監督が意図的に観客に「歌詞を聴かせたかった」と考えていいだろう。
意訳になってしまうが、
緑の木々、赤いバラ 君と僕のために美しく輝いている
僕はただひとり想う 何と素晴らしい世界なのだろう
空の青さ、雲の白さ 明るく幸せな日々、 神聖な夜
僕はただひとり想う 何と素晴らしい世界なのだろう
七色の虹が大空に 行きかう人々もにこやか
「コンニチワ」友だちが手を握り 挨拶を交わす
心の底から「愛しているよ」と囁くんだ
赤んぼうが泣いている あの子らは大きくなって
僕が知らないことを沢山学ぶだろう
僕はただひとり想う 何と素晴らしい世界なのだろう
揶揄か、皮肉か。いろいろ考えられる。だが、私個人としては、
これはきっと監督の祈りなのではないだろうか・・・・と思う。
反戦を謳った曲ではない。「愛すべき日常への賛歌」だ。
皮肉に聞こえたら、これほど泣けない。絶望的な人間の蛮行を、
ベトナムの青い空と緑濃い木々は黙して見つめているのだ。
ちょっと気になったのは、やはりとってつけたような「英語学校」。トリンだけは、話す英語が、たどたどしいが、クロンナウアの早口英語は理解できて応対しているのも妙だし、老人まで英語ペラペラな生徒ばかりだったが?「バターを渡してください」という初級英語のクラスであの流暢な会話はどう考えても妙だ。
すべて英語で通して字幕を使わないのがハリウッド式だが、ときたま通訳つきで現地語が出てくるので、やはりおかしい。
ところで、アメリカ人から見たベトナム戦争ではない、ツァンのような一般農民だった人物の目を通して描いた゛ベトナム”なら、
オリバー・ストーン監督のベトナム三部作の最後、「天と地」をおすすめしたい。
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「PLANET OF THE APES/ 猿の惑星」
2003年1月26日『PLANET OF THE APES/ 猿の惑星』【Planet of the Apes】2001年・米
監督:ティム・バートン
脚本:ウィリアム・ブロイルス.Jr.
ローレンス・コナー&マーク・ローゼンタール
制作:リチャード・D・ザナック
特殊メイク&デザイン:リック・ベイカー
俳優:マーク・ウォルバーグ(レオ)
ティム・ロス(セード将軍)
ヘレナ・ボナム=カーター(アリ)
マイケル・クラーク・ダンカン(アター)
エステラ・ウォーレン(ディナ)
ポール・ジャマッティ(リンボー)
<ストーリー>
2029年。宇宙へと開発の手を伸ばす人類は、相棒としてチンパンジーを選んだ。ここ、宇宙スペース・ステーション、オベロン号にも訓練されたチンパンジーのパイロット、ペリクリーズが乗り込み、惑星間の偵察の訓練を続けていた。 そんなとき、宇宙空間に異常が認められ、有人探索の前に猿を、との艦長の命令で、ペリクリーズは偵察ポッドに乗り込み調査へと向かうが、磁気嵐に飲まれ消息を絶ってしまう。一体、彼に何が起きたのか。ペリクリーズの
訓練担当である宇宙飛行士レオ・デイビッドソンは命令に背き、単身、宇宙へと飛び出して行く。そして、彼もまた消息を絶ってしまう。
レオが意識を取り戻したのは、未知の惑星に落下するポッドのなかだった。どうにか燃えるポッドから脱出した彼が目にしたものは、逃げまどう原始的な服装の人間たちと、彼らを狩って奴隷にする、話す猿人たち。この謎の惑星は知性を持った猿が支配していたのだ!
だが、レオは諦めなかった。母船オベロン号を捜さねば。
彼はこの星の人間にはない高い知能と、軍人としての行動力、統率力があった。かくて彼は立ち上がる。自由を求める人間たちのため、平等を理想とする一部の猿たちのため、そして何よりこの恐ろしい世界から逃げて、仲間たちに再開するために。数名で森を抜け出したところまではよかったのだが、彼の所持していたレーダーが
反応する場所までどうにか辿りついた彼らが見たものとは・・・。
レオを待っていたのは、驚愕の事実だった・・・・!
<感想>
昔の名シリーズ「猿の惑星」にインスピレーションを得て、ティム・バートンが"リ・イマジネーション”して創りあげた作品。
いわゆる"リメーク”ではないんだぞ、と監督は念を押している。
リック・ベイカーが特殊メーク担当なだけに、猿人たちの姿は完璧にサルであり、恐ろしく、可笑しい。
ティム・ロスの美貌も特殊メークの下、だが、「思いこみの激しいキャラ」「執念」の演技はティムの得意とするところ。敵役、セード将軍を憎たらしく演じていて、お見事。
何が笑えるといって、唯一の「現代人」であるマーク・ウォルバーグが、サル顔だということだろう。原始人の美女ディナにも教養あるお嬢様猿人のアリにも、モテモテなのがツボにはまる可笑しさ。
もちろん、サルを利用しているつもりが利用されるハメに陥ることへの辛辣な皮肉もこめられているのだが、お説教臭さはほぼ微塵もない。なにしろ、監督がティム・バートンだ。愛すべきティム・バートンの不気味カワイいシュールな世界を、単純に楽しめばいい。
そして、ラストでニヤリと笑うもよし、ゾっとするもよし、エンディングでは、何通りもの謎解きができるだろう。時間軸を扱ったSFには必ず生じるパラドクスだ。
考えられるラストの解釈をいくつか・・・
(1) オベロン号・・・磁気嵐にて有史以前の地球に不時着→檻が壊れ磁気嵐のせいで狂暴化したサルたちによってオベロン号の乗員は全滅。→ 進化の過程が狂い、人間は原始人のままあまり
進化せず、サルが高度な知能を持つにいたった。
↓
2機のポッド・・・・その後の地球に不時着→映画のストーリー→人類と猿人の共存に貢献
↓
レオ・・・帰った先も、やっぱり地球。ただし、磁気嵐のよって次元が歪み、レオが来なかった=あのまま猿が人間を奴隷とし続けた未来の世界にご帰着。
これが考えられる1つ目のオチ。
(2)もっと素直に
オベロン号・・・・未知の惑星(=猿の惑星)に、あの時、磁気嵐にのまれて墜落
↓
船は大破、自由になった知能の高い猿が自然の豊かな星でどんどん繁殖した。
あの星の人間は、乗員たちの生き残りの子孫もいるだろうし、
もともと原始的な人間はいたかもしれない。
↓
レオの帰った先は、磁気嵐から抜けられず、やっぱり同じ惑星、
但し、相当な未来。ラストで、セード将軍は死んでいないことを
考えると、あの銅像はあり得る。銃器を持たない人間VSあの猿人たち が、たとえばペリクリーズをめぐって再び対立を起こしたとすれば、あっさり人間は負けてもおかしくない。
これが2つめの考えられるオチ。
(3)
2つのポッドとオベロン号が落ちたのはどっちの星でもよし。
ラスト、彼が帰還したのは地球。ただし未来。猿の研究が進みすぎて、銃器も扱えるようになっている猿に、人間は支配される側、あるいは絶命している。
等など・・・・です。
ただ、磁場が絡むと、時間軸も次元軸も、変えられるのがSFなので、正解はないと思います。
でも、どのみち、「知識を持ってしまった生き物の行く末は同じ」ですね。あのラストのサルたちも、あと100年もしたら、
何か別の生き物か、あるいは機械に「支配」されているかもしれません。
そういう皮肉を含んだ映画だ、ということでしょう。
監督:ティム・バートン
脚本:ウィリアム・ブロイルス.Jr.
ローレンス・コナー&マーク・ローゼンタール
制作:リチャード・D・ザナック
特殊メイク&デザイン:リック・ベイカー
俳優:マーク・ウォルバーグ(レオ)
ティム・ロス(セード将軍)
ヘレナ・ボナム=カーター(アリ)
マイケル・クラーク・ダンカン(アター)
エステラ・ウォーレン(ディナ)
ポール・ジャマッティ(リンボー)
<ストーリー>
2029年。宇宙へと開発の手を伸ばす人類は、相棒としてチンパンジーを選んだ。ここ、宇宙スペース・ステーション、オベロン号にも訓練されたチンパンジーのパイロット、ペリクリーズが乗り込み、惑星間の偵察の訓練を続けていた。 そんなとき、宇宙空間に異常が認められ、有人探索の前に猿を、との艦長の命令で、ペリクリーズは偵察ポッドに乗り込み調査へと向かうが、磁気嵐に飲まれ消息を絶ってしまう。一体、彼に何が起きたのか。ペリクリーズの
訓練担当である宇宙飛行士レオ・デイビッドソンは命令に背き、単身、宇宙へと飛び出して行く。そして、彼もまた消息を絶ってしまう。
レオが意識を取り戻したのは、未知の惑星に落下するポッドのなかだった。どうにか燃えるポッドから脱出した彼が目にしたものは、逃げまどう原始的な服装の人間たちと、彼らを狩って奴隷にする、話す猿人たち。この謎の惑星は知性を持った猿が支配していたのだ!
だが、レオは諦めなかった。母船オベロン号を捜さねば。
彼はこの星の人間にはない高い知能と、軍人としての行動力、統率力があった。かくて彼は立ち上がる。自由を求める人間たちのため、平等を理想とする一部の猿たちのため、そして何よりこの恐ろしい世界から逃げて、仲間たちに再開するために。数名で森を抜け出したところまではよかったのだが、彼の所持していたレーダーが
反応する場所までどうにか辿りついた彼らが見たものとは・・・。
レオを待っていたのは、驚愕の事実だった・・・・!
<感想>
昔の名シリーズ「猿の惑星」にインスピレーションを得て、ティム・バートンが"リ・イマジネーション”して創りあげた作品。
いわゆる"リメーク”ではないんだぞ、と監督は念を押している。
リック・ベイカーが特殊メーク担当なだけに、猿人たちの姿は完璧にサルであり、恐ろしく、可笑しい。
ティム・ロスの美貌も特殊メークの下、だが、「思いこみの激しいキャラ」「執念」の演技はティムの得意とするところ。敵役、セード将軍を憎たらしく演じていて、お見事。
何が笑えるといって、唯一の「現代人」であるマーク・ウォルバーグが、サル顔だということだろう。原始人の美女ディナにも教養あるお嬢様猿人のアリにも、モテモテなのがツボにはまる可笑しさ。
もちろん、サルを利用しているつもりが利用されるハメに陥ることへの辛辣な皮肉もこめられているのだが、お説教臭さはほぼ微塵もない。なにしろ、監督がティム・バートンだ。愛すべきティム・バートンの不気味カワイいシュールな世界を、単純に楽しめばいい。
そして、ラストでニヤリと笑うもよし、ゾっとするもよし、エンディングでは、何通りもの謎解きができるだろう。時間軸を扱ったSFには必ず生じるパラドクスだ。
考えられるラストの解釈をいくつか・・・
(1) オベロン号・・・磁気嵐にて有史以前の地球に不時着→檻が壊れ磁気嵐のせいで狂暴化したサルたちによってオベロン号の乗員は全滅。→ 進化の過程が狂い、人間は原始人のままあまり
進化せず、サルが高度な知能を持つにいたった。
↓
2機のポッド・・・・その後の地球に不時着→映画のストーリー→人類と猿人の共存に貢献
↓
レオ・・・帰った先も、やっぱり地球。ただし、磁気嵐のよって次元が歪み、レオが来なかった=あのまま猿が人間を奴隷とし続けた未来の世界にご帰着。
これが考えられる1つ目のオチ。
(2)もっと素直に
オベロン号・・・・未知の惑星(=猿の惑星)に、あの時、磁気嵐にのまれて墜落
↓
船は大破、自由になった知能の高い猿が自然の豊かな星でどんどん繁殖した。
あの星の人間は、乗員たちの生き残りの子孫もいるだろうし、
もともと原始的な人間はいたかもしれない。
↓
レオの帰った先は、磁気嵐から抜けられず、やっぱり同じ惑星、
但し、相当な未来。ラストで、セード将軍は死んでいないことを
考えると、あの銅像はあり得る。銃器を持たない人間VSあの猿人たち が、たとえばペリクリーズをめぐって再び対立を起こしたとすれば、あっさり人間は負けてもおかしくない。
これが2つめの考えられるオチ。
(3)
2つのポッドとオベロン号が落ちたのはどっちの星でもよし。
ラスト、彼が帰還したのは地球。ただし未来。猿の研究が進みすぎて、銃器も扱えるようになっている猿に、人間は支配される側、あるいは絶命している。
等など・・・・です。
ただ、磁場が絡むと、時間軸も次元軸も、変えられるのがSFなので、正解はないと思います。
でも、どのみち、「知識を持ってしまった生き物の行く末は同じ」ですね。あのラストのサルたちも、あと100年もしたら、
何か別の生き物か、あるいは機械に「支配」されているかもしれません。
そういう皮肉を含んだ映画だ、ということでしょう。
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「ゴーストワールド」
2003年1月25日『ゴーストワールド』【GHOST WORLD】2001年・米
監督:テリー・ツワイゴフ
原作:ダニエル・クロウズ
脚色:ダニエル・クロウズ
テリー・ツワイゴフ
制作:ジョン・マルコビッチ
出演:ソーラ・バーチ(イーニド)
スカーレット・ヨハンスン(レベッカ)
スティーヴ・ブシェミ(シーモア)
ブラッド・レンフロ(ジョシュ)
イリーナ・ダグラス(美術のセンセー)
<ストーリー>
アメリカのティーンに大人気のオルタナティブコミックの映画化。原作者が深く映画化に関わって、原作にはいないキャラクター(シーモア)を登場させ、物語を補完している。
とことん口が悪く、容姿もパっとしないけどオシャレとお絵描きが趣味(?)のユダヤ人少女、イーニド。辛辣な言葉で世間を鼻で笑っていても、根はそこそこコンサバ、眩いブロンドの白人美少女の
レベッカ。幼なじみの二人は、高校を卒業し、ウサい家族から離れ、二人で面白おかしく暮らそう、と約束していた。
レベッカは、卒業後、しばらくイーニドとぷらぷら遊んでいたものの、アパート探しと、お金を得るための仕事探しをはじめ、やがてコーヒーショップの店員になり、大人の世界へ・・・。
イーニドは、世の中なんて、大人の世界なんてダサいと斜に構えていて、職も探さず、大学へも進まない。出逢い系の新聞広告にイタズラ電話をし、呼び出した男がさびしげにダイナーでミルクシェーキを飲む姿を見て、大爆笑。彼をストーキングし、出逢いの真実を
隠したまま、レコード名盤オタクの中年男、シーモアと仲良くなるイーニドだった。
イーニドは、仕事中心の毎日になり遊んでくれないレベッカに苛立ち、レベッカは、お金も稼がず親のすねをかじったままイケてない中年男を追いまわすイーニドに、お互いに距離感を感じ始める。
場当たり的に生きてきたイーニド、さまざまな出来事の成り行きから、精神的に八方塞りの状況に追いこまれていく・・・。
<感想>
人生を“留年”した女のコの物語。美術の補習を受けても、大人になるための補習授業なんて、ない。
彼女は、「したくないこと」「好きじゃないもの」はハッキリしすぎていても、「したいこと」「好きなもの」があやふや。否定するのは簡単だ。そして、10代のコが否定するのがcoolでイケてると
思っている場合が多い。
この映画は、観た人が、「どっち側の人間か」で評価が180℃
違ってくるだろう。映画の公平な評価は後ほどするとして、正直にいって、不愉快になった。映画に、ではない。イーニドに、だ。
ここまでイヤでお馬鹿で生意気で、可哀想で気の毒な“見た目も性格もブス”な少女を演じられるソーラ・バーチは凄い。だらしない歩き方、ガニ股、太い足、たるんだ二の腕と垂れた乳、への字口。
役作りは完璧だ。
イーニドの眼鏡。物を“見る”ためにかける眼鏡。だて眼鏡ではないが、外したときだけ、「寂しそうな弱々しい壊れそうなガラス細工のような少女」を面を見せる。化粧台の前で髪を染めているとき。ベッドで男に背をむけて寝ているとき・・・・・。
あの眼鏡は、むしろ「現実世界からプライドを守るためのバリア」としての役割があるのだろう。
吠える犬ほど何もできない。イーニドも、そう。
イーニドの「心の葛藤」はとてもよく描けている。
自分がバカにしている”世の中”、そこに入っていかなければ生きていけない悔しさ、不快感、不安、苛立ち。
世間を見下そうとすればするほど、居場所が無くなり、世の中を見放していたつもりが、世の中に自分が見放されて行き場がなくなっていくことに気付きはじめたイーニドの絶望。
私だけはあなたのよさをわかってあげるわ。そう思い、言ってあげた相手、シーモアと、まるでゴドーでも待っているかのようなベンチの老人にも去られる。
好みのテーマではない青春映画にも関らず、観たのは愛すべき名優、スティーヴ・ブシェミが出演しているからだ。相変わらずの、
「やばそうな、イカれてそうな」くたびれた男を演じているが、
「ファーゴ」のような「完全にキレちゃってる危険人物」ではなく、「普通の社会人だけど、レコードしか愛せない寂しい中年オタク」を絶妙のバランスで演じている。さすがだ。変わり者を演じて、関るとマズい人物、には決してならないというのは相当難しいと思う。
さて、皆さん、“ゴーストワールド”は、イーニドの住む街?それとも、彼女の行き先?
これをどう解釈するかによって、1人1人の心の中で、この映画の価値は違ってくる。
3つの考え方。
(1)ゴーストワールド=この街、この世界。幽霊のように地の足のついていないフワフワとした、生きている輝きの見出せない街。皆が幽霊に執りつかれていて、マトモなのは自分だけ(あくまでもイーニドにとって)
注:ゴーストタウンという言いまわしがある。誰も住んでいない
荒れた街のことを指す。
(2)ゴーストワールド:幽霊の世界→ 死後の世界
(3)ゴーストワールド:世界中、どこでも。※2と3については、ネタバレ部分を参照
________ネタバレ________
さて、物議をかもしたラストシーン。私は、老人が廃線バスに乗ってしまった時点で、ラストの展開は読めた。そして、“老人”であることからも、≪銀河鉄道の夜≫ のような、そして≪チューブテイルズ≫の第九話 のように(あれも廃線)「死後の世界へ運ぶ物」としてのメタファー、としか考えられなかったのだが、「希望のバス」だと評価した観客も決して少なくはないようで、これを判断するのは、観客1人1人の自由なのだろう。
でも、どこの街にいっても、“世の中”は同じ。「チョーイケてる」ことだけの“ワールド”が存在するか?いや、しない。
もしかして、だから”ゴーストワールド”なのか?? 「あり得ない世界」。
彼女は、世界中を旅しても、世界中が、「彼女にとってはゴーストワールド」なはずだ。
監督は、それを言いたかったのかも、しれない。それに気がちた彼女がどうするか興味のあるところだが、なにしろ、映画というのは、額縁で切り取った世界だ。「その前」も「その後」も(実話以外は)時の概念を持たない。・・・想像する自由だけは、ある。
では、「自殺」ととる場合。
やりたい放題、他人の人生をかきまわした主人公、大人になれない
主人公を、切り捨てるのか?
責任はとらせないのか?
この、やりっぱなし、放任主義こそが、アメリカの「大人」にではなく、ティーンネイジャーに、バカウケした理由なのではないだろうか。そこがクールだという感想も当然あっていい。
こういう発想は日本人的なのだろうか。それとも、大人の目線になってしまったからだろうか。彼女が、何かをきっかけとしておずおずとでもいいから、「世の中」も悪くないじゃん、と思ってほしかった・・・・。
井戸の中の蛙のイーニドちゃん。井戸の外には、何があったの?
何もなかった?それとも、井戸の外では生きられなかった?
監督:テリー・ツワイゴフ
原作:ダニエル・クロウズ
脚色:ダニエル・クロウズ
テリー・ツワイゴフ
制作:ジョン・マルコビッチ
出演:ソーラ・バーチ(イーニド)
スカーレット・ヨハンスン(レベッカ)
スティーヴ・ブシェミ(シーモア)
ブラッド・レンフロ(ジョシュ)
イリーナ・ダグラス(美術のセンセー)
<ストーリー>
アメリカのティーンに大人気のオルタナティブコミックの映画化。原作者が深く映画化に関わって、原作にはいないキャラクター(シーモア)を登場させ、物語を補完している。
とことん口が悪く、容姿もパっとしないけどオシャレとお絵描きが趣味(?)のユダヤ人少女、イーニド。辛辣な言葉で世間を鼻で笑っていても、根はそこそこコンサバ、眩いブロンドの白人美少女の
レベッカ。幼なじみの二人は、高校を卒業し、ウサい家族から離れ、二人で面白おかしく暮らそう、と約束していた。
レベッカは、卒業後、しばらくイーニドとぷらぷら遊んでいたものの、アパート探しと、お金を得るための仕事探しをはじめ、やがてコーヒーショップの店員になり、大人の世界へ・・・。
イーニドは、世の中なんて、大人の世界なんてダサいと斜に構えていて、職も探さず、大学へも進まない。出逢い系の新聞広告にイタズラ電話をし、呼び出した男がさびしげにダイナーでミルクシェーキを飲む姿を見て、大爆笑。彼をストーキングし、出逢いの真実を
隠したまま、レコード名盤オタクの中年男、シーモアと仲良くなるイーニドだった。
イーニドは、仕事中心の毎日になり遊んでくれないレベッカに苛立ち、レベッカは、お金も稼がず親のすねをかじったままイケてない中年男を追いまわすイーニドに、お互いに距離感を感じ始める。
場当たり的に生きてきたイーニド、さまざまな出来事の成り行きから、精神的に八方塞りの状況に追いこまれていく・・・。
<感想>
人生を“留年”した女のコの物語。美術の補習を受けても、大人になるための補習授業なんて、ない。
彼女は、「したくないこと」「好きじゃないもの」はハッキリしすぎていても、「したいこと」「好きなもの」があやふや。否定するのは簡単だ。そして、10代のコが否定するのがcoolでイケてると
思っている場合が多い。
この映画は、観た人が、「どっち側の人間か」で評価が180℃
違ってくるだろう。映画の公平な評価は後ほどするとして、正直にいって、不愉快になった。映画に、ではない。イーニドに、だ。
ここまでイヤでお馬鹿で生意気で、可哀想で気の毒な“見た目も性格もブス”な少女を演じられるソーラ・バーチは凄い。だらしない歩き方、ガニ股、太い足、たるんだ二の腕と垂れた乳、への字口。
役作りは完璧だ。
イーニドの眼鏡。物を“見る”ためにかける眼鏡。だて眼鏡ではないが、外したときだけ、「寂しそうな弱々しい壊れそうなガラス細工のような少女」を面を見せる。化粧台の前で髪を染めているとき。ベッドで男に背をむけて寝ているとき・・・・・。
あの眼鏡は、むしろ「現実世界からプライドを守るためのバリア」としての役割があるのだろう。
吠える犬ほど何もできない。イーニドも、そう。
イーニドの「心の葛藤」はとてもよく描けている。
自分がバカにしている”世の中”、そこに入っていかなければ生きていけない悔しさ、不快感、不安、苛立ち。
世間を見下そうとすればするほど、居場所が無くなり、世の中を見放していたつもりが、世の中に自分が見放されて行き場がなくなっていくことに気付きはじめたイーニドの絶望。
私だけはあなたのよさをわかってあげるわ。そう思い、言ってあげた相手、シーモアと、まるでゴドーでも待っているかのようなベンチの老人にも去られる。
好みのテーマではない青春映画にも関らず、観たのは愛すべき名優、スティーヴ・ブシェミが出演しているからだ。相変わらずの、
「やばそうな、イカれてそうな」くたびれた男を演じているが、
「ファーゴ」のような「完全にキレちゃってる危険人物」ではなく、「普通の社会人だけど、レコードしか愛せない寂しい中年オタク」を絶妙のバランスで演じている。さすがだ。変わり者を演じて、関るとマズい人物、には決してならないというのは相当難しいと思う。
さて、皆さん、“ゴーストワールド”は、イーニドの住む街?それとも、彼女の行き先?
これをどう解釈するかによって、1人1人の心の中で、この映画の価値は違ってくる。
3つの考え方。
(1)ゴーストワールド=この街、この世界。幽霊のように地の足のついていないフワフワとした、生きている輝きの見出せない街。皆が幽霊に執りつかれていて、マトモなのは自分だけ(あくまでもイーニドにとって)
注:ゴーストタウンという言いまわしがある。誰も住んでいない
荒れた街のことを指す。
(2)ゴーストワールド:幽霊の世界→ 死後の世界
(3)ゴーストワールド:世界中、どこでも。※2と3については、ネタバレ部分を参照
________ネタバレ________
さて、物議をかもしたラストシーン。私は、老人が廃線バスに乗ってしまった時点で、ラストの展開は読めた。そして、“老人”であることからも、≪銀河鉄道の夜≫ のような、そして≪チューブテイルズ≫の第九話 のように(あれも廃線)「死後の世界へ運ぶ物」としてのメタファー、としか考えられなかったのだが、「希望のバス」だと評価した観客も決して少なくはないようで、これを判断するのは、観客1人1人の自由なのだろう。
でも、どこの街にいっても、“世の中”は同じ。「チョーイケてる」ことだけの“ワールド”が存在するか?いや、しない。
もしかして、だから”ゴーストワールド”なのか?? 「あり得ない世界」。
彼女は、世界中を旅しても、世界中が、「彼女にとってはゴーストワールド」なはずだ。
監督は、それを言いたかったのかも、しれない。それに気がちた彼女がどうするか興味のあるところだが、なにしろ、映画というのは、額縁で切り取った世界だ。「その前」も「その後」も(実話以外は)時の概念を持たない。・・・想像する自由だけは、ある。
では、「自殺」ととる場合。
やりたい放題、他人の人生をかきまわした主人公、大人になれない
主人公を、切り捨てるのか?
責任はとらせないのか?
この、やりっぱなし、放任主義こそが、アメリカの「大人」にではなく、ティーンネイジャーに、バカウケした理由なのではないだろうか。そこがクールだという感想も当然あっていい。
こういう発想は日本人的なのだろうか。それとも、大人の目線になってしまったからだろうか。彼女が、何かをきっかけとしておずおずとでもいいから、「世の中」も悪くないじゃん、と思ってほしかった・・・・。
井戸の中の蛙のイーニドちゃん。井戸の外には、何があったの?
何もなかった?それとも、井戸の外では生きられなかった?
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「ミリオンダラー・ホテル」
2003年1月24日ミリオンダラー・ホテル
【THE MILLION DOLLAR HOTEL】1999年独・米
★第50回ベルリン映画祭銀熊賞受賞
監督:ヴィム・ヴェンダース
原案:ボノ(U2)、ニコラス・クライン
製作総指揮:ウルリッヒ・フェルスベルグ
製作:ヴィム・ヴェンダース、ボノ(U2)、ニコラス・クライン
脚本:ニコラス・クライン
俳優:ジェレミー・デイヴィス(トムトム)
ミラ・ジョヴォヴィッチ (エロイーズ)
ジミー・スミッツ(ジェロニモ)
ピーター・ストーメア(ディクシー)
アマンダ・プラマー(ビビアン)
グロリア・スチュアート(ジェシカ)
メル・ギブソン(捜査官スキナー)
ティム・ロス(イジー):イジー役だけノンクレジットだが、99%ティムと思われる
<ストーリー>
L.A.の「ミリオンダラーホテル」には、治療費が払えず精神病院からも
見放された貧乏狂人や、社会からはみ出した者たちが住み着いていた。自分を酋長だと言うジェロニモ、ビートルズに曲を提供したのは自分だと思いこんでいるディクシー、読書好きな娼婦エロイーズ、彼女に憧れていて、ホテルの雑用で食いつなぐ、知的障害者の心優しき青年トムトムをはじめとする様々な人々・・・・。
ある日、トムトムの親友イジーがホテルの屋上から落ちて死亡。
イジーが大金持ちの息子だということが分かり、FBIの捜査官スキナーが犯人探しのために派遣されてやってくる。 自殺だと誰もが思っていたこの事件だが、メディアを牛耳るユダヤ人のイジーの父は、ユダヤ教徒が自殺はあり得ない(恥でもあるし、自殺だとマズいのだ)と言い張り、どうにかして「犯人」を探せ、とスキナーに命じたのだった。
メディア王の1人息子が場末のホテルで変死、というニュースは
世間を騒がせていた。ホテルの住人たちはそれを利用して一攫千金を狙う。イジーと同居していたジェロニモが描いた絵を、有名人であるイジーの描いた絵ということにし、それで大儲けして、腐った生活から抜け出そう、と目論んだのだ。
さて、犯人はみつからない。とりあえずジェロニモが捕まったが、証拠も何もない。実際は自殺だとスキナーも思っているが、何とかして犯人を仕立てなければならない状況に追いこまれていた・・・。
そんな中、ホテルの住人たちは、ジェロニモを救うためにも、犯人をでっちあげなければ、ということに。知的障害のあるトムトムなら、逮捕されても手荒な扱いはうけず、精神病院で一生安楽に暮らせるだろう、ということになった。優しいトムトムは、みんなが喜ぶなら、と無邪気に喜んで"自白”するのだが----------。
事態は急転する・・!
<感想>
「生きる理由」と、「無形のものの価値」を観客に囁きかける名作だ。エンドクレジットを眺めながら、はらはらと泣けた。
正気のリアルワールドは、証拠と理由に満ち満ちている。ミリオンダラー・ホテルの人々は、お金さえあれば"ここ”から出られると思っている。でも、無理なのだ。正気の世界は、「彼らが何物であるか」の証拠と存在する理由を持たない彼らを受け入れないから・・・。
ふと思う。存在する価値のない人間はいるのだろうか。イジーは
エロイーズを無価値なクズという。“イジーにとっては”きっとエロイーズは無価値なのだろう。だが、トムトムが愛を注いだことによって、エロイーズは価値ある者になったのだ。
エロイーズは尋ねる。「なぜあたしを好きなのか理由をきかせて」
きっと、エロイーズは、「理由」と「証拠」の氾濫する正気の世界で傷つき、ここに流れ着いたのだろう。
人を好きになることに理由なんてない。
でも、好きになったら、それが、「行動の理由」になるのだ。
この哀しさが、映画全篇を包むほの青い色彩の寂しさと重なる。
トムトムは、「理由」にしたがって4つの行動をおこした。
イジーのために。ホテルの仲間のために。そして、エロイーズのために。そして、きっとうまれて初めて、「自分のために」。理由をもった者は、もう“ミリオンダラー・ホテルの住人”ではいられない。
「飛び降りたあと、ふと思ったんだ。人生はすばらしい、人生は最高だって」
ほんの2分程度しかカメラにうつらないイジー役、私はティム・ロスだと確信しているが、情報があったら教えていただきたい。
たった数行のセリフであれほどの存在感・・・。嫌悪と哀愁。驚きだ。
メル・ギブソンの演じるスキナー捜査官の「過去」。語られるのは
ほんの1シーンだが、首のギプスが、スキナーが「差別される側」の人間であったことを観客に忘れさせない。
トムトムを理解していた二人がやりきれない思いに血まみれの手で
互いを抱擁するシーンに胸が詰まった。スキナーは「事件の真相」は知らないが、「トムトムの真実」はきっと理解していたから・・・。
ヴィム・ヴェンダースが、友人のU2のボノと組んで製作した本作、もちろん、U2の曲も多く使われている。映像美と音楽の融合も、またみどころである。
主演のジェレミー・デイヴィスの繊細な演技、ヒロイン、ミラ・ジョヴォヴィッチの貧相だがしなやかな体、醒めた瞳の奥に見え隠れする孤独、口元に溢れる愛情、実に素晴らしい。
【THE MILLION DOLLAR HOTEL】1999年独・米
★第50回ベルリン映画祭銀熊賞受賞
監督:ヴィム・ヴェンダース
原案:ボノ(U2)、ニコラス・クライン
製作総指揮:ウルリッヒ・フェルスベルグ
製作:ヴィム・ヴェンダース、ボノ(U2)、ニコラス・クライン
脚本:ニコラス・クライン
俳優:ジェレミー・デイヴィス(トムトム)
ミラ・ジョヴォヴィッチ (エロイーズ)
ジミー・スミッツ(ジェロニモ)
ピーター・ストーメア(ディクシー)
アマンダ・プラマー(ビビアン)
グロリア・スチュアート(ジェシカ)
メル・ギブソン(捜査官スキナー)
ティム・ロス(イジー):イジー役だけノンクレジットだが、99%ティムと思われる
<ストーリー>
L.A.の「ミリオンダラーホテル」には、治療費が払えず精神病院からも
見放された貧乏狂人や、社会からはみ出した者たちが住み着いていた。自分を酋長だと言うジェロニモ、ビートルズに曲を提供したのは自分だと思いこんでいるディクシー、読書好きな娼婦エロイーズ、彼女に憧れていて、ホテルの雑用で食いつなぐ、知的障害者の心優しき青年トムトムをはじめとする様々な人々・・・・。
ある日、トムトムの親友イジーがホテルの屋上から落ちて死亡。
イジーが大金持ちの息子だということが分かり、FBIの捜査官スキナーが犯人探しのために派遣されてやってくる。 自殺だと誰もが思っていたこの事件だが、メディアを牛耳るユダヤ人のイジーの父は、ユダヤ教徒が自殺はあり得ない(恥でもあるし、自殺だとマズいのだ)と言い張り、どうにかして「犯人」を探せ、とスキナーに命じたのだった。
メディア王の1人息子が場末のホテルで変死、というニュースは
世間を騒がせていた。ホテルの住人たちはそれを利用して一攫千金を狙う。イジーと同居していたジェロニモが描いた絵を、有名人であるイジーの描いた絵ということにし、それで大儲けして、腐った生活から抜け出そう、と目論んだのだ。
さて、犯人はみつからない。とりあえずジェロニモが捕まったが、証拠も何もない。実際は自殺だとスキナーも思っているが、何とかして犯人を仕立てなければならない状況に追いこまれていた・・・。
そんな中、ホテルの住人たちは、ジェロニモを救うためにも、犯人をでっちあげなければ、ということに。知的障害のあるトムトムなら、逮捕されても手荒な扱いはうけず、精神病院で一生安楽に暮らせるだろう、ということになった。優しいトムトムは、みんなが喜ぶなら、と無邪気に喜んで"自白”するのだが----------。
事態は急転する・・!
<感想>
「生きる理由」と、「無形のものの価値」を観客に囁きかける名作だ。エンドクレジットを眺めながら、はらはらと泣けた。
正気のリアルワールドは、証拠と理由に満ち満ちている。ミリオンダラー・ホテルの人々は、お金さえあれば"ここ”から出られると思っている。でも、無理なのだ。正気の世界は、「彼らが何物であるか」の証拠と存在する理由を持たない彼らを受け入れないから・・・。
ふと思う。存在する価値のない人間はいるのだろうか。イジーは
エロイーズを無価値なクズという。“イジーにとっては”きっとエロイーズは無価値なのだろう。だが、トムトムが愛を注いだことによって、エロイーズは価値ある者になったのだ。
エロイーズは尋ねる。「なぜあたしを好きなのか理由をきかせて」
きっと、エロイーズは、「理由」と「証拠」の氾濫する正気の世界で傷つき、ここに流れ着いたのだろう。
人を好きになることに理由なんてない。
でも、好きになったら、それが、「行動の理由」になるのだ。
この哀しさが、映画全篇を包むほの青い色彩の寂しさと重なる。
トムトムは、「理由」にしたがって4つの行動をおこした。
イジーのために。ホテルの仲間のために。そして、エロイーズのために。そして、きっとうまれて初めて、「自分のために」。理由をもった者は、もう“ミリオンダラー・ホテルの住人”ではいられない。
「飛び降りたあと、ふと思ったんだ。人生はすばらしい、人生は最高だって」
ほんの2分程度しかカメラにうつらないイジー役、私はティム・ロスだと確信しているが、情報があったら教えていただきたい。
たった数行のセリフであれほどの存在感・・・。嫌悪と哀愁。驚きだ。
メル・ギブソンの演じるスキナー捜査官の「過去」。語られるのは
ほんの1シーンだが、首のギプスが、スキナーが「差別される側」の人間であったことを観客に忘れさせない。
トムトムを理解していた二人がやりきれない思いに血まみれの手で
互いを抱擁するシーンに胸が詰まった。スキナーは「事件の真相」は知らないが、「トムトムの真実」はきっと理解していたから・・・。
ヴィム・ヴェンダースが、友人のU2のボノと組んで製作した本作、もちろん、U2の曲も多く使われている。映像美と音楽の融合も、またみどころである。
主演のジェレミー・デイヴィスの繊細な演技、ヒロイン、ミラ・ジョヴォヴィッチの貧相だがしなやかな体、醒めた瞳の奥に見え隠れする孤独、口元に溢れる愛情、実に素晴らしい。
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「ヴァージン・スーサイズ」
2003年1月23日ヴァージン・スーサイズ
【THE VIRGIN SUICIDES】 1999年・米
監督: ソフィア・コッポラ
製作: フランシス・フォード・コッポラ
ジュリー・コスタンゾ
ダン・ハルステッド
クリス・ハンレイ
原作: ジェフリー・ユージェニデス「ヘビトンボの季節に自殺した5人姉妹」
(原題:The Virgin Suicides) 早川書房
脚本: ソフィア・コッポラ
撮影: エドワード・ラックマン
出演: キルステン・ダンスト(四女ラックス)
ハナ・ハル (末娘セシリア)
ジェームズ・ウッズ (父、リズボン氏)
キャスリーン・ターナー(母)
ジョシュ・ハートネット(トリップ)
チェルシー・スウェイン(三女ボニー)
A・J・クック(次女メアリー)
レスリー・ヘイマン(長女テレーズ)
ジョナサン・タッカー(ティム)
ジョヴァンニ・リビシ(ナレーション)
<ストーリー>
1970年代中ごろのミシガン州。美しい並木通りのある郊外の中流階級の住宅街に、五人の美しい姉妹が住んでいた。詩や日記を書くのが好きだった13歳の末娘、セシリア。14才のラックス、15才のボニー、16歳のメアリー、17歳のテレーズ。
裕福だが封建的な家庭で従順に育ったいずれおとらぬ美しい娘たちは、末娘の自殺未遂をきっかけに変りはじめる・・・・。精神科の医師のすすめにしたがい、同世代の少年たちとの交流を自分たちの監視のもとで持たせようとする両親。だが、抜きん出て美しい四女ラックスは、学校一の不良で女たらしのトリップと恋におち、
初めてのデートで朝帰りをしてしまう。怒り狂った両親は、娘全員を登校もさせず自宅に監禁し、ロックのレコードも燃やしてしまうのだった・・・・。
数週間が不気味に過ぎた。
空想しかすることのない4人姉妹は、夜中にライトを使い、モールス信号で向かいの家の少年たちに「タスケテ」と訴えるのだが・・・・・・。
少年たちが娘たちの合図で救出作戦を決行しようとした晩に、4人の少女は命を絶った。
少年たちの心に彼女たちの存在は重くのしかかり、消し去ることの出来ないものとなった。1年が過ぎ、また夏が訪れ、彼女たちの瞳の色を忘れてしまっても・・・・・。
彼女たちが多感なティーンネイジャーであったことも、女であったことも、姉妹揃っての自殺の理由にはならない。
謎は永遠に謎のまま-----------。
<感想>
巨匠コッポラ監督の娘、ソフィア・コッポラによる初監督作品。
原作小説への熱い思い入れから企画されたようだ。初監督で、これだけのキャストを揃えられることには親の七光りを感じざるをえないが、それは映画の出来には関係のないことなので、置いておこう。
さて、タイトルのTHE VIRGIN SUICIDESだが、確かに「処女の自殺者たち」と名詞としても捉えられるのだが、THE VIRGIN(マリア様)がSUICIDES(自殺する:現在形・普遍性)という動詞にもとれなくはない。なにせ、ラックスが処女どころか色魔と化していくのだから。そして、セシリアが自殺未遂したときに握り締めて
いた聖母マリアの絵姿・・・。敬虔なクリスチャンが自殺するはずはない(地獄ゆき)のに、セシリアの部屋には十字架が、マリア像が置かれており、カメラも意図的にそれらを印象的に何度も写している。
この映画は、よく言われる「十代の危うい女のコの衝動的な集団自殺」を描くことによって青春の儚さと危険性を幻想的に美しく撮った作品、だろうか?
いや、私にはそうは思えない。監督が原作を愛したのなら、そして、映画のラストにも出てくるように、「これは彼女たちが10代であったからでも、女だったからおこったことでもないのだ」という説明はつけないだろう。
自殺する聖母マリア。ありえない考えだが、空想にふけるセシリアの頭の中ではら、どうだろう。
ミシガン州は有名な五大湖にかこまれている。そして、70年代といえば、公害訴訟で大騒動になった地域であり、時代だ。映画でも、「枯れる木」「腐る湖から放たれる悪臭」が描かれている。姉妹の中で、誰よりも自然の美しさを愛し、詩に綴ったセシリア。彼女の中では、その自然を破壊する人間の醜さが許せなかったとも考えられる。
「人生の辛さも知らん若さで」 「先生は13歳の女のコになったことないでしょ」
そう、最初の自殺者、セシリアは、思春期ゆえの魂のあやうさが死に駆立てたのかもしれない。閉鎖的な家庭で、学校でのお昼ご飯も、友人と食べることを禁止され、いつも4人の姉しか話し相手がいなかったことも---。肉体が汚れる前に、セシリアはヴァージンのまま、逝ってしまった。
では、姉たちは。
現実的に考えれば、外傷性ストレス障害からALS(自殺願望者)になった、と考えられなくもない。家族の中にALS患者がいると、芋づる式に自殺する、という事件は、実は珍しくない。実際、あの映画でも、4人が手に手をとって自殺したわけではない。1人1人が自分で考えた方法で多少の時間差の後に亡くなっている。そして、妹の自殺を面白おかしく報道するマスメディア。冷淡な近所の人々。常軌を逸した両親の監視。初めての男の裏切り。
少なくとも、ノイローゼにならないほうがおかしいような状況ではあった。
だが、少年達に助けを求めた。そして、脱走決行の直前に、なぜ・・・。
失敗すれば、今以上の罰を両親に与えられるという恐怖なのか、
そうやってこの家を抜け出したところで、瞳の曇った彼女たちには
明るい未来など見えなかったのかもしれない。
死だけが、「窒息」からの「解放」だった。
首吊りは一酸化炭素中毒死など、「窒息死」することによって「窒息」から逃れたというのが皮肉だ。
だが、不思議と、この作品には「暗さ」「悲しさ」がない。探偵もののように、「死の原因」を追求するのが目的の映画ではない。
語り手は「僕たち」というナレーションであって、特定の少年ではない。近所の少年、そして、街中の妄想好きな男たちが語り手なのだろう。
「彼女たち」は、憧れるだけで、助けの手を差し伸べてはくれなかった男たちの中で、永遠に、そう、まさに聖母マリアのように昇華されて崇められ続ける。
「僕たちのマドンナ=聖母マリア=ヴァージン」は、自殺したのだ。美しい姿のままで。きっと、穢れきったこの世界では、あの小鳥たちは息すらできなかったのだろう。
分ったような顔で語るマスコミや大人や精神科医が道化のように見えた。
病気の木は、1本でも残っていると、他のすべての近接した樹木に菌をうつしダメにしてしまう。映画に出てきた、切りたおされた彼女たちの家の前の1本の大樹と、次々に伐採される街路樹。印象的なメタファーだ。
【THE VIRGIN SUICIDES】 1999年・米
監督: ソフィア・コッポラ
製作: フランシス・フォード・コッポラ
ジュリー・コスタンゾ
ダン・ハルステッド
クリス・ハンレイ
原作: ジェフリー・ユージェニデス「ヘビトンボの季節に自殺した5人姉妹」
(原題:The Virgin Suicides) 早川書房
脚本: ソフィア・コッポラ
撮影: エドワード・ラックマン
出演: キルステン・ダンスト(四女ラックス)
ハナ・ハル (末娘セシリア)
ジェームズ・ウッズ (父、リズボン氏)
キャスリーン・ターナー(母)
ジョシュ・ハートネット(トリップ)
チェルシー・スウェイン(三女ボニー)
A・J・クック(次女メアリー)
レスリー・ヘイマン(長女テレーズ)
ジョナサン・タッカー(ティム)
ジョヴァンニ・リビシ(ナレーション)
<ストーリー>
1970年代中ごろのミシガン州。美しい並木通りのある郊外の中流階級の住宅街に、五人の美しい姉妹が住んでいた。詩や日記を書くのが好きだった13歳の末娘、セシリア。14才のラックス、15才のボニー、16歳のメアリー、17歳のテレーズ。
裕福だが封建的な家庭で従順に育ったいずれおとらぬ美しい娘たちは、末娘の自殺未遂をきっかけに変りはじめる・・・・。精神科の医師のすすめにしたがい、同世代の少年たちとの交流を自分たちの監視のもとで持たせようとする両親。だが、抜きん出て美しい四女ラックスは、学校一の不良で女たらしのトリップと恋におち、
初めてのデートで朝帰りをしてしまう。怒り狂った両親は、娘全員を登校もさせず自宅に監禁し、ロックのレコードも燃やしてしまうのだった・・・・。
数週間が不気味に過ぎた。
空想しかすることのない4人姉妹は、夜中にライトを使い、モールス信号で向かいの家の少年たちに「タスケテ」と訴えるのだが・・・・・・。
少年たちが娘たちの合図で救出作戦を決行しようとした晩に、4人の少女は命を絶った。
少年たちの心に彼女たちの存在は重くのしかかり、消し去ることの出来ないものとなった。1年が過ぎ、また夏が訪れ、彼女たちの瞳の色を忘れてしまっても・・・・・。
彼女たちが多感なティーンネイジャーであったことも、女であったことも、姉妹揃っての自殺の理由にはならない。
謎は永遠に謎のまま-----------。
<感想>
巨匠コッポラ監督の娘、ソフィア・コッポラによる初監督作品。
原作小説への熱い思い入れから企画されたようだ。初監督で、これだけのキャストを揃えられることには親の七光りを感じざるをえないが、それは映画の出来には関係のないことなので、置いておこう。
さて、タイトルのTHE VIRGIN SUICIDESだが、確かに「処女の自殺者たち」と名詞としても捉えられるのだが、THE VIRGIN(マリア様)がSUICIDES(自殺する:現在形・普遍性)という動詞にもとれなくはない。なにせ、ラックスが処女どころか色魔と化していくのだから。そして、セシリアが自殺未遂したときに握り締めて
いた聖母マリアの絵姿・・・。敬虔なクリスチャンが自殺するはずはない(地獄ゆき)のに、セシリアの部屋には十字架が、マリア像が置かれており、カメラも意図的にそれらを印象的に何度も写している。
この映画は、よく言われる「十代の危うい女のコの衝動的な集団自殺」を描くことによって青春の儚さと危険性を幻想的に美しく撮った作品、だろうか?
いや、私にはそうは思えない。監督が原作を愛したのなら、そして、映画のラストにも出てくるように、「これは彼女たちが10代であったからでも、女だったからおこったことでもないのだ」という説明はつけないだろう。
自殺する聖母マリア。ありえない考えだが、空想にふけるセシリアの頭の中ではら、どうだろう。
ミシガン州は有名な五大湖にかこまれている。そして、70年代といえば、公害訴訟で大騒動になった地域であり、時代だ。映画でも、「枯れる木」「腐る湖から放たれる悪臭」が描かれている。姉妹の中で、誰よりも自然の美しさを愛し、詩に綴ったセシリア。彼女の中では、その自然を破壊する人間の醜さが許せなかったとも考えられる。
「人生の辛さも知らん若さで」 「先生は13歳の女のコになったことないでしょ」
そう、最初の自殺者、セシリアは、思春期ゆえの魂のあやうさが死に駆立てたのかもしれない。閉鎖的な家庭で、学校でのお昼ご飯も、友人と食べることを禁止され、いつも4人の姉しか話し相手がいなかったことも---。肉体が汚れる前に、セシリアはヴァージンのまま、逝ってしまった。
では、姉たちは。
現実的に考えれば、外傷性ストレス障害からALS(自殺願望者)になった、と考えられなくもない。家族の中にALS患者がいると、芋づる式に自殺する、という事件は、実は珍しくない。実際、あの映画でも、4人が手に手をとって自殺したわけではない。1人1人が自分で考えた方法で多少の時間差の後に亡くなっている。そして、妹の自殺を面白おかしく報道するマスメディア。冷淡な近所の人々。常軌を逸した両親の監視。初めての男の裏切り。
少なくとも、ノイローゼにならないほうがおかしいような状況ではあった。
だが、少年達に助けを求めた。そして、脱走決行の直前に、なぜ・・・。
失敗すれば、今以上の罰を両親に与えられるという恐怖なのか、
そうやってこの家を抜け出したところで、瞳の曇った彼女たちには
明るい未来など見えなかったのかもしれない。
死だけが、「窒息」からの「解放」だった。
首吊りは一酸化炭素中毒死など、「窒息死」することによって「窒息」から逃れたというのが皮肉だ。
だが、不思議と、この作品には「暗さ」「悲しさ」がない。探偵もののように、「死の原因」を追求するのが目的の映画ではない。
語り手は「僕たち」というナレーションであって、特定の少年ではない。近所の少年、そして、街中の妄想好きな男たちが語り手なのだろう。
「彼女たち」は、憧れるだけで、助けの手を差し伸べてはくれなかった男たちの中で、永遠に、そう、まさに聖母マリアのように昇華されて崇められ続ける。
「僕たちのマドンナ=聖母マリア=ヴァージン」は、自殺したのだ。美しい姿のままで。きっと、穢れきったこの世界では、あの小鳥たちは息すらできなかったのだろう。
分ったような顔で語るマスコミや大人や精神科医が道化のように見えた。
病気の木は、1本でも残っていると、他のすべての近接した樹木に菌をうつしダメにしてしまう。映画に出てきた、切りたおされた彼女たちの家の前の1本の大樹と、次々に伐採される街路樹。印象的なメタファーだ。
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「マイ・レフト・フット」
2003年1月22日マイ・レフト・フット
【My Left Foot】 1989年・アイルランド
監督:ジム・シェリダン
脚本: ジム・シェリダン
シェーン・コノートン
原作: クリスティ・ブラウン
出演:ダニエル・デイ・ルイス(クリスティ)
ブレンダ・フリッカー(母)
フィオナ・ショウ (女医アイリーン)
ヒュー・オコナー(少年時代のクリスティ)
ルース・マッケイプ(看護婦メアリー)
★アカデミー賞
主演男優賞 ダニエル・デイ・ルイス 受賞
助演女優賞 ブレンダ・フリッカー 受賞
★英国アカデミー賞主演男優賞 ( ダニエル・デイ・ルイス )
特別賞 ( レイ・マカナリー )
★ニューヨーク映画批評家協会賞
主演男優賞 ( ダニエル・デイ・ルイス )
最優秀作品賞
★全英映画批評家協会賞主演男優賞(ダニエル・デイ・ルイス)
★ロサンジェルス映画批評家協会賞
主演男優賞 ( ダニエル・デイ・ルイス )
助演女優賞 ( ブレンダ・フリッカー )
★全米映画批評家協会賞主演男優賞 ( ダニエル・デイ・ルイス )
★モントリオール映画祭主演男優賞 ( ダニエル・デイ・ルイス )
<ストーリー>
アイルランドが誇る左足の画家、詩人、作家のクリスティ・ブラウン(1932〜1981)の軌跡を綴ったヒューマンドラマ。
首都ダブリンで産声をあげたクリスティ・ブラウンは、先天性の重度の脳性小児マヒに冒されていた。植物同然にしか生きられないと医者に宣告され嘆き悲しむ父、他の子供たちと何ら変わりない愛うを注ぐ母。ところが、口もきけない息子が左足の指を使ってチョークで書いた mother の文字は家族みんなを驚愕させた。
貧しいがわけへだてのない温かい両親や優しい姉、大勢の兄弟たちの支えの中でクリスティは唯一動く左足をつかってその才能を開花させていき、絵画の個展も開けるまでに。
だが、大人の男の心を持っていても、障害ゆえに、好きな女性ができても、恋の相手としては選ばれない。挫折に苦しみ続けるクリスティだった。尋常でない努力の末、ようやっと挫折を乗り越えクリスティは人間的にも成長し、やがてチャリティーパーティーの席で看護婦メリーと出会い、彼女に自分の執筆した伝記を読むように頼むのだった・・・。
<感想>
この映画は、障害者を主人公とした作品にありがちな努力と忍耐によるサクセス・ストーリーではない。天使のようにピュアな存在として障害者を描く偽善はこの作品には皆無だ。
クリスティは、自分をふった女性に暴言を吐き、馬鹿にする男にはケンカを売り、大酒呑みで、酒癖も悪く、周囲に当り散らす。
そんな、孤独に苛まれ、愛を求める、弱い1人の青年として描かれている。
だが、家族への感謝と愛が、クリスティの心を豊かに保ち続け、崩壊させなかったのだろう。彼の絵の中でも、父と母を描いた作品は群を抜いて素晴らしい。
「生きるべきか死ぬべきか」と悩むハムレットを「行動の出来ない身障者」と切り捨てるクリスティ。“動く”ことはできなくても、“行動”し続けた彼のハングリー精神に圧倒される。
健常者でも、障害者でも、「生き甲斐」を見出すことの難しさは同じであろう。何ができないか、何ができるか、ではなくて、「何がしたいか」を見つけるのは困難なことだからだ。
【My Left Foot】 1989年・アイルランド
監督:ジム・シェリダン
脚本: ジム・シェリダン
シェーン・コノートン
原作: クリスティ・ブラウン
出演:ダニエル・デイ・ルイス(クリスティ)
ブレンダ・フリッカー(母)
フィオナ・ショウ (女医アイリーン)
ヒュー・オコナー(少年時代のクリスティ)
ルース・マッケイプ(看護婦メアリー)
★アカデミー賞
主演男優賞 ダニエル・デイ・ルイス 受賞
助演女優賞 ブレンダ・フリッカー 受賞
★英国アカデミー賞主演男優賞 ( ダニエル・デイ・ルイス )
特別賞 ( レイ・マカナリー )
★ニューヨーク映画批評家協会賞
主演男優賞 ( ダニエル・デイ・ルイス )
最優秀作品賞
★全英映画批評家協会賞主演男優賞(ダニエル・デイ・ルイス)
★ロサンジェルス映画批評家協会賞
主演男優賞 ( ダニエル・デイ・ルイス )
助演女優賞 ( ブレンダ・フリッカー )
★全米映画批評家協会賞主演男優賞 ( ダニエル・デイ・ルイス )
★モントリオール映画祭主演男優賞 ( ダニエル・デイ・ルイス )
<ストーリー>
アイルランドが誇る左足の画家、詩人、作家のクリスティ・ブラウン(1932〜1981)の軌跡を綴ったヒューマンドラマ。
首都ダブリンで産声をあげたクリスティ・ブラウンは、先天性の重度の脳性小児マヒに冒されていた。植物同然にしか生きられないと医者に宣告され嘆き悲しむ父、他の子供たちと何ら変わりない愛うを注ぐ母。ところが、口もきけない息子が左足の指を使ってチョークで書いた mother の文字は家族みんなを驚愕させた。
貧しいがわけへだてのない温かい両親や優しい姉、大勢の兄弟たちの支えの中でクリスティは唯一動く左足をつかってその才能を開花させていき、絵画の個展も開けるまでに。
だが、大人の男の心を持っていても、障害ゆえに、好きな女性ができても、恋の相手としては選ばれない。挫折に苦しみ続けるクリスティだった。尋常でない努力の末、ようやっと挫折を乗り越えクリスティは人間的にも成長し、やがてチャリティーパーティーの席で看護婦メリーと出会い、彼女に自分の執筆した伝記を読むように頼むのだった・・・。
<感想>
この映画は、障害者を主人公とした作品にありがちな努力と忍耐によるサクセス・ストーリーではない。天使のようにピュアな存在として障害者を描く偽善はこの作品には皆無だ。
クリスティは、自分をふった女性に暴言を吐き、馬鹿にする男にはケンカを売り、大酒呑みで、酒癖も悪く、周囲に当り散らす。
そんな、孤独に苛まれ、愛を求める、弱い1人の青年として描かれている。
だが、家族への感謝と愛が、クリスティの心を豊かに保ち続け、崩壊させなかったのだろう。彼の絵の中でも、父と母を描いた作品は群を抜いて素晴らしい。
「生きるべきか死ぬべきか」と悩むハムレットを「行動の出来ない身障者」と切り捨てるクリスティ。“動く”ことはできなくても、“行動”し続けた彼のハングリー精神に圧倒される。
健常者でも、障害者でも、「生き甲斐」を見出すことの難しさは同じであろう。何ができないか、何ができるか、ではなくて、「何がしたいか」を見つけるのは困難なことだからだ。
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「シャンプー台のむこうに」
2003年1月21日シャンプー台のむこうに
【BLOW DRY】 2001年・英
監督:パディ・ブレスナック
脚本:サイモン・ボーフォイ
製作総指揮:シドニー・ポラック
美術 サラ・ホールドレン
俳優:ジョシュ・ハーネット(ブライアン)
レイチェル・リー・クック(クリスティーナ)
アラン・リックマン(フィル)
レイチェル・グリフィス(サンドラ)
ナターシャ・リチャードソン(シェリー)
ビル・ナイ(レイ)
<ストーリー>
かつては「伝説のハサミ」と畏れられコンテスト荒らしの常連だったフィルは、10年前、三連覇がかかったヘアドレッサー選手権前夜、仕事上もパートナーだった妻とモデルに駆け落ちされて、すっかりいじけてしまった。息子ブライアンはパパの店の助手。絶縁状態のママ、シェリーは、目と鼻の先で駆け落ちした元モデルのサンドラと一緒に美容院を開いてる。実はシェリーはガンで余命いくばくもないのだが、誰にも打ち明けられずにいる。
そんな中、ヘアドレッサー選手権が、このヨークシャーの田舎町キースリーで開催されることに!市長は1人で大コーフン。“髪”なんてこぎれいにしてりゃなんでもいいという認識の田舎町のこと、市民も新聞記者もほぼ無関心。さて、いよいよ大会が近づき、ロンドンから、イギリス中から、一流ヘアデザイナーたちが押し寄せた!!
地元キースリーからはまだ誰も名乗りをあげていない。市長に説得されるフィルだが、頑固なフィルのこと、嫌な思い出から頑なに拒否し続ける。だが、息子のブライアンは、腕を試したい気持ちと、ライバルの一流アーティスト、レイの一人娘、クリスティーナに一目惚れしたことから、挑戦したい気持ちが高まっていった。だが、父は猛反対。チームは3人一組で申しこまねばならない。1人ではどうしようもないのだ。前夜祭の夜、ついに決心をかためたブライアンは、10年間口もろくにきいていなかった母と、母の恋人サンドラに会いに行き、3人で出場しようと申し出る。
大喜びの母、シェリー。残りの命を、バラバラになってしまった家族と過ごすことが彼女の歳後の願いだったのだから・・・。
いよいよ、コンテストが開催される!! だが、ライバルによる陰謀が待ち構えていた----。
<感想>
脚本は、あの「フル・モンティ」のサイモン・ボーフォイ。期待を裏切らない、爽やかに笑える小品に仕上がっている。
田舎町の市長が、町興しだ〜!と子供のようにはしゃぎまわる様子も可笑しく笑いを誘う。
華麗なコンテストのシーンは見ていてワクワクするし、美容師のコンテストという題材は、今までにないだけだって、興味深く楽しい。彼らの「髪」にかける炎の情熱は、一般人には理解しがたい
だけあってコミカルで笑える。
だが、脚本に問題が。
10年前の「事件」について、「理由」が語られていないので、
誰にも感情移入できないのだ。妻がレズビアンで、自分のコンテスト用モデルと、大会前日に駆け落ちしてしまったフィルはもう気の毒としかいいようがないのだが、二人が恋に落ちたのはまぁ仕方がないこととしても、なぜ、大会の前日なのか? 何か夫のフィルに問題(暴力や酒癖や浮気など)があったらしいことは一言も語られないし、まったく腑に落ちない。しかも、駆け落ちして、住んでいるところは目と鼻の先。しかも同業。離婚もしておらず、二人の姓は同じまま。ここが明確に語られないので、この家族がバラバラになってしまった原因が、単にシェリーの我侭でしかなく、どうも胸がスッキリしないのだ。妻が女と駆け落ちしたということで、世間の笑い者になり苦しんできたフィル。まだ幼かったのに母に捨てられたブライアン。その二人に、「私はもう死ぬんだから、最期の願いをきいて」と迫るのも、人によっては我侭ととれるだろう。
だが、私は、シェリーの最期の罪滅ぼしだ、と思う。才能がありながら世間を避けて生きざるを得なくなった夫に、もう一度、スポットライトを浴びるチャンスと、生き甲斐を与えてあげたい。
物心ついてから“家族”を持たずに孤独に育ったブライアンに、
死ぬ前に少しでも「母との時間」を持たせてやりたい・・・。
1人でこの世に取り残される愛するサンドラに、ホンモノのでなくても、“家族のように親しい存在”(フィルとブライアン)を
残してあげたい・・・。それがシェリーの願いだろう。
全体の流れもよいし、ラストはハッピーだ。
それぞれの「生き方」を頑固に貫くイギリス人気質がにじみ出ていて、よかった。
クリスティーナが、父レイの汚いやりかたに対する無言の抗議として、髪を切り落としてしまうシーン、そして、そんな彼女を、
心から「本当に綺麗だよ・・・」と愛に満ちた目で見つめるブライアン。とてもステキなキスシーンだった。
ジョシュ君が主演となっているが、実質的にこれはアラン・リックマンの映画、といえよう。彼の足の裏に彫られたハサミのタトゥー、最高にcoolだ!まさに職人魂!
blow-dry : (髪をドライヤーで)ブローする
表面だけ取り繕う
【BLOW DRY】 2001年・英
監督:パディ・ブレスナック
脚本:サイモン・ボーフォイ
製作総指揮:シドニー・ポラック
美術 サラ・ホールドレン
俳優:ジョシュ・ハーネット(ブライアン)
レイチェル・リー・クック(クリスティーナ)
アラン・リックマン(フィル)
レイチェル・グリフィス(サンドラ)
ナターシャ・リチャードソン(シェリー)
ビル・ナイ(レイ)
<ストーリー>
かつては「伝説のハサミ」と畏れられコンテスト荒らしの常連だったフィルは、10年前、三連覇がかかったヘアドレッサー選手権前夜、仕事上もパートナーだった妻とモデルに駆け落ちされて、すっかりいじけてしまった。息子ブライアンはパパの店の助手。絶縁状態のママ、シェリーは、目と鼻の先で駆け落ちした元モデルのサンドラと一緒に美容院を開いてる。実はシェリーはガンで余命いくばくもないのだが、誰にも打ち明けられずにいる。
そんな中、ヘアドレッサー選手権が、このヨークシャーの田舎町キースリーで開催されることに!市長は1人で大コーフン。“髪”なんてこぎれいにしてりゃなんでもいいという認識の田舎町のこと、市民も新聞記者もほぼ無関心。さて、いよいよ大会が近づき、ロンドンから、イギリス中から、一流ヘアデザイナーたちが押し寄せた!!
地元キースリーからはまだ誰も名乗りをあげていない。市長に説得されるフィルだが、頑固なフィルのこと、嫌な思い出から頑なに拒否し続ける。だが、息子のブライアンは、腕を試したい気持ちと、ライバルの一流アーティスト、レイの一人娘、クリスティーナに一目惚れしたことから、挑戦したい気持ちが高まっていった。だが、父は猛反対。チームは3人一組で申しこまねばならない。1人ではどうしようもないのだ。前夜祭の夜、ついに決心をかためたブライアンは、10年間口もろくにきいていなかった母と、母の恋人サンドラに会いに行き、3人で出場しようと申し出る。
大喜びの母、シェリー。残りの命を、バラバラになってしまった家族と過ごすことが彼女の歳後の願いだったのだから・・・。
いよいよ、コンテストが開催される!! だが、ライバルによる陰謀が待ち構えていた----。
<感想>
脚本は、あの「フル・モンティ」のサイモン・ボーフォイ。期待を裏切らない、爽やかに笑える小品に仕上がっている。
田舎町の市長が、町興しだ〜!と子供のようにはしゃぎまわる様子も可笑しく笑いを誘う。
華麗なコンテストのシーンは見ていてワクワクするし、美容師のコンテストという題材は、今までにないだけだって、興味深く楽しい。彼らの「髪」にかける炎の情熱は、一般人には理解しがたい
だけあってコミカルで笑える。
だが、脚本に問題が。
10年前の「事件」について、「理由」が語られていないので、
誰にも感情移入できないのだ。妻がレズビアンで、自分のコンテスト用モデルと、大会前日に駆け落ちしてしまったフィルはもう気の毒としかいいようがないのだが、二人が恋に落ちたのはまぁ仕方がないこととしても、なぜ、大会の前日なのか? 何か夫のフィルに問題(暴力や酒癖や浮気など)があったらしいことは一言も語られないし、まったく腑に落ちない。しかも、駆け落ちして、住んでいるところは目と鼻の先。しかも同業。離婚もしておらず、二人の姓は同じまま。ここが明確に語られないので、この家族がバラバラになってしまった原因が、単にシェリーの我侭でしかなく、どうも胸がスッキリしないのだ。妻が女と駆け落ちしたということで、世間の笑い者になり苦しんできたフィル。まだ幼かったのに母に捨てられたブライアン。その二人に、「私はもう死ぬんだから、最期の願いをきいて」と迫るのも、人によっては我侭ととれるだろう。
だが、私は、シェリーの最期の罪滅ぼしだ、と思う。才能がありながら世間を避けて生きざるを得なくなった夫に、もう一度、スポットライトを浴びるチャンスと、生き甲斐を与えてあげたい。
物心ついてから“家族”を持たずに孤独に育ったブライアンに、
死ぬ前に少しでも「母との時間」を持たせてやりたい・・・。
1人でこの世に取り残される愛するサンドラに、ホンモノのでなくても、“家族のように親しい存在”(フィルとブライアン)を
残してあげたい・・・。それがシェリーの願いだろう。
全体の流れもよいし、ラストはハッピーだ。
それぞれの「生き方」を頑固に貫くイギリス人気質がにじみ出ていて、よかった。
クリスティーナが、父レイの汚いやりかたに対する無言の抗議として、髪を切り落としてしまうシーン、そして、そんな彼女を、
心から「本当に綺麗だよ・・・」と愛に満ちた目で見つめるブライアン。とてもステキなキスシーンだった。
ジョシュ君が主演となっているが、実質的にこれはアラン・リックマンの映画、といえよう。彼の足の裏に彫られたハサミのタトゥー、最高にcoolだ!まさに職人魂!
blow-dry : (髪をドライヤーで)ブローする
表面だけ取り繕う
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「ヴィドック」
2003年1月20日ヴィドック
【VIDCQ】2001年・仏
監督・脚本:ピトフ
脚本:ジャン=クリストフ・グランジェ
美術:ジャン・ラバス
キャラデザイン:マルク・キャロ
音楽:ブリュノ・クレ
俳優:ジェラール・ドパルデユー(ヴィドック)
ギヨーム・カネ(伝記作家エチエンヌ)
イネス・サストレ(プレア)
アンドレ・デユソリエ(警視総監)
ムサ・マースクリ(ニミエ)
<ストーリー>
1830年、パリ。軍事兵器に関わってきたふたりの男が落雷によって同時に死亡するという奇怪な事件が発生。警視総監は探偵ヴィドックに捜査協力を依頼した。やがてヴィドックは、鏡の仮面をかぶった怪人が事件の背後に暗躍していることを知る。
2週間後・・・その日パリの街には、伝説の男ヴィドックの死を伝える新聞の見出しがあふれていた。
もともとは華麗な大泥棒、しかし後に国家安全保障を率い、警視総監に感謝状を送られるまでになった英雄ヴィドックは、街外れのガラス工場で謎の怪人と戦い、燃え盛る釜戸の中へ落ち、死んでしまったのだ。その知らせを聞き悲嘆にくれるヴィドックの相棒だったニミエのもとを、伝記作家だという青年が訪れる。と、ヴィドックを殺した犯人を一緒に探し、伝記を完成させ、ヴィドックの恨みを晴らそうと熱心にもちかける青年エチエンヌ。
警察、エチエンヌ、ニミエ、それぞれに事件の解明と怪人の謎の追跡に奔走する。やがて、怪人の殺しのターゲットには、ある意外な繋がりがあることが浮かび上がるのだが・・・・。
次々と消される証人。果して怪人の目的と正体は!?
<感想>
これは面白い!一流のサスペンス。「物語」がこの世に存在するかぎり、永遠にアルシミスト(錬金術師)を題材にとった怪奇ものはこうして描かれ続けるのだろう。
ヴィドックとは、19世紀に実在した人物(1775〜1857)で、得意の変装で脱獄を繰り返した犯罪者だが、その度量を買われて警察の密偵となり、後に世界初の私立探偵事務所を設立する。
フランスでは語り継がれる子供たちの憧れの的、誰もが知っている
伝説のヒーローだ。アメリカ人がスーパーマンやスパイダーマンを誰でも知っているように。だが、たとえば、「ああ無情」のジャン・バルジャンのモデルがこのヴィドックであったように、この人は実像よりも、虚像が一人歩きしているようだ。欧米中、古今を問わずヴィドックはある物語には実名で、またある物語には違う名前で描かれているという。
パリ、革命の動乱期。不老不死の藥を調合する妖しい錬金術師。
ドラマティックな要素が詰まったこの作品は、衣装も建物も昔を舞台にしながら、「マトリックス」ばりのハイパー・アクションと、
緊迫感溢れる現代的サウンド、デジタルカメラによる斬新なカメラワーク(世界初)で、不思議と近未来的な匂いのする映像に仕上がっている。
印象的なのは、空と花の色だ。ロココ調の絵画のような色彩美。
一見に値する。この不思議な映像のおかげで、連続猟奇殺人を
扱いながら、血生臭くならないのだろう。
ピトフは映像作家であり、映画監督はこれが初めての挑戦。
“全細胞が狂喜する”という強烈なキャッチコピーも、あながち
大袈裟ではない。
ヴィドックの愛人のダンサー、プレア役の現役モデル、イネス・サストレ嬢、身のこなしが華麗で素敵だった。
【VIDCQ】2001年・仏
監督・脚本:ピトフ
脚本:ジャン=クリストフ・グランジェ
美術:ジャン・ラバス
キャラデザイン:マルク・キャロ
音楽:ブリュノ・クレ
俳優:ジェラール・ドパルデユー(ヴィドック)
ギヨーム・カネ(伝記作家エチエンヌ)
イネス・サストレ(プレア)
アンドレ・デユソリエ(警視総監)
ムサ・マースクリ(ニミエ)
<ストーリー>
1830年、パリ。軍事兵器に関わってきたふたりの男が落雷によって同時に死亡するという奇怪な事件が発生。警視総監は探偵ヴィドックに捜査協力を依頼した。やがてヴィドックは、鏡の仮面をかぶった怪人が事件の背後に暗躍していることを知る。
2週間後・・・その日パリの街には、伝説の男ヴィドックの死を伝える新聞の見出しがあふれていた。
もともとは華麗な大泥棒、しかし後に国家安全保障を率い、警視総監に感謝状を送られるまでになった英雄ヴィドックは、街外れのガラス工場で謎の怪人と戦い、燃え盛る釜戸の中へ落ち、死んでしまったのだ。その知らせを聞き悲嘆にくれるヴィドックの相棒だったニミエのもとを、伝記作家だという青年が訪れる。と、ヴィドックを殺した犯人を一緒に探し、伝記を完成させ、ヴィドックの恨みを晴らそうと熱心にもちかける青年エチエンヌ。
警察、エチエンヌ、ニミエ、それぞれに事件の解明と怪人の謎の追跡に奔走する。やがて、怪人の殺しのターゲットには、ある意外な繋がりがあることが浮かび上がるのだが・・・・。
次々と消される証人。果して怪人の目的と正体は!?
<感想>
これは面白い!一流のサスペンス。「物語」がこの世に存在するかぎり、永遠にアルシミスト(錬金術師)を題材にとった怪奇ものはこうして描かれ続けるのだろう。
ヴィドックとは、19世紀に実在した人物(1775〜1857)で、得意の変装で脱獄を繰り返した犯罪者だが、その度量を買われて警察の密偵となり、後に世界初の私立探偵事務所を設立する。
フランスでは語り継がれる子供たちの憧れの的、誰もが知っている
伝説のヒーローだ。アメリカ人がスーパーマンやスパイダーマンを誰でも知っているように。だが、たとえば、「ああ無情」のジャン・バルジャンのモデルがこのヴィドックであったように、この人は実像よりも、虚像が一人歩きしているようだ。欧米中、古今を問わずヴィドックはある物語には実名で、またある物語には違う名前で描かれているという。
パリ、革命の動乱期。不老不死の藥を調合する妖しい錬金術師。
ドラマティックな要素が詰まったこの作品は、衣装も建物も昔を舞台にしながら、「マトリックス」ばりのハイパー・アクションと、
緊迫感溢れる現代的サウンド、デジタルカメラによる斬新なカメラワーク(世界初)で、不思議と近未来的な匂いのする映像に仕上がっている。
印象的なのは、空と花の色だ。ロココ調の絵画のような色彩美。
一見に値する。この不思議な映像のおかげで、連続猟奇殺人を
扱いながら、血生臭くならないのだろう。
ピトフは映像作家であり、映画監督はこれが初めての挑戦。
“全細胞が狂喜する”という強烈なキャッチコピーも、あながち
大袈裟ではない。
ヴィドックの愛人のダンサー、プレア役の現役モデル、イネス・サストレ嬢、身のこなしが華麗で素敵だった。
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「E.T. 20周年アニバーサリー特別版」
2003年1月19日E.T. 20周年アニバーサリー特別版
【THE EXTRA-TERRESTRAIL THE 20th ANNIVERSARY】2002年・米
監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:メリッサ・マシスン
音楽:ジョン・ウィリアムス
E.T.の創作:カルロ・ランバルディ
視覚効果スーパーバイザー:ビル・ジョージ
俳優:ヘンリー・トーマス (エリオット)
ロバート・マクノートン(兄)
ドリュー・バリモア(妹)
ディー・ウォーレス(母)
ピーター・コヨーテ (科学者キース)
<ストーリー>
星の美しいある夜。森の囲まれた草原の空き地に、大きく不思議な形の宇宙船が着陸した。ハッチが開き、姿を現したのは宇宙人たち。ところが、科学者たちが宇宙船の捜索に駆けつけ、母船は、1人の仲間をとり残したまま急いで飛び去ってしまう。そして、10歳の少年エリオットと、その兄と妹たちに遭遇した宇宙人"E.T.”(エリオットが名づけた。EXTRA-TERRESTRAILの略、地球外生物)は、彼らにかくまわれ親しくなり、父と離れて傷ついている子供たちの心も癒していくが、やはり故郷の星が恋しい。
そんなE.T.の孤独を理解した子供たちは、なんとかして宇宙に還してやろうと考える。だが、追っ手は彼らの自宅に迫っていた・・・・・。
<感想>
1982年に初公開されてから20年経ち、監督が、手直ししたい部分があったことと、当時この映画の見た子供たちが親になっていることから、世代を超えて語り継がれる作品でありたい、と強く望んだことから、この企画が実現した。いくつかのシーンを足し、修正し、DTSサウンドによって臨場感あふれる音響となり、E.T.の顔にデジタル処理をほどこし、表情がさらに繊細に、愛らしくなっている。監督がもっともこだわったのは、20年前、ラストのチェイシングシーンで、警官や政府関係者に持たせていた拳銃を、画像をおじることでトランシーバーに持ち返させたという点だそうだ。
確かに、敵意のない子供たちに向かって銃をかまえて追いかけるというのはいただけない。
私も20年前は小学生だった。ちょうど、エリオットと同じ年頃。
今でもあのドキドキは忘れていない。今日、6才と7才になっている自分の子供たちと一緒に観て、同じ感動に彼らと涙し、いいひと時をもたせてもらった。
「どうして宇宙から来たっていうだけで、あんな怖そうな人達に追いかけられたり、いじめられたりするの?」子供たちの率直な疑問を、幼い頃、スピルバーグ監督ももったという。
「異なる者」への偏見からくる恐怖心や好奇心が、相手を尊重すべきだという考えを吹き飛ばしてしまう、人間という弱い生き物の現実。
あれから20年が経ち、世界はますます混乱し、傷つけあっている。だからこそ、普遍のテーマを、もう一度、取り上げたかったのだろう。人種の違いを超えた平和と、共存への道を探ることを。
EXTRA-TERRESTRAIL。なかなか含みのある言葉のように思う。
TERRESTRAILは、「地球上の生物」EXTRAには、「〜以外の・余剰の」という元の意味のほかに、「特別な」という含みも持つ。
「エイリアン」とはまったく響の異なる、相手への親しみと敬愛を感じる言葉だ。
「イツモ ココニ イルヨ」
触れ合えなくても、ずっと心の中に。
【THE EXTRA-TERRESTRAIL THE 20th ANNIVERSARY】2002年・米
監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:メリッサ・マシスン
音楽:ジョン・ウィリアムス
E.T.の創作:カルロ・ランバルディ
視覚効果スーパーバイザー:ビル・ジョージ
俳優:ヘンリー・トーマス (エリオット)
ロバート・マクノートン(兄)
ドリュー・バリモア(妹)
ディー・ウォーレス(母)
ピーター・コヨーテ (科学者キース)
<ストーリー>
星の美しいある夜。森の囲まれた草原の空き地に、大きく不思議な形の宇宙船が着陸した。ハッチが開き、姿を現したのは宇宙人たち。ところが、科学者たちが宇宙船の捜索に駆けつけ、母船は、1人の仲間をとり残したまま急いで飛び去ってしまう。そして、10歳の少年エリオットと、その兄と妹たちに遭遇した宇宙人"E.T.”(エリオットが名づけた。EXTRA-TERRESTRAILの略、地球外生物)は、彼らにかくまわれ親しくなり、父と離れて傷ついている子供たちの心も癒していくが、やはり故郷の星が恋しい。
そんなE.T.の孤独を理解した子供たちは、なんとかして宇宙に還してやろうと考える。だが、追っ手は彼らの自宅に迫っていた・・・・・。
<感想>
1982年に初公開されてから20年経ち、監督が、手直ししたい部分があったことと、当時この映画の見た子供たちが親になっていることから、世代を超えて語り継がれる作品でありたい、と強く望んだことから、この企画が実現した。いくつかのシーンを足し、修正し、DTSサウンドによって臨場感あふれる音響となり、E.T.の顔にデジタル処理をほどこし、表情がさらに繊細に、愛らしくなっている。監督がもっともこだわったのは、20年前、ラストのチェイシングシーンで、警官や政府関係者に持たせていた拳銃を、画像をおじることでトランシーバーに持ち返させたという点だそうだ。
確かに、敵意のない子供たちに向かって銃をかまえて追いかけるというのはいただけない。
私も20年前は小学生だった。ちょうど、エリオットと同じ年頃。
今でもあのドキドキは忘れていない。今日、6才と7才になっている自分の子供たちと一緒に観て、同じ感動に彼らと涙し、いいひと時をもたせてもらった。
「どうして宇宙から来たっていうだけで、あんな怖そうな人達に追いかけられたり、いじめられたりするの?」子供たちの率直な疑問を、幼い頃、スピルバーグ監督ももったという。
「異なる者」への偏見からくる恐怖心や好奇心が、相手を尊重すべきだという考えを吹き飛ばしてしまう、人間という弱い生き物の現実。
あれから20年が経ち、世界はますます混乱し、傷つけあっている。だからこそ、普遍のテーマを、もう一度、取り上げたかったのだろう。人種の違いを超えた平和と、共存への道を探ることを。
EXTRA-TERRESTRAIL。なかなか含みのある言葉のように思う。
TERRESTRAILは、「地球上の生物」EXTRAには、「〜以外の・余剰の」という元の意味のほかに、「特別な」という含みも持つ。
「エイリアン」とはまったく響の異なる、相手への親しみと敬愛を感じる言葉だ。
「イツモ ココニ イルヨ」
触れ合えなくても、ずっと心の中に。
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「チャーリーズ・エンジェル」
2003年1月18日チャーリーズ・エンジェル
【Charlies Angels】2000年・米
監督 :マックG
脚本 :ライアン・ロウ
ジョン・オーガスト
武術指導 :ユエン・チョンヤン
俳優:キャメロン・ディアス
ドリュー・バルモア
ルーシー・リュー
クリスピン・グローヴァー
ケリー・リンチ
ティム・カリー
<ストーリー>
誰も顔も住処も知らない謎のボス“チャーリー”から、最高の頭脳と強さを持つ個性豊かな3人の美女に新たなミッションが告げられた。ノックス・テクノロジー社の若き創設者、エリック・ノックスが、完成間近の“音声追跡ソフト”ごと誘拐された。依頼人は、ノックス社の美人社長、ビビアン。依頼内容はノックスと、例のソフトを取り戻すこと。ライバル会社の社長が疑わしく、エンジェルたちは得意の変装を活かし潜入捜査を開始する。やがて、狙いをつけた実行犯とおぼしき人物を追いつめるのだが・・・・。果たして、“敵”の本当の狙いとは?
<感想>
映画館で観ようとは思わないが、親しい仲間と家でお酒でも飲みながらわいわい楽しく観るのに最適な1本ではないだろうか。
「マトリックス」と「M.I:2」と「オースティンパワーズ」の
美味しいトコロをMixしたような娯楽大作だ。
スローモーションとワイヤーアクションを多用したアクションシーンの指導は、「マトリックス」のユエン・チョンヤン。
お馬鹿映画と酷評されているらしいが、いやいや、娯楽とは何たるかを知り尽くして、お祭りの打ち上げ花火のように1時間半を楽しませてくれる。
とことん、シリアスにならないこと、これが成功の秘訣だろう。
ほんの少しでも、メロドラマや人情ものの要素が入ったら、とんでもない駄作になってしまったはずだ。それをさせない脚本に拍手。
キーになるのが「復讐」であるのに、この映画に「恨み」の陰はない。とことん説明をはぶいたマンガチックな運びこそが、エンジェルたちの魅力だけに観客を釘漬けにするためのポイントだったのだ。
セクシーというには大人の魅力にはほど遠い、まだコムスメの3人組は、それぞれ、知的(ルーシー・リュー)、男ったらし(ドリュー・バリモア)、お転婆キュート(キャメロン・ディアス)、と
個性もハッキリしていて、楽しい。
ルパン3世のフジコちゃ〜んのようなムンムンレディが3人もいたらくどくてゲップが出てしまう。
キャスティングの勝利、といえよう。
【Charlies Angels】2000年・米
監督 :マックG
脚本 :ライアン・ロウ
ジョン・オーガスト
武術指導 :ユエン・チョンヤン
俳優:キャメロン・ディアス
ドリュー・バルモア
ルーシー・リュー
クリスピン・グローヴァー
ケリー・リンチ
ティム・カリー
<ストーリー>
誰も顔も住処も知らない謎のボス“チャーリー”から、最高の頭脳と強さを持つ個性豊かな3人の美女に新たなミッションが告げられた。ノックス・テクノロジー社の若き創設者、エリック・ノックスが、完成間近の“音声追跡ソフト”ごと誘拐された。依頼人は、ノックス社の美人社長、ビビアン。依頼内容はノックスと、例のソフトを取り戻すこと。ライバル会社の社長が疑わしく、エンジェルたちは得意の変装を活かし潜入捜査を開始する。やがて、狙いをつけた実行犯とおぼしき人物を追いつめるのだが・・・・。果たして、“敵”の本当の狙いとは?
<感想>
映画館で観ようとは思わないが、親しい仲間と家でお酒でも飲みながらわいわい楽しく観るのに最適な1本ではないだろうか。
「マトリックス」と「M.I:2」と「オースティンパワーズ」の
美味しいトコロをMixしたような娯楽大作だ。
スローモーションとワイヤーアクションを多用したアクションシーンの指導は、「マトリックス」のユエン・チョンヤン。
お馬鹿映画と酷評されているらしいが、いやいや、娯楽とは何たるかを知り尽くして、お祭りの打ち上げ花火のように1時間半を楽しませてくれる。
とことん、シリアスにならないこと、これが成功の秘訣だろう。
ほんの少しでも、メロドラマや人情ものの要素が入ったら、とんでもない駄作になってしまったはずだ。それをさせない脚本に拍手。
キーになるのが「復讐」であるのに、この映画に「恨み」の陰はない。とことん説明をはぶいたマンガチックな運びこそが、エンジェルたちの魅力だけに観客を釘漬けにするためのポイントだったのだ。
セクシーというには大人の魅力にはほど遠い、まだコムスメの3人組は、それぞれ、知的(ルーシー・リュー)、男ったらし(ドリュー・バリモア)、お転婆キュート(キャメロン・ディアス)、と
個性もハッキリしていて、楽しい。
ルパン3世のフジコちゃ〜んのようなムンムンレディが3人もいたらくどくてゲップが出てしまう。
キャスティングの勝利、といえよう。
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「アトランティスのこころ」
2003年1月17日アトランティスのこころ
【Hearts in Atlantis】2001年・米
監督:スコット・ヒックス
脚本:ウィリアム・ゴールドマン
原作:スティーヴン・キング「黄色いコートの下衆男たち」(『アトランティスのこころ』の中の短編)
撮影:ピョートル・ソボシンスキ
俳優:アンソニー・ホプキンス(テッド・ブローティガン)
アントン・イェルチン(ボビー少年)
ミカ・ブーレム(キャロル)
ホープ・デイビス(ボビーの母)
デイビッド・モース(50歳のボビー)
<ストーリー>
1950年代。ボビーは、田舎町で母と2人で暮らしていた。父は幼い頃に亡くなり、写真でしか知らなかった。まだ若く美しい母は、息子よりも自分のことしか頭になく冷淡だ。11歳の誕生日を迎えた朝、母からプレゼントにもらったのは図書館の大人用貸し出しカードだった。
まわりの友達がみんな持っている自転車を、ボビーは買ってもらえずにいた。お父さんがギャンブルでお金をみんなスってしまったせいだと言う母。そのくせ母は、自分が着る最新流行の効果な洋服には湯水のようにお金をつぎ込むのだった。 だが、ボビーは悲しくなんてない。親友たちがいたから。野球少年のサリー、そして可憐で元気いっぱいの少女、キャロル。子供たちは豊かな自然と戯れ、日が暮れるまで笑いあっていた。こんな少年時代がいつまでも続くと思っていた・・・・・・。
そんな夏のある日。ボビーは、彼の家の二階に下宿することになった老人テッドと運命の出逢いを果す。テッドは、知的で穏やかな老人だが、ある“不思議な力”を秘めていた。その力ゆえに、「悪いやつら」に追われ、心安まることなく各地を転々とし暮らしてきたとボビーに語るのだった。父を知らず、父を憎んでいる母と暮らす少年ボビーは、テッドとの心温まる交流を通じ、次第にその視野をより大きな世界へと向けていくのだった。
だが、追っ手は迫る。しかも、追い討ちをかけるように、ある事件がきっかけでボビーの母に敵視され追い出されてしまうテッド・・・・。
<感想>
名優ホプキンズが語るとおり、大スペクタクルではなく、《小品》
なところがよい、小粒だが味の濃い作品である。
映画作品としては、101分の中で起伏が極端に少なく、淡々としたシーンが長く続き、ラスト付近で、説明不足のまま急展開をとげてしまい、観客が置いておかれたような感じをうけるかもしれない、その点は惜しい。
この作品は、1999年に出版されたS・キングの“Hearts in Atlantis”の中の(5編の短編による本)「黄色いコートの下衆男たち」の部分を映画化したものと考えていいだろう。
下衆男たちとは、テッドを追跡して悪利用しようとする者たちのこと。(映画では、黒ずくめの服で登場する)
(かつてはあったが沈んでしまった幻の大陸)アトランティスの心=ゆらゆらとして、いつかは失われてしまう子供時代の心。
なかなか味わいのある例えだ。
淡い恋、初めてのキス、大人の世界への扉を開く本、老人に教わる偉人の言葉、父の真実を知る夜、初恋の少女との別離、そして、世界は悪や暴力や恐れや悲しみに溢れていることを知るが、同時に“受け入れること”“赦す”ことも知る11才の夏。
人の心にある小さな魔法を信じれば、心の傷を癒せる。
そんな、典型的な少年時代との決別、喪失と再生を情感たっぷりに
描いていて温かい。
アンソニー・ホプキンス、そして名子役アントン・イェルチンの
名演技は言うに及ばず素晴らしかったが、特筆すべきはキャロル役のミカ・ブーレム。「サンキュー、ボーイズ」でのドリュー・バリモアの少女時代役や、「ジャック・フロスト パパは雪だるま」 の主人公の少年に憧れるクラスメート役が記憶に残っているが、実に明るく利発で勇気のある美少女を演じるのがうまい。この作品でも、彼女の意志の強い、それでいてこまっしゃくれていない愛くるしさが印象的だった。将来がとても楽しみな子役の1人だ。彼女の最新出演作は
「コレクター」の続編『スパイダー』。
スコット・ヒックス監督といえば、『シャイン』 。波乱万丈の物語ではなく、1人の人間の
内面を描くことに長けた監督である。
静かでホっとするラストシーンが心に残った。
子供の頃、一日は永遠に続くと思ってた。
でも今は、一瞬に終わってしまう。
【Hearts in Atlantis】2001年・米
監督:スコット・ヒックス
脚本:ウィリアム・ゴールドマン
原作:スティーヴン・キング「黄色いコートの下衆男たち」(『アトランティスのこころ』の中の短編)
撮影:ピョートル・ソボシンスキ
俳優:アンソニー・ホプキンス(テッド・ブローティガン)
アントン・イェルチン(ボビー少年)
ミカ・ブーレム(キャロル)
ホープ・デイビス(ボビーの母)
デイビッド・モース(50歳のボビー)
<ストーリー>
1950年代。ボビーは、田舎町で母と2人で暮らしていた。父は幼い頃に亡くなり、写真でしか知らなかった。まだ若く美しい母は、息子よりも自分のことしか頭になく冷淡だ。11歳の誕生日を迎えた朝、母からプレゼントにもらったのは図書館の大人用貸し出しカードだった。
まわりの友達がみんな持っている自転車を、ボビーは買ってもらえずにいた。お父さんがギャンブルでお金をみんなスってしまったせいだと言う母。そのくせ母は、自分が着る最新流行の効果な洋服には湯水のようにお金をつぎ込むのだった。 だが、ボビーは悲しくなんてない。親友たちがいたから。野球少年のサリー、そして可憐で元気いっぱいの少女、キャロル。子供たちは豊かな自然と戯れ、日が暮れるまで笑いあっていた。こんな少年時代がいつまでも続くと思っていた・・・・・・。
そんな夏のある日。ボビーは、彼の家の二階に下宿することになった老人テッドと運命の出逢いを果す。テッドは、知的で穏やかな老人だが、ある“不思議な力”を秘めていた。その力ゆえに、「悪いやつら」に追われ、心安まることなく各地を転々とし暮らしてきたとボビーに語るのだった。父を知らず、父を憎んでいる母と暮らす少年ボビーは、テッドとの心温まる交流を通じ、次第にその視野をより大きな世界へと向けていくのだった。
だが、追っ手は迫る。しかも、追い討ちをかけるように、ある事件がきっかけでボビーの母に敵視され追い出されてしまうテッド・・・・。
<感想>
名優ホプキンズが語るとおり、大スペクタクルではなく、《小品》
なところがよい、小粒だが味の濃い作品である。
映画作品としては、101分の中で起伏が極端に少なく、淡々としたシーンが長く続き、ラスト付近で、説明不足のまま急展開をとげてしまい、観客が置いておかれたような感じをうけるかもしれない、その点は惜しい。
この作品は、1999年に出版されたS・キングの“Hearts in Atlantis”の中の(5編の短編による本)「黄色いコートの下衆男たち」の部分を映画化したものと考えていいだろう。
下衆男たちとは、テッドを追跡して悪利用しようとする者たちのこと。(映画では、黒ずくめの服で登場する)
(かつてはあったが沈んでしまった幻の大陸)アトランティスの心=ゆらゆらとして、いつかは失われてしまう子供時代の心。
なかなか味わいのある例えだ。
淡い恋、初めてのキス、大人の世界への扉を開く本、老人に教わる偉人の言葉、父の真実を知る夜、初恋の少女との別離、そして、世界は悪や暴力や恐れや悲しみに溢れていることを知るが、同時に“受け入れること”“赦す”ことも知る11才の夏。
人の心にある小さな魔法を信じれば、心の傷を癒せる。
そんな、典型的な少年時代との決別、喪失と再生を情感たっぷりに
描いていて温かい。
アンソニー・ホプキンス、そして名子役アントン・イェルチンの
名演技は言うに及ばず素晴らしかったが、特筆すべきはキャロル役のミカ・ブーレム。「サンキュー、ボーイズ」でのドリュー・バリモアの少女時代役や、「ジャック・フロスト パパは雪だるま」 の主人公の少年に憧れるクラスメート役が記憶に残っているが、実に明るく利発で勇気のある美少女を演じるのがうまい。この作品でも、彼女の意志の強い、それでいてこまっしゃくれていない愛くるしさが印象的だった。将来がとても楽しみな子役の1人だ。彼女の最新出演作は
「コレクター」の続編『スパイダー』。
スコット・ヒックス監督といえば、『シャイン』 。波乱万丈の物語ではなく、1人の人間の
内面を描くことに長けた監督である。
静かでホっとするラストシーンが心に残った。
子供の頃、一日は永遠に続くと思ってた。
でも今は、一瞬に終わってしまう。
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「幼なじみ」
2003年1月16日幼なじみ
【A LA PLACE DU COEUR】1998年・仏
★1998年サンセバスチャン国際映画祭審査員特別賞、最優秀脚本賞、OCIC賞、3部門受賞
監督:ロベール・ゲディギャン
原作:ジェームズ・ボールドウィン『ビール・ストリートに口あらば』 (集英社刊)
俳優:ロール・ラウスト(クリム)
アレクサンドル・オグー(ベベ)
アリアンヌ・アスカリド(クリムの母)
ジャン=ピエール・ダルッサン(クリムの父)
ジェラール・メイラン(ベベの父)
クリスティーヌ・ブリュシェール(ベベの母)
ジャック・ブデ(家主の老人)
ヴェロニク・バルム(ソフィ、クリムの姉)
ジャック・ピエレ(警官)
<ストーリー>
南仏の港町マルセイユ、夏。クリムは、今日も愛するべべに会いに行く。べべは、無実の罪で刑務所に拘留されていた。
今日は特別だ。おなかの中に新しい生命が宿ったことをべべに告げる、大切な日。
幼なじみの二人は、運命に導かれ、いつしか互いに恋をし、
16歳と18歳で結婚を決意した。若すぎる二人の決断に最初は戸惑いを隠せなかった家族も、真剣な二人を心から応援してくれるようになる。
ところが、二人で暮らし始めようとしていた矢先、近所の移民女性がレイプされ、べべが訴えられてしまう。どうやら前からべべに目をつけていた人種差別主義の警察官が、黒人のべべを陥れようとしたようだ。べべの無実を信じ、日々大きくなるお腹を抱え、毎日アルバイトをしながら面会に通うクリム。
しかし、唯一の証人である被害者の女性が国内から姿を消してしまう。途方に暮れるクリムに、その女性を探しに彼女の故郷のサラエボまで行き、訴訟を取り消すよう説得すると決意したのは、クリムの母親。だが、心に深い傷を負ったレイプ被害者の女性に、訴えを取り消せと説得できるのか自信がない。
子宝に恵まれず、黒人の養子をとってから宗教だけが生き甲斐のベベの母と、姉までもベベに「家族に犯罪者がいるなんて教会に顔向けできない」と冷淡で、クリムにもつらく当たる。消耗しきった獄中のベベを救うための弁護士費用を稼ごうと、ベベの父とクリムの家族は必死に働き、生まれてくる新しい命のためにも、一丸となって頑張るのだった・・・・。
<感想>
邦題の「幼なじみ」というタイトルから連想する、ノスタルジックなほのぼのとした恋物語かと思いきや、実に骨太なストーリーであった。
原題のA LA PLACE DU COEUR(ア ラ プラース デュ クール)は、英訳すれば、The Place of the Heartだろうか。つまり、心の在処(場所)。
そう、この物語に出てくる人は、悪徳警官、ベベの母と姉を除き、
2人の家族はもちろん、2人を知る街の人々も、「真心」から
行動し、語る。
失業者の溢れる貧しい港町マルセイユ。けれど、市井の人々の心は豊かだ。
特に心を打つのは、若い2人のそれぞれの父親の間にうまれた絆だ。お互い知らずとも、同じ街で育ち、同じように肉体労働で家族を養い、時代に流れに押されて゛職人”が誇りを持って生きにくい世の中になってきた。メンタル的に"幼馴染”な2人の男といえよう。「こんな汚い世の中に、俺たちの孫がうまれてくる」新しい命を祝福し、守り抜くため、この男たちは手をとりあって立ちあがるのだ。
《新しい家族》は、ベベとクリムのような、そして、2人の父たちのような、《愛と信頼》で繋がった他人同士からスタートするのだ、と今更ながら、しみじみと感じた。
好きなシーンは、べべの父が息子のために杏のタルトを作ったり、
クリムの父が身重の娘のために熱いココアをいれてやったり、そういう日常の血の通ったあたたかい場面だ。
そして、若さと、身重であるがゆえに、ベベに会いに行くことしかできない自分を責め苦しむクリムに、「お金を稼ぐのは我々でもできる。だが、赤ん坊を無事に生むことは、おまえにしかできないのだよ」と語る、クリムの両親の懐の深さには目頭が熱くなる。
全篇を彩るリストのピアノ曲「愛の夢〜3つの夜想曲」が映像に
ピッタリだ。特に第3番“恋人よ、愛しうる限り愛せ”が詩情豊かで美しい。
そして、この作品ならではの魅力。それは、「言葉の美しさと豊かさ」だ。フランス語は哲学を語るのに最も相応しい言語と昔から言われるが、そのとおりかもしれない。
物体にも人の心にも粉雪のようにチリがつもる。
でも人の心につもるチリは執拗で、まとわりついて離れない。
他人の心はわからない、
自分の心だってわからない、
心とは宇宙のように神秘的なものなのだ。
私にとって彼は全てだった。
彼の顔は世界より広く、
彼の目は太陽より深く、
砂漠より広大で、
地球の歴史が刻まれているような顔だった。
いずれもクリムの心の呟きである。
俳優については、クリムの母を演じたアリアンヌ・アスカリドが
素晴らしい。女、母、妻、すべての面を繊細に、だが太陽のように
明るく表現している。先の見えない不安で暗澹とした物語がよどまないのは、彼女の笑顔あってこそだろう。
思春期においては、男性よりも女性のほうが熟すのが早いのは周知の事実だが、この物語でも、母となったクリムは、強くあろうと健気に頑張り、気弱な言動はベベに見せない。ベベは、そんな幼い恋人に「助けてくれ」と懇願するシーンが目立った。俺のことなら心配するな、くらいの言葉を、身重の恋人にかけてやれないベベ、頼りないが、世界でたった1人本音を話せる存在が、幼なじみであり、未来の伴侶であるという、気取らずストレートなところが、ベベの魅力なのかもしれない。
だが、少々解せなかったのは、サラエボでのシーン。
被害者の弟が言うように、空爆をうけて、毛布や食料を恵んでもらう民族、なのだ。その厳しい現状を見て、拒絶され、クリムの
母も、憎らしげに見つめられて諦めて帰国したのでは?
「嘘をつくと報いがくるわよ」「被害者はときに加害者になりうるのよ」の脅しが効いたのだろうか。クリムの姉が言うように、彼女は本当の被害者であって、レイプされた上、孕んでしまい、警官に言いくるめられ、安全なフランスから危険で食料もままならない故郷に追い出されたとことん気の毒な女性である。解決の方向としては、警官の偽証罪、証拠隠滅罪のほうに持って行ってほしかった。そこが残念だ。
【A LA PLACE DU COEUR】1998年・仏
★1998年サンセバスチャン国際映画祭審査員特別賞、最優秀脚本賞、OCIC賞、3部門受賞
監督:ロベール・ゲディギャン
原作:ジェームズ・ボールドウィン『ビール・ストリートに口あらば』 (集英社刊)
俳優:ロール・ラウスト(クリム)
アレクサンドル・オグー(ベベ)
アリアンヌ・アスカリド(クリムの母)
ジャン=ピエール・ダルッサン(クリムの父)
ジェラール・メイラン(ベベの父)
クリスティーヌ・ブリュシェール(ベベの母)
ジャック・ブデ(家主の老人)
ヴェロニク・バルム(ソフィ、クリムの姉)
ジャック・ピエレ(警官)
<ストーリー>
南仏の港町マルセイユ、夏。クリムは、今日も愛するべべに会いに行く。べべは、無実の罪で刑務所に拘留されていた。
今日は特別だ。おなかの中に新しい生命が宿ったことをべべに告げる、大切な日。
幼なじみの二人は、運命に導かれ、いつしか互いに恋をし、
16歳と18歳で結婚を決意した。若すぎる二人の決断に最初は戸惑いを隠せなかった家族も、真剣な二人を心から応援してくれるようになる。
ところが、二人で暮らし始めようとしていた矢先、近所の移民女性がレイプされ、べべが訴えられてしまう。どうやら前からべべに目をつけていた人種差別主義の警察官が、黒人のべべを陥れようとしたようだ。べべの無実を信じ、日々大きくなるお腹を抱え、毎日アルバイトをしながら面会に通うクリム。
しかし、唯一の証人である被害者の女性が国内から姿を消してしまう。途方に暮れるクリムに、その女性を探しに彼女の故郷のサラエボまで行き、訴訟を取り消すよう説得すると決意したのは、クリムの母親。だが、心に深い傷を負ったレイプ被害者の女性に、訴えを取り消せと説得できるのか自信がない。
子宝に恵まれず、黒人の養子をとってから宗教だけが生き甲斐のベベの母と、姉までもベベに「家族に犯罪者がいるなんて教会に顔向けできない」と冷淡で、クリムにもつらく当たる。消耗しきった獄中のベベを救うための弁護士費用を稼ごうと、ベベの父とクリムの家族は必死に働き、生まれてくる新しい命のためにも、一丸となって頑張るのだった・・・・。
<感想>
邦題の「幼なじみ」というタイトルから連想する、ノスタルジックなほのぼのとした恋物語かと思いきや、実に骨太なストーリーであった。
原題のA LA PLACE DU COEUR(ア ラ プラース デュ クール)は、英訳すれば、The Place of the Heartだろうか。つまり、心の在処(場所)。
そう、この物語に出てくる人は、悪徳警官、ベベの母と姉を除き、
2人の家族はもちろん、2人を知る街の人々も、「真心」から
行動し、語る。
失業者の溢れる貧しい港町マルセイユ。けれど、市井の人々の心は豊かだ。
特に心を打つのは、若い2人のそれぞれの父親の間にうまれた絆だ。お互い知らずとも、同じ街で育ち、同じように肉体労働で家族を養い、時代に流れに押されて゛職人”が誇りを持って生きにくい世の中になってきた。メンタル的に"幼馴染”な2人の男といえよう。「こんな汚い世の中に、俺たちの孫がうまれてくる」新しい命を祝福し、守り抜くため、この男たちは手をとりあって立ちあがるのだ。
《新しい家族》は、ベベとクリムのような、そして、2人の父たちのような、《愛と信頼》で繋がった他人同士からスタートするのだ、と今更ながら、しみじみと感じた。
好きなシーンは、べべの父が息子のために杏のタルトを作ったり、
クリムの父が身重の娘のために熱いココアをいれてやったり、そういう日常の血の通ったあたたかい場面だ。
そして、若さと、身重であるがゆえに、ベベに会いに行くことしかできない自分を責め苦しむクリムに、「お金を稼ぐのは我々でもできる。だが、赤ん坊を無事に生むことは、おまえにしかできないのだよ」と語る、クリムの両親の懐の深さには目頭が熱くなる。
全篇を彩るリストのピアノ曲「愛の夢〜3つの夜想曲」が映像に
ピッタリだ。特に第3番“恋人よ、愛しうる限り愛せ”が詩情豊かで美しい。
そして、この作品ならではの魅力。それは、「言葉の美しさと豊かさ」だ。フランス語は哲学を語るのに最も相応しい言語と昔から言われるが、そのとおりかもしれない。
物体にも人の心にも粉雪のようにチリがつもる。
でも人の心につもるチリは執拗で、まとわりついて離れない。
他人の心はわからない、
自分の心だってわからない、
心とは宇宙のように神秘的なものなのだ。
私にとって彼は全てだった。
彼の顔は世界より広く、
彼の目は太陽より深く、
砂漠より広大で、
地球の歴史が刻まれているような顔だった。
いずれもクリムの心の呟きである。
俳優については、クリムの母を演じたアリアンヌ・アスカリドが
素晴らしい。女、母、妻、すべての面を繊細に、だが太陽のように
明るく表現している。先の見えない不安で暗澹とした物語がよどまないのは、彼女の笑顔あってこそだろう。
思春期においては、男性よりも女性のほうが熟すのが早いのは周知の事実だが、この物語でも、母となったクリムは、強くあろうと健気に頑張り、気弱な言動はベベに見せない。ベベは、そんな幼い恋人に「助けてくれ」と懇願するシーンが目立った。俺のことなら心配するな、くらいの言葉を、身重の恋人にかけてやれないベベ、頼りないが、世界でたった1人本音を話せる存在が、幼なじみであり、未来の伴侶であるという、気取らずストレートなところが、ベベの魅力なのかもしれない。
だが、少々解せなかったのは、サラエボでのシーン。
被害者の弟が言うように、空爆をうけて、毛布や食料を恵んでもらう民族、なのだ。その厳しい現状を見て、拒絶され、クリムの
母も、憎らしげに見つめられて諦めて帰国したのでは?
「嘘をつくと報いがくるわよ」「被害者はときに加害者になりうるのよ」の脅しが効いたのだろうか。クリムの姉が言うように、彼女は本当の被害者であって、レイプされた上、孕んでしまい、警官に言いくるめられ、安全なフランスから危険で食料もままならない故郷に追い出されたとことん気の毒な女性である。解決の方向としては、警官の偽証罪、証拠隠滅罪のほうに持って行ってほしかった。そこが残念だ。
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「ラン・ローラ・ラン」
2003年1月15日ラン・ローラ・ラン
【Lola Rennt】1998年・独
監督・脚本:トム・ティクヴァ
撮影:フランク・グリーベ
★サンダンス映画祭ワールドシネマ観客賞受賞
俳優:フランカ・ポテンテ(ローラ)
モーリッツ・ブライプトロイ(マニ)
ヘルベルト・クナウプ(パパ)
アーミン・ローデ
ニナ・ペトリ
アーミン・ローデ
ヨアヒム・クロール
ハイノ・フェルヒ
<ストーリー>
夏のある日、ローラの部屋の電話が鳴る。恋人、マニからだ。
ヤクの取引で預かった大金をあろうことか地下鉄に置き忘れ、浮浪者に持って行かれてしまったというのだ。20分後にボスに金を渡す約束になっている。10万マルク(およそ500万円)持っていけなかったら問答無用、殺される。ローラはマニを、取引先にバイクで迎えに行く約束をしていたのだが、アクシデントで行けなかったのだ。「おまえのせいだ!愛の力で助けてあげるって言ってたじゃないか!20分で10万マルク作って持って来い!」交差点にある公衆電話でパニック状態のマニ。12時までにローラが来なかったら、スーパーに強盗に入るという。「待ってて、お金は何とか作るから!」と答え、受話器を投げ出したローラ。
ローラがベルリンの街を走って走って走りぬく!!!
<感想>
この作品は、未見の人はなるべく情報を持たずに観たほうが面白いので、ネタバレは極力避けよう。オチは大したことがないのだが、
ストーリーがどこまで続くのかはナイショ。
この映画が公開時に大評判となったのは、やはりポスト・ニュー・ジャーマン・シネマから、こんなにCoolな映像が届いた、という
ことにつきるだろう。アイデア自体は、アメリカではそうそう斬新なものではないのだが、ドイツでは画期的といえる。
劇中のテクノ・サウンド、アニメの挿入ややフィルムのコマ落し、TVの映像をサンプリングするMTVのようなタッチ等、《オシャレな映像作品》としては評価が高いようだ。
ストーリー面、登場人物の練りこみは、確かに甘い。ストーリー上の欠点は、やはり、ローラの大金の入手方法が安易過ぎること。
そして、20分しかないはずなのだが、走っている時間に比べて、
金を入手するための時間が長すぎる(あれだけのことをしたら、40分はかかるだろう)こと。これだけ切羽詰まった状況で、父の愛人のことを気にして問い詰めたり、脚本の練りが足りない。特に、
あと2分、などと切羽詰ってからローラがいろいろしすぎる。
ローラは、演じているフランカ・ポテンテが巧く、「普通のハイティーンの恋する女のコ」からずれない演技で通していていい。筋肉ムキムキのマラソン選手のような走り方では話がブチ壊しだからだ。だらしない服装に派手な髪、タバコはスパスパ吸う、酒もヤクもたぶん少しやっていそう、だけど、意地と根性だけは人一倍、そんなプチ不良娘が、愛する彼のために、とにかく必死に走りつづけるのだ。そこが、いい。
対して、よくわからないのはマニ。もともと、監督が描きたかったのが「走る女のコ」、ここから始まった企画なだけに、他の登場人物がいいかげん。彼女の物語なので、確かに他の人物はどうでもいいのだが(むしろ没個性に描いて正解)、恋人のマニだけは、「彼女が走る理由」なので、もっと「どういう魅力のある男なのか」を
例のベッドのシーンに割く時間があるなら、描いて欲しかったような気がする。まぁ、恋に理由はないのだから、とりあえずモーリッツ・ブライプトロイがハンサムくんというだけでもよしとしよう。
さて、ここからが本題。
監督は、「テーマは愛のためなら何でもできるということ」と明確に言いきっているが、それだけならこういう作りはしないだろう。
冒頭の
「我々はすべての探求を終えた後、初めて出発点を知る」T・S・エリオット
「試合の後とは、試合の前のことだ」S・ベルガー
に続いて、サッカーのキックオフのようなカットからスタートするこの映画。
人生はサッカーゲームと同じ。キックオフとタイムアップがあることだけは、どんな内容の試合でも決まっている。サッカーなら90分(映画もほぼ90分弱)。人生なら生れ落ちてから死ぬまで。その限定された時間のなかで、何ができるか、できないか、可能性も選択肢も無限だ。しかし、一瞬一瞬が、選択するチャンスなのである。サッカーなら、最後の数秒で勝敗が逆転することもよくあるし、ボールの角度がほんの少し違っただけでケガ人が出たり。人生なら、1秒違っただけで、あるいは1歩立つ位置が違っただけで、出遭う人が変ったり、何かを壊してしまったり誰かの命を救ったり・・・。だから人生は面白い。
そして、無限の可能性の中から、チョイスされるのはたった1つ。
その結果が「今」なのだ。その不思議と魅力についての映画でもあると思う。
原題のLola Renntは「ローラが走る」の意。アメリカでは、
゛Run Lola Run”「走れ、ローラよ走れ」に。邦題はこれをとっている。
【Lola Rennt】1998年・独
監督・脚本:トム・ティクヴァ
撮影:フランク・グリーベ
★サンダンス映画祭ワールドシネマ観客賞受賞
俳優:フランカ・ポテンテ(ローラ)
モーリッツ・ブライプトロイ(マニ)
ヘルベルト・クナウプ(パパ)
アーミン・ローデ
ニナ・ペトリ
アーミン・ローデ
ヨアヒム・クロール
ハイノ・フェルヒ
<ストーリー>
夏のある日、ローラの部屋の電話が鳴る。恋人、マニからだ。
ヤクの取引で預かった大金をあろうことか地下鉄に置き忘れ、浮浪者に持って行かれてしまったというのだ。20分後にボスに金を渡す約束になっている。10万マルク(およそ500万円)持っていけなかったら問答無用、殺される。ローラはマニを、取引先にバイクで迎えに行く約束をしていたのだが、アクシデントで行けなかったのだ。「おまえのせいだ!愛の力で助けてあげるって言ってたじゃないか!20分で10万マルク作って持って来い!」交差点にある公衆電話でパニック状態のマニ。12時までにローラが来なかったら、スーパーに強盗に入るという。「待ってて、お金は何とか作るから!」と答え、受話器を投げ出したローラ。
ローラがベルリンの街を走って走って走りぬく!!!
<感想>
この作品は、未見の人はなるべく情報を持たずに観たほうが面白いので、ネタバレは極力避けよう。オチは大したことがないのだが、
ストーリーがどこまで続くのかはナイショ。
この映画が公開時に大評判となったのは、やはりポスト・ニュー・ジャーマン・シネマから、こんなにCoolな映像が届いた、という
ことにつきるだろう。アイデア自体は、アメリカではそうそう斬新なものではないのだが、ドイツでは画期的といえる。
劇中のテクノ・サウンド、アニメの挿入ややフィルムのコマ落し、TVの映像をサンプリングするMTVのようなタッチ等、《オシャレな映像作品》としては評価が高いようだ。
ストーリー面、登場人物の練りこみは、確かに甘い。ストーリー上の欠点は、やはり、ローラの大金の入手方法が安易過ぎること。
そして、20分しかないはずなのだが、走っている時間に比べて、
金を入手するための時間が長すぎる(あれだけのことをしたら、40分はかかるだろう)こと。これだけ切羽詰まった状況で、父の愛人のことを気にして問い詰めたり、脚本の練りが足りない。特に、
あと2分、などと切羽詰ってからローラがいろいろしすぎる。
ローラは、演じているフランカ・ポテンテが巧く、「普通のハイティーンの恋する女のコ」からずれない演技で通していていい。筋肉ムキムキのマラソン選手のような走り方では話がブチ壊しだからだ。だらしない服装に派手な髪、タバコはスパスパ吸う、酒もヤクもたぶん少しやっていそう、だけど、意地と根性だけは人一倍、そんなプチ不良娘が、愛する彼のために、とにかく必死に走りつづけるのだ。そこが、いい。
対して、よくわからないのはマニ。もともと、監督が描きたかったのが「走る女のコ」、ここから始まった企画なだけに、他の登場人物がいいかげん。彼女の物語なので、確かに他の人物はどうでもいいのだが(むしろ没個性に描いて正解)、恋人のマニだけは、「彼女が走る理由」なので、もっと「どういう魅力のある男なのか」を
例のベッドのシーンに割く時間があるなら、描いて欲しかったような気がする。まぁ、恋に理由はないのだから、とりあえずモーリッツ・ブライプトロイがハンサムくんというだけでもよしとしよう。
さて、ここからが本題。
監督は、「テーマは愛のためなら何でもできるということ」と明確に言いきっているが、それだけならこういう作りはしないだろう。
冒頭の
「我々はすべての探求を終えた後、初めて出発点を知る」T・S・エリオット
「試合の後とは、試合の前のことだ」S・ベルガー
に続いて、サッカーのキックオフのようなカットからスタートするこの映画。
人生はサッカーゲームと同じ。キックオフとタイムアップがあることだけは、どんな内容の試合でも決まっている。サッカーなら90分(映画もほぼ90分弱)。人生なら生れ落ちてから死ぬまで。その限定された時間のなかで、何ができるか、できないか、可能性も選択肢も無限だ。しかし、一瞬一瞬が、選択するチャンスなのである。サッカーなら、最後の数秒で勝敗が逆転することもよくあるし、ボールの角度がほんの少し違っただけでケガ人が出たり。人生なら、1秒違っただけで、あるいは1歩立つ位置が違っただけで、出遭う人が変ったり、何かを壊してしまったり誰かの命を救ったり・・・。だから人生は面白い。
そして、無限の可能性の中から、チョイスされるのはたった1つ。
その結果が「今」なのだ。その不思議と魅力についての映画でもあると思う。
原題のLola Renntは「ローラが走る」の意。アメリカでは、
゛Run Lola Run”「走れ、ローラよ走れ」に。邦題はこれをとっている。
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「ミルクのお値段」
2003年1月14日ミルクのお値段
【The Price of Milk】 2000年ニュージーランド
監督・脚本:ハリー・シンクレア
俳優:カール・アーバン(ロブ)
ダニエル・コ−マック(ルシンダ)
ウィラ・オニール(ドロソファラ)
ランジ・モツ(老婆アンティ)
マイケル・ローレンス(バーニー)
117頭の乳牛
広所恐怖症の犬1匹(ナイジェル)
★プチョン国際ファンタスティック映画祭2001 グランプリ受賞
★東京国際ファンタスティック映画祭2001 Qフロントセレクション・コンペティション グランプリ受賞
★ニュージーランド・フィルム・アワード2000 シネマトグラフ賞受賞
<ストーリー>
ロブとルシンダは緑豊かな牧場で暮らす、薔薇色な日々を送る幸せな恋人同士。プロポーズされたルシンダは婚約指輪をうっとり眺めてて、妙な老婆を車で轢いてしまう!!
が、なぜかむっくり起き上がった老婆は、不思議な言葉を残し、森の中に消えて行った。これがコトの始まりだった・・・・。
さて、アツアツの2人だけれど、いつか愛が冷めるのでは、とちょっぴりマリッジブルーなルシンダ。そんな彼女に親友のドロソファラは、愛の炎を燃やすためには喧嘩も必要、とそそのかし、ついつい調子に乗ったルシンダは取り返しのつかない大変な悪戯をしでかしてしまった。怒り狂ったロブは彼女の元を去ってしまう・・・。
<感想>
まさに、オトナ向けの寓話。絵本の世界のような青い空、緑一色の草原、インド風の花嫁衣裳の赤、ロブの仕事着の青、ミルクの白。まさに総天然色。そして夢のような美しい夕焼け。これらのファンタスティックな素材を、手品のようなカメラワークでより不思議
な雰囲気に仕上げている。
寓話にメタファーは不可欠。印象的なのは、ロブを探して野山をどこまでも駆けるルシンダの真っ赤な衣装の裾が、2人を結ぶはずの
「切れてしまった赤い糸」のようで美しく悲しい。
現実的に考えてしまうと、ルシンダは何で収入を得ていたのか、とか、結婚したら2人の生活の糧となる乳牛をキルト一枚のために
売ってしまったり、2500ドル分のミルクの中で泳いでしまう
経済観念のなさや、これほどの牧歌的な風景に1つだけそぐわない
電子レンジの存在(ルシンダは都会の女でもないのに、レンジでチンした料理しか作れないことの謎も含めて)など、目がテンになってしまうおかしなことばかりなのだが、森の妖精が出てくるくらいだ、他の点がまともだったら妖精が浮いてしまうのだろう。
黒人のむさくるしい男たちとふてぶてしい婆さんが゛妖精”という
のが斬新でいい。彼らのヘンテコぶりに、ヒロインが負けていない
。登場人物の中で、唯一、ロブだけが「現実的にまとも」なのがより滑稽さを強調している。
キルトというのは、もともと色柄大きさ形、バラバラなハギレを
糸で丁寧に一針一針、時間をかけて大きな一枚の布に仕上げていく
ものだ。まさに、これこそが「もともと他人で性格も考えも違う
2人が1つのもの=愛、家庭 を築き上げていく」ことのメタファーなのである。
愛のお値段を知りたがり、愛を試してしまった愚かなお姫さまが
魔女に試練を与えられ、いちばん大切なことを学ぶまでの物語、
一言でいうとそうなるだろう。
余談だが、ウィラ・オニールのスタイルの悪さには驚いた。ニュージーランド映画界にはこういう女優さんもいるのか。
普通、可愛いお姫さまから王子さまを盗む女といったら、魔性の美女と昔話なら相場が決まっているのだが、ウィラ嬢、ジーンズに下腹の贅肉がのっかっていてくびれナシ、そのうえブラジャーが必要
なさそうな微乳ときている。親近感を覚える悪女だ(笑
オープニングとラストの、キルトの扱いは、とてもステキでよかった。特にラスト、カメラが引いて見えたキルト全体の模様がハッピーだ。森の妖精もなかなかオツなことを、と微笑んでしまう。
途中は相当気がモメるが、後味の良さは保証つき。
【The Price of Milk】 2000年ニュージーランド
監督・脚本:ハリー・シンクレア
俳優:カール・アーバン(ロブ)
ダニエル・コ−マック(ルシンダ)
ウィラ・オニール(ドロソファラ)
ランジ・モツ(老婆アンティ)
マイケル・ローレンス(バーニー)
117頭の乳牛
広所恐怖症の犬1匹(ナイジェル)
★プチョン国際ファンタスティック映画祭2001 グランプリ受賞
★東京国際ファンタスティック映画祭2001 Qフロントセレクション・コンペティション グランプリ受賞
★ニュージーランド・フィルム・アワード2000 シネマトグラフ賞受賞
<ストーリー>
ロブとルシンダは緑豊かな牧場で暮らす、薔薇色な日々を送る幸せな恋人同士。プロポーズされたルシンダは婚約指輪をうっとり眺めてて、妙な老婆を車で轢いてしまう!!
が、なぜかむっくり起き上がった老婆は、不思議な言葉を残し、森の中に消えて行った。これがコトの始まりだった・・・・。
さて、アツアツの2人だけれど、いつか愛が冷めるのでは、とちょっぴりマリッジブルーなルシンダ。そんな彼女に親友のドロソファラは、愛の炎を燃やすためには喧嘩も必要、とそそのかし、ついつい調子に乗ったルシンダは取り返しのつかない大変な悪戯をしでかしてしまった。怒り狂ったロブは彼女の元を去ってしまう・・・。
<感想>
まさに、オトナ向けの寓話。絵本の世界のような青い空、緑一色の草原、インド風の花嫁衣裳の赤、ロブの仕事着の青、ミルクの白。まさに総天然色。そして夢のような美しい夕焼け。これらのファンタスティックな素材を、手品のようなカメラワークでより不思議
な雰囲気に仕上げている。
寓話にメタファーは不可欠。印象的なのは、ロブを探して野山をどこまでも駆けるルシンダの真っ赤な衣装の裾が、2人を結ぶはずの
「切れてしまった赤い糸」のようで美しく悲しい。
現実的に考えてしまうと、ルシンダは何で収入を得ていたのか、とか、結婚したら2人の生活の糧となる乳牛をキルト一枚のために
売ってしまったり、2500ドル分のミルクの中で泳いでしまう
経済観念のなさや、これほどの牧歌的な風景に1つだけそぐわない
電子レンジの存在(ルシンダは都会の女でもないのに、レンジでチンした料理しか作れないことの謎も含めて)など、目がテンになってしまうおかしなことばかりなのだが、森の妖精が出てくるくらいだ、他の点がまともだったら妖精が浮いてしまうのだろう。
黒人のむさくるしい男たちとふてぶてしい婆さんが゛妖精”という
のが斬新でいい。彼らのヘンテコぶりに、ヒロインが負けていない
。登場人物の中で、唯一、ロブだけが「現実的にまとも」なのがより滑稽さを強調している。
キルトというのは、もともと色柄大きさ形、バラバラなハギレを
糸で丁寧に一針一針、時間をかけて大きな一枚の布に仕上げていく
ものだ。まさに、これこそが「もともと他人で性格も考えも違う
2人が1つのもの=愛、家庭 を築き上げていく」ことのメタファーなのである。
愛のお値段を知りたがり、愛を試してしまった愚かなお姫さまが
魔女に試練を与えられ、いちばん大切なことを学ぶまでの物語、
一言でいうとそうなるだろう。
余談だが、ウィラ・オニールのスタイルの悪さには驚いた。ニュージーランド映画界にはこういう女優さんもいるのか。
普通、可愛いお姫さまから王子さまを盗む女といったら、魔性の美女と昔話なら相場が決まっているのだが、ウィラ嬢、ジーンズに下腹の贅肉がのっかっていてくびれナシ、そのうえブラジャーが必要
なさそうな微乳ときている。親近感を覚える悪女だ(笑
オープニングとラストの、キルトの扱いは、とてもステキでよかった。特にラスト、カメラが引いて見えたキルト全体の模様がハッピーだ。森の妖精もなかなかオツなことを、と微笑んでしまう。
途中は相当気がモメるが、後味の良さは保証つき。
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「K−PAX〜光の旅人」
2003年1月13日『K−PAX〜光の旅人』
【K-PAX】 2001年・米
制作:ローレンス・ゴードン
監督:イアン・ソフトリー
脚本:チャールズ・リーヴィット
音楽:エドワード・シャーマー
原作:ジーン・ブルーワー
俳優:ケビン・スペイシー(プロート)
ジェフ・ブリッジス(マーク・パウエル)
メアリー・マコーマック(レイチェル)
アルフレ・ウッダード(クラウディア)
ソール・ウィリアムズ(アーニー)
デヴィッド・パトリック・ケリー(ハウイー)
<ストーリー>
初夏のニューヨーク。グランド・セントラル駅が不思議な光に包まれ、雑踏のなかに黒いサングラスをかけた男が現れた。プロートと名乗るその男は、自分は国も仕事も家族もない星"K-PAX"から来たと主張して病院の精神科へ送られ、そこでマンハッタン医学協会の精神科部長であるマークと出会う。
妄想癖のある記憶喪失患者として投薬を続けるが全く効き目がなく、とてもただの妄想とは思えないような正確さで宇宙の謎を語るプロートと、そんな彼の真実を見極め何とか救ってやりたいと思う医者。ふたりの間には、いつしか医師と患者の立場を超えた絆が芽生えていく。一方、プロートの患者仲間たちは、彼が異星人であることを疑いのない事実として受け入れていた。プロートには人々の心を開かせる不思議な力があったのだ。
やがて、プロートが故郷のK-PAXに帰るという日が近づいた。その「Xデー」に、何か大事件を起すのではないかと、マークは最後の方法として睡眠術による療法を試みる。やがて予想を越える凄惨な“過去”が浮上する・・・・。
<感想>
同時多発テロ以来、心が半壊状態だったアメリカ国民を虜にし、大ヒットとなったといわれるこの作品、ずばりテーマは“絆”と゛癒し”である。
この作品は、観客に判断を委ねられている。プロートが宇宙人だと思えば、SFファンタジー。いや、精神病者だと思えば、濃厚なヒューマンドラマ。だが、物語の本質を語るのに、彼が何物であるかはあまり実は関係がないのでは、と正直いって思うのだ・・。
彼が人間だろうと、宇宙人だろうと、テーマにかわりはないからだ。そんな作品が今までにあっただろうか。
ごく個人的な解釈としては、プロートは本人の言うとおり、K−PAXからきた宇宙人で、ロバートの肉体に憑依していた(あまりにも心に深い闇を持ち、光を求めるロバートの魂に呼ばれて肉体を借りた)。ベスを選んだのは、「あなたが青い鳥なんでしょ」と洞察されたことと、私には家がない=家の概念のない母星に馴染めると考えたから・・・。そして、他の患者の病気は治るが、彼女は治してもどこへも行けないから・・?
もちろん、家族、性行為に無関心を超え嫌悪感を示すプロート
を、ロバートのトラウマだと考えることも自然にできるのだが、
その場合、彼の天文学の知識と、消えたベスの謎に何の説明も
つかなくなってしまう。
だが、理責めでどうこう考えるよりも、素直に感じたい作品ではないか。わからなくていい。゛プロート”が地球に(彼に関った人々に)残していったものは、゛本来、人間が備えているはずの自然治癒・自己再生能力を思い出すこと”=゛青い鳥”という宝物だ。うつむき悲しむ人を癒せるのは、最終的に他人ではなく、「生きようとする本来の力」なのである。それこそが、この映画のテーマであろう。
この映画に流れる優しく不思議で美しい音楽も素晴らしい。
そして、ビックリ手品的ではない「光」の演出がいい。地球にもともとある自然の光・・・太陽光。プリズム。夜明けの光。星の光。夜の街を照らす生活の光。疲れたマークを迎える暖かい家の照明の光。心に闇を抱える精神病棟に射し込んだ光がプロートそのものであり、地球人にとって恐らく一番重大な問題「帰る場所がない」=絆を知らない という癒せない心の闇を抱えるベスだけを、永遠に太陽の沈まない光の星に連れていったとしたのなら・・・・魂の救済の寓話として読み取れる。
謎と悲しみを残し、同時に゛再生”の靴音を聞き取れる、素晴らしい作品なのである。
いつものことながら、ケビン・スペイシーの「掴めない男」の
演技には驚かされる。得意の「無表情」が最大限に発揮されているといえよう。
【K-PAX】 2001年・米
制作:ローレンス・ゴードン
監督:イアン・ソフトリー
脚本:チャールズ・リーヴィット
音楽:エドワード・シャーマー
原作:ジーン・ブルーワー
俳優:ケビン・スペイシー(プロート)
ジェフ・ブリッジス(マーク・パウエル)
メアリー・マコーマック(レイチェル)
アルフレ・ウッダード(クラウディア)
ソール・ウィリアムズ(アーニー)
デヴィッド・パトリック・ケリー(ハウイー)
<ストーリー>
初夏のニューヨーク。グランド・セントラル駅が不思議な光に包まれ、雑踏のなかに黒いサングラスをかけた男が現れた。プロートと名乗るその男は、自分は国も仕事も家族もない星"K-PAX"から来たと主張して病院の精神科へ送られ、そこでマンハッタン医学協会の精神科部長であるマークと出会う。
妄想癖のある記憶喪失患者として投薬を続けるが全く効き目がなく、とてもただの妄想とは思えないような正確さで宇宙の謎を語るプロートと、そんな彼の真実を見極め何とか救ってやりたいと思う医者。ふたりの間には、いつしか医師と患者の立場を超えた絆が芽生えていく。一方、プロートの患者仲間たちは、彼が異星人であることを疑いのない事実として受け入れていた。プロートには人々の心を開かせる不思議な力があったのだ。
やがて、プロートが故郷のK-PAXに帰るという日が近づいた。その「Xデー」に、何か大事件を起すのではないかと、マークは最後の方法として睡眠術による療法を試みる。やがて予想を越える凄惨な“過去”が浮上する・・・・。
<感想>
同時多発テロ以来、心が半壊状態だったアメリカ国民を虜にし、大ヒットとなったといわれるこの作品、ずばりテーマは“絆”と゛癒し”である。
この作品は、観客に判断を委ねられている。プロートが宇宙人だと思えば、SFファンタジー。いや、精神病者だと思えば、濃厚なヒューマンドラマ。だが、物語の本質を語るのに、彼が何物であるかはあまり実は関係がないのでは、と正直いって思うのだ・・。
彼が人間だろうと、宇宙人だろうと、テーマにかわりはないからだ。そんな作品が今までにあっただろうか。
ごく個人的な解釈としては、プロートは本人の言うとおり、K−PAXからきた宇宙人で、ロバートの肉体に憑依していた(あまりにも心に深い闇を持ち、光を求めるロバートの魂に呼ばれて肉体を借りた)。ベスを選んだのは、「あなたが青い鳥なんでしょ」と洞察されたことと、私には家がない=家の概念のない母星に馴染めると考えたから・・・。そして、他の患者の病気は治るが、彼女は治してもどこへも行けないから・・?
もちろん、家族、性行為に無関心を超え嫌悪感を示すプロート
を、ロバートのトラウマだと考えることも自然にできるのだが、
その場合、彼の天文学の知識と、消えたベスの謎に何の説明も
つかなくなってしまう。
だが、理責めでどうこう考えるよりも、素直に感じたい作品ではないか。わからなくていい。゛プロート”が地球に(彼に関った人々に)残していったものは、゛本来、人間が備えているはずの自然治癒・自己再生能力を思い出すこと”=゛青い鳥”という宝物だ。うつむき悲しむ人を癒せるのは、最終的に他人ではなく、「生きようとする本来の力」なのである。それこそが、この映画のテーマであろう。
この映画に流れる優しく不思議で美しい音楽も素晴らしい。
そして、ビックリ手品的ではない「光」の演出がいい。地球にもともとある自然の光・・・太陽光。プリズム。夜明けの光。星の光。夜の街を照らす生活の光。疲れたマークを迎える暖かい家の照明の光。心に闇を抱える精神病棟に射し込んだ光がプロートそのものであり、地球人にとって恐らく一番重大な問題「帰る場所がない」=絆を知らない という癒せない心の闇を抱えるベスだけを、永遠に太陽の沈まない光の星に連れていったとしたのなら・・・・魂の救済の寓話として読み取れる。
謎と悲しみを残し、同時に゛再生”の靴音を聞き取れる、素晴らしい作品なのである。
いつものことながら、ケビン・スペイシーの「掴めない男」の
演技には驚かされる。得意の「無表情」が最大限に発揮されているといえよう。
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「チューブ・テイルズ」
2003年1月12日『チューブ・テイルズ』【TUBE TALES】1999年・英
製作 リチャード・ジョブソン
監督:゛Mr.Cool”:エイミー・ジェンキンズ
゛Horny”:スティーブン・ホプキンス
゛Grasshopper”:メンハジ・フーダ
゛My Father,The Liar”:ボブ・ホスキンズ
゛Bone”:ユアン・マクレガー
゛Mouth”:アーマンド・イアヌッチ
゛A Bird in the Hand”:ジュード・ロウ
゛Rosebud”:ギャビー・デラル
゛Steal Away”:チャールズ・マクドーガル
出演 :ジェイソン・フレミング
ケリー・マクドナルド
レイチェル・ワイズ
デニス・バン・オーテン
スティーブン・ダ・コスタ
アラン・ミラー
レイ・ウィンストン
<概要>
ロンドンの地下鉄を舞台にした、1本10分程度のショートストーリー9編からなる映画。ロンドンのカルチャー情報誌(日本の「ぴあ」のような雑誌)「タイムアウト」が《地下鉄》をテーマにした短編を一般から募集,3000通のなかから各自お気に入りを選んで監督し,それをチェーンのようにつないで1本の映画に完成させたものである。
<コメント>
ロンドンを写した映画は数あれど、それは風景だけを写しているのであって、゛ロンドンっ子”を描こうとしたら、彼らが日常的に利用する「チューブ=地下鉄の愛称」を描くしかない、というのが企画のスタートだったらしい。
ロンドンの地下鉄は、とても地中奥深い位置を走っているらしく、
地上に出るまでのエスカレーターが恐ろしく長い。日常的でありながら、不思議と「非日常」の匂いがする・・・。
それを最大限に活かしたのが9番目の「Steal Away」。盗むのStealと、そっと抜け出す、のStealをかけているのだろうか。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を彷彿とさせる物語だ。ラストに相応しい。こういう作品を見ると、やはり、英国人の気質は日本人と近いと思うのだ。「ブラス!」でも書いたが、湿り気があるのだ。霧の都ロンドンの空気は乾いたアメリカと違って当然だろう。
なにしろ10分程度と一話が短いので、観る楽しみを減らさないために、詳しい内容は書かないことにしよう。
1番目のMr.Cool
2番目のHorny(好色)
は、日本の電車でもありそうな、身近な笑い話。この2話で観客を引き込む。
3番目のGrasshopper
主人公は何かヤバいものを所持しているらしい。慌てぶりが可笑しみを誘う。
第4話のMy Father,The Liar(嘘つきなパパ)
この作品は、地下鉄に乗るまで、が物語。私はこの物語が好きだ。
第5話のBoneはユアン・マクレガーが監督した。音楽家が写真しか知らない女性に一目惚れ。暴走する妄想と音楽がいい。
第6話のMouth。どうも、この1本のせいで二度と見たくないとお怒りの観客も多いようだ。アイデアはいいと思うのだが、とにかく汚いので、食事をしながら観るのだけはおすすめしない。
第7話のA Bird in the Handは、あのジュード・ロウの監督。
まさに鳥の巣のような爆発ヘアーのご婦人の頭から、小鳥が1羽飛び出した。ストーリー的には起伏も可笑しみもないのだが、不思議と魅力があり、何度でも観たくなる。魂の解放・・・だろうか。
第8話Rosebudは、ママとはぐれて迷子になってしまったローズバッドちゃんの物語。心温まるファンタジー。
最終話は先に触れたが、強盗犯のカップルが廃線となった地下鉄
のホームに逃げ込み隠れるが・・・。宗教的要素の強い作品。
魂の救済についてのショートストーリー。映像が美しい。
これだけバラバラな内容でも纏まりのある1本の作品に仕上がっているのは、地下鉄の路線が同じ1本であること、カメラマンを統一していること、各話をタイトルロール等で切らず、一瞬の暗転のみでどんどん繋いでいること、などの工夫によるところが大きい。
特に、面白いのは各話のタイトルと監督を字幕で出さず、たとえば地下鉄構内のポスターや、落ちている名刺、歩いている誰かのジャンパーの背中のロゴ、そういったものにさりげなく書いてあるところであろう。
まさに゛小粋”な88分の作品だ。
貴方の好きなストーリーはどれでしたか?
製作 リチャード・ジョブソン
監督:゛Mr.Cool”:エイミー・ジェンキンズ
゛Horny”:スティーブン・ホプキンス
゛Grasshopper”:メンハジ・フーダ
゛My Father,The Liar”:ボブ・ホスキンズ
゛Bone”:ユアン・マクレガー
゛Mouth”:アーマンド・イアヌッチ
゛A Bird in the Hand”:ジュード・ロウ
゛Rosebud”:ギャビー・デラル
゛Steal Away”:チャールズ・マクドーガル
出演 :ジェイソン・フレミング
ケリー・マクドナルド
レイチェル・ワイズ
デニス・バン・オーテン
スティーブン・ダ・コスタ
アラン・ミラー
レイ・ウィンストン
<概要>
ロンドンの地下鉄を舞台にした、1本10分程度のショートストーリー9編からなる映画。ロンドンのカルチャー情報誌(日本の「ぴあ」のような雑誌)「タイムアウト」が《地下鉄》をテーマにした短編を一般から募集,3000通のなかから各自お気に入りを選んで監督し,それをチェーンのようにつないで1本の映画に完成させたものである。
<コメント>
ロンドンを写した映画は数あれど、それは風景だけを写しているのであって、゛ロンドンっ子”を描こうとしたら、彼らが日常的に利用する「チューブ=地下鉄の愛称」を描くしかない、というのが企画のスタートだったらしい。
ロンドンの地下鉄は、とても地中奥深い位置を走っているらしく、
地上に出るまでのエスカレーターが恐ろしく長い。日常的でありながら、不思議と「非日常」の匂いがする・・・。
それを最大限に活かしたのが9番目の「Steal Away」。盗むのStealと、そっと抜け出す、のStealをかけているのだろうか。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を彷彿とさせる物語だ。ラストに相応しい。こういう作品を見ると、やはり、英国人の気質は日本人と近いと思うのだ。「ブラス!」でも書いたが、湿り気があるのだ。霧の都ロンドンの空気は乾いたアメリカと違って当然だろう。
なにしろ10分程度と一話が短いので、観る楽しみを減らさないために、詳しい内容は書かないことにしよう。
1番目のMr.Cool
2番目のHorny(好色)
は、日本の電車でもありそうな、身近な笑い話。この2話で観客を引き込む。
3番目のGrasshopper
主人公は何かヤバいものを所持しているらしい。慌てぶりが可笑しみを誘う。
第4話のMy Father,The Liar(嘘つきなパパ)
この作品は、地下鉄に乗るまで、が物語。私はこの物語が好きだ。
第5話のBoneはユアン・マクレガーが監督した。音楽家が写真しか知らない女性に一目惚れ。暴走する妄想と音楽がいい。
第6話のMouth。どうも、この1本のせいで二度と見たくないとお怒りの観客も多いようだ。アイデアはいいと思うのだが、とにかく汚いので、食事をしながら観るのだけはおすすめしない。
第7話のA Bird in the Handは、あのジュード・ロウの監督。
まさに鳥の巣のような爆発ヘアーのご婦人の頭から、小鳥が1羽飛び出した。ストーリー的には起伏も可笑しみもないのだが、不思議と魅力があり、何度でも観たくなる。魂の解放・・・だろうか。
第8話Rosebudは、ママとはぐれて迷子になってしまったローズバッドちゃんの物語。心温まるファンタジー。
最終話は先に触れたが、強盗犯のカップルが廃線となった地下鉄
のホームに逃げ込み隠れるが・・・。宗教的要素の強い作品。
魂の救済についてのショートストーリー。映像が美しい。
これだけバラバラな内容でも纏まりのある1本の作品に仕上がっているのは、地下鉄の路線が同じ1本であること、カメラマンを統一していること、各話をタイトルロール等で切らず、一瞬の暗転のみでどんどん繋いでいること、などの工夫によるところが大きい。
特に、面白いのは各話のタイトルと監督を字幕で出さず、たとえば地下鉄構内のポスターや、落ちている名刺、歩いている誰かのジャンパーの背中のロゴ、そういったものにさりげなく書いてあるところであろう。
まさに゛小粋”な88分の作品だ。
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「スパイ・ゲーム」
2003年1月11日スパイ・ゲーム
【Spy Game】2001年・米
監督:トニー・スコット
原案・脚本:マイケル・フロスト・ベックナー
撮影:ダン・ミンデル
俳優;ロバート・レッドフォード
ブラッド・ピット
キャサリン・マコーマック(エリザベス)
マリアンヌ・ジャン=バティスタ(グラディス)
スティーヴン・ディレーン(ハーカー)
ラリー・ブリッグマン(トロイ)
<ストーリー>
ベルリンの壁崩壊から2年後、1991年。CIAの作戦担当官として数々の激務をこなしてきたネイサン・ミュアーは引退の日を迎えようとしていた。その朝。自ら育て上げたがある事件をきっかけに袂を分った若手エージェントのトム・ビショップが単独行動の結果、中国に捕らえられ、24時間後には処刑されるというニュースが!祖国からも見捨てられた愛弟子ビショップを救出せねば・・・
CIA上層部と巧みに渡り合いつつ、危険な賭けに挑むミュアー。
これは、彼が“償い”のために自分に課した最後の孤独な任務だったのだ。中国の蘇州、ワシントンDC、香港、ベトナム、ベイルート。激動の時代と世界を物語は突っ走る。
<コメント>
アクション、サスペンス、ロマンス、ヒューマンの要素の詰まった、新旧を代表する二大ハリウッド男優による娯楽大作。
『クリムゾン・タイド』でも世代と性格の違う男二人の熱い対立を
描いたトニー・スコット監督。この作品でも、緊迫感あふれるカメラワーク、骨太なストーリー、そして爽快なラストで観客を酔わせてくれる。
見所は、やはり世代を超えた2人の名優の名演合戦、そして、ミュアーとビショップの“絆”であろう。
スパイとしての天賦の才能があるが、あまりに人間的過ぎる熱く優しい青年ビショップ、そんな彼をクールに導き、非情冷徹なスパイの世界の現実を叩きこんでいくが、心の底では息子のように慈しむミュアー。
畏敬の念でミュアーを見るも、未熟さ、若さゆえに、任務遂行の
ためなら民間人の犠牲も厭わない理不尽なスパイ稼業と、
それに引きこんだミュアーへの怒りをあらわにするビショップ。
苦悩を表に出さないミュアーと気持ちを隠せないピュアなビショップ。対照的だが、どこか似ている二人。任務のために、ビショップのような純な青年をこの稼業に誘いこんでしまった苦悩と哀愁を、
R・レッドフォードが渋くクールに演じていて、いい。
ブラピが他の作品ではまず見せない、本来の持ち味である゛ピュア”゛デリケート”な面を、相手役がR・レッドフォードだったから最大限に引出せたといえよう。『リバー・ランズ・スルー・イット』で監督としてブラピをハリウッドのスターダムに押し上げたのはレッドフォードだからだ。『リバー・・・』のブラピをご覧になったことのないかたには、是非、おすすめしたい。
監督がこの作品で描きたかったのは、インモラルな現代における、《人の倫》の意味かもしれない。大義名分の元ならば人間として超えてはいけない一線を軽々と超えてしまうスパイの世界。だが、スパイなしには成立しない国家、政治というもの。
これは、冷戦時代のアメリカを裏で守ってきた男の哀歌であり、一生背負わねばならない十字架の物語だ。償っても償いきれないことを男は知っているが、天はたった1つのチャンスをミュアーに与える。南の島での余生とひきかえにしても、このチャンスのほうがミュアーは欲しかったはずだ。
印象に残るシーンは、やはり屋上でのシーン。
「人間を野球カードみたいにやりとり?ゲームじゃないんだ!」と猛り狂うビショップに、ミュアーが辛さを押し隠して言い放つ。
「これはゲームだ。負けられない危険なゲームだ。」
そして、ベイルートで誕生日祝いを渡されたミュアーが、まるで息子からの贈り物のように相好を崩すシーン。ありきたりといえばそうなのだろうが、仲間同士でも信用を置かないCIAの面々ばかり見てくると、こういう血の通ったシーンにはホっとするものだ。
ミュアーのオフィスの壁の一部が焼けた星条旗。長い任務のどこかで記念に手にいれて大事にしてきたものなのだろう。引退に際して、忠実な秘書のグラディスに、あげるよ、私の思い出に、と言い残して去る。この国のために人生の大半を捧げてきたミュアーが、
最後の最後に国に裏切られ、自分も国を裏切る。端の焼け落ちた星条旗との決別。なかなか印象的だ。
ただ、ヒロインのキャサリン・マコーマックの人間的、女性的魅力が足りない。同じ十字架を背負う者同士、惹かれあったのはわかるのだが、彼女はテロリストだ。愛してはいけない女を愛してしまうスパイ、というのは昔からの常套のような気がして、そこに新鮮味がなくて残念だった。ビショップが中国に捕えられてしまう経緯もやや甘かったように思う。そのあたりの設定が違ったら、面白さは数段上がっただろう。
【Spy Game】2001年・米
監督:トニー・スコット
原案・脚本:マイケル・フロスト・ベックナー
撮影:ダン・ミンデル
俳優;ロバート・レッドフォード
ブラッド・ピット
キャサリン・マコーマック(エリザベス)
マリアンヌ・ジャン=バティスタ(グラディス)
スティーヴン・ディレーン(ハーカー)
ラリー・ブリッグマン(トロイ)
<ストーリー>
ベルリンの壁崩壊から2年後、1991年。CIAの作戦担当官として数々の激務をこなしてきたネイサン・ミュアーは引退の日を迎えようとしていた。その朝。自ら育て上げたがある事件をきっかけに袂を分った若手エージェントのトム・ビショップが単独行動の結果、中国に捕らえられ、24時間後には処刑されるというニュースが!祖国からも見捨てられた愛弟子ビショップを救出せねば・・・
CIA上層部と巧みに渡り合いつつ、危険な賭けに挑むミュアー。
これは、彼が“償い”のために自分に課した最後の孤独な任務だったのだ。中国の蘇州、ワシントンDC、香港、ベトナム、ベイルート。激動の時代と世界を物語は突っ走る。
<コメント>
アクション、サスペンス、ロマンス、ヒューマンの要素の詰まった、新旧を代表する二大ハリウッド男優による娯楽大作。
『クリムゾン・タイド』でも世代と性格の違う男二人の熱い対立を
描いたトニー・スコット監督。この作品でも、緊迫感あふれるカメラワーク、骨太なストーリー、そして爽快なラストで観客を酔わせてくれる。
見所は、やはり世代を超えた2人の名優の名演合戦、そして、ミュアーとビショップの“絆”であろう。
スパイとしての天賦の才能があるが、あまりに人間的過ぎる熱く優しい青年ビショップ、そんな彼をクールに導き、非情冷徹なスパイの世界の現実を叩きこんでいくが、心の底では息子のように慈しむミュアー。
畏敬の念でミュアーを見るも、未熟さ、若さゆえに、任務遂行の
ためなら民間人の犠牲も厭わない理不尽なスパイ稼業と、
それに引きこんだミュアーへの怒りをあらわにするビショップ。
苦悩を表に出さないミュアーと気持ちを隠せないピュアなビショップ。対照的だが、どこか似ている二人。任務のために、ビショップのような純な青年をこの稼業に誘いこんでしまった苦悩と哀愁を、
R・レッドフォードが渋くクールに演じていて、いい。
ブラピが他の作品ではまず見せない、本来の持ち味である゛ピュア”゛デリケート”な面を、相手役がR・レッドフォードだったから最大限に引出せたといえよう。『リバー・ランズ・スルー・イット』で監督としてブラピをハリウッドのスターダムに押し上げたのはレッドフォードだからだ。『リバー・・・』のブラピをご覧になったことのないかたには、是非、おすすめしたい。
監督がこの作品で描きたかったのは、インモラルな現代における、《人の倫》の意味かもしれない。大義名分の元ならば人間として超えてはいけない一線を軽々と超えてしまうスパイの世界。だが、スパイなしには成立しない国家、政治というもの。
これは、冷戦時代のアメリカを裏で守ってきた男の哀歌であり、一生背負わねばならない十字架の物語だ。償っても償いきれないことを男は知っているが、天はたった1つのチャンスをミュアーに与える。南の島での余生とひきかえにしても、このチャンスのほうがミュアーは欲しかったはずだ。
印象に残るシーンは、やはり屋上でのシーン。
「人間を野球カードみたいにやりとり?ゲームじゃないんだ!」と猛り狂うビショップに、ミュアーが辛さを押し隠して言い放つ。
「これはゲームだ。負けられない危険なゲームだ。」
そして、ベイルートで誕生日祝いを渡されたミュアーが、まるで息子からの贈り物のように相好を崩すシーン。ありきたりといえばそうなのだろうが、仲間同士でも信用を置かないCIAの面々ばかり見てくると、こういう血の通ったシーンにはホっとするものだ。
ミュアーのオフィスの壁の一部が焼けた星条旗。長い任務のどこかで記念に手にいれて大事にしてきたものなのだろう。引退に際して、忠実な秘書のグラディスに、あげるよ、私の思い出に、と言い残して去る。この国のために人生の大半を捧げてきたミュアーが、
最後の最後に国に裏切られ、自分も国を裏切る。端の焼け落ちた星条旗との決別。なかなか印象的だ。
ただ、ヒロインのキャサリン・マコーマックの人間的、女性的魅力が足りない。同じ十字架を背負う者同士、惹かれあったのはわかるのだが、彼女はテロリストだ。愛してはいけない女を愛してしまうスパイ、というのは昔からの常套のような気がして、そこに新鮮味がなくて残念だった。ビショップが中国に捕えられてしまう経緯もやや甘かったように思う。そのあたりの設定が違ったら、面白さは数段上がっただろう。
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「ザ・ダイバー」
2003年1月9日ザ・ダイバー
【Men of Honor】2000年・米
監督:ジョージ・ティルマンJr.
脚本:スコット・マーシャル・スミス
音楽:マーク・アイシャム
俳優:ロバート・デ・ニーロ(ビリー・サンデー)
キューバ・グッディング・Jr.(カール・ブラシア)
シャーリズ・セロン(グウェン・サンデー)
アーンジャニュー・エリス(ジョー・ブラシア)
ハル・ホルブルック(ミスター・パピー)
デビッド・コンラッド(ハンクス大佐)
<ストーリー>
1950〜60年代、まだアメリカ海軍に厳しい人種差別の壁があった。ケンタッキー州の貧しい小作農の家に育ったアフリカ系アメリカ人のカール・ブラシアは憧れの海軍に入隊するが、黒人はコックか雑用係、白人と一緒に海を泳ぐことも許されないという現実に直面する。だが、誰よりも早い泳ぎと肝のすわった性格を評価され、黒人として初めて、水難事故の際、救命活動に従事する甲板兵にとりたてられたカール。ある日ベテラン深海ダイバー、ビリー・サンデーが命を賭して仲間のダイバーを救出した姿に感銘をうけ、ダイバーになることを決意するのだった。2年にわたって100通以上の嘆願書を書き続けたカールは、ようやく黒人としてやはり
初めて、ダイバー養成所への入学を許可される。だが、法律上の差別が撤廃されたばかりの頃だ。そこでも人種差別の壁が立ちはだかる。仲間の嫌がらせにはさして動揺しないカールも、ただでさえ鬼教官、しかも過去の出来事ゆえに徹底して黒人を憎悪しているビリー・サンデーには苦しめられ続ける。サンデーは、仲間の命を救った際の無謀なダイブにより肺を損傷しダイバー生命を絶たれ、養成所の教官となっていたのだった・・・。
<コメント>
この作品は実話。海軍では伝説の人、カール・ブラシアの物語である。あまりに情熱的な彼の生き方にハラハラしどおしで、ラストは感動に熱い涙がこぼれた。
養成所を卒業するまでも壮絶だが、陰謀に負けず無事に卒業してダイバーの資格を得てめでたしめでたしか、と思ったら、それからが凄かった。未見の方のために、ストーリーの顛末についてはなるべく触れずにおこう。
こんなにも、信念に忠実で、「人生で絶対に失ってはいけないものは何か」を一時たりとも忘れない男を描いた作品も稀有だろう。
そして、この作品は只の“ド根性サクセスストーリー”で終わっていない。そこが評価すべき点だ。
実は、ビリー・サンデーは架空の人物である。脚本のスコット・マーシャル・スミスが、米軍の許可のもと、カール・ブラシア本人と
緻密な打合せをし、彼に関った複数の軍人や教官のエピソードを、ビリー・サンデーという架空の人物に纏め上げたものだそうだ。
この役を、ロバート・デ・ニーロがさすがの名演技でこなしている。人間の弱い面をすべて持っている男。人間的魅力に自信がないから黒人を見下すことで優越感を満たし、もう海に潜れない悲しみから酒に溺れ妻を悲しませる。この、陸で溺れている男が生まれ変っていく過程にリアリティを持たせたのは、デ・ニーロの演技力が
あったからこそであろう。≪行間の演技≫をこなせる役者だけが、
脚本の魅力を200%引出せるのである。
対して、若手だがアカデミー俳優のキューバ・グッディング・Jr.は「素材」そのものが既に素晴らしい。彼のデビュー作「ボーイズ’ン・ザ・フッド」から7作ほど観ているが、この作品での演技が最高だ。希望に燃える20代の青年から、艱難辛苦を舐め尽くした40才直前までのカールを、実に自然に演じている。養成所時代の、卑屈さのかけらもないキョトンとした快活で優しく素直な大きな瞳がとても印象的だが、負傷後〜ラストにかけての「無我夢中」「執念」としか形容しようのない強く鋭い瞳。そして、夢のために犠牲にしてきた家族への切ない想いのよぎる暗い瞳。いい俳優になった。
そして、この作品を彩る二人の女性。カールの妻とビリーの妻。
夢に向かって一直線の男を支える妻、というのはたくさんの伝記映画に登場するが(近年では『ビューティフル・マインド』など)、
この作品の女性陣は、どちらも、あまりにも自分のことしか眼中にない夫たちの元をいったん去る。でも、それぞれに答を見つけて戻ってくるのだ。それは、「こういう男だってわかってて結婚したはずよ」という心の動きであろう。諦めと、誇らしさの混じった複雑な心境を、シャーリズ・セロンも、新人アーンジャニュー・エリス
も巧みに演じている。
互いの勇気と情熱への尊敬の念。それによって反目しあっていた二人の男はいつしか深い絆で結ばれていくが、この水と油のような二人の共通点は勇気や情熱だけではなく、“名誉ある”退役しか選択肢を与えてくれない(ビリーの場合、与えてくれなかった)海軍上層部への反目だ。
ここが、実にドラマティックなのである。
「海軍の最も素晴らしい伝統は『名誉』です。」
そう、名誉ある退役ではなく、名誉ある存在であるために。
原題のMen of Honorは名誉を重んじる男たち、と考えていいだろう。勲章を持つ男達、ととると、ミスター・パピーやハンクス大佐も含まれ、相当辛辣なタイトルになる。
手に汗握るラストシーンをはじめ、印象に残るシーンは数あれど、序盤、カールの父親が息子に語るシーン(歴史はルールを変える者によって作られる、という意の言葉をかけ、俺のようにはなるな、戻ってくるな、と言い聞かせる)と、叩き割られたラジオ(父の形見)が直されてあり、そこにもともと書いてあったA S N F という頭文字の横に、A SON NEVER FORGETS(生涯忘れ得ぬ息子)という文字が書き足されていた、あのシーンは感動的だった。ビリーの父も貧乏な小作人だった。誇り高き海軍に入って出世するんだ、父を喜ばせるんだ・・・その想いは、ビリーもカールも同じだったはずである。だからこそ、通じ合えたのだろうと思う。
ビリー・サンデーが養成所で未来のダイバー達にぶつ演説
は印象的だ。マスター・ダイバーだった彼だからこその
言葉だ。
ネイビー・ダイバーは戦士ではない。
海難救助のエキスパートだ。
もし水中に失われてしまったものがあれば
それを探し出す。
もし海底に沈んでしまったものがあれば、
ソレを引き揚げる。
もし行く手を阻むものがあれば、
それを移動させる。
もし幸運ならば、
若くして海底200フィートの世界で死ぬだろう。
ヒーローになる道があるとすれば、
それが一番の近道だからだ。
まったく、俺にはわからない。
ネイビー・ダイバーになりたいと思うヤツの気持ちが。
【Men of Honor】2000年・米
監督:ジョージ・ティルマンJr.
脚本:スコット・マーシャル・スミス
音楽:マーク・アイシャム
俳優:ロバート・デ・ニーロ(ビリー・サンデー)
キューバ・グッディング・Jr.(カール・ブラシア)
シャーリズ・セロン(グウェン・サンデー)
アーンジャニュー・エリス(ジョー・ブラシア)
ハル・ホルブルック(ミスター・パピー)
デビッド・コンラッド(ハンクス大佐)
<ストーリー>
1950〜60年代、まだアメリカ海軍に厳しい人種差別の壁があった。ケンタッキー州の貧しい小作農の家に育ったアフリカ系アメリカ人のカール・ブラシアは憧れの海軍に入隊するが、黒人はコックか雑用係、白人と一緒に海を泳ぐことも許されないという現実に直面する。だが、誰よりも早い泳ぎと肝のすわった性格を評価され、黒人として初めて、水難事故の際、救命活動に従事する甲板兵にとりたてられたカール。ある日ベテラン深海ダイバー、ビリー・サンデーが命を賭して仲間のダイバーを救出した姿に感銘をうけ、ダイバーになることを決意するのだった。2年にわたって100通以上の嘆願書を書き続けたカールは、ようやく黒人としてやはり
初めて、ダイバー養成所への入学を許可される。だが、法律上の差別が撤廃されたばかりの頃だ。そこでも人種差別の壁が立ちはだかる。仲間の嫌がらせにはさして動揺しないカールも、ただでさえ鬼教官、しかも過去の出来事ゆえに徹底して黒人を憎悪しているビリー・サンデーには苦しめられ続ける。サンデーは、仲間の命を救った際の無謀なダイブにより肺を損傷しダイバー生命を絶たれ、養成所の教官となっていたのだった・・・。
<コメント>
この作品は実話。海軍では伝説の人、カール・ブラシアの物語である。あまりに情熱的な彼の生き方にハラハラしどおしで、ラストは感動に熱い涙がこぼれた。
養成所を卒業するまでも壮絶だが、陰謀に負けず無事に卒業してダイバーの資格を得てめでたしめでたしか、と思ったら、それからが凄かった。未見の方のために、ストーリーの顛末についてはなるべく触れずにおこう。
こんなにも、信念に忠実で、「人生で絶対に失ってはいけないものは何か」を一時たりとも忘れない男を描いた作品も稀有だろう。
そして、この作品は只の“ド根性サクセスストーリー”で終わっていない。そこが評価すべき点だ。
実は、ビリー・サンデーは架空の人物である。脚本のスコット・マーシャル・スミスが、米軍の許可のもと、カール・ブラシア本人と
緻密な打合せをし、彼に関った複数の軍人や教官のエピソードを、ビリー・サンデーという架空の人物に纏め上げたものだそうだ。
この役を、ロバート・デ・ニーロがさすがの名演技でこなしている。人間の弱い面をすべて持っている男。人間的魅力に自信がないから黒人を見下すことで優越感を満たし、もう海に潜れない悲しみから酒に溺れ妻を悲しませる。この、陸で溺れている男が生まれ変っていく過程にリアリティを持たせたのは、デ・ニーロの演技力が
あったからこそであろう。≪行間の演技≫をこなせる役者だけが、
脚本の魅力を200%引出せるのである。
対して、若手だがアカデミー俳優のキューバ・グッディング・Jr.は「素材」そのものが既に素晴らしい。彼のデビュー作「ボーイズ’ン・ザ・フッド」から7作ほど観ているが、この作品での演技が最高だ。希望に燃える20代の青年から、艱難辛苦を舐め尽くした40才直前までのカールを、実に自然に演じている。養成所時代の、卑屈さのかけらもないキョトンとした快活で優しく素直な大きな瞳がとても印象的だが、負傷後〜ラストにかけての「無我夢中」「執念」としか形容しようのない強く鋭い瞳。そして、夢のために犠牲にしてきた家族への切ない想いのよぎる暗い瞳。いい俳優になった。
そして、この作品を彩る二人の女性。カールの妻とビリーの妻。
夢に向かって一直線の男を支える妻、というのはたくさんの伝記映画に登場するが(近年では『ビューティフル・マインド』など)、
この作品の女性陣は、どちらも、あまりにも自分のことしか眼中にない夫たちの元をいったん去る。でも、それぞれに答を見つけて戻ってくるのだ。それは、「こういう男だってわかってて結婚したはずよ」という心の動きであろう。諦めと、誇らしさの混じった複雑な心境を、シャーリズ・セロンも、新人アーンジャニュー・エリス
も巧みに演じている。
互いの勇気と情熱への尊敬の念。それによって反目しあっていた二人の男はいつしか深い絆で結ばれていくが、この水と油のような二人の共通点は勇気や情熱だけではなく、“名誉ある”退役しか選択肢を与えてくれない(ビリーの場合、与えてくれなかった)海軍上層部への反目だ。
ここが、実にドラマティックなのである。
「海軍の最も素晴らしい伝統は『名誉』です。」
そう、名誉ある退役ではなく、名誉ある存在であるために。
原題のMen of Honorは名誉を重んじる男たち、と考えていいだろう。勲章を持つ男達、ととると、ミスター・パピーやハンクス大佐も含まれ、相当辛辣なタイトルになる。
手に汗握るラストシーンをはじめ、印象に残るシーンは数あれど、序盤、カールの父親が息子に語るシーン(歴史はルールを変える者によって作られる、という意の言葉をかけ、俺のようにはなるな、戻ってくるな、と言い聞かせる)と、叩き割られたラジオ(父の形見)が直されてあり、そこにもともと書いてあったA S N F という頭文字の横に、A SON NEVER FORGETS(生涯忘れ得ぬ息子)という文字が書き足されていた、あのシーンは感動的だった。ビリーの父も貧乏な小作人だった。誇り高き海軍に入って出世するんだ、父を喜ばせるんだ・・・その想いは、ビリーもカールも同じだったはずである。だからこそ、通じ合えたのだろうと思う。
ビリー・サンデーが養成所で未来のダイバー達にぶつ演説
は印象的だ。マスター・ダイバーだった彼だからこその
言葉だ。
ネイビー・ダイバーは戦士ではない。
海難救助のエキスパートだ。
もし水中に失われてしまったものがあれば
それを探し出す。
もし海底に沈んでしまったものがあれば、
ソレを引き揚げる。
もし行く手を阻むものがあれば、
それを移動させる。
もし幸運ならば、
若くして海底200フィートの世界で死ぬだろう。
ヒーローになる道があるとすれば、
それが一番の近道だからだ。
まったく、俺にはわからない。
ネイビー・ダイバーになりたいと思うヤツの気持ちが。
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