「素晴らしき哉、人生!」
2002年12月18日『素晴らしき哉、人生!』【It’s A Wonderful Life】1946年・米
監督:フランク・キャプラ
音楽:ディミトリ・ディオムキン
俳優:ジェームズ・スチュワート(ジョージ)
ドナ・リード(メアリー)
ヘンリー・トラヴァース(天使クレランス)
ライオネル・バリーモア(ポッター)
トーマス・ミッチェル(ビリー叔父さん)
H.B.ワーナー(ガウワー老人)
リリアン・ランドルフ(アニー)
ボビー・アンダーソン(少年時代のジョージ)
フランク・アルバートソン(サム)
<ストーリー>
小さな街を出て世界をまわり建築家になりたいという大きな夢を
持っていたジョージ。高校卒業後、何年もかけて学資をアルバイトで稼ぎ、やっと大学へ行く夢がかなう。弟ハリーにつきあい、高校卒業記念ダンスパーティに参加し気分は最高のジョージだったが、その晩、敬愛する父が急死してしまう。さまざまな事情から大学の学資を弟に譲り、自分は夢を諦め、街の権力者ポッターの圧力がのしかかる、父の住宅ローン会社を止む無く引き継ぐことに。
弟が大学を卒業したら、社長業は弟に任せて、今度こそ自分が大学に、と願っていたが、なんと卒業した弟は妻を連れて帰宅、妻の実家の会社に雇われていた。建築家になる夢は潰えた・・・。
しかし、ジョージは才色兼備の素晴らしい妻、メアリーと結婚し、4人の子供に恵まれ、貧しいながらも心豊かな人生を送っていた。貧しい人々に、一家の主になる夢を実現させる、「住宅ローン」会社は、権力者ポッターに法外な家賃を搾りとられる借家で苦しんでいた街の人々に生きる喜びを与え、ジョージは皆に愛される存在と
なっていた。
第二次世界大戦が始まる。徴兵を、耳の障害ゆえに免れたジョージは、街を牛耳るポッターの嫌がらせと闘いつづけ、父の会社と人々の夢を守っていた。
その年のクリスマスイブ。懸命に前向きに生きてきたジョージを、命を絶とうとするまでに苦悩させる事件が起きる・・・!
物語は、天界での神と、294才でもまだ羽がもらえない二級天使のクラレンスとの会話から始まる。クリスマスイブの夜、人間界でたくさんの人間が、「ジョージをお助けください。」「夫を助けて」「もう一度パパに逢わせて」と1人の男の救済を悲痛なまでに祈る声を耳にした神が、クラレンスにジョージを救う使命を与えるのだ。成功したら、羽をやるぞ、と約束して--。
事件とは何なのか?ダメ天使クラレンスはジョージを救えるのか?
<感想>
実に素晴らしい!まさに、アメリカの良心そのもの。アメリカで
は、毎年クリスマスの夜にTV放映されるというから、日本でいえば赤穂浪士討ち入り記念日に必ず「忠臣蔵」を放送するような感じなのだろう。それほど、時代を超えて愛される物語だということだ。
クリスマスイブにジョージの身に起きたことのうち、天使が彼のもとにやってきたこと、それは確かに奇跡であり、ミラクルなのだが、結局、最後に彼を救うのは、ジョージ自身であり、ジョージが
生まれてこの方行い続けてきた「愛と正義に満ちた行動の結果」
であり、それは決して゛偶然・奇跡”ではない。そこが、この物語の語り継がれ、愛される所以であろう。
天使のかける魔法が、安直、短絡的に一時凌ぎでジョージを救う
ものであれば、この映画の価値はないも同然だ。
クラレンスがジョージにかけた魔法は、ジョージが寿命をまっとうするまで、「生きる喜び」「この世に生れた意味」を忘れないようにしてくれる、素晴らしいものだ。何度、この先ジョージが困難にぶつかっても、もう二度と、彼は挫けはしないだろう。そして、
この映画を観た、我々も・・・・。
★名ゼリフ
ジョージ「どうして俺なんかと結婚したんだ? 他にも男はいっぱいいたのに。」
メアリー「他の男じゃ、あなたに似た子供は生まれないわ。」
クラレンス「1人が世界に及ぼす影響は大きいんだ。1人いないだけで、世界はこうも変わってしまう。」
「友ある者は、敗残者ではない。」
監督:フランク・キャプラ
音楽:ディミトリ・ディオムキン
俳優:ジェームズ・スチュワート(ジョージ)
ドナ・リード(メアリー)
ヘンリー・トラヴァース(天使クレランス)
ライオネル・バリーモア(ポッター)
トーマス・ミッチェル(ビリー叔父さん)
H.B.ワーナー(ガウワー老人)
リリアン・ランドルフ(アニー)
ボビー・アンダーソン(少年時代のジョージ)
フランク・アルバートソン(サム)
<ストーリー>
小さな街を出て世界をまわり建築家になりたいという大きな夢を
持っていたジョージ。高校卒業後、何年もかけて学資をアルバイトで稼ぎ、やっと大学へ行く夢がかなう。弟ハリーにつきあい、高校卒業記念ダンスパーティに参加し気分は最高のジョージだったが、その晩、敬愛する父が急死してしまう。さまざまな事情から大学の学資を弟に譲り、自分は夢を諦め、街の権力者ポッターの圧力がのしかかる、父の住宅ローン会社を止む無く引き継ぐことに。
弟が大学を卒業したら、社長業は弟に任せて、今度こそ自分が大学に、と願っていたが、なんと卒業した弟は妻を連れて帰宅、妻の実家の会社に雇われていた。建築家になる夢は潰えた・・・。
しかし、ジョージは才色兼備の素晴らしい妻、メアリーと結婚し、4人の子供に恵まれ、貧しいながらも心豊かな人生を送っていた。貧しい人々に、一家の主になる夢を実現させる、「住宅ローン」会社は、権力者ポッターに法外な家賃を搾りとられる借家で苦しんでいた街の人々に生きる喜びを与え、ジョージは皆に愛される存在と
なっていた。
第二次世界大戦が始まる。徴兵を、耳の障害ゆえに免れたジョージは、街を牛耳るポッターの嫌がらせと闘いつづけ、父の会社と人々の夢を守っていた。
その年のクリスマスイブ。懸命に前向きに生きてきたジョージを、命を絶とうとするまでに苦悩させる事件が起きる・・・!
物語は、天界での神と、294才でもまだ羽がもらえない二級天使のクラレンスとの会話から始まる。クリスマスイブの夜、人間界でたくさんの人間が、「ジョージをお助けください。」「夫を助けて」「もう一度パパに逢わせて」と1人の男の救済を悲痛なまでに祈る声を耳にした神が、クラレンスにジョージを救う使命を与えるのだ。成功したら、羽をやるぞ、と約束して--。
事件とは何なのか?ダメ天使クラレンスはジョージを救えるのか?
<感想>
実に素晴らしい!まさに、アメリカの良心そのもの。アメリカで
は、毎年クリスマスの夜にTV放映されるというから、日本でいえば赤穂浪士討ち入り記念日に必ず「忠臣蔵」を放送するような感じなのだろう。それほど、時代を超えて愛される物語だということだ。
クリスマスイブにジョージの身に起きたことのうち、天使が彼のもとにやってきたこと、それは確かに奇跡であり、ミラクルなのだが、結局、最後に彼を救うのは、ジョージ自身であり、ジョージが
生まれてこの方行い続けてきた「愛と正義に満ちた行動の結果」
であり、それは決して゛偶然・奇跡”ではない。そこが、この物語の語り継がれ、愛される所以であろう。
天使のかける魔法が、安直、短絡的に一時凌ぎでジョージを救う
ものであれば、この映画の価値はないも同然だ。
クラレンスがジョージにかけた魔法は、ジョージが寿命をまっとうするまで、「生きる喜び」「この世に生れた意味」を忘れないようにしてくれる、素晴らしいものだ。何度、この先ジョージが困難にぶつかっても、もう二度と、彼は挫けはしないだろう。そして、
この映画を観た、我々も・・・・。
★名ゼリフ
ジョージ「どうして俺なんかと結婚したんだ? 他にも男はいっぱいいたのに。」
メアリー「他の男じゃ、あなたに似た子供は生まれないわ。」
クラレンス「1人が世界に及ぼす影響は大きいんだ。1人いないだけで、世界はこうも変わってしまう。」
「友ある者は、敗残者ではない。」
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「奇跡の降る街」
2002年12月17日『奇跡が降る街』【29th Street】 1992年・米
監督・脚本 :ジョージ・ギャロ
俳優:ダニー・アイエロ(フランク・ペシ 父)
アンソニー・ラバグリア(フランク・ペシ 息子)
レイニー・カザン(ミセス・ペシ 母)
フランク・ペシ(ヴィト・ペシ 兄)
<ストーリー>
1970代ニューヨークのクリスマスイブ。
27歳の青年、フランク・ペシが賞金620万ドルの、N.Y.の第一回宝くじに当選する。ところが、なぜか彼は荒れ狂って雪で教会の窓を割り、警察に捕まってしまう。警察も、何故、幸運に狂喜しているはずの彼がこうも塞ぎこんでいるのかわからない。
フランクは、いきさつを語り始めた・・・・・。
物語は、フランクの子供時代の回想から始まる。これは、実話である。
<感想>
これは予備知識なしに見たほうが絶対に面白いので、ストーリーの
核となるフランクの生い立ちについては触れないでおこう。
ラストに、あっと驚くどんでんがえしが用意されており、観客も主人公フランクと一緒にビックリする仕掛けだ。まさに、
善意ある人間が報われる、クリスマスの奇跡が待っている。観終わったあと、きっと温かい気持ちになれる映画だ。
テーマとなっているのは、家族の絆であり、特に、父と息子の
確執と和解である。「なんのために自分は生まれてきたのか」 自分の誕生が元で、父が人生を転落し始めたことを知ってしまい悩む息子に、父は言う。「その答は自分で探せ。」
前半はかなりコメディタッチ、後半は一気に緊迫感溢れるシリアスムードに。101分の、ライトに楽しめるファミリー・ドラマだ。
人間関係はすべて相互関係だから、
悪化すれば果てしない地獄となり、
双方に愛があれば夢のような奇跡を生む。
『寝たきり婆ぁ猛語録』 ノンフィクション作家 門野晴子著より
監督・脚本 :ジョージ・ギャロ
俳優:ダニー・アイエロ(フランク・ペシ 父)
アンソニー・ラバグリア(フランク・ペシ 息子)
レイニー・カザン(ミセス・ペシ 母)
フランク・ペシ(ヴィト・ペシ 兄)
<ストーリー>
1970代ニューヨークのクリスマスイブ。
27歳の青年、フランク・ペシが賞金620万ドルの、N.Y.の第一回宝くじに当選する。ところが、なぜか彼は荒れ狂って雪で教会の窓を割り、警察に捕まってしまう。警察も、何故、幸運に狂喜しているはずの彼がこうも塞ぎこんでいるのかわからない。
フランクは、いきさつを語り始めた・・・・・。
物語は、フランクの子供時代の回想から始まる。これは、実話である。
<感想>
これは予備知識なしに見たほうが絶対に面白いので、ストーリーの
核となるフランクの生い立ちについては触れないでおこう。
ラストに、あっと驚くどんでんがえしが用意されており、観客も主人公フランクと一緒にビックリする仕掛けだ。まさに、
善意ある人間が報われる、クリスマスの奇跡が待っている。観終わったあと、きっと温かい気持ちになれる映画だ。
テーマとなっているのは、家族の絆であり、特に、父と息子の
確執と和解である。「なんのために自分は生まれてきたのか」 自分の誕生が元で、父が人生を転落し始めたことを知ってしまい悩む息子に、父は言う。「その答は自分で探せ。」
前半はかなりコメディタッチ、後半は一気に緊迫感溢れるシリアスムードに。101分の、ライトに楽しめるファミリー・ドラマだ。
人間関係はすべて相互関係だから、
悪化すれば果てしない地獄となり、
双方に愛があれば夢のような奇跡を生む。
『寝たきり婆ぁ猛語録』 ノンフィクション作家 門野晴子著より
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「34丁目の奇跡」
2002年12月16日『34丁目の奇跡』【Miracle on 34th Street】 1994年・米
監督:レス・メイフィールド
脚本:ジョージ・シートン&ジョン・ヒューズ
音楽:ブルース・ブロートン
俳優:リチャード・アッテンボロー(クリス)
エリザベス・パーキンス(ドリー)
ディラン・マクダーモット(ブライアン)
マラ・ウィルソン(スーザン)
(1947年ジョージ・ソートン監督作品「34丁目の奇跡」のリメイク版。)
<ストーリー>
買収寸前のニューヨークの老舗デパート、コールズはクリスマス商戦に社運を賭けている。コールズの最大の武器は今年、採用したサンタクロース役のクリス・クリングル老人。本物のサンタと見紛う彼に、NYの子供たちも、親たちも、皆、夢中に。心をこめて1人1人の子供や親に接するクリスのおかげで、客の評判も売上も株価も、うなぎ上りに。
クリスを雇ったドリーの1人娘、6才の利発なスーザンは、現実に傷つきすぎた母の影響でサンタを信じない少女だった。ある夜、スーザンは、叶えようのない3つの願い事をし、クリスを試そうとする。
自分が本物のサンタだと、サンタは確かにいるのだと、証明するために願い事を叶えようとするクリスだが、ライバル店のディスカウントストア、ショッパーズ・エキスプレスの罠に落ち、精神病院に監禁されてしまう・・・。
ドリー親子と親しい弁護士のブライアンは、嘆き悲しむスーザンのためにも、法廷で、クリス氏は本物のサンタクロースであり、人に危害を与える狂人などではないことを立証しようと奮闘する。 科学的根拠を次々と並べ立てる検事に追い詰められるクリスとブライアンだったが・・・・。
<感想>
信じることの大切さを描いた名作。
サンタが実在することを証明するのは不可能かもしれない。だが、
サンタが実在゛しない”ことを証明することも、また不可能である。「目に見える証拠」がなければ信じられないように、「目に見える証拠」がなければ否定もできない。つまり証明できない物事の『真実』とは、人の心が作るものなのだ。そう、神の存在を問うのと同じことだ。すべては心の持ちようで未来も変わってくるということを、この作品は語っている。信じる力とはそれほど偉大な力なのだ。
゛We believe.”NYの人々の支援作戦は、感動的だった。こんなせちがらい世の中だからこそ、希望まで失っては生きてゆけない。希望はまさに生きる糧なのだ。クリス氏が言う。
「私はみんなに夢を与えるシンボルだ。人の心には欲望や憎しみが渦巻いている。それに負けないという希望を与えたい。もし、目に見える事実以外は受け入れられないとすれば人生は欺瞞だらけのわびしいものになってしまう。」
ドリーとブライアンの大人の恋の行方も、この作品の見所だろう。
互いに好意を持っていても、なかなかその先に踏み込めない男女の微妙な感情が巧みに描写されていている。過去の心の傷から結婚恐怖症になっているシングルマザーと、そんな彼女と、そんな母親の影響から夢を失って冷めた瞳をしているスーザンを守りたいけれど拒絶にあい苦しむ男ブライアン・・・。
そして、スーザン訳のマラ・ウィルソンの名演には驚く。ただのこまっしゃくれた少女では可愛げがないものだが、傷つかないように
ガードした表情の下に、寂しさと悲しさが見え隠れして、誰だって、この少女の心からの笑顔を見たいと願わずにはいられない。
信じていたものに裏切られる怖さを恐れるあまり、信じる喜びまで失ってしまっては、転びたくないからと一生外を歩かないのと同じだ。世界はかくも美しい。それをこの作品は再確認させてくれる。
1ドル紙幣に刻印された゛IN GOD WE TRUST”に判事が
ハッとさせられるシーンは、実に感動的だった。
監督:レス・メイフィールド
脚本:ジョージ・シートン&ジョン・ヒューズ
音楽:ブルース・ブロートン
俳優:リチャード・アッテンボロー(クリス)
エリザベス・パーキンス(ドリー)
ディラン・マクダーモット(ブライアン)
マラ・ウィルソン(スーザン)
(1947年ジョージ・ソートン監督作品「34丁目の奇跡」のリメイク版。)
<ストーリー>
買収寸前のニューヨークの老舗デパート、コールズはクリスマス商戦に社運を賭けている。コールズの最大の武器は今年、採用したサンタクロース役のクリス・クリングル老人。本物のサンタと見紛う彼に、NYの子供たちも、親たちも、皆、夢中に。心をこめて1人1人の子供や親に接するクリスのおかげで、客の評判も売上も株価も、うなぎ上りに。
クリスを雇ったドリーの1人娘、6才の利発なスーザンは、現実に傷つきすぎた母の影響でサンタを信じない少女だった。ある夜、スーザンは、叶えようのない3つの願い事をし、クリスを試そうとする。
自分が本物のサンタだと、サンタは確かにいるのだと、証明するために願い事を叶えようとするクリスだが、ライバル店のディスカウントストア、ショッパーズ・エキスプレスの罠に落ち、精神病院に監禁されてしまう・・・。
ドリー親子と親しい弁護士のブライアンは、嘆き悲しむスーザンのためにも、法廷で、クリス氏は本物のサンタクロースであり、人に危害を与える狂人などではないことを立証しようと奮闘する。 科学的根拠を次々と並べ立てる検事に追い詰められるクリスとブライアンだったが・・・・。
<感想>
信じることの大切さを描いた名作。
サンタが実在することを証明するのは不可能かもしれない。だが、
サンタが実在゛しない”ことを証明することも、また不可能である。「目に見える証拠」がなければ信じられないように、「目に見える証拠」がなければ否定もできない。つまり証明できない物事の『真実』とは、人の心が作るものなのだ。そう、神の存在を問うのと同じことだ。すべては心の持ちようで未来も変わってくるということを、この作品は語っている。信じる力とはそれほど偉大な力なのだ。
゛We believe.”NYの人々の支援作戦は、感動的だった。こんなせちがらい世の中だからこそ、希望まで失っては生きてゆけない。希望はまさに生きる糧なのだ。クリス氏が言う。
「私はみんなに夢を与えるシンボルだ。人の心には欲望や憎しみが渦巻いている。それに負けないという希望を与えたい。もし、目に見える事実以外は受け入れられないとすれば人生は欺瞞だらけのわびしいものになってしまう。」
ドリーとブライアンの大人の恋の行方も、この作品の見所だろう。
互いに好意を持っていても、なかなかその先に踏み込めない男女の微妙な感情が巧みに描写されていている。過去の心の傷から結婚恐怖症になっているシングルマザーと、そんな彼女と、そんな母親の影響から夢を失って冷めた瞳をしているスーザンを守りたいけれど拒絶にあい苦しむ男ブライアン・・・。
そして、スーザン訳のマラ・ウィルソンの名演には驚く。ただのこまっしゃくれた少女では可愛げがないものだが、傷つかないように
ガードした表情の下に、寂しさと悲しさが見え隠れして、誰だって、この少女の心からの笑顔を見たいと願わずにはいられない。
信じていたものに裏切られる怖さを恐れるあまり、信じる喜びまで失ってしまっては、転びたくないからと一生外を歩かないのと同じだ。世界はかくも美しい。それをこの作品は再確認させてくれる。
1ドル紙幣に刻印された゛IN GOD WE TRUST”に判事が
ハッとさせられるシーンは、実に感動的だった。
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「ジャック・フロスト パパは雪だるま」
2002年12月15日『ジャック・フロスト パパは雪だるま』【JACK FROST】1998年・米
監督:トロイ・ミラー
俳優:マイケル・キートン(ジャック・フロスト、パパ)
ケリー・プレストン(ギャビー・フロスト、ママ)
ジョセフ・クロス(チャーリー・フロスト、息子)
<ストーリー>
ジャック・フロスト−−−凍るような寒さをもたらす民話上の怪物。でも、この物語のジャックはアマチュアロックバンド”ジャック・フロスト”のボーカルにして優しいパパ。でも音楽に夢中で、ちょっと家庭を顧みないところがあるのが玉に傷。そんなパパが、今度こそは約束を守ろうと息子チャーリーと愛妻ギャビーの
待つ山荘に向かう途中、事故死してしまうところから物語は始まる。
一年後、奇跡が。ジャックはチャーリーの作った雪だるまとなって復活したのだ。息子と楽しい時間を過ごすジャック。だが一方で、何も知らない母や父の親友は、雪だるまに話しかけてばかりで、夢中だったホッケーもやめてしまったチャーリーを心配しはじめる・・・。
<感想>
家族でクリスマスに観るのに是非、オススメ!ラストはやっぱり悲しくて、我が家の子供たちは涙が止まりませんでしたが、悲壮なものではなく、とてもハートフルな温かい涙に包まれる、そんなステキな物語です。
子供だましのファンタジーなどと侮ってはいけません。パパのトバすジョークは大人も爆笑もの。そして、父親としての苦悩をほろ苦く演じて、まさにマイケル・キートンはまり役です。
たっぷりの笑い、ドキドキするアクション、心の底まで温まりそうな夫婦のラブシーン。雪だるまという、時期がくれば溶けて消えてしまう存在だからこそ、一瞬一瞬をいとおしむ父子の時間の切なさ・・・。素敵な映画だと思います。
現代社会の閉塞した「家族」に対する苦笑いも、雪だるま、という異形のものとの邂逅を通して描くことでさりげなく採りこまれているようにも感じました。
★心に残るセリフ
「どんなパパだって、いないよかマシさ。」(父の顔を知らないイジメっ子)
「やっと、父親らしいことをしてやれたな。」(ジャック)
監督:トロイ・ミラー
俳優:マイケル・キートン(ジャック・フロスト、パパ)
ケリー・プレストン(ギャビー・フロスト、ママ)
ジョセフ・クロス(チャーリー・フロスト、息子)
<ストーリー>
ジャック・フロスト−−−凍るような寒さをもたらす民話上の怪物。でも、この物語のジャックはアマチュアロックバンド”ジャック・フロスト”のボーカルにして優しいパパ。でも音楽に夢中で、ちょっと家庭を顧みないところがあるのが玉に傷。そんなパパが、今度こそは約束を守ろうと息子チャーリーと愛妻ギャビーの
待つ山荘に向かう途中、事故死してしまうところから物語は始まる。
一年後、奇跡が。ジャックはチャーリーの作った雪だるまとなって復活したのだ。息子と楽しい時間を過ごすジャック。だが一方で、何も知らない母や父の親友は、雪だるまに話しかけてばかりで、夢中だったホッケーもやめてしまったチャーリーを心配しはじめる・・・。
<感想>
家族でクリスマスに観るのに是非、オススメ!ラストはやっぱり悲しくて、我が家の子供たちは涙が止まりませんでしたが、悲壮なものではなく、とてもハートフルな温かい涙に包まれる、そんなステキな物語です。
子供だましのファンタジーなどと侮ってはいけません。パパのトバすジョークは大人も爆笑もの。そして、父親としての苦悩をほろ苦く演じて、まさにマイケル・キートンはまり役です。
たっぷりの笑い、ドキドキするアクション、心の底まで温まりそうな夫婦のラブシーン。雪だるまという、時期がくれば溶けて消えてしまう存在だからこそ、一瞬一瞬をいとおしむ父子の時間の切なさ・・・。素敵な映画だと思います。
現代社会の閉塞した「家族」に対する苦笑いも、雪だるま、という異形のものとの邂逅を通して描くことでさりげなく採りこまれているようにも感じました。
★心に残るセリフ
「どんなパパだって、いないよかマシさ。」(父の顔を知らないイジメっ子)
「やっと、父親らしいことをしてやれたな。」(ジャック)
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「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」
2002年12月14日『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』
【[The NightMare Beore Christmas】 1993年・米
製作・原案・キャラクター設定: ティム・バートン
製作:デニース・ディ・ノヴィ
監督:ヘンリー・セリック
脚本:キャロライン・トンプソン
声優:
ジャック・スケリントン(歌) ダニー・エルフマン(市村正親)
ジャック・スケリントン(声) クリス・サランドン(市村正親)
サリー・・・・・・・・・・・・・・・・・ キャサリン・オハラ
フィンケルスタイン博士・・・ ウィリアム・ヒッキー
町長・・・・・・・・・・・・・・・・・・ グレン・シャディックス
ロック・・・・・・・・・・・・・・・・・ ポール・ルーベンス
ショック・・・・・・・・・・・・・・・・ キャサリン・オハラ
バレル・・・・・・・・・・・・・・・・ ダニー・エルフマン
ウギー・ブギー・・・・・・・・・・ ケン・ベイジ
サンタクロース・・・・・・・・・・ エド・アイヴォリー
<ストーリー>
クレイ・アニメによるミュージカル仕立てのファンタジー。
年に一度のハロウィンの夜。“ハロウィンタウン”のお祭りは今年も大成功で町長はご機嫌。しかし、カボチャ大王ジャックの気は晴れない・・・。去年も今年も来年も、毎年同じことの繰り返しをしているお祭りに、ジャックはほとほと嫌気がさしていたのだ。たった一人の親友、幽霊犬ゼロを連れて森をさまようジャックは不
思議な力に引き寄せられて“クリスマスタウン”へ。真っ白な雪とピカピカ光るライト、楽しそうな笑い声―。初めて見る不思議なクリスマスの光景に魅せられてしまったジャックは“ハロウィンタウン”に戻り自分でクリスマスを作り出そうと決心する。
彼の指揮で進められるハロウィン風クリスマス。町の住人達は一風変わったプレゼント作りに大忙し。密かにジャックに想いを寄せている“つぎはぎ人形”のサリーがサンタの衣装の製作を頼まれる。不吉な予感を感じるサリーだが、張り切るジャックを止めることはできなかった。ついにクリスマスがやってきた!本物のサンタさんには、強制的に゛休暇”をとっていただき、ジャックを乗せプレゼントを積んだソリは、カボチャの鼻を光らせた幽霊犬ゼロを先頭に骸骨トナカイに引かれて空高く舞い上がる。はたしてジャッ
クの夢見たハロウィン風クリスマスは成功するのか??
<感想>
ティム・バートンといえば、「シザー・ハンズ」や「スリーピー・ホロウ」。ミステリアスかつファンタスティックな世界を創らせたら右に出る者はいないだろう。
薄気味悪いはずの骸骨男の主人公ジャックや女性版フランケンシュタインのようなヒロイン、サリー。頭が痒いと直接脳みそを掻いちゃうマッド・サイエンティスト、フィンケルスタイン博士。アニメやCGでなく、クレイ人形であるところが、ここまで愛らしく楽しいキャラクターになった所以であろう。ホラーが苦手な人でも、大丈夫。
誰かを幸せな気持ちにしたい、笑顔が見たい、喜ばせたい・・・。
そのために苦心惨憺するジャックは応援したくなるし、彼の夢を
応援したい気持ちと心配する気持ちに揺れるサリーもいじらしい。
もちろん、笑いも満載。人間の世界のクリスマスイヴ、ココロはこもっているんだけど絶叫モノのプレゼントに大騒動になるシーンなど、家族揃って大笑いできる。
吹き替え版のほうは劇団四季の大御所、市村正親が素晴らしい歌声でジャックの心を謳い上げている。
【[The NightMare Beore Christmas】 1993年・米
製作・原案・キャラクター設定: ティム・バートン
製作:デニース・ディ・ノヴィ
監督:ヘンリー・セリック
脚本:キャロライン・トンプソン
声優:
ジャック・スケリントン(歌) ダニー・エルフマン(市村正親)
ジャック・スケリントン(声) クリス・サランドン(市村正親)
サリー・・・・・・・・・・・・・・・・・ キャサリン・オハラ
フィンケルスタイン博士・・・ ウィリアム・ヒッキー
町長・・・・・・・・・・・・・・・・・・ グレン・シャディックス
ロック・・・・・・・・・・・・・・・・・ ポール・ルーベンス
ショック・・・・・・・・・・・・・・・・ キャサリン・オハラ
バレル・・・・・・・・・・・・・・・・ ダニー・エルフマン
ウギー・ブギー・・・・・・・・・・ ケン・ベイジ
サンタクロース・・・・・・・・・・ エド・アイヴォリー
<ストーリー>
クレイ・アニメによるミュージカル仕立てのファンタジー。
年に一度のハロウィンの夜。“ハロウィンタウン”のお祭りは今年も大成功で町長はご機嫌。しかし、カボチャ大王ジャックの気は晴れない・・・。去年も今年も来年も、毎年同じことの繰り返しをしているお祭りに、ジャックはほとほと嫌気がさしていたのだ。たった一人の親友、幽霊犬ゼロを連れて森をさまようジャックは不
思議な力に引き寄せられて“クリスマスタウン”へ。真っ白な雪とピカピカ光るライト、楽しそうな笑い声―。初めて見る不思議なクリスマスの光景に魅せられてしまったジャックは“ハロウィンタウン”に戻り自分でクリスマスを作り出そうと決心する。
彼の指揮で進められるハロウィン風クリスマス。町の住人達は一風変わったプレゼント作りに大忙し。密かにジャックに想いを寄せている“つぎはぎ人形”のサリーがサンタの衣装の製作を頼まれる。不吉な予感を感じるサリーだが、張り切るジャックを止めることはできなかった。ついにクリスマスがやってきた!本物のサンタさんには、強制的に゛休暇”をとっていただき、ジャックを乗せプレゼントを積んだソリは、カボチャの鼻を光らせた幽霊犬ゼロを先頭に骸骨トナカイに引かれて空高く舞い上がる。はたしてジャッ
クの夢見たハロウィン風クリスマスは成功するのか??
<感想>
ティム・バートンといえば、「シザー・ハンズ」や「スリーピー・ホロウ」。ミステリアスかつファンタスティックな世界を創らせたら右に出る者はいないだろう。
薄気味悪いはずの骸骨男の主人公ジャックや女性版フランケンシュタインのようなヒロイン、サリー。頭が痒いと直接脳みそを掻いちゃうマッド・サイエンティスト、フィンケルスタイン博士。アニメやCGでなく、クレイ人形であるところが、ここまで愛らしく楽しいキャラクターになった所以であろう。ホラーが苦手な人でも、大丈夫。
誰かを幸せな気持ちにしたい、笑顔が見たい、喜ばせたい・・・。
そのために苦心惨憺するジャックは応援したくなるし、彼の夢を
応援したい気持ちと心配する気持ちに揺れるサリーもいじらしい。
もちろん、笑いも満載。人間の世界のクリスマスイヴ、ココロはこもっているんだけど絶叫モノのプレゼントに大騒動になるシーンなど、家族揃って大笑いできる。
吹き替え版のほうは劇団四季の大御所、市村正親が素晴らしい歌声でジャックの心を謳い上げている。
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「生きたい」
2002年12月13日『生きたい』1999年・日
監督、脚本、原作:新藤兼人
俳優:三國連太郎(父、安吉)
大竹しのぶ(娘、徳子)
大谷直子 (バーのママ)
柄本明 (医師)
宮崎淑子 (娘の友人)
----民話キャスト------
吉田日出子 (老婆おコマ)
塩野谷正幸 (長男クマ)
中里博美 (嫁おキチ)
津川雅彦 (長老)
★モスクワ国際映画祭グランプリ
★国際批評家連盟賞
★毎日映画コンクール主演女優賞
<ストーリー>
頭は耄碌していないが、シモの始末が悪くなっている老人、安吉と、今年で40才の行かず後家で躁鬱病の娘、徳子。娘は、父に「糞オヤジ」だの「結婚できないのはお前のせいだ」などと正直すぎる言葉を人目をはばからず連発する。
安吉の妻は自分から老人ホームへ入ったが、妻を姥捨て山に捨てたと自責しては娘に鬱陶しがられている。安吉はバーのママと懇ろになっていたが、ボケてきた安吉は見限られ、粗相をした安吉は人
間あつかいされない。それでもスケベで酒好きな安吉はバーに通
いつめては倒れて救急車騒動。おかげで躁鬱の徳子はキレ気味。
徳子はこの厄介なオヤジを病院に引き取ってほしいのだが医者には相手にしてもらえない。重病でない老人は病院の経営を圧迫するのだ。妹は早々に家から逃げ出し、同じく家を出てしまった弟は父に婚約者を紹介するが、粗相するようなオヤジは結婚式に出るなと言い捨てて去る。八方塞がりで苛立つ徳子に、医師が老人ホームを紹介してくれるという。だが、老人ホームは姥捨て山だ、と父は嫌がるのだが、結局、本で読んだ「姥捨山」に何かを感じ、自ら入所を決意する。
物語は、父親が病院の待合室から勝手に拝借してきた「姥捨て」の昔話と現実の世界を対比しながら進んでいく。モノクロでスクリーンに映される昔話では、70才を迎えた老母おコマが長男クマに嫁をもらい、心残りなく先祖の魂の眠る谷に捨てられる。母を死なせる悲しみに耐えられず戻ってきた息子を追い返し、死を待つカラスの群れの中、静かに合掌し雪に埋もれる母を映しだしている。
世話のやける父から解放され、友人と祝杯をあげる徳子だったが・・・。
<感想>
86才の新藤兼人監督が、名作『午後の遺言状』とは180度異なる視点で「老い」を描き出している。大女優だった亡き妻、乙羽信子さんに捧げられた作品。監督本人が80代半ばにして、ようやく
世間一般のイメージとは違う《リアルな老人の姿》が見えるようになり、メガホンをとったという。
つまり、世間(あるいは物語で描かれる老人)のイメージは、枯れて盆栽のように静かに死を待つ存在で、達観して悟っており、迷える若者に人生のアドバイスをする、そんなイメージだ。
だが、新藤監督の描いた老人、安吉は違う。生々しく人間で、オトコだ。戦争で命がけで日本を守り、戦後も、焼け野原から日本をここまでにしたのは自分たちの世代なのに、大事にされず「戦争なんかにいった愚か者、殺人者」などと若者に侮辱される悔しさ、怒り。思い通りにいかなかった子育てへの後悔。他人への恨み。何かしなくてはいけないように感じる焦り。死への恐怖---。これらが渦巻く心を抱えて震えて残りの日々を生きている、「もっと生きたい」存在として描いているのだ。
口では老人を大切に、といいながら、誰しも心の中では、何も生産できない老人を疎ましく思い、増え続ける老人たちの年金のために今馬車馬のように働くことへの疑問が怒りにすら変っている。それが現実だが、聞こえよがしに口に出す者はいない。
だがこの映画では、娘も、世間知らずな大学生も偉そうに安吉に上記のことを言ってのけ、悔しさのあまり失禁してはまた嫌われてしまう安吉・・・。
だが、この作品が興味深いのは、そういった議論をする映画ではなく、あくまでも「ファンタジー」である点だ。
カラーで映される安吉&徳子親子の世界のほうが、まるで舞台の上の見世物のよう。わざと大袈裟なセルフまわしと身振りを役者たちはし、カメラワークもえらく二次元タッチ。紙芝居のようだ。
そして、フィクションであるはずの民話「姥捨て山」は、モノクロで映されるが、背筋が凍るようなリアリティをもって観客に迫ってくる。役者たちの自然な演技、人間を飲みこむような深い山に谷。
オオカミの唸り声。「死」を待ちかねるカラスの禍禍しい群れ。嫁のオキチと長男クマの生々しく゛生”に満ちたSEXシーン。なまめかしい裸体。臨月のオキチの膨らんだ腹と乳を着物をはだけて見せるシーン・・・。彼らは確かにそこで生きている。
この不思議な逆転した世界が、衝撃のラストシーンで一瞬交錯する! なんと幻想的でかつ生臭いラストよ。
監督、脚本、原作:新藤兼人
俳優:三國連太郎(父、安吉)
大竹しのぶ(娘、徳子)
大谷直子 (バーのママ)
柄本明 (医師)
宮崎淑子 (娘の友人)
----民話キャスト------
吉田日出子 (老婆おコマ)
塩野谷正幸 (長男クマ)
中里博美 (嫁おキチ)
津川雅彦 (長老)
★モスクワ国際映画祭グランプリ
★国際批評家連盟賞
★毎日映画コンクール主演女優賞
<ストーリー>
頭は耄碌していないが、シモの始末が悪くなっている老人、安吉と、今年で40才の行かず後家で躁鬱病の娘、徳子。娘は、父に「糞オヤジ」だの「結婚できないのはお前のせいだ」などと正直すぎる言葉を人目をはばからず連発する。
安吉の妻は自分から老人ホームへ入ったが、妻を姥捨て山に捨てたと自責しては娘に鬱陶しがられている。安吉はバーのママと懇ろになっていたが、ボケてきた安吉は見限られ、粗相をした安吉は人
間あつかいされない。それでもスケベで酒好きな安吉はバーに通
いつめては倒れて救急車騒動。おかげで躁鬱の徳子はキレ気味。
徳子はこの厄介なオヤジを病院に引き取ってほしいのだが医者には相手にしてもらえない。重病でない老人は病院の経営を圧迫するのだ。妹は早々に家から逃げ出し、同じく家を出てしまった弟は父に婚約者を紹介するが、粗相するようなオヤジは結婚式に出るなと言い捨てて去る。八方塞がりで苛立つ徳子に、医師が老人ホームを紹介してくれるという。だが、老人ホームは姥捨て山だ、と父は嫌がるのだが、結局、本で読んだ「姥捨山」に何かを感じ、自ら入所を決意する。
物語は、父親が病院の待合室から勝手に拝借してきた「姥捨て」の昔話と現実の世界を対比しながら進んでいく。モノクロでスクリーンに映される昔話では、70才を迎えた老母おコマが長男クマに嫁をもらい、心残りなく先祖の魂の眠る谷に捨てられる。母を死なせる悲しみに耐えられず戻ってきた息子を追い返し、死を待つカラスの群れの中、静かに合掌し雪に埋もれる母を映しだしている。
世話のやける父から解放され、友人と祝杯をあげる徳子だったが・・・。
<感想>
86才の新藤兼人監督が、名作『午後の遺言状』とは180度異なる視点で「老い」を描き出している。大女優だった亡き妻、乙羽信子さんに捧げられた作品。監督本人が80代半ばにして、ようやく
世間一般のイメージとは違う《リアルな老人の姿》が見えるようになり、メガホンをとったという。
つまり、世間(あるいは物語で描かれる老人)のイメージは、枯れて盆栽のように静かに死を待つ存在で、達観して悟っており、迷える若者に人生のアドバイスをする、そんなイメージだ。
だが、新藤監督の描いた老人、安吉は違う。生々しく人間で、オトコだ。戦争で命がけで日本を守り、戦後も、焼け野原から日本をここまでにしたのは自分たちの世代なのに、大事にされず「戦争なんかにいった愚か者、殺人者」などと若者に侮辱される悔しさ、怒り。思い通りにいかなかった子育てへの後悔。他人への恨み。何かしなくてはいけないように感じる焦り。死への恐怖---。これらが渦巻く心を抱えて震えて残りの日々を生きている、「もっと生きたい」存在として描いているのだ。
口では老人を大切に、といいながら、誰しも心の中では、何も生産できない老人を疎ましく思い、増え続ける老人たちの年金のために今馬車馬のように働くことへの疑問が怒りにすら変っている。それが現実だが、聞こえよがしに口に出す者はいない。
だがこの映画では、娘も、世間知らずな大学生も偉そうに安吉に上記のことを言ってのけ、悔しさのあまり失禁してはまた嫌われてしまう安吉・・・。
だが、この作品が興味深いのは、そういった議論をする映画ではなく、あくまでも「ファンタジー」である点だ。
カラーで映される安吉&徳子親子の世界のほうが、まるで舞台の上の見世物のよう。わざと大袈裟なセルフまわしと身振りを役者たちはし、カメラワークもえらく二次元タッチ。紙芝居のようだ。
そして、フィクションであるはずの民話「姥捨て山」は、モノクロで映されるが、背筋が凍るようなリアリティをもって観客に迫ってくる。役者たちの自然な演技、人間を飲みこむような深い山に谷。
オオカミの唸り声。「死」を待ちかねるカラスの禍禍しい群れ。嫁のオキチと長男クマの生々しく゛生”に満ちたSEXシーン。なまめかしい裸体。臨月のオキチの膨らんだ腹と乳を着物をはだけて見せるシーン・・・。彼らは確かにそこで生きている。
この不思議な逆転した世界が、衝撃のラストシーンで一瞬交錯する! なんと幻想的でかつ生臭いラストよ。
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「サンキュー、ボーイズ」
2002年12月12日『サンキュー、ボーイズ』【RIDING IN CARS WITH BOYS】2001年・米
監督:ベニー・マーシャル
原作:ビバリー・ドノフリオ
脚本:モーガン・アプトン・ウォード
俳優:ドリュー・バリモア(ビバリー15歳〜35歳)
ミカ・ブーレム(ビバリー11歳)
スティーブ・ザーン(レイ)
ジェームズ・ウッズ(パパ)
ロレイン・ブラッコ(ママ)
ブリタニー・マーフィ(フェイ)
アダム・ガルシア(ジェイソン)
サラ・ギルバート(ティナ)
デズモンド・ハミルトン(ボビー)
<ストーリー>
1960年代、コネティカット州の小さな町、ウォーリングフォード。15歳のビバリーの夢は、作家になること。だけど周囲も認めるその文才は、もっぱら憧れの男のコに捧げる愛の詩についやされていた。ビブは夢中になっていた男のコにフラれ、気は優しいがお馬鹿なレイと付き合い始める。その恋が冷めかけた頃、ビブは妊娠してしまう。60年代の閉鎖的な田舎町の警察官である父にとって、中絶も未婚の母ももってのほか。ビブは、しかたなくハイスクールを中退、結婚&出産という、予期せぬ人生のコースを歩むことに。それでも夢を諦めず、同じようにできちゃった婚の親友と励ましあいつつ、子育てをしながら大学の奨学金取得を目指す。
だが--予想以上にレイはダメ男だった・・・・。
それから十数年。1986年ニューヨーク。35歳のビブと、大学に通う20歳の息子ジェイソンは、とある重要な件で、父を訪ねようと車を走らせていた。それぞれに問題を抱えて・・・。
<感想>
これは実話である。ドリュー・バリモアはビバリー本人とじっくり話し合い、役作りに励んだという。お子ちゃまでワガママで、万人に好かれる女じゃないけれど、過酷な状況でも夢を諦めない精力的なヒロインを、とてもよく表現していたと思う。
ビブの半生は、波乱万丈のようでいて、実はとてもありふれてもいる。だから、ハラハラしつつも、共感を呼ぶのだ。
60年代〜80年代は、アメリカの「価値観」が最も急変した時代であり、ビブもその波に揉まれて若き日々を過ごした。ベトナム戦争の泥沼化・・・健全なアメリカの崩壊・・・性のモラルの乱れ・・・崩れゆく家族・・・ドラッグの氾濫・・・謳歌される自由と退廃。
映画では、音楽と衣装やメイクで時代の移り変わりを魅せている。
監督のベニー・マーシャル(代表作:『ビッグ』 『レナードの朝』『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』『プリティ・リーグ』等)自身も、18歳でママになっており、映像の端々にリアリティが息づいている。
欲しくて生んだわけではない子供を自分は愛せていないのではないかと正直に悩むビブの姿は、多くの女性の本音であろう。
子供のことを愛せるか、と親友に切り出したビブ。驚くフェイに、
ビバリー「マジな話よ、好きで生んだんじゃないもの」
フェイ「デキたから?」
ビバリー「恋が暴走しただけよ」
そこへこの名ゼリフである。
「愛しすぎちゃうと、愛してるかどうかよくわかんなくなっ
ちゃうのよ。」親友フェイの言葉である。目から鱗のこの言葉に、ビブは母としての自信を取り戻す。
このシーンはとても印象的だ。
母はお腹に命を宿したときから母親であり、父は子供が生まれてから父親になる、とよくいうのだが、ビブの場合は、母になる=自分のためだけに好きに生きられない、と最初は自分の中の母性を否定していた。ビブは、20年かけて、息子と一緒に「成長」してゆくのだ。
でも、必死に育ててきたあまり、子離れできなくなっているビブ。
守ってやっているつもりの息子に、実はすがっていたのだ。
それを息子に気付かされるラストはちょっぴり切なく、でも清々しい。
息子は、夢を実現する足枷ではなかった。息子がいたから頑張れた。息子にサンキュー、とことんダメ人間だけど愛情だけは豊かだった夫にサンキュー、ヤな奴だったけど青春の甘酸っぱい思い出をくれた憧れの男のコにサンキュー、そして、ワガママ娘を、叱ってくれて、でも受けとめてくれるパパに、サンキュー。
原題のRIDING IN CARS WITH BOYS、とてもステキな題だ。
車の中で、恋人と、パパと、息子と、忘れられない時間を過ごした
ビブの想いが詰まっている。
「たった1日で人生が決まることもある。
たった1日で人生が破滅することもある。
たった4、5日ですべてが変ってしまう、それが人生だ。」
by ビバリー・ドノフリオ
監督:ベニー・マーシャル
原作:ビバリー・ドノフリオ
脚本:モーガン・アプトン・ウォード
俳優:ドリュー・バリモア(ビバリー15歳〜35歳)
ミカ・ブーレム(ビバリー11歳)
スティーブ・ザーン(レイ)
ジェームズ・ウッズ(パパ)
ロレイン・ブラッコ(ママ)
ブリタニー・マーフィ(フェイ)
アダム・ガルシア(ジェイソン)
サラ・ギルバート(ティナ)
デズモンド・ハミルトン(ボビー)
<ストーリー>
1960年代、コネティカット州の小さな町、ウォーリングフォード。15歳のビバリーの夢は、作家になること。だけど周囲も認めるその文才は、もっぱら憧れの男のコに捧げる愛の詩についやされていた。ビブは夢中になっていた男のコにフラれ、気は優しいがお馬鹿なレイと付き合い始める。その恋が冷めかけた頃、ビブは妊娠してしまう。60年代の閉鎖的な田舎町の警察官である父にとって、中絶も未婚の母ももってのほか。ビブは、しかたなくハイスクールを中退、結婚&出産という、予期せぬ人生のコースを歩むことに。それでも夢を諦めず、同じようにできちゃった婚の親友と励ましあいつつ、子育てをしながら大学の奨学金取得を目指す。
だが--予想以上にレイはダメ男だった・・・・。
それから十数年。1986年ニューヨーク。35歳のビブと、大学に通う20歳の息子ジェイソンは、とある重要な件で、父を訪ねようと車を走らせていた。それぞれに問題を抱えて・・・。
<感想>
これは実話である。ドリュー・バリモアはビバリー本人とじっくり話し合い、役作りに励んだという。お子ちゃまでワガママで、万人に好かれる女じゃないけれど、過酷な状況でも夢を諦めない精力的なヒロインを、とてもよく表現していたと思う。
ビブの半生は、波乱万丈のようでいて、実はとてもありふれてもいる。だから、ハラハラしつつも、共感を呼ぶのだ。
60年代〜80年代は、アメリカの「価値観」が最も急変した時代であり、ビブもその波に揉まれて若き日々を過ごした。ベトナム戦争の泥沼化・・・健全なアメリカの崩壊・・・性のモラルの乱れ・・・崩れゆく家族・・・ドラッグの氾濫・・・謳歌される自由と退廃。
映画では、音楽と衣装やメイクで時代の移り変わりを魅せている。
監督のベニー・マーシャル(代表作:『ビッグ』 『レナードの朝』『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』『プリティ・リーグ』等)自身も、18歳でママになっており、映像の端々にリアリティが息づいている。
欲しくて生んだわけではない子供を自分は愛せていないのではないかと正直に悩むビブの姿は、多くの女性の本音であろう。
子供のことを愛せるか、と親友に切り出したビブ。驚くフェイに、
ビバリー「マジな話よ、好きで生んだんじゃないもの」
フェイ「デキたから?」
ビバリー「恋が暴走しただけよ」
そこへこの名ゼリフである。
「愛しすぎちゃうと、愛してるかどうかよくわかんなくなっ
ちゃうのよ。」親友フェイの言葉である。目から鱗のこの言葉に、ビブは母としての自信を取り戻す。
このシーンはとても印象的だ。
母はお腹に命を宿したときから母親であり、父は子供が生まれてから父親になる、とよくいうのだが、ビブの場合は、母になる=自分のためだけに好きに生きられない、と最初は自分の中の母性を否定していた。ビブは、20年かけて、息子と一緒に「成長」してゆくのだ。
でも、必死に育ててきたあまり、子離れできなくなっているビブ。
守ってやっているつもりの息子に、実はすがっていたのだ。
それを息子に気付かされるラストはちょっぴり切なく、でも清々しい。
息子は、夢を実現する足枷ではなかった。息子がいたから頑張れた。息子にサンキュー、とことんダメ人間だけど愛情だけは豊かだった夫にサンキュー、ヤな奴だったけど青春の甘酸っぱい思い出をくれた憧れの男のコにサンキュー、そして、ワガママ娘を、叱ってくれて、でも受けとめてくれるパパに、サンキュー。
原題のRIDING IN CARS WITH BOYS、とてもステキな題だ。
車の中で、恋人と、パパと、息子と、忘れられない時間を過ごした
ビブの想いが詰まっている。
「たった1日で人生が決まることもある。
たった1日で人生が破滅することもある。
たった4、5日ですべてが変ってしまう、それが人生だ。」
by ビバリー・ドノフリオ
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「スワロウテイル」
2002年12月11日スワロウテイル 【Swallowtail Butterfly】1996年・日
監督 ・原作・脚本: 岩井俊二
撮影 :篠田昇
キャメラマン:金谷宏二
音楽: 小林武史 Swallowtail Butterfly〜あいのうた〜 YEN TOWN BAND
俳優:三上博史 (フェイホン)
Chara (グリコ)
伊藤歩(アゲハ)
江口洋介(劉梁魁 リョウ・リャンキ)
アンディ・ホイ(猫浮 マオフウ)
渡部篤郎(狼浮 ラン)
山口智子(春梅 シェンメイ)
大塚寧々(レイコ)
桃井かおり(週刊誌の記者、鈴木野)
ミッキー・カーチス(阿片街の医者)
<ストーリー>
舞台は日本のどこかの無国籍都市"円都"(イェンタゥン)。世界一強い貨幣「円」に群がる貧しい移民(円盗 イェンタゥン)で溢れかえっている。娼婦の母をマフィアに殺された少女が、胸にアゲハ蝶のタトゥーのある娼婦グリコに拾われる。名を持たない円盗二世の彼女に「アゲハ」と名づけ、妹のように可愛がるグリコ。アゲハは、グリコに想いを寄せる上海出身のフェイホンらの住む青空旧貨商場で働き始めることに。だがある夜、グリコの客がまだ幼いアゲハを犯そうとし、暴れ出す。隣人の元黒人ボクサーが駆けつけ危機を救うも、力余ってこの客を死なせてしまう。はみ出した内臓から懐メロが録音された1本のカセット・テープが出てくる。ランが解析した結果、なんとこのテープの正体は、偽札製造に必要なデータと判明。これで薄汚い生活とはオサラバ、と狂喜乱舞するフェイホンらは堅気の商売をしようとライブハウスを始め、歌姫グリコはあっというまにスターダムに・・・・。
だが---このカセットテープの元々の所有者は、偽札偽造で成り上がって円都を牛耳るチャイニーズマフィアのドン、リョウ・リャンキだった・・・!
<感想>
まだ30代の岩井監督の刺激的な映像世界を堪能できる。戦後の日本と中国と東南アジアとパリの下町をMixしたような不思議で懐かしい架空の街「円都」の風景にまず魅了される。いろいろな巨匠たちに影響を受けているのだろうか。血みどろの美しさは例えばタランティーノ的であり、赤を女のメタファーとするところは中国のイーモウ監督的である。だが、作品は間違いなく岩井ワールドである。
邦画でありながら、日本語はほとんど話されず、中国語と英語がほとんどで、日本語すらブロークンなため、全篇字幕である。
言語的ディスコミニュケーション下における、真のコミュニケーションを描きだした意欲作である。
所詮は紙くずの“カネ”。だがそれなしには生きられず、食うに足る以上のカネは魔物だ。夢を買った男は夢に殺される---。なんと皮肉で哀しいことか。愛する男の運命に翻弄され人生を浮き沈みする女のなんと哀れなことか・・・。それでも、残された者達は、逞しく生き抜いてゆく。
ラスト近く、全てを灰に帰す炎。青空の下で燃え盛る炎には悲壮さは微塵もなく、明日へのエネルギーのように赤々と燃えていた。
アゲハの「忘れた」というセリフは印象的だった。
ラスト、アゲハとリャンキが橋の途中で再会するシーン。後ろ姿で「娼婦のグリコ」という台詞が鋭いナイフのようにズキっと刺さった。アゲハの胸の痛みが伝わる一言だ。
兄妹を再会させない監督の演出が、なかなか憎い。それはせめてものレクイエムなのかもしれない。
★心に残るセリフ (天国はあるの、という話題で)
「死んだ人の魂は空に上っていって、雲にぶつかると雨になって落っこっちゃうんだ」
「それで最後に行く場所を天国って言うなら・・・ここが天国ってわけかい」
監督 ・原作・脚本: 岩井俊二
撮影 :篠田昇
キャメラマン:金谷宏二
音楽: 小林武史 Swallowtail Butterfly〜あいのうた〜 YEN TOWN BAND
俳優:三上博史 (フェイホン)
Chara (グリコ)
伊藤歩(アゲハ)
江口洋介(劉梁魁 リョウ・リャンキ)
アンディ・ホイ(猫浮 マオフウ)
渡部篤郎(狼浮 ラン)
山口智子(春梅 シェンメイ)
大塚寧々(レイコ)
桃井かおり(週刊誌の記者、鈴木野)
ミッキー・カーチス(阿片街の医者)
<ストーリー>
舞台は日本のどこかの無国籍都市"円都"(イェンタゥン)。世界一強い貨幣「円」に群がる貧しい移民(円盗 イェンタゥン)で溢れかえっている。娼婦の母をマフィアに殺された少女が、胸にアゲハ蝶のタトゥーのある娼婦グリコに拾われる。名を持たない円盗二世の彼女に「アゲハ」と名づけ、妹のように可愛がるグリコ。アゲハは、グリコに想いを寄せる上海出身のフェイホンらの住む青空旧貨商場で働き始めることに。だがある夜、グリコの客がまだ幼いアゲハを犯そうとし、暴れ出す。隣人の元黒人ボクサーが駆けつけ危機を救うも、力余ってこの客を死なせてしまう。はみ出した内臓から懐メロが録音された1本のカセット・テープが出てくる。ランが解析した結果、なんとこのテープの正体は、偽札製造に必要なデータと判明。これで薄汚い生活とはオサラバ、と狂喜乱舞するフェイホンらは堅気の商売をしようとライブハウスを始め、歌姫グリコはあっというまにスターダムに・・・・。
だが---このカセットテープの元々の所有者は、偽札偽造で成り上がって円都を牛耳るチャイニーズマフィアのドン、リョウ・リャンキだった・・・!
<感想>
まだ30代の岩井監督の刺激的な映像世界を堪能できる。戦後の日本と中国と東南アジアとパリの下町をMixしたような不思議で懐かしい架空の街「円都」の風景にまず魅了される。いろいろな巨匠たちに影響を受けているのだろうか。血みどろの美しさは例えばタランティーノ的であり、赤を女のメタファーとするところは中国のイーモウ監督的である。だが、作品は間違いなく岩井ワールドである。
邦画でありながら、日本語はほとんど話されず、中国語と英語がほとんどで、日本語すらブロークンなため、全篇字幕である。
言語的ディスコミニュケーション下における、真のコミュニケーションを描きだした意欲作である。
所詮は紙くずの“カネ”。だがそれなしには生きられず、食うに足る以上のカネは魔物だ。夢を買った男は夢に殺される---。なんと皮肉で哀しいことか。愛する男の運命に翻弄され人生を浮き沈みする女のなんと哀れなことか・・・。それでも、残された者達は、逞しく生き抜いてゆく。
ラスト近く、全てを灰に帰す炎。青空の下で燃え盛る炎には悲壮さは微塵もなく、明日へのエネルギーのように赤々と燃えていた。
アゲハの「忘れた」というセリフは印象的だった。
ラスト、アゲハとリャンキが橋の途中で再会するシーン。後ろ姿で「娼婦のグリコ」という台詞が鋭いナイフのようにズキっと刺さった。アゲハの胸の痛みが伝わる一言だ。
兄妹を再会させない監督の演出が、なかなか憎い。それはせめてものレクイエムなのかもしれない。
★心に残るセリフ (天国はあるの、という話題で)
「死んだ人の魂は空に上っていって、雲にぶつかると雨になって落っこっちゃうんだ」
「それで最後に行く場所を天国って言うなら・・・ここが天国ってわけかい」
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「愛を乞うひと」
2002年12月10日『愛を乞うひと』1998年・日
監督: 平山秀幸
脚色: 鄭義信
原作 :下田治美
撮影 :芝崎幸三
音楽 :千住明
俳優:原田美技子(照恵/母、豊子 二役)
野波麻帆(照恵の娘、深草)
中井貴一 (照恵の実父、陳 文雄)
うじきつよし(照恵の弟)
★第22回モントリオール映画祭 国際批評家連盟賞受賞
★第22回 日本アカデミー賞 最優秀作品賞・最優秀監督賞・ 最優秀主演女優賞・脚本賞・撮影賞・編集賞・照明賞・美術賞
<ストーリー>
早くに夫を亡くし、娘の深草とふたり暮らしの照恵。彼女は、
娘が高校生になったある日、とある決心をする。それは、幼い頃に死んだ父、陳文雄の遺骨を探し出して弔うことだった。手掛かりをたどるうち、照恵の脳裏には忘れたくても忘れられない、母、豊子との日々の記憶が鮮明に蘇ってくる。
雨の中、父が母から自分を引き離した情景、父の死後、孤児院に預けられていた自分を迎えにきた母、そして新しい父、初めて会う弟
。そして赤ん坊の頃から続いていた母のまさに鬼のような折檻を。
そして、たった一度だけ、「髪を梳くのが上手いね」と褒めてもらったことも・・・・。
やがて照恵は、娘の深草に説得され、父の遺骨を探しに、父の故郷、台湾を訪れる。それは照恵にとって、かたくなに心を閉ざすあまり見失っていた“自分探し”の旅でもあった。台湾で心のかけらを取り戻し、日本に帰国後、父の遺骨も探し当てた照恵。
目的は達したものの、顔を曇らせたままの母照恵に、娘が言う。
「おばあちゃんに会いに行こうよ。あたし、調べたの・・・生きてるんだよ。」
<感想>
愛し方を知らずにひたすら暴力によって手に入らない愛を乞う母、愛され方を知らずにひたすら沈黙と作り笑いで愛を乞う娘。そしてその一人娘は乞わずとも愛し愛され、幸福に輝いている。
その三世代通じて映し出される母と娘の失われた愛を捜す物語。
気のむくままに理由もなく理不尽な虐待を繰り返す母親と、その暴力に心身ともに苛まれて育った娘。その対照的な二役を原田美枝子が見事に演じている。確かな血の繋がりを映像的に感じさせるための試みだとしたら、成功しているといえる。表情も話し方も何もかも対照的でありながら、垣間見せる寂しげな目だけは、同じ・・・。
お互いに愛を求めあっていたのに、どうにもならない母娘。
娘は力では母に対抗できず、ただの一人も、うわべだけ優しい継父も、母からは守ってくれない。自ら命を絶つ気力もない。
ただ力無く奇妙な作り笑いをうっすら浮かべるだけ・・・。赤ん坊は、母親に微笑みかけられ、「笑う」ことを覚えるものだが、照恵は母親から身を守るために、愛を乞うために、無理に微笑むことを
覚えてしまう。なんと皮肉で哀しいことか。
2人の継父の墓も探し出した。そこまでは、照恵が言うとおり、
「あの女(母)から奪われたものをすべて取り戻しつくす」、つまり復讐なのだろう。生死すら不明な母への復讐。母が奪ったいちばん大切なものは、照恵のアイデンティティだということだろうか。
女手ひとつで育てた娘が安心できるところまで成長して、やっと
我が身を振り返る余裕ができた・・・あるいは、無我夢中の子育てが一段落して心にポッカリ穴があいた・・・ちょうどそんな時期だったのだろう。娘の深草は健康そうに育ち、母親思いの優しい、しっかりした子だ。スクリーンでも、深草役の野波麻帆のガッチリした体つきや溌剌とした話し方や明るい笑顔が、どす黒い物語をとことんまで暗くさせず、救っている。
AC(アダルト・チルドレン)は自分も同じように虐待する母親になる確率が高いと言われているが、心に深い傷を負った照恵をこんな立派な母親にしたのは、どんな良い夫だったのだろう。まったく父不在のまま最後まで進んでしまうのが、心残りだった。
そして、物語の核となる、「父の遺骨を何がなんでも探し出すという決意」。それは何故なのか。この映画では、答を用意せず、観客にポンと疑問をなげかけている。その説明過剰でないところが、実にいい。
私の解釈は、「唯一、明確に愛を示してくれた存在」が実父であり、その確かな証拠--遺骨--そのひとが確かにこの世に存在していた証・・・をどうしても手にいれたかったのではないか、と。
ラストの母娘対面のシーンは戦慄が走った。涙々のご対面にはなりえないだろうとは予想していたが、張り詰めた空気にスクリーンに
目が釘漬けになった。
★心に残るセリフ バスの中で夕日を背に照恵と娘
「可愛いよって言ってほしかった。」
「カワイイよ。」
「・・・バカ(微笑)。
・・・母さん、泣いてもいい?」
「いいよ」
監督: 平山秀幸
脚色: 鄭義信
原作 :下田治美
撮影 :芝崎幸三
音楽 :千住明
俳優:原田美技子(照恵/母、豊子 二役)
野波麻帆(照恵の娘、深草)
中井貴一 (照恵の実父、陳 文雄)
うじきつよし(照恵の弟)
★第22回モントリオール映画祭 国際批評家連盟賞受賞
★第22回 日本アカデミー賞 最優秀作品賞・最優秀監督賞・ 最優秀主演女優賞・脚本賞・撮影賞・編集賞・照明賞・美術賞
<ストーリー>
早くに夫を亡くし、娘の深草とふたり暮らしの照恵。彼女は、
娘が高校生になったある日、とある決心をする。それは、幼い頃に死んだ父、陳文雄の遺骨を探し出して弔うことだった。手掛かりをたどるうち、照恵の脳裏には忘れたくても忘れられない、母、豊子との日々の記憶が鮮明に蘇ってくる。
雨の中、父が母から自分を引き離した情景、父の死後、孤児院に預けられていた自分を迎えにきた母、そして新しい父、初めて会う弟
。そして赤ん坊の頃から続いていた母のまさに鬼のような折檻を。
そして、たった一度だけ、「髪を梳くのが上手いね」と褒めてもらったことも・・・・。
やがて照恵は、娘の深草に説得され、父の遺骨を探しに、父の故郷、台湾を訪れる。それは照恵にとって、かたくなに心を閉ざすあまり見失っていた“自分探し”の旅でもあった。台湾で心のかけらを取り戻し、日本に帰国後、父の遺骨も探し当てた照恵。
目的は達したものの、顔を曇らせたままの母照恵に、娘が言う。
「おばあちゃんに会いに行こうよ。あたし、調べたの・・・生きてるんだよ。」
<感想>
愛し方を知らずにひたすら暴力によって手に入らない愛を乞う母、愛され方を知らずにひたすら沈黙と作り笑いで愛を乞う娘。そしてその一人娘は乞わずとも愛し愛され、幸福に輝いている。
その三世代通じて映し出される母と娘の失われた愛を捜す物語。
気のむくままに理由もなく理不尽な虐待を繰り返す母親と、その暴力に心身ともに苛まれて育った娘。その対照的な二役を原田美枝子が見事に演じている。確かな血の繋がりを映像的に感じさせるための試みだとしたら、成功しているといえる。表情も話し方も何もかも対照的でありながら、垣間見せる寂しげな目だけは、同じ・・・。
お互いに愛を求めあっていたのに、どうにもならない母娘。
娘は力では母に対抗できず、ただの一人も、うわべだけ優しい継父も、母からは守ってくれない。自ら命を絶つ気力もない。
ただ力無く奇妙な作り笑いをうっすら浮かべるだけ・・・。赤ん坊は、母親に微笑みかけられ、「笑う」ことを覚えるものだが、照恵は母親から身を守るために、愛を乞うために、無理に微笑むことを
覚えてしまう。なんと皮肉で哀しいことか。
2人の継父の墓も探し出した。そこまでは、照恵が言うとおり、
「あの女(母)から奪われたものをすべて取り戻しつくす」、つまり復讐なのだろう。生死すら不明な母への復讐。母が奪ったいちばん大切なものは、照恵のアイデンティティだということだろうか。
女手ひとつで育てた娘が安心できるところまで成長して、やっと
我が身を振り返る余裕ができた・・・あるいは、無我夢中の子育てが一段落して心にポッカリ穴があいた・・・ちょうどそんな時期だったのだろう。娘の深草は健康そうに育ち、母親思いの優しい、しっかりした子だ。スクリーンでも、深草役の野波麻帆のガッチリした体つきや溌剌とした話し方や明るい笑顔が、どす黒い物語をとことんまで暗くさせず、救っている。
AC(アダルト・チルドレン)は自分も同じように虐待する母親になる確率が高いと言われているが、心に深い傷を負った照恵をこんな立派な母親にしたのは、どんな良い夫だったのだろう。まったく父不在のまま最後まで進んでしまうのが、心残りだった。
そして、物語の核となる、「父の遺骨を何がなんでも探し出すという決意」。それは何故なのか。この映画では、答を用意せず、観客にポンと疑問をなげかけている。その説明過剰でないところが、実にいい。
私の解釈は、「唯一、明確に愛を示してくれた存在」が実父であり、その確かな証拠--遺骨--そのひとが確かにこの世に存在していた証・・・をどうしても手にいれたかったのではないか、と。
ラストの母娘対面のシーンは戦慄が走った。涙々のご対面にはなりえないだろうとは予想していたが、張り詰めた空気にスクリーンに
目が釘漬けになった。
★心に残るセリフ バスの中で夕日を背に照恵と娘
「可愛いよって言ってほしかった。」
「カワイイよ。」
「・・・バカ(微笑)。
・・・母さん、泣いてもいい?」
「いいよ」
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『鉄道員(ぽっぽや)』
2002年12月9日『鉄道員(ぽっぽや)』 1999年・日
製作:「鉄道員(ぽっぽや)」製作委員会
原作 :浅田次郎 ★第117回直木賞受賞作品の同名小説
脚本 :岩間芳樹
:降旗康男
監督 :降旗康男
撮影 :木村大作
主題歌:「鉄道員」作詞:奥田民生 作曲:坂本龍一 歌:坂本美雨
俳優:高倉健(佐藤乙松)
大竹しのぶ(妻・静江)
広末涼子
山田さくや (3人の少女)
谷口紗耶香
小林稔侍(同僚・仙次)
田中好子 (仙次の妻)
吉岡秀隆(仙次の息子・秀男)
奈良岡朋子(食堂のおばちゃん・ムネ)
安藤政信 (敏行)
志村けん (敏行の父親)
<ストーリー>
北海道の廃鉱の終着駅、幌舞駅。この駅の老駅長、佐藤乙松は、一人娘を亡くした日も、愛する妻を亡くした日も、病院で寄りそうことなく駅に立ち続けた。これまで長い年月を筋金入りの鉄道員(ぽっぽや)として生きてきた乙松も、近く廃線になる幌舞線と運命を共にするかのように定年を目前にしていた。
その年の正月。古い友人、仙次が訪ねてくる。仙次は機関士見習い時代からの古い同僚で、今は美寄駅の駅長。じき乙松と同じく定年だが、トマムのリゾート会社重役に転身することになっていた。それだけに身寄りのない乙松の定年後が心配で堪らず、仙次は老後
も一緒に仕事をとしきりに勧めるが、乙松は頷かない。ぽっぽや以外の人生の日々など、乙松には考えも及ばなかったのである。家族の墓に、すでに己の名を刻んである乙松の決意の固さ。
残り少ない廃線の日まで1人黙々と勤務に励む乙松を、どこか見覚えのある古びた人形を抱えた少女が訪れた・・・。
<感想>
この誇り高き職人魂に胸打たれない人はいないだろう。
今は老人しかいないこの町も、昔は炭鉱の町として栄え、D51の機関士として石炭を運び、商人を運び、集団就職する中学生たちを運んだ。日本の高度成長を支えているという自負があった。若い頃は、蒸気機関車の排煙で何度もトンネルの中では命がけ。年老いて駅長になってからは、三六五日、ホームで列車の到着を直立不動で待った。零下十度の冬の夜も。子供の死も、妻の死も、駅で仕事をしていて看取れなかった。そういう自分が定年を目前に控え、再就職なぞ考えられない。自分は「ぽっぽや」で、それ以上にも、それ以下にもなれないのだと。
この仕事に己のすべてを賭けてきたせいで家族を寂しく死なせたと己を責め続ける乙松が哀しい。
そして、「ぽっぽやしかできないあんたを支えようとしたのに、
逆になっちゃったね。そればっか気が咎めて。」という妻。
後継ぎの男児も産めず、病弱で通入院のため家を空けがちな自分を
責める妻の言葉だ。なんとも痛々しい深い愛。それに対し、ポツリと「なーんも」とだけしか愛する妻に言葉をかけてやれない不器用さが泣かせる。
生まれてきて幸せだったと告げる雪子の霊は、誰が許してくれても
自分で自分が赦せない乙松の魂を17年の時を経て雪の空に解き放った。
乙松は家族を粗末にしたわけでも顧みなかったわけでもない。
ただ、職務の使命感をまっとうしただけなのだ。雪子の「だって
お父さんはぽっぽやだもの。」と決して“諦念”ではなく、誇らしげに笑顔で語るこのシーンは胸を打つ。
広末涼子の、俗世間離れした可憐さこそがこの作品を映画化するにあたってのキーであり、キャスティングは成功したといえるだろう。
過去のエピゾードの挿入の技術も、カメラワークが大変優れている。セピアから次第にカラーへ。乙松の頭の中で思い出が蘇る感じがとても自然でいい。
死者からのメッセージで残された者が心癒される、というのは、
フランス映画の「ポネット」に近い。あの作品でも、現世に残してきた家族のあまりに深い心の傷が心配で現れる死者の霊魂が描かれる。そして、どちらも、確かにここにいた証拠(ポネットなら母のセーター、鉄道員では、鍋料理)が残されて、夢だったのだと
再び頭を垂れることのないように死者が配慮をしているのだ。
悲しいけれど、むしろ安堵の涙が流れるラストシーンであった。
製作:「鉄道員(ぽっぽや)」製作委員会
原作 :浅田次郎 ★第117回直木賞受賞作品の同名小説
脚本 :岩間芳樹
:降旗康男
監督 :降旗康男
撮影 :木村大作
主題歌:「鉄道員」作詞:奥田民生 作曲:坂本龍一 歌:坂本美雨
俳優:高倉健(佐藤乙松)
大竹しのぶ(妻・静江)
広末涼子
山田さくや (3人の少女)
谷口紗耶香
小林稔侍(同僚・仙次)
田中好子 (仙次の妻)
吉岡秀隆(仙次の息子・秀男)
奈良岡朋子(食堂のおばちゃん・ムネ)
安藤政信 (敏行)
志村けん (敏行の父親)
<ストーリー>
北海道の廃鉱の終着駅、幌舞駅。この駅の老駅長、佐藤乙松は、一人娘を亡くした日も、愛する妻を亡くした日も、病院で寄りそうことなく駅に立ち続けた。これまで長い年月を筋金入りの鉄道員(ぽっぽや)として生きてきた乙松も、近く廃線になる幌舞線と運命を共にするかのように定年を目前にしていた。
その年の正月。古い友人、仙次が訪ねてくる。仙次は機関士見習い時代からの古い同僚で、今は美寄駅の駅長。じき乙松と同じく定年だが、トマムのリゾート会社重役に転身することになっていた。それだけに身寄りのない乙松の定年後が心配で堪らず、仙次は老後
も一緒に仕事をとしきりに勧めるが、乙松は頷かない。ぽっぽや以外の人生の日々など、乙松には考えも及ばなかったのである。家族の墓に、すでに己の名を刻んである乙松の決意の固さ。
残り少ない廃線の日まで1人黙々と勤務に励む乙松を、どこか見覚えのある古びた人形を抱えた少女が訪れた・・・。
<感想>
この誇り高き職人魂に胸打たれない人はいないだろう。
今は老人しかいないこの町も、昔は炭鉱の町として栄え、D51の機関士として石炭を運び、商人を運び、集団就職する中学生たちを運んだ。日本の高度成長を支えているという自負があった。若い頃は、蒸気機関車の排煙で何度もトンネルの中では命がけ。年老いて駅長になってからは、三六五日、ホームで列車の到着を直立不動で待った。零下十度の冬の夜も。子供の死も、妻の死も、駅で仕事をしていて看取れなかった。そういう自分が定年を目前に控え、再就職なぞ考えられない。自分は「ぽっぽや」で、それ以上にも、それ以下にもなれないのだと。
この仕事に己のすべてを賭けてきたせいで家族を寂しく死なせたと己を責め続ける乙松が哀しい。
そして、「ぽっぽやしかできないあんたを支えようとしたのに、
逆になっちゃったね。そればっか気が咎めて。」という妻。
後継ぎの男児も産めず、病弱で通入院のため家を空けがちな自分を
責める妻の言葉だ。なんとも痛々しい深い愛。それに対し、ポツリと「なーんも」とだけしか愛する妻に言葉をかけてやれない不器用さが泣かせる。
生まれてきて幸せだったと告げる雪子の霊は、誰が許してくれても
自分で自分が赦せない乙松の魂を17年の時を経て雪の空に解き放った。
乙松は家族を粗末にしたわけでも顧みなかったわけでもない。
ただ、職務の使命感をまっとうしただけなのだ。雪子の「だって
お父さんはぽっぽやだもの。」と決して“諦念”ではなく、誇らしげに笑顔で語るこのシーンは胸を打つ。
広末涼子の、俗世間離れした可憐さこそがこの作品を映画化するにあたってのキーであり、キャスティングは成功したといえるだろう。
過去のエピゾードの挿入の技術も、カメラワークが大変優れている。セピアから次第にカラーへ。乙松の頭の中で思い出が蘇る感じがとても自然でいい。
死者からのメッセージで残された者が心癒される、というのは、
フランス映画の「ポネット」に近い。あの作品でも、現世に残してきた家族のあまりに深い心の傷が心配で現れる死者の霊魂が描かれる。そして、どちらも、確かにここにいた証拠(ポネットなら母のセーター、鉄道員では、鍋料理)が残されて、夢だったのだと
再び頭を垂れることのないように死者が配慮をしているのだ。
悲しいけれど、むしろ安堵の涙が流れるラストシーンであった。
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「ジョイ・ラック・クラブ」
2002年12月8日『ジョイ・ラック・クラブ』 【The Joy Lick Club】1993年・米
製作総指揮:オリヴァー・ストーン
ジャネット・ヤン
製作・監督:ウェイン・ウァン
原作: エィミ・タン
製作・脚本: ロナルド・バス
音楽: レイチェル・ポートマン
俳優:ミンナ・ウェン
フランス・ヌーエン
リサ・ルー
タムリン・トミタ
アンドリュー・マッカーシー
キュウ・チン
ツァイ・チン
<ストーリー>
サンフランシスコ。その日、ジェーンは、「ジョイ・ラック・クラブ」の4番目の席についた。
彼女の母、スーユアンが始めたこのジョイ・ラック・クラブは、その名のとおりジョイ(喜)とラック(運)をわけあおうと3人の女友達--リンド、インイン、アイメイ--と始めた麻雀クラブ。30年もの間、彼女たちはテーブルを囲んで、喜びも悲しみも分かち合ってきた。それぞれに故郷、中国での辛く悲しい過去を背負い、新天地アメリカへと渡ってきた女性達。4人は同世代の娘--ジェーン、ウェバリー、リーナ、ローズ--がいるという共通点があった。娘達は母親の過去や中国を知らないまま、アメリカ人として成人した。ジェーンはその席で、中国にいる双子の姉の存在を知らされた・・・・・。
それぞれが母娘の間に横たわる深い溝に苦しんでいる。
それよりも深い愛情の絆で結ばれていることにはまだ、気付かずに。
<感想>
母娘の絆を描く達人、ウェイン・ウァン監督の作品。オリバー・ストーンは、クレジットには名前があがっているが、実際の制作にはほとんど関与していないらしい。確かに、あまり「オリバー節」は感じられず、ウェイン・ウァン監督らしい「親子の情」の追求もの
に仕上がっている。
親と子の絆と溝。この、世代も人種をも超えた永遠のテーマを、4人の母親とそれぞれの娘のエピソードを散りばめることによって構成されるオムニバス的な作品である。
生きるすべと自由を求めて地獄のようだった祖国中国を離れるが、しかし、血の中の「中国」と心の傷から逃れられない母親たち。母は苦い過去の経験から娘を立派に育てようとやっきになり、娘はそんな母親の思いがプレッシャーになり、関係がギクシャクしてしまう・・・。どちらの世代の気持ちも、痛いほど伝わってくる。
「お母さんは私を支配しているのよ。お母さんの一言一言や、眼差しが。でも私は、私以上の人間にはなれない」主人公のジェーンは
苦しむ。まるで呪縛のように・・・。
だが、ラスト近く、父の意外な告白で母の真意を知り、ジェーンは
糸を断ち切って歩き出そうとするのだ。1本の白鳥の羽に託された、母の本当の気持ち--目頭が熱くなった。
★心に残るセリフ
「ほしいものを手に入れるためには闘うのよ。」(アイメイが娘、ローズに)
製作総指揮:オリヴァー・ストーン
ジャネット・ヤン
製作・監督:ウェイン・ウァン
原作: エィミ・タン
製作・脚本: ロナルド・バス
音楽: レイチェル・ポートマン
俳優:ミンナ・ウェン
フランス・ヌーエン
リサ・ルー
タムリン・トミタ
アンドリュー・マッカーシー
キュウ・チン
ツァイ・チン
<ストーリー>
サンフランシスコ。その日、ジェーンは、「ジョイ・ラック・クラブ」の4番目の席についた。
彼女の母、スーユアンが始めたこのジョイ・ラック・クラブは、その名のとおりジョイ(喜)とラック(運)をわけあおうと3人の女友達--リンド、インイン、アイメイ--と始めた麻雀クラブ。30年もの間、彼女たちはテーブルを囲んで、喜びも悲しみも分かち合ってきた。それぞれに故郷、中国での辛く悲しい過去を背負い、新天地アメリカへと渡ってきた女性達。4人は同世代の娘--ジェーン、ウェバリー、リーナ、ローズ--がいるという共通点があった。娘達は母親の過去や中国を知らないまま、アメリカ人として成人した。ジェーンはその席で、中国にいる双子の姉の存在を知らされた・・・・・。
それぞれが母娘の間に横たわる深い溝に苦しんでいる。
それよりも深い愛情の絆で結ばれていることにはまだ、気付かずに。
<感想>
母娘の絆を描く達人、ウェイン・ウァン監督の作品。オリバー・ストーンは、クレジットには名前があがっているが、実際の制作にはほとんど関与していないらしい。確かに、あまり「オリバー節」は感じられず、ウェイン・ウァン監督らしい「親子の情」の追求もの
に仕上がっている。
親と子の絆と溝。この、世代も人種をも超えた永遠のテーマを、4人の母親とそれぞれの娘のエピソードを散りばめることによって構成されるオムニバス的な作品である。
生きるすべと自由を求めて地獄のようだった祖国中国を離れるが、しかし、血の中の「中国」と心の傷から逃れられない母親たち。母は苦い過去の経験から娘を立派に育てようとやっきになり、娘はそんな母親の思いがプレッシャーになり、関係がギクシャクしてしまう・・・。どちらの世代の気持ちも、痛いほど伝わってくる。
「お母さんは私を支配しているのよ。お母さんの一言一言や、眼差しが。でも私は、私以上の人間にはなれない」主人公のジェーンは
苦しむ。まるで呪縛のように・・・。
だが、ラスト近く、父の意外な告白で母の真意を知り、ジェーンは
糸を断ち切って歩き出そうとするのだ。1本の白鳥の羽に託された、母の本当の気持ち--目頭が熱くなった。
★心に残るセリフ
「ほしいものを手に入れるためには闘うのよ。」(アイメイが娘、ローズに)
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「ブリジット・ジョーンズの日記」
2002年12月7日『ブリジット・ジョーンズの日記』【Bridget Jones’s Diary】2001年・米
監督:シャロン・マグワイア
原作:ヘレン・フィールディング
脚本:ヘレン・フィールディング/アンドリュー・デイヴィス/リチャード・カーティス
音楽:パトリック・ドイル
俳優:レニー・ゼルウィガー(ブリジット)
コリン・ファース(マーク)
ヒュ−・グラント(ダニエル)
<ストーリー>
ブリジット・ジョーンズは32歳、ロンドンのアパートで独り暮らし、出版社勤務のキャリアウーマン(ヒラ社員だけど)。今年の元旦もまた、二日酔い、で独身のまま目覚めてしまった。夜、実家で開かれた毎年恒例の新年パーティでは、「恋人は?」「結婚は?」と失礼な質問責めにウンザリ。今年ママが招待した“お見合い相手”は、幼馴染みだったらしい、バツイチの弁護士マーク。ちょっぴりハンサムなマークに一瞬ドキっとするも、ヘンテコなセーターだし、お堅くてエラソーだし、ズケズケモノを言うし、いけすかないったらありゃしない。ガックリしてロンドンの自宅に戻ったブリジットは新年の決意を固める。
「日記をつけ、体重とお酒とたばこを減らし、すてきな恋人を見つけよう!一人の男にのめりこまないようにしよう!」
ところが、決意もモロく、ブリジットはセクシーな上司ダニエルにくびったけに・・・・・
大丈夫なのか!?ブリジット!
<感想>
ロンドンに暮らす30代独身女性のあけすけな本音を語ってベストセラーになったヘレン・フィールディングの小説の映画化。女性が観たら、年齢やパートナーの有無に関係なく共感を覚ること間違いなし!
ムダ毛の処理シーンやら、勝負ぱんつ(=スケスケセクシーぱんてぃ)にするか、そこまでコトを運ぶために体型補正下着(=ベージュのでかぱんつ)にするか迷うシーンやら、本人はいたって真剣そのもの、もう爆笑である。思わず画面に向かって、親友にでも言うように、「シャワーを浴びてから勝負パンツにはきかえれば?」とアドバイスしたくなってしまう(笑)
ぽちゃぽちゃ体型で、パーティドレスの背中に贅肉がのっかってるブリジット、自宅じゃ散らかった部屋でダサダサなパジャマを着て酒瓶をマイクに“30代のためのFM”に合わせてダミ声で歌っちゃうブリジット。でも、ヤケになってムッツリ引きこもって幸せな未来を諦めたりなんかしない、前向きで頑張りやさんのブリジット。でも、ダイエットも節煙も節酒も成功しないブリジット。
そんなお茶目なブリジットを、応援したくならない女性はいないだろう。
彼女が惚れたり惚れられたりする男2人は、とてもわかりやすい
「両極端」なタイプ。物腰優雅で金持ちでSEX上手、イイ男だが女ったらしのロクデナシ野郎と、育ちがよく誠実でエリート、夫にするには良さそうだが、ジョークも通じない仏頂面男。
この2人があまりにステレオタイプなところが、コメディーの要素を高めているのだ。
一筋縄ではいかない恋の行方、なかなかハラハラさせてくれる。
97分、めいっぱい楽しませて和ませてくれる映画だ。
「ベティ・サイズモア」でコメディの女王に輝いたレニー、今回も
大真面目さが可笑しみを誘う、まさに適役。だが、相当な役作りの努力があったようだ。イギリス英語をマスターし、ポッチャリ体型にするため、運動をやめジャンクフードを食べて6kg増やし、さらに素性を隠して2週間、ロンドンの出版社でヒラ社員として働いてお茶くみ、コピーに励んだそうだ。ブリジットがバリバリのキャリアウーマンではないところがこれだけの共感を呼んだに違いない。そこそこの中流家庭に育って、そこそこの大学の文学部も出て、まぁまぁの企業でOL生活。泣けてくるほどのリアリティだ。
寂しいシングルトンの心に染みる゛名曲”ずくめの音楽も、お見事♪
確かに、結婚が人生のすべてじゃないし、ピンク色の日々は何十年も続かないものだ。映画の中でも、ブリジットのママは、平凡な家庭生活に辟易して家出してしまう。だけど、火遊びに飽きたら戻ってきてしまう。「帰れるところ」Homeを求めるのは、男女に関係なく、人間の性だろう。喜びだけではなくて、苦しみも分かち合う相手、それが「伴侶」なのだと、ブリジットの老いた両親の姿から彼女は学ぶのだ。
★名ゼリフ
「ありのままの君が好きだ。」
I like the way you are.
ブリジットも、ブリジットが最後に選んだ男も、loveではなく
l like you,very much. と言う。たくさんのlikeを積み重ねて、loveに育ててゆけるだろう、と微笑ましいセリフだった。
監督:シャロン・マグワイア
原作:ヘレン・フィールディング
脚本:ヘレン・フィールディング/アンドリュー・デイヴィス/リチャード・カーティス
音楽:パトリック・ドイル
俳優:レニー・ゼルウィガー(ブリジット)
コリン・ファース(マーク)
ヒュ−・グラント(ダニエル)
<ストーリー>
ブリジット・ジョーンズは32歳、ロンドンのアパートで独り暮らし、出版社勤務のキャリアウーマン(ヒラ社員だけど)。今年の元旦もまた、二日酔い、で独身のまま目覚めてしまった。夜、実家で開かれた毎年恒例の新年パーティでは、「恋人は?」「結婚は?」と失礼な質問責めにウンザリ。今年ママが招待した“お見合い相手”は、幼馴染みだったらしい、バツイチの弁護士マーク。ちょっぴりハンサムなマークに一瞬ドキっとするも、ヘンテコなセーターだし、お堅くてエラソーだし、ズケズケモノを言うし、いけすかないったらありゃしない。ガックリしてロンドンの自宅に戻ったブリジットは新年の決意を固める。
「日記をつけ、体重とお酒とたばこを減らし、すてきな恋人を見つけよう!一人の男にのめりこまないようにしよう!」
ところが、決意もモロく、ブリジットはセクシーな上司ダニエルにくびったけに・・・・・
大丈夫なのか!?ブリジット!
<感想>
ロンドンに暮らす30代独身女性のあけすけな本音を語ってベストセラーになったヘレン・フィールディングの小説の映画化。女性が観たら、年齢やパートナーの有無に関係なく共感を覚ること間違いなし!
ムダ毛の処理シーンやら、勝負ぱんつ(=スケスケセクシーぱんてぃ)にするか、そこまでコトを運ぶために体型補正下着(=ベージュのでかぱんつ)にするか迷うシーンやら、本人はいたって真剣そのもの、もう爆笑である。思わず画面に向かって、親友にでも言うように、「シャワーを浴びてから勝負パンツにはきかえれば?」とアドバイスしたくなってしまう(笑)
ぽちゃぽちゃ体型で、パーティドレスの背中に贅肉がのっかってるブリジット、自宅じゃ散らかった部屋でダサダサなパジャマを着て酒瓶をマイクに“30代のためのFM”に合わせてダミ声で歌っちゃうブリジット。でも、ヤケになってムッツリ引きこもって幸せな未来を諦めたりなんかしない、前向きで頑張りやさんのブリジット。でも、ダイエットも節煙も節酒も成功しないブリジット。
そんなお茶目なブリジットを、応援したくならない女性はいないだろう。
彼女が惚れたり惚れられたりする男2人は、とてもわかりやすい
「両極端」なタイプ。物腰優雅で金持ちでSEX上手、イイ男だが女ったらしのロクデナシ野郎と、育ちがよく誠実でエリート、夫にするには良さそうだが、ジョークも通じない仏頂面男。
この2人があまりにステレオタイプなところが、コメディーの要素を高めているのだ。
一筋縄ではいかない恋の行方、なかなかハラハラさせてくれる。
97分、めいっぱい楽しませて和ませてくれる映画だ。
「ベティ・サイズモア」でコメディの女王に輝いたレニー、今回も
大真面目さが可笑しみを誘う、まさに適役。だが、相当な役作りの努力があったようだ。イギリス英語をマスターし、ポッチャリ体型にするため、運動をやめジャンクフードを食べて6kg増やし、さらに素性を隠して2週間、ロンドンの出版社でヒラ社員として働いてお茶くみ、コピーに励んだそうだ。ブリジットがバリバリのキャリアウーマンではないところがこれだけの共感を呼んだに違いない。そこそこの中流家庭に育って、そこそこの大学の文学部も出て、まぁまぁの企業でOL生活。泣けてくるほどのリアリティだ。
寂しいシングルトンの心に染みる゛名曲”ずくめの音楽も、お見事♪
確かに、結婚が人生のすべてじゃないし、ピンク色の日々は何十年も続かないものだ。映画の中でも、ブリジットのママは、平凡な家庭生活に辟易して家出してしまう。だけど、火遊びに飽きたら戻ってきてしまう。「帰れるところ」Homeを求めるのは、男女に関係なく、人間の性だろう。喜びだけではなくて、苦しみも分かち合う相手、それが「伴侶」なのだと、ブリジットの老いた両親の姿から彼女は学ぶのだ。
★名ゼリフ
「ありのままの君が好きだ。」
I like the way you are.
ブリジットも、ブリジットが最後に選んだ男も、loveではなく
l like you,very much. と言う。たくさんのlikeを積み重ねて、loveに育ててゆけるだろう、と微笑ましいセリフだった。
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「ブラス!」
2002年12月6日ブラス! 【Brassed Off】 1996年【英・米】
監督・脚本:マーク・ハーマン
音楽:トレバー・ジョーンズ
俳優:ピート・ポスルスウェイト(ダニー)
ユアン・マクレガー(アンディ)
タラ・フィッツジェラルド(グロリア)
スティーブン・トンプキンソン(フィル)
★1997年東京国際映画祭審査員特別賞受賞作品
<ストーリー>
1992年、イングランド北部の炭鉱町グリムリー。ここも炭鉱閉鎖の波が押し寄せ、閉山反対闘争に男達だけでなく、妻たちも抗議運動に必死だ。
この町には伝統あるプラスバンド「グリムリー・コリアリー・バンド」がある。仕事を終えた炭鉱労働者はそれそれに楽器を抱え、稽古場へと急ぐ。生活が不安な妻たちに音楽どころじゃないだろうにと嫌味を言われながら・・・。バンド存続のためのカンパ金も食い詰めて出せず、失業の恐怖からやる気がなくなっているのは男たちとて同じだった。だが、リーダーで指揮者であるダニー老人の音楽にかける熱意は炎のようで、沈んだ町にふたたぴ希望と活気を呼びもどすべくプラスバンドの全英選手権で初優勝をかち得るのが悲願だ。そんなダニーを前に、皆、なかなか辞めると言い出せず、ギクシャクとした空気が稽古場を包んでいた。
そんなとき、ダニーの親友の孫娘グロリアこの町に戻ってき
て入団することに。彼女は美人で演奏も素晴らしく、男どもは俄然やる気を出す。ことに、10代の頃彼女に恋していたアンディは瞳を輝かせる。様々な経済的な問題を抱えつつも、ついに準決勝まではたどり着いた彼らであったが、喜び勇んで凱旋した彼らを待っていたニュースは、組合の敗北。
皆失業、ダニーは炭塵を吸った肺の病気が悪化して入院、さらに、希望の光だったグロリアが、実は閉山を策す会社側の職員であることがバレてしまい、バンドは解散以外の道を見出せなくなる。
ダニーの息子、フィルは悩む。自宅は差し押さえられた。妻は子供4人を連れて去った。父にはバンド解散を告げねばならない・・・でも言えない。苦悩の末、世を儚んで命を絶とうとすら・・・。
そこへ、一度は追われるように皆の元を去ったグロリアが再び姿を現した。彼女が男たちに差し出したものは------。
<感想>
イギリス映画には人情味がある。『リトル・ダンサー』 『フル・モンティ』 と観てきて、この『ブラス!』 。極めて、日本人の感覚に近い“センチメンタリズム”=《湿り気》 が映画を支配しているのである。心地よい、馴染んだ感動を味合わせてくれる。ハリウッドのドライでクールな雰囲気とは確実に異なる感覚だ。
具体的にいえば、イギリス人には歯をくいしばる“頑張リズム”を誉れとする性質があり、そこが日本的だと思うのだ。“根性”と“義理”が重んじられる社会には共感を持てる。
悲惨な方向へと雪崩のように状況が落ちこんでいく中で人間が生きるためには、取捨選択をし、何は1つだけ、いちばん大切なものを採らねばならない。
窮すれば窮するほど、救いはメンタルな方向に向かうものだろう。
この映画のリアリティは、男たちがいつまでも「揺れ続ける」ところだ。食えなくてもいい、名誉のために優勝目指して一直線!! ・・・というアメリカン・ドリームはここにはない。
「もうダメだろう。いや、もうちょっと頑張ってみよう。ああやっぱりもうダメだ。だけどなんとか方法はないか。やっぱり無理か・・・。でもできるかも。いや、考えるだけ無駄だ。チクショウ、どうしたらいいんだ。ダメもとでやるしかないか?いや、やってやるぞ!」
こうして、延々と自問自答を繰り返し悶々と悩んで決心をつける。これこそが、人間というものだ。
この映画には、名シーンが数多い。
なんといっても、入院しているダニーのために、これが最後、と決めて炭坑で使っていた
キャップランプで楽譜を照らし、アイルランド民謡「ダニー・ボーイ」を病院の庭で演奏する
シーンは涙なしには観られまい。楽器を手放してしまったアンディが口笛で参加している姿に
一層、胸が震える。
そして、家出したフィルの妻と子供の会話。
「人は幸せに死ねるの?」(おじいちゃん=ダニーのこと)
答えられない母親。
「悲しそうなお父さんはイヤだ。でも、お父さんに逢えないのはもっとイヤだ。」
そして、ピエロのアルバイトで教会を訪れたフィルが心のたけをキリスト像に
ぶつけるシーン。
「あんたは俺たちになにもしてくれないじゃないか。してくれる気があるなら、
どうしてジョン・レノンを殺した!若い坑夫を二人も死なせたのか!
なぜサッチャーだけが生きている!」 カメラが映すキリストの像は、静かに
悲しげな眼差しをたたえている・・・・。
そして、言うまでもなくラスト、決勝で「威風堂々」を息を飲むような魂のこもった演奏で披露する団員たちと、ダニーのかわりに指揮をするハリーの燃えるような采配ぶり。
(ちなみに、この映画は実在の全英一の人気楽団、グライムソープ・コリアリー・バンドをモデルにした作品であり、演奏シーンの音はすべてこのバンドが担当している。)
最後のダニーの演説・・・
I thought that music mattered. But does it? Bollocks! Not compared to how people matter.
「わたしは音楽こそが何より重要なのだと思っていました。だが、そうじゃない! 人間よりも
重要なものなんぞないのです。」
そう。音楽を演奏することが重要なのではない。演奏することができる人間こそが重要なのだ・・・。
その、大切な人間を、サッチャー政権は、ないがしろにしている。
「あなたがたはクジラやイルカの保護には立ち上がるが、我々の困難には手を貸さない」
それを聴いた聴衆から拍手がおこる。
この映画はいわゆる“ハッピーエンド”ではない。演奏が素晴らしかったからご褒美に炭坑の閉鎖が取りやめになるわけじゃない。心揺さぶる演奏をした団員たちは、現在、失業者なのだ。それが現実だ。
----だが、登りきれないと諦めていた山を、まずひとつ、力を合わせて頂上を極めた男達だ。彼らなら、目の前の壮絶な試練にも、歯をくいしばり、果敢にチャレンジして逞しく生き抜いていくに違いない--- そんな希望を、誰もが抱くに違いない。
素晴らしい作品に巡り合えてよかったと心から思う。
蛇足だが、原題のBrassed Off というのは、イギリスの俗語で
「もううんざり」という意味だ。ポスター等ではBRASS(金管楽器)になっているが、念のため英語で検索すると、この作品の正式なタイトルはやはりBrassed Off である。てっきりブラスバンドのブラスだと思いこんでいたが、日本で「ブラス!」と「!」をつけたのは、そういう含みがあってのことなのだろう。まったく、うんざりする世の中を生きぬかにゃならないのだ。でも、音楽Brassが俺たちにはあるさ、という洒落かもしれない。
監督・脚本:マーク・ハーマン
音楽:トレバー・ジョーンズ
俳優:ピート・ポスルスウェイト(ダニー)
ユアン・マクレガー(アンディ)
タラ・フィッツジェラルド(グロリア)
スティーブン・トンプキンソン(フィル)
★1997年東京国際映画祭審査員特別賞受賞作品
<ストーリー>
1992年、イングランド北部の炭鉱町グリムリー。ここも炭鉱閉鎖の波が押し寄せ、閉山反対闘争に男達だけでなく、妻たちも抗議運動に必死だ。
この町には伝統あるプラスバンド「グリムリー・コリアリー・バンド」がある。仕事を終えた炭鉱労働者はそれそれに楽器を抱え、稽古場へと急ぐ。生活が不安な妻たちに音楽どころじゃないだろうにと嫌味を言われながら・・・。バンド存続のためのカンパ金も食い詰めて出せず、失業の恐怖からやる気がなくなっているのは男たちとて同じだった。だが、リーダーで指揮者であるダニー老人の音楽にかける熱意は炎のようで、沈んだ町にふたたぴ希望と活気を呼びもどすべくプラスバンドの全英選手権で初優勝をかち得るのが悲願だ。そんなダニーを前に、皆、なかなか辞めると言い出せず、ギクシャクとした空気が稽古場を包んでいた。
そんなとき、ダニーの親友の孫娘グロリアこの町に戻ってき
て入団することに。彼女は美人で演奏も素晴らしく、男どもは俄然やる気を出す。ことに、10代の頃彼女に恋していたアンディは瞳を輝かせる。様々な経済的な問題を抱えつつも、ついに準決勝まではたどり着いた彼らであったが、喜び勇んで凱旋した彼らを待っていたニュースは、組合の敗北。
皆失業、ダニーは炭塵を吸った肺の病気が悪化して入院、さらに、希望の光だったグロリアが、実は閉山を策す会社側の職員であることがバレてしまい、バンドは解散以外の道を見出せなくなる。
ダニーの息子、フィルは悩む。自宅は差し押さえられた。妻は子供4人を連れて去った。父にはバンド解散を告げねばならない・・・でも言えない。苦悩の末、世を儚んで命を絶とうとすら・・・。
そこへ、一度は追われるように皆の元を去ったグロリアが再び姿を現した。彼女が男たちに差し出したものは------。
<感想>
イギリス映画には人情味がある。『リトル・ダンサー』 『フル・モンティ』 と観てきて、この『ブラス!』 。極めて、日本人の感覚に近い“センチメンタリズム”=《湿り気》 が映画を支配しているのである。心地よい、馴染んだ感動を味合わせてくれる。ハリウッドのドライでクールな雰囲気とは確実に異なる感覚だ。
具体的にいえば、イギリス人には歯をくいしばる“頑張リズム”を誉れとする性質があり、そこが日本的だと思うのだ。“根性”と“義理”が重んじられる社会には共感を持てる。
悲惨な方向へと雪崩のように状況が落ちこんでいく中で人間が生きるためには、取捨選択をし、何は1つだけ、いちばん大切なものを採らねばならない。
窮すれば窮するほど、救いはメンタルな方向に向かうものだろう。
この映画のリアリティは、男たちがいつまでも「揺れ続ける」ところだ。食えなくてもいい、名誉のために優勝目指して一直線!! ・・・というアメリカン・ドリームはここにはない。
「もうダメだろう。いや、もうちょっと頑張ってみよう。ああやっぱりもうダメだ。だけどなんとか方法はないか。やっぱり無理か・・・。でもできるかも。いや、考えるだけ無駄だ。チクショウ、どうしたらいいんだ。ダメもとでやるしかないか?いや、やってやるぞ!」
こうして、延々と自問自答を繰り返し悶々と悩んで決心をつける。これこそが、人間というものだ。
この映画には、名シーンが数多い。
なんといっても、入院しているダニーのために、これが最後、と決めて炭坑で使っていた
キャップランプで楽譜を照らし、アイルランド民謡「ダニー・ボーイ」を病院の庭で演奏する
シーンは涙なしには観られまい。楽器を手放してしまったアンディが口笛で参加している姿に
一層、胸が震える。
そして、家出したフィルの妻と子供の会話。
「人は幸せに死ねるの?」(おじいちゃん=ダニーのこと)
答えられない母親。
「悲しそうなお父さんはイヤだ。でも、お父さんに逢えないのはもっとイヤだ。」
そして、ピエロのアルバイトで教会を訪れたフィルが心のたけをキリスト像に
ぶつけるシーン。
「あんたは俺たちになにもしてくれないじゃないか。してくれる気があるなら、
どうしてジョン・レノンを殺した!若い坑夫を二人も死なせたのか!
なぜサッチャーだけが生きている!」 カメラが映すキリストの像は、静かに
悲しげな眼差しをたたえている・・・・。
そして、言うまでもなくラスト、決勝で「威風堂々」を息を飲むような魂のこもった演奏で披露する団員たちと、ダニーのかわりに指揮をするハリーの燃えるような采配ぶり。
(ちなみに、この映画は実在の全英一の人気楽団、グライムソープ・コリアリー・バンドをモデルにした作品であり、演奏シーンの音はすべてこのバンドが担当している。)
最後のダニーの演説・・・
I thought that music mattered. But does it? Bollocks! Not compared to how people matter.
「わたしは音楽こそが何より重要なのだと思っていました。だが、そうじゃない! 人間よりも
重要なものなんぞないのです。」
そう。音楽を演奏することが重要なのではない。演奏することができる人間こそが重要なのだ・・・。
その、大切な人間を、サッチャー政権は、ないがしろにしている。
「あなたがたはクジラやイルカの保護には立ち上がるが、我々の困難には手を貸さない」
それを聴いた聴衆から拍手がおこる。
この映画はいわゆる“ハッピーエンド”ではない。演奏が素晴らしかったからご褒美に炭坑の閉鎖が取りやめになるわけじゃない。心揺さぶる演奏をした団員たちは、現在、失業者なのだ。それが現実だ。
----だが、登りきれないと諦めていた山を、まずひとつ、力を合わせて頂上を極めた男達だ。彼らなら、目の前の壮絶な試練にも、歯をくいしばり、果敢にチャレンジして逞しく生き抜いていくに違いない--- そんな希望を、誰もが抱くに違いない。
素晴らしい作品に巡り合えてよかったと心から思う。
蛇足だが、原題のBrassed Off というのは、イギリスの俗語で
「もううんざり」という意味だ。ポスター等ではBRASS(金管楽器)になっているが、念のため英語で検索すると、この作品の正式なタイトルはやはりBrassed Off である。てっきりブラスバンドのブラスだと思いこんでいたが、日本で「ブラス!」と「!」をつけたのは、そういう含みがあってのことなのだろう。まったく、うんざりする世の中を生きぬかにゃならないのだ。でも、音楽Brassが俺たちにはあるさ、という洒落かもしれない。
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「激流」
2002年12月5日『激流』【The River Wild】1994年・米
監督:カーティス・ハンソン
脚本:デニス・オニール
撮影:ロバート・エルスウィット
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
俳優:メリル・ストリープ(母ゲイル)
ケビン・ベーコン(ウェイド)
デビッド・ストラザーン(父トム)
ジョセフ・マッゼロ(息子ローク)
<ストーリー>
ゲイルは川下りの元ガイドで、現在は2人の子を育てながら聾唖学校の教師をしている。ワーカホリックの夫トムは、一昨年から息子ロークの誕生日の日にも仕事。離婚を考えながら、ゲイルは子供たちを連れて故郷に小旅行に。息子の誕生日を、川下りをしながら祝うつもりだった。祖父母に小さな娘を預け、出発寸前に駆けつけた
夫と、ゲイルの愛犬マギーの3人+1匹で、川上のスタート地点から出発する。
その川は、比較的穏やかな流れが途中まで有り、その先には3本
の川が合流する゛ガントレット”と名付けられた、川下り禁止の魔の激流域が有り、ゲイルは娘時代、無謀にもそこを下った経験が一度有ったが、死者が出た苦い思い出もあり、家族の出来た今では、
もうそんな命知らずなことをするつもりは毛頭無く、一家は”ガントレット”の手前で川下りを終え、祖父母達と合流して帰る予定だった。
スタート地点で、ウェイドという好青年のグループと息子の
ロークを介して知り合った一家は、諸々の事情から一緒に宿泊キャンプも共にしながら下ることになる。不在がちな父になつかないロークは、陽気なウエイドを兄のように慕い、ゲイルまでウエイドと楽しそうに釣りをするので、トムは面白くない。
だが、旅を続けるうちに、徐々に凶悪な本性を垣間見せるようになったウエイドを、トムだけでなくゲイルも不気味に感じ始め・・・。
実はウエイド達は逃走中の強盗だったのだ。追手の裏をかいた川下りによるカナダへの逃走計画は、゛ガントレット”をも下るという無謀なもので、ウエイドは家族を人質にし、激流下りのガイドを務めろと脅迫する・・!
<感想>
スリリングな展開で、ハラハラさせてくれる。
大自然の、絶壁に囲まれた激流は、ある意味で“密室”であり、助けはこないのだという緊迫感を否応無しに高める。娯楽大作として手に汗握る興奮を味わえる1本だ。
ドラマ面としては、腕力もなくいかにも頼りなさげな父親トムが、頭脳戦で犯人たちから家族を救おうと必死で頑張る姿がなかなかいい。まるでいうことをきかなかった妻の愛犬が、妻を救うために命がけなトムの命令を初めてきくところなど、若干
安っぽい気もしなくはないが、許せてしまう。
少々、はしょりすぎで気になったのは、あれだけわだかまっていた夫婦関係が、お互いの「一言」ですんなり解決してしまうところだろう。しかも、まだあの時点では、ウェイド達と一致団結して戦わねばならない状況ではなかったのだから、あの夫婦のわだかまりが解消に至るプロセスを、もっと丁寧に描いてほしかったように思う。
夫がワーカホリックで家庭崩壊という状況は、たくさんの映画で描かれているのだが、どの作品でも、夫が仕事にしか生き甲斐を見出せなくなった「理由」が存在しており、この作品のように、ただ“妻の期待に応えたかったから”という理由で、子供の誕生日を三年も無視するというのは設定に無理を感じる。しかも、妻からは再三、「もっと
家庭を顧みてほしい」と苦言を呈されているのだから、「ぼくは知らなかった」「私もわからなかった」であっさり解決してしまうという脚本は、あまりにアバウトで残念だ。
だが、この家族を救う「小道具」であり、家族を結ぶ「絆」でもある“手話”や“昔話”を効果的につかった夫トムの救出作戦は、物語に奥行きを出すのに効果的だったと思われる。
そして、各俳優の名演こそが、この作品のいちばんの魅力である。
メリル・ストリープは完璧主義で有名だが、この作品でも、体重を増やし、上腕を鍛え上げ、アウトドア派で心身ともに逞しいワイルドな肝っ玉母ちゃんを見事に演じきっている。ほとんどのシーンを、スタントなしでこなしたというから驚きだ。
ケヴィン・ベーコンは、「スリーパーズ」でも憎たらしい役だったが、今回もハマり役。陽気な好青年ぶりに微妙に見え隠れする残忍さも不気味で巧み。それが100%表に出たときの、まるで紙に水が染みていくようにジワジワ広がる凶悪な笑顔はトリハダものである。
一種の密室劇であるこの作品では、人数も背景も変わらないぶん、登場人物に相当な個性と演技力が要求される。息苦しいような緊張を、愛らしいジョゼフ・マッゼロ君と、レトリバー犬のマギーがいいバランスでガス抜きしている。
ドキドキハラハラしたいときに、おすすめしたい作品だ。いうまでもなく、大自然の風景は利己的な人間の愚かさを際立たせ
圧倒的に壮大で美しかった。
監督:カーティス・ハンソン
脚本:デニス・オニール
撮影:ロバート・エルスウィット
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
俳優:メリル・ストリープ(母ゲイル)
ケビン・ベーコン(ウェイド)
デビッド・ストラザーン(父トム)
ジョセフ・マッゼロ(息子ローク)
<ストーリー>
ゲイルは川下りの元ガイドで、現在は2人の子を育てながら聾唖学校の教師をしている。ワーカホリックの夫トムは、一昨年から息子ロークの誕生日の日にも仕事。離婚を考えながら、ゲイルは子供たちを連れて故郷に小旅行に。息子の誕生日を、川下りをしながら祝うつもりだった。祖父母に小さな娘を預け、出発寸前に駆けつけた
夫と、ゲイルの愛犬マギーの3人+1匹で、川上のスタート地点から出発する。
その川は、比較的穏やかな流れが途中まで有り、その先には3本
の川が合流する゛ガントレット”と名付けられた、川下り禁止の魔の激流域が有り、ゲイルは娘時代、無謀にもそこを下った経験が一度有ったが、死者が出た苦い思い出もあり、家族の出来た今では、
もうそんな命知らずなことをするつもりは毛頭無く、一家は”ガントレット”の手前で川下りを終え、祖父母達と合流して帰る予定だった。
スタート地点で、ウェイドという好青年のグループと息子の
ロークを介して知り合った一家は、諸々の事情から一緒に宿泊キャンプも共にしながら下ることになる。不在がちな父になつかないロークは、陽気なウエイドを兄のように慕い、ゲイルまでウエイドと楽しそうに釣りをするので、トムは面白くない。
だが、旅を続けるうちに、徐々に凶悪な本性を垣間見せるようになったウエイドを、トムだけでなくゲイルも不気味に感じ始め・・・。
実はウエイド達は逃走中の強盗だったのだ。追手の裏をかいた川下りによるカナダへの逃走計画は、゛ガントレット”をも下るという無謀なもので、ウエイドは家族を人質にし、激流下りのガイドを務めろと脅迫する・・!
<感想>
スリリングな展開で、ハラハラさせてくれる。
大自然の、絶壁に囲まれた激流は、ある意味で“密室”であり、助けはこないのだという緊迫感を否応無しに高める。娯楽大作として手に汗握る興奮を味わえる1本だ。
ドラマ面としては、腕力もなくいかにも頼りなさげな父親トムが、頭脳戦で犯人たちから家族を救おうと必死で頑張る姿がなかなかいい。まるでいうことをきかなかった妻の愛犬が、妻を救うために命がけなトムの命令を初めてきくところなど、若干
安っぽい気もしなくはないが、許せてしまう。
少々、はしょりすぎで気になったのは、あれだけわだかまっていた夫婦関係が、お互いの「一言」ですんなり解決してしまうところだろう。しかも、まだあの時点では、ウェイド達と一致団結して戦わねばならない状況ではなかったのだから、あの夫婦のわだかまりが解消に至るプロセスを、もっと丁寧に描いてほしかったように思う。
夫がワーカホリックで家庭崩壊という状況は、たくさんの映画で描かれているのだが、どの作品でも、夫が仕事にしか生き甲斐を見出せなくなった「理由」が存在しており、この作品のように、ただ“妻の期待に応えたかったから”という理由で、子供の誕生日を三年も無視するというのは設定に無理を感じる。しかも、妻からは再三、「もっと
家庭を顧みてほしい」と苦言を呈されているのだから、「ぼくは知らなかった」「私もわからなかった」であっさり解決してしまうという脚本は、あまりにアバウトで残念だ。
だが、この家族を救う「小道具」であり、家族を結ぶ「絆」でもある“手話”や“昔話”を効果的につかった夫トムの救出作戦は、物語に奥行きを出すのに効果的だったと思われる。
そして、各俳優の名演こそが、この作品のいちばんの魅力である。
メリル・ストリープは完璧主義で有名だが、この作品でも、体重を増やし、上腕を鍛え上げ、アウトドア派で心身ともに逞しいワイルドな肝っ玉母ちゃんを見事に演じきっている。ほとんどのシーンを、スタントなしでこなしたというから驚きだ。
ケヴィン・ベーコンは、「スリーパーズ」でも憎たらしい役だったが、今回もハマり役。陽気な好青年ぶりに微妙に見え隠れする残忍さも不気味で巧み。それが100%表に出たときの、まるで紙に水が染みていくようにジワジワ広がる凶悪な笑顔はトリハダものである。
一種の密室劇であるこの作品では、人数も背景も変わらないぶん、登場人物に相当な個性と演技力が要求される。息苦しいような緊張を、愛らしいジョゼフ・マッゼロ君と、レトリバー犬のマギーがいいバランスでガス抜きしている。
ドキドキハラハラしたいときに、おすすめしたい作品だ。いうまでもなく、大自然の風景は利己的な人間の愚かさを際立たせ
圧倒的に壮大で美しかった。
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「ムッシュ・カステラの恋」
2002年12月4日『ムッシュ・カステラの恋』【LE GOUT DES AUTRES】2000年仏
監督:アニエス・ジャウイ
脚本:アニエス・ジャウイ&ジャン=ピエール・バクリ
俳優:ジャン=ピエール・バクリ(カステラ)
アニエス・ジャウイ(マニー)
アンヌ・アルヴァロ(クララ):セザール主演女優賞
ジェラール・ランヴァン(ボディガードのフランク):セザール助演男優賞
アラン・シャバ(運転手のブリュノ)
★伊ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国語映画賞
★ヨーロピアン・フィルム・アワード最優秀脚本賞受賞
★セザール賞最優秀作品賞・最優秀脚本賞・最優秀主演女優賞・最優秀助演男優賞
<ストーリー>
中堅会社の冴えない社長カステラ氏が、有能な経営コンサルタントに強要されて渋々、受けることにした英語の個人レッスン。
しかし彼は、渋々観に行った、姪の出演する芝居で英語教師クララを見つけ、彼女が舞台女優だったことを知ってから、クララにくびったけに!
…かくして、趣味趣向がまったく違う彼女に涙ぐましいまでのアタックを開始したカステラ氏。クララには見向きもされないが、“自分を変えよう”とするカステラ氏がきっかけとなって、出会うことのないはずの人々がめぐり逢い、思わぬ人間模様を繰り広げる。
<感想>
この映画は、邦題のせいでラブ・ストーリーのようにとられがちだが、恋愛の要素も取り入れた、ヒューマン・コメディである。
原題のLE GOUT DES AUTRESは、《他の人たちの趣味》という意味。人間は意識的にも、無意識のうちにも、相手を先入観で[こういう世界のヒトだ]と分類してしまって、関わってみる前に、距離を置いてしまい、素晴らしい人と親しくなるチャンスを逃したり、逆に自分にピッタリだと思いこみ深入りしたら、予想と違うからと、相手の生き方を受け入れられず失望したりする。この作品は、
そういう人間の弱さ、脆さを、時にシニカルに、時に慈愛に満ちた
目線で描き出している名作だ。
カステラ氏は、なかなか魅力的な人物である。男性としては、
脂ぎったハゲの中年男で俗物そのものなのだが、クララに恋することで、変っていく。いや、見た目は気の毒にも変わりようがないのだが、彼の世界が広がっていく様子が、映画のみどころの1つでもある。まさに恋は魔法である。
好きな人の趣味に自分を合わせようといじらしく努力するカステラ氏は可愛らしく、可笑しい。だが、はじめは彼女の気をひくためだった芸術への関心が、ピュアなカステラ氏を真の芸術愛好家に変えてゆき、それが、古女房や経営コンサルタントの言いなりだった生き方をも変えてゆくあたりが、素晴らしいのだ。
カステラ氏を、芸術も文学も判らない成金オヤジ、と決めつけて嫌悪感を隠せなかったクララは、自らの思い上がりを知らされ、動揺する。背を丸くしてトボトボ歩いてゆくクララの後姿が辛かった。
そして、クララも変ってゆくのだ。ラストで初めて目にする、クララのこぼれるような満面の笑みが、温かい。
フランス映画のいいところは、ハリウッド映画の恋愛物にありがちな「結果」を映画作品に求めないところだ。曖昧模糊としてる。
数組のカップルが微妙なバランスで描かれるが、どのカップルも、
「めでたしめでたし」でもなく「御破算」でもないまま終わる。
その理由も、曖昧なまま。それでいい。
人間はもともと、不可思議で曖昧な生き物なのだから面白いのだ。
ところで、監督のアニエス・ジャウイ(マニー役としても出演)と、脚本のジャン=ピエール・バクリ(主役のカステラとして出演)は公私にわたるパートナーだときく。揃って、フランスにおけるアカデミー賞であるセザール賞の、最優秀作品賞・最優秀脚本賞
を受賞できた喜びは、ひとしおだろう。今後の活躍に期待したい。
★名ゼリフ
「世界が違うと思って、踏みこめずにいたら今の幸せはないわ」(クララの友人)
「犬はいいわね・・・走ってるだけで幸せそう。偽善も汚い世の中も関係なくて」
「世の中ってのは汚いもんですよ」
「それがイヤなの!」
「遊園地にいったらどうです?」
(イヌしか愛せないカステラ夫人と、生真面目なおかかえ運転手の会話)
監督:アニエス・ジャウイ
脚本:アニエス・ジャウイ&ジャン=ピエール・バクリ
俳優:ジャン=ピエール・バクリ(カステラ)
アニエス・ジャウイ(マニー)
アンヌ・アルヴァロ(クララ):セザール主演女優賞
ジェラール・ランヴァン(ボディガードのフランク):セザール助演男優賞
アラン・シャバ(運転手のブリュノ)
★伊ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国語映画賞
★ヨーロピアン・フィルム・アワード最優秀脚本賞受賞
★セザール賞最優秀作品賞・最優秀脚本賞・最優秀主演女優賞・最優秀助演男優賞
<ストーリー>
中堅会社の冴えない社長カステラ氏が、有能な経営コンサルタントに強要されて渋々、受けることにした英語の個人レッスン。
しかし彼は、渋々観に行った、姪の出演する芝居で英語教師クララを見つけ、彼女が舞台女優だったことを知ってから、クララにくびったけに!
…かくして、趣味趣向がまったく違う彼女に涙ぐましいまでのアタックを開始したカステラ氏。クララには見向きもされないが、“自分を変えよう”とするカステラ氏がきっかけとなって、出会うことのないはずの人々がめぐり逢い、思わぬ人間模様を繰り広げる。
<感想>
この映画は、邦題のせいでラブ・ストーリーのようにとられがちだが、恋愛の要素も取り入れた、ヒューマン・コメディである。
原題のLE GOUT DES AUTRESは、《他の人たちの趣味》という意味。人間は意識的にも、無意識のうちにも、相手を先入観で[こういう世界のヒトだ]と分類してしまって、関わってみる前に、距離を置いてしまい、素晴らしい人と親しくなるチャンスを逃したり、逆に自分にピッタリだと思いこみ深入りしたら、予想と違うからと、相手の生き方を受け入れられず失望したりする。この作品は、
そういう人間の弱さ、脆さを、時にシニカルに、時に慈愛に満ちた
目線で描き出している名作だ。
カステラ氏は、なかなか魅力的な人物である。男性としては、
脂ぎったハゲの中年男で俗物そのものなのだが、クララに恋することで、変っていく。いや、見た目は気の毒にも変わりようがないのだが、彼の世界が広がっていく様子が、映画のみどころの1つでもある。まさに恋は魔法である。
好きな人の趣味に自分を合わせようといじらしく努力するカステラ氏は可愛らしく、可笑しい。だが、はじめは彼女の気をひくためだった芸術への関心が、ピュアなカステラ氏を真の芸術愛好家に変えてゆき、それが、古女房や経営コンサルタントの言いなりだった生き方をも変えてゆくあたりが、素晴らしいのだ。
カステラ氏を、芸術も文学も判らない成金オヤジ、と決めつけて嫌悪感を隠せなかったクララは、自らの思い上がりを知らされ、動揺する。背を丸くしてトボトボ歩いてゆくクララの後姿が辛かった。
そして、クララも変ってゆくのだ。ラストで初めて目にする、クララのこぼれるような満面の笑みが、温かい。
フランス映画のいいところは、ハリウッド映画の恋愛物にありがちな「結果」を映画作品に求めないところだ。曖昧模糊としてる。
数組のカップルが微妙なバランスで描かれるが、どのカップルも、
「めでたしめでたし」でもなく「御破算」でもないまま終わる。
その理由も、曖昧なまま。それでいい。
人間はもともと、不可思議で曖昧な生き物なのだから面白いのだ。
ところで、監督のアニエス・ジャウイ(マニー役としても出演)と、脚本のジャン=ピエール・バクリ(主役のカステラとして出演)は公私にわたるパートナーだときく。揃って、フランスにおけるアカデミー賞であるセザール賞の、最優秀作品賞・最優秀脚本賞
を受賞できた喜びは、ひとしおだろう。今後の活躍に期待したい。
★名ゼリフ
「世界が違うと思って、踏みこめずにいたら今の幸せはないわ」(クララの友人)
「犬はいいわね・・・走ってるだけで幸せそう。偽善も汚い世の中も関係なくて」
「世の中ってのは汚いもんですよ」
「それがイヤなの!」
「遊園地にいったらどうです?」
(イヌしか愛せないカステラ夫人と、生真面目なおかかえ運転手の会話)
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「スモーク」
2002年12月3日『スモーク』【SMOKE】 1995年【米日】
監督 :ウェイン・ウァン
製作総指揮:井関惺
ボブ・ワインスタイン ハーベイ・ワインスタイン
原作・脚本:ポール・オースター
音楽:レイチェル・ポートマン
出演:ハーヴェイ・カイテル(オーギー/煙草屋の店主)
ウィリアム・ハート(ポール/売れない小説家)
フォレスト・ウィテカー(サイラス/義手の大男)
ストッカード・チャニング(ルビー/オーギーの元恋人)
ハロルド・ペリノーJr(ラシード/謎の黒人少年)
アシュレイ・ジャッド(フェリシティ/ヤク中の娘)
ジャレッド・ハリス(ジミー/おつむの弱い店員)
★ベルリン国際映画祭2部門受賞:特別銀熊賞(ウェイン・ワン)・国際評論家連盟賞 ★
<ストーリー>
ポール・オースターの原作「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を基に、『地上より何処かで』のウェイン・ワン監督が、ブルックリンの煙草屋に集まる人々の日常とハプニングを、過去と現在、嘘と真実を巧みに交差させながら描き出している。
<感想>
これは傑作中の傑作!ストーリーといい、巧みなカメラワークといい、出演者たちの息のあった名演ぶりといい、手放しで「名作」と褒め称えたい。
物語の核は、ブルックリンの交差点前の煙草屋の店主オーギーと、
馴染みの客である、かつては売れっ子だったが、とある事件をきっかけに書けなくなった小説家ポールの友情。2人に、それぞれ珍客が訪れ、オーギーの煙草屋で、人々の嘘と本音と過去と未来が交錯する・・・。
5人をテーマにしたショートストーリーが、どれも、悪意はないが真実を話せない、そんな「嘘」をつくことによって逆に「絆」が育まれていく様子を綴っており、最後に糸をよるように纏まってゆく。
ところどころに挿入される「逸話」(煙草の煙の重さを量った男や、雪山で奇跡の悲しい再会を果す父子の話)も、ウィットと滋味に溢れ、興味がつきない。
そして、音楽が素晴らしい。特にラスト、モノクロの『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』で流れる名曲は、トム・ウェイツの゛Innocent When You Dream”ズンと胸に響く名曲。
DVDのパッケージは、ここのシーンである。
☆名ゼリフ
「世界のほんの片隅にすぎんが、いろいろなことが起こる。」
(オーギー)
「火はいずれ消えるのよ。」(ルビー)
゛Shit. If you can’t share your secrets with your friends, what kind of friend are you?”
゛Exactly. Life just wouldn’t be worth living,
would it?”
(意訳)
「ふん。秘密を分かち合えない友達なんて
友達といえるか?」(オーギー)
「そのとおりだ。それが、生きる価値ってもんだろ」(ポール)
どうですか。酸いも甘いも噛み分けた中年男2人のこの会話。
しかも、ハーヴェイ・カイテルとウィリアム・ハートときている。
ときには言葉の替わりに煙草の煙で会話する彼らの「言葉」は、なかなか目に染る。
監督 :ウェイン・ウァン
製作総指揮:井関惺
ボブ・ワインスタイン ハーベイ・ワインスタイン
原作・脚本:ポール・オースター
音楽:レイチェル・ポートマン
出演:ハーヴェイ・カイテル(オーギー/煙草屋の店主)
ウィリアム・ハート(ポール/売れない小説家)
フォレスト・ウィテカー(サイラス/義手の大男)
ストッカード・チャニング(ルビー/オーギーの元恋人)
ハロルド・ペリノーJr(ラシード/謎の黒人少年)
アシュレイ・ジャッド(フェリシティ/ヤク中の娘)
ジャレッド・ハリス(ジミー/おつむの弱い店員)
★ベルリン国際映画祭2部門受賞:特別銀熊賞(ウェイン・ワン)・国際評論家連盟賞 ★
<ストーリー>
ポール・オースターの原作「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を基に、『地上より何処かで』のウェイン・ワン監督が、ブルックリンの煙草屋に集まる人々の日常とハプニングを、過去と現在、嘘と真実を巧みに交差させながら描き出している。
<感想>
これは傑作中の傑作!ストーリーといい、巧みなカメラワークといい、出演者たちの息のあった名演ぶりといい、手放しで「名作」と褒め称えたい。
物語の核は、ブルックリンの交差点前の煙草屋の店主オーギーと、
馴染みの客である、かつては売れっ子だったが、とある事件をきっかけに書けなくなった小説家ポールの友情。2人に、それぞれ珍客が訪れ、オーギーの煙草屋で、人々の嘘と本音と過去と未来が交錯する・・・。
5人をテーマにしたショートストーリーが、どれも、悪意はないが真実を話せない、そんな「嘘」をつくことによって逆に「絆」が育まれていく様子を綴っており、最後に糸をよるように纏まってゆく。
ところどころに挿入される「逸話」(煙草の煙の重さを量った男や、雪山で奇跡の悲しい再会を果す父子の話)も、ウィットと滋味に溢れ、興味がつきない。
そして、音楽が素晴らしい。特にラスト、モノクロの『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』で流れる名曲は、トム・ウェイツの゛Innocent When You Dream”ズンと胸に響く名曲。
DVDのパッケージは、ここのシーンである。
☆名ゼリフ
「世界のほんの片隅にすぎんが、いろいろなことが起こる。」
(オーギー)
「火はいずれ消えるのよ。」(ルビー)
゛Shit. If you can’t share your secrets with your friends, what kind of friend are you?”
゛Exactly. Life just wouldn’t be worth living,
would it?”
(意訳)
「ふん。秘密を分かち合えない友達なんて
友達といえるか?」(オーギー)
「そのとおりだ。それが、生きる価値ってもんだろ」(ポール)
どうですか。酸いも甘いも噛み分けた中年男2人のこの会話。
しかも、ハーヴェイ・カイテルとウィリアム・ハートときている。
ときには言葉の替わりに煙草の煙で会話する彼らの「言葉」は、なかなか目に染る。
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「ビューティフル・マインド」
2002年11月30日ビューティフル・マインド 【A BEAUTIFUL MIND】 2001年・米
★第74回アカデミー賞 作品賞・監督賞・助演女優賞・脚色賞
監督:ロン・ハワード
音楽:ジェームズ・ホーナー
原案:シルビア・ネイサー「ビューティフル マインド」
脚本:アキバ・ゴールズマン
俳優:ラッセル・クロウ(ジョン・ナッシュ)
エド・ハリス(パーチャー)
ジェニファー・コネリー(アリシア)
ポール・ベタニー(チャールズ)
アダム・ゴールドバーグ(ソル)
ジョッシュ・ルーカス(ハンセン)
クリストファー・プラマー(ローゼン)
<ストーリー>
求め続つづけ、探しつづけ、生きつづけてきた……。研究に打ち込むあまり、自分の魂のありかさえわからなくなっていく1人の天才数学者、ジョン・ナッシュ。野心に燃える青春時代に始まり、妻の愛に支えられ、精神分裂病で半壊した自分と闘いながらノーベル賞を受賞するまでの苦難の47年間を描いた作品。
原作はナッシュの半生記であるが、アキバ・ゴールズマンの脚本は、大幅に映画的要素を盛り込んだ、フィクションである。
<感想>
この作品は、一流のサスペンスであり、深い夫婦愛を描いたラブストーリーであり、難病と闘う1人の男の苦悩のドラマであり、かつ、現代の経済学の基礎となった理論を生んだ偉人の半生記である。
◇サスペンス◇
冷戦下のアメリカ。第2次世界大戦で洗練された数学的分析が暗号解読に役立ったことから、今なお張りつめた時代が、若き数学者たちに寄せる期待は大きかった。
ジョンはいつも焦燥していたのだ。大学院時代はライバルに勝つことに。そして、憧れの研究所に就職できても、めったに「ダイレクトに世の役にたつ仕事」がないことに・・・。天才は焦りから心を病んでゆくが、この映画が一流のサスペンスでもある点は、観客の視点を主人公に完璧に同調させ、何が幻覚で、何が事実なのかがわからなく演出している点だ。それが判明したとき、主人公と
同様の衝撃を、観客もうけるのである。
◇ラブストーリー◇
夫婦の愛。だが、ジョンはほぼ尽くされる一方であり、妻アリシアはまるで聖母のように献身的に尽くす。稼げない夫の代りに一家の大黒柱として働き、息子を育て、夫を介護し・・・それは、想像を絶する闘いであったことだろう。
ソルに愚痴をこぼすシーンがあるが、あの時点では、まだ本当に夫婦の危機には至っていなかった。
この作品で、あまりにアリシアを「聖女」のように描きすぎではないかという批判は多いだろう。本物のアリシアは厳しすぎる現実から一度、逃げているのだが、映画ではそこは削り、一生、夫に尽くしぬいた妻として描かれている。
ジョンが再入院をやめる決意をした後からが、アリシアの本当の苦難の日々だったのは明らかなのに、映画では、夫に「リアルと幻覚は、頭ではなくてハートで区別するのかも」と印象的なセリフを
告げたあと、ほとんど画面に登場しない。確かに、そこからがジョンにとっても真の闘いの日々であり、妻の苦労は、夫の苦しみから
観客に想像させるしかなかったのかもしれないが、セリフは例えばなくても、共に老いてゆく妻の姿も欲しかったように思う。だが、
姿はなくても妻の存在のアピールを、監督は忘れていないことも、
書き加えておきたい。
母校プリンストン大学というゆりかごで、静かで長い闘いの日々過ごしゆっくり脱皮してゆくジョンの“再生”こそが、最大の山場であるが、そこには、象徴的に「妻のサンドウィッチ」のみが出てくる。これも、監督の意図なのであろう・・・。見えないけれど、確実に彼を支えている古女房を感じさせるのに、このサンドウィッチはとてもインパクトがあった。
◇難病と闘う男◇
ラッセル・クロウがこの役に挑むにあたって、「精神を病んでいる人間でも、本人の努力と、周囲の理解と強力があれば、普通に結婚し、子を授かり、仕事につける可能性がある」ことを伝えたい、と言っている。
『統合失調症』は、現代でも治療法が確立されておらず、周囲の無理解に苦しむ患者がたくさんいるのだ。
「人間の力を超えたことにも、挑戦してみたい」ジョンは挑戦し続ける男だ。数字に、真理に、病気に、そして、本当の自分の内面に。諦めないということ。言葉でいうほど簡単ではないからこそ、
半生をかけて挑戦し続け、現在も闘い続けるジョンに、我々は心動かされるのだ。
ステキなセリフがあった。恋人時代のジョンとアリシア。
数学でわからないことはなくても、愛が何だかよくわからない
ジョンに、アリシアがこう尋ねる。
How big is the universe?
Infinite.
How do you know?
I know because all the data indicates it’s infinite.
But it hasn’t been proven yet.
No.
You haven’t seen it.
No.
How do you know for sure?
I don’t, I just believe it.
It’s the same with love I guess.
(文献:DHC完全字幕シリーズ「ビューティフル・マインド」)
(以下、意訳)
宇宙の広さはどのくらい?
無限だ。
何故わかるの?
宇宙は無限だっていうデータがあるからさ。
でも、まだ証明はされていないんでしょ?
ああ。
見たこともないんでしょ?
ああ。
じゃ、なぜそれが真実だと?
さぁ。信じてるだけだ。
愛も、同じことだと思うの。
なかなか含蓄があります。数字では決して計れない『愛』。
生涯、夫の再生を信じ続けた妻の愛は、ここから始まっていたのですね。
★第74回アカデミー賞 作品賞・監督賞・助演女優賞・脚色賞
監督:ロン・ハワード
音楽:ジェームズ・ホーナー
原案:シルビア・ネイサー「ビューティフル マインド」
脚本:アキバ・ゴールズマン
俳優:ラッセル・クロウ(ジョン・ナッシュ)
エド・ハリス(パーチャー)
ジェニファー・コネリー(アリシア)
ポール・ベタニー(チャールズ)
アダム・ゴールドバーグ(ソル)
ジョッシュ・ルーカス(ハンセン)
クリストファー・プラマー(ローゼン)
<ストーリー>
求め続つづけ、探しつづけ、生きつづけてきた……。研究に打ち込むあまり、自分の魂のありかさえわからなくなっていく1人の天才数学者、ジョン・ナッシュ。野心に燃える青春時代に始まり、妻の愛に支えられ、精神分裂病で半壊した自分と闘いながらノーベル賞を受賞するまでの苦難の47年間を描いた作品。
原作はナッシュの半生記であるが、アキバ・ゴールズマンの脚本は、大幅に映画的要素を盛り込んだ、フィクションである。
<感想>
この作品は、一流のサスペンスであり、深い夫婦愛を描いたラブストーリーであり、難病と闘う1人の男の苦悩のドラマであり、かつ、現代の経済学の基礎となった理論を生んだ偉人の半生記である。
◇サスペンス◇
冷戦下のアメリカ。第2次世界大戦で洗練された数学的分析が暗号解読に役立ったことから、今なお張りつめた時代が、若き数学者たちに寄せる期待は大きかった。
ジョンはいつも焦燥していたのだ。大学院時代はライバルに勝つことに。そして、憧れの研究所に就職できても、めったに「ダイレクトに世の役にたつ仕事」がないことに・・・。天才は焦りから心を病んでゆくが、この映画が一流のサスペンスでもある点は、観客の視点を主人公に完璧に同調させ、何が幻覚で、何が事実なのかがわからなく演出している点だ。それが判明したとき、主人公と
同様の衝撃を、観客もうけるのである。
◇ラブストーリー◇
夫婦の愛。だが、ジョンはほぼ尽くされる一方であり、妻アリシアはまるで聖母のように献身的に尽くす。稼げない夫の代りに一家の大黒柱として働き、息子を育て、夫を介護し・・・それは、想像を絶する闘いであったことだろう。
ソルに愚痴をこぼすシーンがあるが、あの時点では、まだ本当に夫婦の危機には至っていなかった。
この作品で、あまりにアリシアを「聖女」のように描きすぎではないかという批判は多いだろう。本物のアリシアは厳しすぎる現実から一度、逃げているのだが、映画ではそこは削り、一生、夫に尽くしぬいた妻として描かれている。
ジョンが再入院をやめる決意をした後からが、アリシアの本当の苦難の日々だったのは明らかなのに、映画では、夫に「リアルと幻覚は、頭ではなくてハートで区別するのかも」と印象的なセリフを
告げたあと、ほとんど画面に登場しない。確かに、そこからがジョンにとっても真の闘いの日々であり、妻の苦労は、夫の苦しみから
観客に想像させるしかなかったのかもしれないが、セリフは例えばなくても、共に老いてゆく妻の姿も欲しかったように思う。だが、
姿はなくても妻の存在のアピールを、監督は忘れていないことも、
書き加えておきたい。
母校プリンストン大学というゆりかごで、静かで長い闘いの日々過ごしゆっくり脱皮してゆくジョンの“再生”こそが、最大の山場であるが、そこには、象徴的に「妻のサンドウィッチ」のみが出てくる。これも、監督の意図なのであろう・・・。見えないけれど、確実に彼を支えている古女房を感じさせるのに、このサンドウィッチはとてもインパクトがあった。
◇難病と闘う男◇
ラッセル・クロウがこの役に挑むにあたって、「精神を病んでいる人間でも、本人の努力と、周囲の理解と強力があれば、普通に結婚し、子を授かり、仕事につける可能性がある」ことを伝えたい、と言っている。
『統合失調症』は、現代でも治療法が確立されておらず、周囲の無理解に苦しむ患者がたくさんいるのだ。
「人間の力を超えたことにも、挑戦してみたい」ジョンは挑戦し続ける男だ。数字に、真理に、病気に、そして、本当の自分の内面に。諦めないということ。言葉でいうほど簡単ではないからこそ、
半生をかけて挑戦し続け、現在も闘い続けるジョンに、我々は心動かされるのだ。
ステキなセリフがあった。恋人時代のジョンとアリシア。
数学でわからないことはなくても、愛が何だかよくわからない
ジョンに、アリシアがこう尋ねる。
How big is the universe?
Infinite.
How do you know?
I know because all the data indicates it’s infinite.
But it hasn’t been proven yet.
No.
You haven’t seen it.
No.
How do you know for sure?
I don’t, I just believe it.
It’s the same with love I guess.
(文献:DHC完全字幕シリーズ「ビューティフル・マインド」)
(以下、意訳)
宇宙の広さはどのくらい?
無限だ。
何故わかるの?
宇宙は無限だっていうデータがあるからさ。
でも、まだ証明はされていないんでしょ?
ああ。
見たこともないんでしょ?
ああ。
じゃ、なぜそれが真実だと?
さぁ。信じてるだけだ。
愛も、同じことだと思うの。
なかなか含蓄があります。数字では決して計れない『愛』。
生涯、夫の再生を信じ続けた妻の愛は、ここから始まっていたのですね。
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「マルホランド・ドライブ」
2002年11月29日『マルホランド・ドライブ』【Mulholland Drive】2001年米・仏
監督・脚本:ディヴィッド・リンチ
俳優:ナオミ・ワッツ(ベティ/ダイアン)
ローラ・エレナ・ハリング(リタ/カミーラ)
アン・ミラー(ココ/アダムの母)
<ストーリー>
真夜中のマルホランド・ドライブを走る車が事故を起こす。事故の直前、銃を突きつけられていたブルネットの美女は、大破した車から逃走し、眼下の街ハリウッドの高級アパートの部屋に忍び込んだ。そこは女優志望のベティが叔母の留守の間、借りた部屋。ベティは、記憶喪失だという、大金と謎の青い鍵だけを持っていた美女゛リタ”に同情と好奇心を抱き、素人探偵よろしく2人で彼女の過去を探ることに。そして2人は、リタにそっくりの女性の腐乱死体を発見する。
その夜、2人は激しく求め合う・・・・・。真夜中。うなされ目を覚ました美女は、ベティについてきて欲しい場所があると言う。不思議な劇場で、涙をぬぐおうとベティが開けたバッグに、見たことのない謎めいた青い箱が入っていた。
リンチ・ワールドの最高峰と評価されたミステリー。
2001年カンヌ国際映画祭監督賞受賞
-------さすがにネタバレなしにはレビュー挫折-------------
<感想>
リンチ作品は本当に素晴らしく、そして最もレビューが難しい。
考え様によってはどのシーンも最初であり最後である正にメビウスの輪状態。問題の「青い箱」だが、これも、リンチ作品にはつきものの、いわゆる゛トワイライトゾーン”への入り口と考えていいだろう。
『サンセット大通り』へのオマージュだろうということは容易に想像がつくのだが・・・リンチ監督はされほど単純でもなかろう。
何度か観ることで、パズルはかなり解けそうだが、監督があまりそれを望んでいないようだ。DVDのインタビューの中で、「音楽は言葉で分析してもしょうがないのに、映画はなぜか言葉による説明が求められる」と述べているように。
おそらく、最も受け入れられやすく、わかりやすい解釈が、前半部分は「夢」(眠っている間の夢などという単純なものではなく、
現実には死んでしまった人間の゛夢”)。後半、「コレラハスベテ録音シテアルダケ」とスペイン語で語られる劇場で《上映》される
部分が現実に起こった゛現象”(事実とは言えない)だという説であろうか・・?
私自身がそう思うのには1つ確かな理由がある。リンチ監督は、
幻想的な映像を撮る人ではあるが、「嘘」は撮らない。
たとえば、マルホランド・ドライブは映画の冒頭と同じく、暴走行為の名所で、衝突事故死が後を絶たないことで有名だ。そして、ハリウッドが見下ろせる場所・・・。
あれだけの大事故で、゛リタ”はかすり傷で、バッグも靴も紛失していない。女優になるために鵜の目鷹の目なベティが、有名監督に会わせてもらえるチャンスを探偵ごっこのためにフイにするのは妙だ。翌朝にはリタの怪我が治っている。新聞に事故のニュースが載らない。リタの服装。ベティとは一見して体のサイズも、服の趣味も違うのに、登場するたびに違う゛まるで女優のような”派手な服装と、寝てもシャワーを浴びても濃いメークのままだという不自然。田舎の小娘(ベティ)が唐突なレズSEXにまったくたじろがない。
と、ここまで考えて、恐らくは、ダイアンがノイローゼから拳銃自殺するまでの「もしこうであったなら」のifの世界と考えられなくもない・・・。
煙から煙まで、だ。車の事故の煙〜拳銃の煙。
青い箱も鍵も、存在は「観客」=映画の外の人間が映画を覗くために必要な゛小道具”かもしれない。
恐らく、あの箱の管理人は、レストランの裏に住む異形の浮浪者か。
謎解きはここまでにしよう。
時空を超えたパラレルワールドであるという考え方もある。
観客の数だけ、解釈があっていいのであり、監督もそれを望んでいるのだから。
さて、筋書きに謎があっても、作品の゛語るもの”は謎ではない。
人間は生まれてから死ぬまで、何通りかの「役」を演じねばならない。ハリウッドの銀幕スターでなくても、゛役者”なのだ。
ダイアンが「私は役者になりたいんです」と言っている。スターになりたいの、と訊かれて。とても暗示的だ。
人間というのは、悲しいことに「もしも・・?」と考えずにはいられない生き物だ。だから、後悔もし、夢をも見る。挫折を数多く味わってきた人ほど、この映画がズッシリと心に響くはずだ。
監督・脚本:ディヴィッド・リンチ
俳優:ナオミ・ワッツ(ベティ/ダイアン)
ローラ・エレナ・ハリング(リタ/カミーラ)
アン・ミラー(ココ/アダムの母)
<ストーリー>
真夜中のマルホランド・ドライブを走る車が事故を起こす。事故の直前、銃を突きつけられていたブルネットの美女は、大破した車から逃走し、眼下の街ハリウッドの高級アパートの部屋に忍び込んだ。そこは女優志望のベティが叔母の留守の間、借りた部屋。ベティは、記憶喪失だという、大金と謎の青い鍵だけを持っていた美女゛リタ”に同情と好奇心を抱き、素人探偵よろしく2人で彼女の過去を探ることに。そして2人は、リタにそっくりの女性の腐乱死体を発見する。
その夜、2人は激しく求め合う・・・・・。真夜中。うなされ目を覚ました美女は、ベティについてきて欲しい場所があると言う。不思議な劇場で、涙をぬぐおうとベティが開けたバッグに、見たことのない謎めいた青い箱が入っていた。
リンチ・ワールドの最高峰と評価されたミステリー。
2001年カンヌ国際映画祭監督賞受賞
-------さすがにネタバレなしにはレビュー挫折-------------
<感想>
リンチ作品は本当に素晴らしく、そして最もレビューが難しい。
考え様によってはどのシーンも最初であり最後である正にメビウスの輪状態。問題の「青い箱」だが、これも、リンチ作品にはつきものの、いわゆる゛トワイライトゾーン”への入り口と考えていいだろう。
『サンセット大通り』へのオマージュだろうということは容易に想像がつくのだが・・・リンチ監督はされほど単純でもなかろう。
何度か観ることで、パズルはかなり解けそうだが、監督があまりそれを望んでいないようだ。DVDのインタビューの中で、「音楽は言葉で分析してもしょうがないのに、映画はなぜか言葉による説明が求められる」と述べているように。
おそらく、最も受け入れられやすく、わかりやすい解釈が、前半部分は「夢」(眠っている間の夢などという単純なものではなく、
現実には死んでしまった人間の゛夢”)。後半、「コレラハスベテ録音シテアルダケ」とスペイン語で語られる劇場で《上映》される
部分が現実に起こった゛現象”(事実とは言えない)だという説であろうか・・?
私自身がそう思うのには1つ確かな理由がある。リンチ監督は、
幻想的な映像を撮る人ではあるが、「嘘」は撮らない。
たとえば、マルホランド・ドライブは映画の冒頭と同じく、暴走行為の名所で、衝突事故死が後を絶たないことで有名だ。そして、ハリウッドが見下ろせる場所・・・。
あれだけの大事故で、゛リタ”はかすり傷で、バッグも靴も紛失していない。女優になるために鵜の目鷹の目なベティが、有名監督に会わせてもらえるチャンスを探偵ごっこのためにフイにするのは妙だ。翌朝にはリタの怪我が治っている。新聞に事故のニュースが載らない。リタの服装。ベティとは一見して体のサイズも、服の趣味も違うのに、登場するたびに違う゛まるで女優のような”派手な服装と、寝てもシャワーを浴びても濃いメークのままだという不自然。田舎の小娘(ベティ)が唐突なレズSEXにまったくたじろがない。
と、ここまで考えて、恐らくは、ダイアンがノイローゼから拳銃自殺するまでの「もしこうであったなら」のifの世界と考えられなくもない・・・。
煙から煙まで、だ。車の事故の煙〜拳銃の煙。
青い箱も鍵も、存在は「観客」=映画の外の人間が映画を覗くために必要な゛小道具”かもしれない。
恐らく、あの箱の管理人は、レストランの裏に住む異形の浮浪者か。
謎解きはここまでにしよう。
時空を超えたパラレルワールドであるという考え方もある。
観客の数だけ、解釈があっていいのであり、監督もそれを望んでいるのだから。
さて、筋書きに謎があっても、作品の゛語るもの”は謎ではない。
人間は生まれてから死ぬまで、何通りかの「役」を演じねばならない。ハリウッドの銀幕スターでなくても、゛役者”なのだ。
ダイアンが「私は役者になりたいんです」と言っている。スターになりたいの、と訊かれて。とても暗示的だ。
人間というのは、悲しいことに「もしも・・?」と考えずにはいられない生き物だ。だから、後悔もし、夢をも見る。挫折を数多く味わってきた人ほど、この映画がズッシリと心に響くはずだ。
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「ぼくのバラ色の人生」
2002年11月28日『ぼくのバラ色の人生』 【Ma vie en rose】1997年ベルギー・フランス・イギリス合作
★1998年ゴールデングローブ賞 最優秀外国語映画賞受賞
★1997年カンヌ国際映画賞正式出品作品 太陽賞受賞
★1997年モロディスト国際映画祭 最優秀作品賞グランプリ受賞
★1997年サラエボ国際映画祭 批評家賞/オーディエンス賞受賞
★1997年FT.ローダーデイル国際映画祭 最優秀作品賞/最優秀女優賞
★1997年シアトル・ゲイ&レズビアン映画祭 最優秀作品賞受賞
監督:アラン・ベルリネール
脚本:クリス・ヴァンデル・スタッペン
アラン・ベルリネール
製作:キャロル・スコッタ
音楽:ドミニク・ダルカン
主題歌:「Rose」 ザジ
俳優:ジョルジュ・デュ・フレネ
ジャン=フィリップ・エコフェ
ミシェール・ラロック
エレーヌ・ヴァンサン
<ストーリー>
7歳の少年リュドヴィックの夢は「女の子になること」。ドレスを着て、お化粧をして、着せ替え人形と遊んで、いつか好きな男の子と結婚したいと切に願う日々。心は少女であるリュドヴィク。なぜ友達や大人たちが笑ったり叱ったりするのかわからない。
そんな彼の無邪気でひたむきな生き方に周囲は気味悪さすら感じ、
とまどい、ついには彼1人のみならず家族ごと激しく拒絶する。パパとママと兄姉たち、そして人生の大先輩であるおばあちゃんだけはリュドを守り、理解しようと必死に頑張るのだが・・・・・。
ついに、リュド本人も、理由はわからないけれど、自分が家族を苦しめているのは確かなのだと自責するにいたってしまう・・・・・。
<感想>
少年の無知で無邪気な憧れが、周囲の子供たちよりも、むしろ「常識」を崇める大人たちによって、傷つけられ、心を縮めていく哀しい現実に胸が痛む。
理解できないものへの人々の恐れ、生理的嫌悪、拒絶。
それがこの映画のテーマである。キリスト教圏では、ソドムの教えが根強いため(しかも舞台は現代といえども、アメリカではなくヨーロッパ圏だ)、この作品がどれほどショッキングであったか、容易に想像がつく。
問題は、そこではなく、「異物」を排除することで結束を固める
人間の本能の恐ろしさである。
この映画の見事なのは、決して綺麗ごとを描かないところだ。
親の苦しみを壮絶にえぐりだしている。 惜しいのは、おばあちゃんにもっと「頑張って」ほしかった。親とは立場が違うぶん、もっとうまく関われたはずだ。映画では、おばあちゃんは「そのうちなんとかなる」と言葉で言うだけで、あれでは、部外者がそういうのは簡単だと思われてもしかたない。
母親と父親で、苦しみ方が時間とともに変化していくのは、とても興味深かった。父は最初は単なる生理的嫌悪から怒るし心配するだけで、現実的に家族の危機にぶつかると、強くなり、息子を守ろうとする。 母は、最初は異常なまでに楽観的だが、自分が恥をかいたり家族の危機に直面すると、今までどう育ててきたか、自らを省みることなく、リュドを責めたて八つあたりし、家に置くことすら拒否してしまう。
このあたり、やはり、一日の大半を地域社会から離れた会社で過ごす夫と(序盤、地域にいたときは母と視点が同じだったのを思い出してほしい)、一日じゅう、子供4人を地域社会で育て近所の目の中で過ごさなくてはならない主婦との違いだと思うのだ。
そういう意味で、ファンタジックな映像処理を多用して「現代の大人向け残酷童話」の要素を残しながら、とてもこの映画にはリアリティがある。
題材がよいだけに、もったいないと思われたところは、4人きょうだいなのだから、他の三人の兄弟との交流、特に兄たちとの交流のシーンが欲しかった。
そして、ラストで、母親がいちばん大切なことに気がつくきっかけになる「遠くへいくよ。家族を苦しめなくてすむように」
このセリフ、映画の中で「セリフ」として出してしまうのならば、
母親の見た幻覚の中で、ではなく、リュド当人に現実世界で言わせるべきだろう。
あのシーンは、もしかしたら永遠に愛息子を失うかもしれないという悪夢であって、失いそうにならなければ価値に気付かないような
のは、男女間には充分あり得ても、親子間ではあまりに情けない。
それだけ母親の苦悩が深かったということを強調したかったのだろうが、悲しそうにパム(着せ替え人形)にリュドがついて行ってしまう幻覚シーンだけで、ショックは充分であり、セリフは余計だったように思えてならない。
だが、大事なのは、物語が、決してハッピーエンドでも、悲劇でも終わらないこと、だ。
「好きなかっこうをしていいのよ」 それは、行方不明になった息子と再会できた感激から出た一時的な感情と判断するのが普通だろう。これからあの家族がどうなるのか、監督は答を観客にふっているのだ。
ここから先はやや余談だが・・・
女は、リュドの姉がそうであったように、初潮を迎えることによって、クリスのようにどんなに外見を男に似せても、ホルモン的に女性にならざるを得ないため、男装趣味は人生のさまたげになりにくい。その点で、男は、自分の性を確信する確率が、女と違って100%ではない。
キリスト教も儒教もないヒンズー教圏では、女装した男性がごく普通に、水商売ではなく、働いているのはめずらしくないという。
子孫を絶やさぬためにソドムの教えがあるわけだが、「隣人を愛せよ」と教えるキリスト教への強い信仰が、隣人を社会的な死にまで追いやる現実は、永遠に解かれない矛盾であろう。
★1998年ゴールデングローブ賞 最優秀外国語映画賞受賞
★1997年カンヌ国際映画賞正式出品作品 太陽賞受賞
★1997年モロディスト国際映画祭 最優秀作品賞グランプリ受賞
★1997年サラエボ国際映画祭 批評家賞/オーディエンス賞受賞
★1997年FT.ローダーデイル国際映画祭 最優秀作品賞/最優秀女優賞
★1997年シアトル・ゲイ&レズビアン映画祭 最優秀作品賞受賞
監督:アラン・ベルリネール
脚本:クリス・ヴァンデル・スタッペン
アラン・ベルリネール
製作:キャロル・スコッタ
音楽:ドミニク・ダルカン
主題歌:「Rose」 ザジ
俳優:ジョルジュ・デュ・フレネ
ジャン=フィリップ・エコフェ
ミシェール・ラロック
エレーヌ・ヴァンサン
<ストーリー>
7歳の少年リュドヴィックの夢は「女の子になること」。ドレスを着て、お化粧をして、着せ替え人形と遊んで、いつか好きな男の子と結婚したいと切に願う日々。心は少女であるリュドヴィク。なぜ友達や大人たちが笑ったり叱ったりするのかわからない。
そんな彼の無邪気でひたむきな生き方に周囲は気味悪さすら感じ、
とまどい、ついには彼1人のみならず家族ごと激しく拒絶する。パパとママと兄姉たち、そして人生の大先輩であるおばあちゃんだけはリュドを守り、理解しようと必死に頑張るのだが・・・・・。
ついに、リュド本人も、理由はわからないけれど、自分が家族を苦しめているのは確かなのだと自責するにいたってしまう・・・・・。
<感想>
少年の無知で無邪気な憧れが、周囲の子供たちよりも、むしろ「常識」を崇める大人たちによって、傷つけられ、心を縮めていく哀しい現実に胸が痛む。
理解できないものへの人々の恐れ、生理的嫌悪、拒絶。
それがこの映画のテーマである。キリスト教圏では、ソドムの教えが根強いため(しかも舞台は現代といえども、アメリカではなくヨーロッパ圏だ)、この作品がどれほどショッキングであったか、容易に想像がつく。
問題は、そこではなく、「異物」を排除することで結束を固める
人間の本能の恐ろしさである。
この映画の見事なのは、決して綺麗ごとを描かないところだ。
親の苦しみを壮絶にえぐりだしている。 惜しいのは、おばあちゃんにもっと「頑張って」ほしかった。親とは立場が違うぶん、もっとうまく関われたはずだ。映画では、おばあちゃんは「そのうちなんとかなる」と言葉で言うだけで、あれでは、部外者がそういうのは簡単だと思われてもしかたない。
母親と父親で、苦しみ方が時間とともに変化していくのは、とても興味深かった。父は最初は単なる生理的嫌悪から怒るし心配するだけで、現実的に家族の危機にぶつかると、強くなり、息子を守ろうとする。 母は、最初は異常なまでに楽観的だが、自分が恥をかいたり家族の危機に直面すると、今までどう育ててきたか、自らを省みることなく、リュドを責めたて八つあたりし、家に置くことすら拒否してしまう。
このあたり、やはり、一日の大半を地域社会から離れた会社で過ごす夫と(序盤、地域にいたときは母と視点が同じだったのを思い出してほしい)、一日じゅう、子供4人を地域社会で育て近所の目の中で過ごさなくてはならない主婦との違いだと思うのだ。
そういう意味で、ファンタジックな映像処理を多用して「現代の大人向け残酷童話」の要素を残しながら、とてもこの映画にはリアリティがある。
題材がよいだけに、もったいないと思われたところは、4人きょうだいなのだから、他の三人の兄弟との交流、特に兄たちとの交流のシーンが欲しかった。
そして、ラストで、母親がいちばん大切なことに気がつくきっかけになる「遠くへいくよ。家族を苦しめなくてすむように」
このセリフ、映画の中で「セリフ」として出してしまうのならば、
母親の見た幻覚の中で、ではなく、リュド当人に現実世界で言わせるべきだろう。
あのシーンは、もしかしたら永遠に愛息子を失うかもしれないという悪夢であって、失いそうにならなければ価値に気付かないような
のは、男女間には充分あり得ても、親子間ではあまりに情けない。
それだけ母親の苦悩が深かったということを強調したかったのだろうが、悲しそうにパム(着せ替え人形)にリュドがついて行ってしまう幻覚シーンだけで、ショックは充分であり、セリフは余計だったように思えてならない。
だが、大事なのは、物語が、決してハッピーエンドでも、悲劇でも終わらないこと、だ。
「好きなかっこうをしていいのよ」 それは、行方不明になった息子と再会できた感激から出た一時的な感情と判断するのが普通だろう。これからあの家族がどうなるのか、監督は答を観客にふっているのだ。
ここから先はやや余談だが・・・
女は、リュドの姉がそうであったように、初潮を迎えることによって、クリスのようにどんなに外見を男に似せても、ホルモン的に女性にならざるを得ないため、男装趣味は人生のさまたげになりにくい。その点で、男は、自分の性を確信する確率が、女と違って100%ではない。
キリスト教も儒教もないヒンズー教圏では、女装した男性がごく普通に、水商売ではなく、働いているのはめずらしくないという。
子孫を絶やさぬためにソドムの教えがあるわけだが、「隣人を愛せよ」と教えるキリスト教への強い信仰が、隣人を社会的な死にまで追いやる現実は、永遠に解かれない矛盾であろう。
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「アメリ」
2002年11月27日『アメリ』 【Le fabuleux destin d’Amelie Poulain】 2001年仏
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
脚本:ジャン=ピエール・ジュネ
ギョーム・ローラン
特殊効果:イヴ・ドマンジュー
音楽:ヤン・ティルセン
製作:クローディー・オサール
俳優:オドレイ・トトゥ (アメリ)
マチュー・カソヴィッツ (ニノ)
ドミ二ク・ピノン (ジョゼフ)
イザベル・ナンティ (ジョルジェット)
ジャメル・ドゥブーズ (リュシアン)
アンドレ・デュソリエ (ナレーション)
リュフュス (パパ)
セルジュ・メルラン(ガラス男デュファイエル老人)
ヨランド・モロー(管理人)
クレール・モーリエ(シュザンヌ)
ウルバン・カンセリエ(八百屋)
アルチュス・ド・パンゲルン(イポリト)
クロチルド・モレ(ジーナ)
<ストーリー>
少女アメリの遊び相手は空想の世界。大人になっても、それはかわらず、逞しい想像力で周囲の人々を観察して楽しむのがダイスキ。
でも、人とうまく関われない・・・・だから恋もできない。
一生、自分の殻にこもって過ごすの?変らなきゃ、だけど怖い。
ある日、22歳のアメリに決定的な事件が起こる。ダイアナ妃の事故のニュースに目を奪われ、アメリの手元からすべり落ちた香水瓶の蓋。それをきっかけにアメリは,とあるくたびれ果てた中年男の人生を優しく希望のあるものに変えてしまう。その事件は、アメリに人生の目的を発見した!と思わせた。彼女は、まわりの誰かを“今よりちょっとだけ幸せ”にすることの喜びを見つけたのだ。
それ以来、他人のさまざまな人生に人知れず干渉し、お節介をやくためのあらゆるお茶目なイタズラを考え出すアメリ。だが、他人の幸せばかりを考えて自分のことには手がまわらない、というよりも、怖くて行動に出られないアメリ。
そんなとき、不思議な青年ニノに出逢う。彼の趣味は、スピード写真のブースのまわりに落ちている破り捨てられた写真のコレクションだった。ニノもまた、女性とうまく向き合えない内気な青年だったのだ。
彼が落したそのコレクションを、返してあげたいと思うアメリ。今度はどんな作戦で相手を驚かせて喜ばそうかと作戦を練るアメリ。だけど・・・・今までとは胸の高鳴りが何だか違う・・・・。そう、アメリは青年に恋をしていたのだった。
ニノはアメリが仕掛けたゲームの果てに、ようやくコレクションを取り返した。そこには“私に会いたい?”というメッセージが。ニノもまた、名前も顔も知らぬアメリのことがどうにも気になってしかたがなくなってくる。
だが、自分の人生にはまるで引っ込み思案の彼女は、ニノに姿を見せて恋に向き合うことより、彼とかくれんぼすることを選ぶ。アメリは彼の姿を見られるが、彼にとってはアメリは謎の女のままなのだ。 悩むアメリ・・・・・。
さぁ、この2人の恋の行方は? アメリは自分の幸せを手に入れられる?
<感想>
原題Le fabuleux destin d’Amelie Poulain は、英訳すれば
The fabulous destiny of Amelie Poulain だろう。
「アメリ・プーランの、お伽話のようなステキな運命」ということになる。ファビュラスは、物語のような、信じられないほどステキな、といった意味だ。
そして、ヒロインの名前アメリは、実は、監督が起用しようと計画していたエミリー・ワトソン(代表作『奇跡の海』)のエミリーからきているそうだ。結局はフランスで行ったキャスティングで、生粋のフランス人のオドレイ・トトゥに即決したらしい。
街に張ってあった別の映画のポスターの彼女にひとめ惚れだったという。
ジャン=ピエール・ジュネ監督にとっては、スタジオセットではない撮影は初めてのこと。「デリカテッセン」といい、「エイリアン4」といい、ALLセットだった。通りから車と落書きを消し、美しいポスターを壁に貼ることで、たしかに「モンマルトル」でありながら、どこか幻想的でおとぎばなしチックなムードが画面から漂っている。
さらにデジタル加工を施すことで、夢見るアメリの目に映るモンマルトルに仕上がっているところが、素晴らしい。
とにかく、魅力的な映画だ! 「人生はシンプルで優しい」ことに気付いたアメリが人々に、魔法の粉のように小さいけれどあたたかい“幸せ”をプレゼントしていく。
ホロリとしたり、爆笑したり、ニヤニヤしたり、優しい気持ちになったり、一瞬たりとも画面から目が離せない。ストーリー的にも、とにかく次に何が起こるのか想像もつかず、ワクワクドキドキし通しだった。ラストも近くなる頃には、いよいよアメリが自分自身の幸せを掴むべきだ、でも、この調子じゃダメかも・・・とハラハラ心配し、思わず身を乗り出して“頑張れ!!”と応援したくなってしまう。可愛いアメリが、自分がもどかしくて頬を涙で
濡らすと、オロオロして胸が痛んだ。これだけ観客のハートをわしづかみにできるヒロインはそうはいないと思う。
ヒロインだけでなく、登場人物すべてが味わい豊かでペーソス溢れる人々だ。
気味の悪いパラノイア男や憎たらしい八百屋のオヤジだって、作品のスウィートさを強調するのに不可欠な香辛料。
この映画は、きっと、大人になればなるほど、何度も見返したくなると思う。大切ななにかがどこかに
埋もれてしまって見つからないときに。
クレーム・ブリュレのカリカリになった焼き目をスプーンで壊したり、川で水切りするのにピッタリの石を集めたり、豆が入った袋に手を突っ込んだりすると思わず口の端が上がってしまうキュートなアメリに何度も逢いたくなるだろう。
「人にはそれぞれ癒しの方法がある」
貴方の毎日をホっとさせるプチハッピーは何ですか?
映画「アメリ」は、幸せを探して味わうための愉快なレシピなのです。
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
脚本:ジャン=ピエール・ジュネ
ギョーム・ローラン
特殊効果:イヴ・ドマンジュー
音楽:ヤン・ティルセン
製作:クローディー・オサール
俳優:オドレイ・トトゥ (アメリ)
マチュー・カソヴィッツ (ニノ)
ドミ二ク・ピノン (ジョゼフ)
イザベル・ナンティ (ジョルジェット)
ジャメル・ドゥブーズ (リュシアン)
アンドレ・デュソリエ (ナレーション)
リュフュス (パパ)
セルジュ・メルラン(ガラス男デュファイエル老人)
ヨランド・モロー(管理人)
クレール・モーリエ(シュザンヌ)
ウルバン・カンセリエ(八百屋)
アルチュス・ド・パンゲルン(イポリト)
クロチルド・モレ(ジーナ)
<ストーリー>
少女アメリの遊び相手は空想の世界。大人になっても、それはかわらず、逞しい想像力で周囲の人々を観察して楽しむのがダイスキ。
でも、人とうまく関われない・・・・だから恋もできない。
一生、自分の殻にこもって過ごすの?変らなきゃ、だけど怖い。
ある日、22歳のアメリに決定的な事件が起こる。ダイアナ妃の事故のニュースに目を奪われ、アメリの手元からすべり落ちた香水瓶の蓋。それをきっかけにアメリは,とあるくたびれ果てた中年男の人生を優しく希望のあるものに変えてしまう。その事件は、アメリに人生の目的を発見した!と思わせた。彼女は、まわりの誰かを“今よりちょっとだけ幸せ”にすることの喜びを見つけたのだ。
それ以来、他人のさまざまな人生に人知れず干渉し、お節介をやくためのあらゆるお茶目なイタズラを考え出すアメリ。だが、他人の幸せばかりを考えて自分のことには手がまわらない、というよりも、怖くて行動に出られないアメリ。
そんなとき、不思議な青年ニノに出逢う。彼の趣味は、スピード写真のブースのまわりに落ちている破り捨てられた写真のコレクションだった。ニノもまた、女性とうまく向き合えない内気な青年だったのだ。
彼が落したそのコレクションを、返してあげたいと思うアメリ。今度はどんな作戦で相手を驚かせて喜ばそうかと作戦を練るアメリ。だけど・・・・今までとは胸の高鳴りが何だか違う・・・・。そう、アメリは青年に恋をしていたのだった。
ニノはアメリが仕掛けたゲームの果てに、ようやくコレクションを取り返した。そこには“私に会いたい?”というメッセージが。ニノもまた、名前も顔も知らぬアメリのことがどうにも気になってしかたがなくなってくる。
だが、自分の人生にはまるで引っ込み思案の彼女は、ニノに姿を見せて恋に向き合うことより、彼とかくれんぼすることを選ぶ。アメリは彼の姿を見られるが、彼にとってはアメリは謎の女のままなのだ。 悩むアメリ・・・・・。
さぁ、この2人の恋の行方は? アメリは自分の幸せを手に入れられる?
<感想>
原題Le fabuleux destin d’Amelie Poulain は、英訳すれば
The fabulous destiny of Amelie Poulain だろう。
「アメリ・プーランの、お伽話のようなステキな運命」ということになる。ファビュラスは、物語のような、信じられないほどステキな、といった意味だ。
そして、ヒロインの名前アメリは、実は、監督が起用しようと計画していたエミリー・ワトソン(代表作『奇跡の海』)のエミリーからきているそうだ。結局はフランスで行ったキャスティングで、生粋のフランス人のオドレイ・トトゥに即決したらしい。
街に張ってあった別の映画のポスターの彼女にひとめ惚れだったという。
ジャン=ピエール・ジュネ監督にとっては、スタジオセットではない撮影は初めてのこと。「デリカテッセン」といい、「エイリアン4」といい、ALLセットだった。通りから車と落書きを消し、美しいポスターを壁に貼ることで、たしかに「モンマルトル」でありながら、どこか幻想的でおとぎばなしチックなムードが画面から漂っている。
さらにデジタル加工を施すことで、夢見るアメリの目に映るモンマルトルに仕上がっているところが、素晴らしい。
とにかく、魅力的な映画だ! 「人生はシンプルで優しい」ことに気付いたアメリが人々に、魔法の粉のように小さいけれどあたたかい“幸せ”をプレゼントしていく。
ホロリとしたり、爆笑したり、ニヤニヤしたり、優しい気持ちになったり、一瞬たりとも画面から目が離せない。ストーリー的にも、とにかく次に何が起こるのか想像もつかず、ワクワクドキドキし通しだった。ラストも近くなる頃には、いよいよアメリが自分自身の幸せを掴むべきだ、でも、この調子じゃダメかも・・・とハラハラ心配し、思わず身を乗り出して“頑張れ!!”と応援したくなってしまう。可愛いアメリが、自分がもどかしくて頬を涙で
濡らすと、オロオロして胸が痛んだ。これだけ観客のハートをわしづかみにできるヒロインはそうはいないと思う。
ヒロインだけでなく、登場人物すべてが味わい豊かでペーソス溢れる人々だ。
気味の悪いパラノイア男や憎たらしい八百屋のオヤジだって、作品のスウィートさを強調するのに不可欠な香辛料。
この映画は、きっと、大人になればなるほど、何度も見返したくなると思う。大切ななにかがどこかに
埋もれてしまって見つからないときに。
クレーム・ブリュレのカリカリになった焼き目をスプーンで壊したり、川で水切りするのにピッタリの石を集めたり、豆が入った袋に手を突っ込んだりすると思わず口の端が上がってしまうキュートなアメリに何度も逢いたくなるだろう。
「人にはそれぞれ癒しの方法がある」
貴方の毎日をホっとさせるプチハッピーは何ですか?
映画「アメリ」は、幸せを探して味わうための愉快なレシピなのです。
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